中沢新一・波多野一郎 「イカの哲学」 集英社新書
言語を媒体とする知は、差異の体系である。
そこで、知とは、何かと何かとの間にある差異を明確にすること。たとえば、サイに関する知によって、わたしたちはシロサイとクロサイの種類を区別する(おいおい、差異とサイかよ、というつっこみはやめてくれたまえ。ほんとに、何のきなしに浮かんだ比喩なんだからさ)、つまりシロサイとクロサイの間の差異を明確にするのがサイに関する知だ(変換がものすごく面倒になったので、比喩はちゃんと考えるべきでした)。
ひも理論と超ひも理論の差異。イギリス経験論と大陸演繹論との差異。母系社会と父系社会との差異。エチルアルコールとメチルアルコールの差異。言語による差異の積み重ねによって、知が形作られている。
こうした近代的知性に対して、「そればっかが知じゃあるまい」と指摘する本を何の偶然か、ここんとこ続けて読んだ。ひとつは先日ここにも取り上げた内山節の「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」であり、もうひとつがこの本、「イカの哲学」だ。
どちらも平易に書かれているものだが、内容はなかなかに濃い。
こうした差異の目録としての知に対して、同質性を見つけていこうとする知。これはだから、言語による知ではない。言語によらない知を言語によって説明する矛盾をはらみながら、二つの本は、人間の古層にある記憶や信仰にその源を見出そうとする。
そのひとつが天台本覚思想であり(「イカの哲学」では言及されていないものの、同じく同質性を見出そうとする思想を論じた中沢新一の「精霊の王」で取り上げられていた)、縄文の信仰や村の民俗社会などであった。
この異質と同質。これは、1946年のサルトルが「レ・タン・モデルヌ」創刊の辞で、グリーンピースの粒をたとえに語っていたものとは違う。そこでのサルトルが考えた異質性とは、ひたすら個人に執着する分析精神であり、個人をその現実的な生存条件の外に抽象し、人間をグリーンピースの一粒一粒のようなものとしてとらえる考え方。他方、同質性は、個人を無視して、ひたすら集団のみを考える総合精神のこと。個人を階級、国家などひとつの全体に従属し、その全体を絶対化する考え方。
しかし、中沢新一や内山節の出発点は、サルトルのとなえる人間中心主義からの脱却なのであった。
サルトルの言う実存とは、世界のうちに存在する人間の実存であり、ほかの動物などとは区別されるものである。それに対して「イカの哲学」の実存とは、イカを出発点として、人間を含め、ありとあらゆるものの実存の照応なのである。仏教の言葉で言えば、サルトルの人間中心主義は大涅槃経の「一切衆生、悉有仏性」であり、イカの哲学は大涅槃経が日本で変化した天台本覚思想の「山川草木、悉皆成仏」ということになるだろう。
では、次回はもう少し「イカの哲学」の本、そのものに沿って。
言語を媒体とする知は、差異の体系である。
そこで、知とは、何かと何かとの間にある差異を明確にすること。たとえば、サイに関する知によって、わたしたちはシロサイとクロサイの種類を区別する(おいおい、差異とサイかよ、というつっこみはやめてくれたまえ。ほんとに、何のきなしに浮かんだ比喩なんだからさ)、つまりシロサイとクロサイの間の差異を明確にするのがサイに関する知だ(変換がものすごく面倒になったので、比喩はちゃんと考えるべきでした)。
ひも理論と超ひも理論の差異。イギリス経験論と大陸演繹論との差異。母系社会と父系社会との差異。エチルアルコールとメチルアルコールの差異。言語による差異の積み重ねによって、知が形作られている。
こうした近代的知性に対して、「そればっかが知じゃあるまい」と指摘する本を何の偶然か、ここんとこ続けて読んだ。ひとつは先日ここにも取り上げた内山節の「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」であり、もうひとつがこの本、「イカの哲学」だ。
どちらも平易に書かれているものだが、内容はなかなかに濃い。
こうした差異の目録としての知に対して、同質性を見つけていこうとする知。これはだから、言語による知ではない。言語によらない知を言語によって説明する矛盾をはらみながら、二つの本は、人間の古層にある記憶や信仰にその源を見出そうとする。
そのひとつが天台本覚思想であり(「イカの哲学」では言及されていないものの、同じく同質性を見出そうとする思想を論じた中沢新一の「精霊の王」で取り上げられていた)、縄文の信仰や村の民俗社会などであった。
この異質と同質。これは、1946年のサルトルが「レ・タン・モデルヌ」創刊の辞で、グリーンピースの粒をたとえに語っていたものとは違う。そこでのサルトルが考えた異質性とは、ひたすら個人に執着する分析精神であり、個人をその現実的な生存条件の外に抽象し、人間をグリーンピースの一粒一粒のようなものとしてとらえる考え方。他方、同質性は、個人を無視して、ひたすら集団のみを考える総合精神のこと。個人を階級、国家などひとつの全体に従属し、その全体を絶対化する考え方。
しかし、中沢新一や内山節の出発点は、サルトルのとなえる人間中心主義からの脱却なのであった。
サルトルの言う実存とは、世界のうちに存在する人間の実存であり、ほかの動物などとは区別されるものである。それに対して「イカの哲学」の実存とは、イカを出発点として、人間を含め、ありとあらゆるものの実存の照応なのである。仏教の言葉で言えば、サルトルの人間中心主義は大涅槃経の「一切衆生、悉有仏性」であり、イカの哲学は大涅槃経が日本で変化した天台本覚思想の「山川草木、悉皆成仏」ということになるだろう。
では、次回はもう少し「イカの哲学」の本、そのものに沿って。