妻が半月ぶりに帰って来てしまった。中学生の息子が最近友だちと出かける(昨日も横浜までマリノスの負け試合を見に行ってきたし)ので、娘と二人、なんだかちょっぴり甘やかな時間を過ごしていたのだが、それも昨日まで。昨日は二人で近所にある「太陽のトマト麺」を食べに行った。いろんなものを半分コ。こないだは葛西臨海公園に二人で行ったし、娘がデート相手。いいんだか、悪いんだか。それも寂しい話だ。
明川哲也「メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか」 文春文庫
傑作!
勤めているレストランで火事を出し(彼が犯人ではないのだが)、多額の賠償金を請求されそうな中年男。アパートメントの天井をはう水道管にひもをぶらさげ、縊死しようとするのだが。
そこから始まるメキシコを巡る冒険。不幸な始まりだが、物語は決して不幸ではない。なんらかのアクションに対して大いなる自然がリアクションを起こしてくれるのだから、決して不幸ではない。不幸は、自分の行動が孤絶しているときに訪れる。だから、確かにハッピーな話ではないが、不幸な話ではない。
美しい描写も素敵だ。ドリアン助川という名前で叫ぶ詩人の会というバンドをやっていたらしい(そのあたりは知らないのだが)が、言葉に対する感性が素晴らしい。
京極夏彦「対談集妖怪大談義」 角川書店
「近代以前は迷信がまかり通っていて、呪術的なものが公に信じられていたんだという錯覚があるわけですが、僕はまったく逆なんじゃないかと思うんです。昔はお約束が社会的に機能していただけで、信じてるというならむしろ今なんじゃないかと」
これに大いにうなずく。
よくスピリチュアルなどとぬかす小太りの親父のことを話題にするが、あんなのをテレヴィで放送すること自体、変な時代だと思う。
他に、もともと子供の霊なんて仏教では存在しないというのに、水子供養という形を作ったのは、供養ではなく、子供を失った親への癒しのためだった、という論も面白い。親として後ろめたかったり、辛かったりする感情の芽生えに対して仏教がとった癒しの対策だったのだ。
中原昌也「エーガ界に捧ぐ」 扶桑社
はははは。こいつは、ったく。
自分で書いてる媒体に対して「まぁ、いいさ。どうせこのページを読むような輩は『何かバカ笑いできるようなこと書いてないかぁ』なんて考えている、本当にしょうもない奴ばっかりだろう。そんな堕落した人間に、素晴らしい作品を紹介しても無駄さ………」って、おい。
「ま、どうせ僕の原稿の読者なんて本当のところ『バトル・ロワイヤル』みたいにハレンチで低能な唾棄すべき映画を喜んで見ている救い難いイモしかいないんだろうが」歯に衣着せぬとはこのことだ。
お勧めの映画を見てみないことには、あれだけど、それにしても、見てない映画が多い。
中沢新一「古代から来た未来人」 ちくまプリマー新書
たぶん高校生くらいを対象に書かれた本(中学生も可かな)。内容は「精霊の王」に近いが、もちろん読みやすい。
「明治以来、政府内のイデオローグたちはたいした見識もなしに、神道をキリスト教に向かいあえるほどの宗教に仕立て上げることができるなどと信じて、日本人の霊性の伝統に致命的な打撃を与えるような、めちゃくちゃな施策をたびたび断行してきた。
その過程を通じて、神道は国家の「正義」をささえる、国民の倫理性の源泉としての位置づけを与えられるようになった。つまり、神道は合理化されて、近代主義の逆立ちした表現形態に、たどりついてしまうことになったのである。
土地土地に根づいた古い形をもった神道が、日本人の生活を導く倫理の源泉となってきた歴史的事実が、近代国家としての日本の「国民」を薫育し、教化していくための道徳原理ともなる、という合理的な形にすりかえられてしまった。その結果として、神道はその内的な生命を萎縮させ、頽廃させることになったのである」
南方熊楠が反対した神社合祀など、明治政府がどれだけ日本国民の伝統や霊性を破壊したか。爪痕は各地にあるし、破壊された霊性は二度と戻らないのだ。
明川哲也「メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか」 文春文庫
傑作!
勤めているレストランで火事を出し(彼が犯人ではないのだが)、多額の賠償金を請求されそうな中年男。アパートメントの天井をはう水道管にひもをぶらさげ、縊死しようとするのだが。
そこから始まるメキシコを巡る冒険。不幸な始まりだが、物語は決して不幸ではない。なんらかのアクションに対して大いなる自然がリアクションを起こしてくれるのだから、決して不幸ではない。不幸は、自分の行動が孤絶しているときに訪れる。だから、確かにハッピーな話ではないが、不幸な話ではない。
美しい描写も素敵だ。ドリアン助川という名前で叫ぶ詩人の会というバンドをやっていたらしい(そのあたりは知らないのだが)が、言葉に対する感性が素晴らしい。
京極夏彦「対談集妖怪大談義」 角川書店
「近代以前は迷信がまかり通っていて、呪術的なものが公に信じられていたんだという錯覚があるわけですが、僕はまったく逆なんじゃないかと思うんです。昔はお約束が社会的に機能していただけで、信じてるというならむしろ今なんじゃないかと」
これに大いにうなずく。
よくスピリチュアルなどとぬかす小太りの親父のことを話題にするが、あんなのをテレヴィで放送すること自体、変な時代だと思う。
他に、もともと子供の霊なんて仏教では存在しないというのに、水子供養という形を作ったのは、供養ではなく、子供を失った親への癒しのためだった、という論も面白い。親として後ろめたかったり、辛かったりする感情の芽生えに対して仏教がとった癒しの対策だったのだ。
中原昌也「エーガ界に捧ぐ」 扶桑社
はははは。こいつは、ったく。
自分で書いてる媒体に対して「まぁ、いいさ。どうせこのページを読むような輩は『何かバカ笑いできるようなこと書いてないかぁ』なんて考えている、本当にしょうもない奴ばっかりだろう。そんな堕落した人間に、素晴らしい作品を紹介しても無駄さ………」って、おい。
「ま、どうせ僕の原稿の読者なんて本当のところ『バトル・ロワイヤル』みたいにハレンチで低能な唾棄すべき映画を喜んで見ている救い難いイモしかいないんだろうが」歯に衣着せぬとはこのことだ。
お勧めの映画を見てみないことには、あれだけど、それにしても、見てない映画が多い。
中沢新一「古代から来た未来人」 ちくまプリマー新書
たぶん高校生くらいを対象に書かれた本(中学生も可かな)。内容は「精霊の王」に近いが、もちろん読みやすい。
「明治以来、政府内のイデオローグたちはたいした見識もなしに、神道をキリスト教に向かいあえるほどの宗教に仕立て上げることができるなどと信じて、日本人の霊性の伝統に致命的な打撃を与えるような、めちゃくちゃな施策をたびたび断行してきた。
その過程を通じて、神道は国家の「正義」をささえる、国民の倫理性の源泉としての位置づけを与えられるようになった。つまり、神道は合理化されて、近代主義の逆立ちした表現形態に、たどりついてしまうことになったのである。
土地土地に根づいた古い形をもった神道が、日本人の生活を導く倫理の源泉となってきた歴史的事実が、近代国家としての日本の「国民」を薫育し、教化していくための道徳原理ともなる、という合理的な形にすりかえられてしまった。その結果として、神道はその内的な生命を萎縮させ、頽廃させることになったのである」
南方熊楠が反対した神社合祀など、明治政府がどれだけ日本国民の伝統や霊性を破壊したか。爪痕は各地にあるし、破壊された霊性は二度と戻らないのだ。