イエス・キリストの福音をご紹介します。

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憤りを感じるほどの不公平

2021-08-08 09:40:08 | 日記
憤りを感じるほどの不公平

デール・G・レンランド長老
十二使徒定員会

イエス・キリストは不公平を理解すると同時に,その治療薬を与える力をお持ちです。

(このお話しは、末日聖徒イエス・キリスト教会2021年4月の総大会での説教のひとつです。)


1994年,東アフリカの国ルワンダで大虐殺が起こりました。原因の一つは部族間の根深いわだかまりでした。犠牲者は50万人以上に上ると推定されています。驚くべきことに,ルワンダの人たちは大部分和解に至りましたが,この出来事の波紋は広がっています。

10年ほど前,ルワンダを訪問中に妻とわたしは,キガリ空港である乗客と会話を始めました。虐殺の不公平さを嘆くその人は,痛烈な質問をしました。「もし神がいるなら,このことに対して神が何かするはずではないですか。」苦難やむごい不公平は,憐れみと愛を持つ天の御父がおられるという事実と相いれないと考える人はこの男性だけでなくたくさんいます。それでも神は実際におられ,憐れみ深く,御自分の子供たちを完全に愛しておられます。このような相反は人類の歴史と同じくらい古くからあり,宣伝文句やバンパーに貼られたシールのように簡単には説明できません。

これを理解するために,まず様々な種類の不公平について考えてみましょう。ある家庭で,子供が日常の家事の手伝いをすることで毎週小遣いをもらっていたとします。息子のジョンはキャンディーを買いましたが,娘のアナはそのお金を貯金しました。やがてアナは自転車を買いましたが,ジョンは自分が持っていない自転車をアナが手に入れたことを,まったくの不公平だと思いました。しかし,この不平等の原因はジョンの選択にあり,両親の行動ではありません。アナがキャンディーを食べるという目先の楽しみを我慢したのは,不公平の原因にはなりません。ジョンにも同じことができたからです。

同様に,わたしたちの決断の結果は,長期的に見て有利にも不利にもなり得ます。主が明らかにされたように,「もしある人が精励と従順によって,この世でほかの人よりも多くの知識と英知を得るならば,来るべき世でそれだけ有利になる」のです。ほかの人が努力によって利益を得た場合,自分にも同じ努力をする機会があったのであれば,不公平に扱われたと結論付けることは当然できません。

もう一つの不公平の例は,妻のルースが子供のころに遭遇した状況です。ある日,母親が新しい靴を買い与えるために,妹のマーラと出かけるのを見たルースは文句を言いました。「ママ,そんなのずるい。マーラはこの前新しい靴を買ってもらったばかりだよ。」
母親は言いました。「ルース,あなたの靴は足に合ってるでしょ。」
ルースは答えました。「うん,合ってるけど。」
母親は言いました。「マーラの靴は足に合わなくなったのよ。」
ルースは子供たち全員が足に合った靴を履くべきだということに納得しました。新しい靴が欲しいのは確かでしたが,母親の視点で状況が理解できたので,不公平に扱われたという思いは消えたのです。

説明できない不公平もあります。説明の付かない不公平はひどく腹立たしいものです。不完全で傷や病のある肉体は不公平の原因です。この世はもともと不公平なのです。裕福な家庭に生まれる人もいれば,そうでない人もいます。愛ある両親がいる人もいれば,そうでない人もいます。長生きする人もいれば,短命な人もいます。例を挙げればきりがありません。最善を尽くしていても致命的なミスを犯してしまう人もいます。やろうと思えばできるのに,不公平を正そうとしない人もいます。悲しいことに,神から与えられた選択の自由を使って,決してそうするべきではないのに人を傷つける人もいます。

様々な不公平が相まって,押しつぶされそうな不公平の津波が生み出されることがあります。例えば,新型コロナウイルス感染症のパンデミックは,それでなくとも様々な理由で不利な状況にある人たちに追い打ちをかけています。そんな不公平な状況にある人のことを思うと心が痛みます。それでも,イエス・キリストは不公平を理解され,また治療薬を与える力をお持ちであることを,心から宣言します。主が堪え忍ばれた不公平に勝る不公平はありません。主が全人類の痛みと苦しみを味わわれたのは,不公平なことでした。主がわたしや皆さんの罪と過ちのために苦しまれたのは,不公平なことでした。しかし,主はわたしたちと天の御父を愛しておられたので,あえてその道を選ばれたのです。主はわたしたちが経験していることを完全に理解しておられます。

聖文には,古代イスラエルの民が神から不公平に扱われたと不平を言ったことが記録されています。それに対してエホバは,「女が乳飲み子を忘れ,自分の産んだ子を哀れまないようなことがあろうか」と答え,御自分の思いは,子供を愛して忘れることのない母親よりもさらに深いと述べておられます。主は明言されました。「たとえ女たちが忘れようとも,……わたしはあなたを忘れない。見よ,わたしはあなたを,わたしの手のひらに彫り刻んだ。あなたの石垣はいつもわたしの前にある。」イエス・キリストは無限の贖いの犠牲を払われたので,人の気持ちを完全に理解されます。イエスは常に,わたしたちとわたしたちの状況を御存じです。

現世でわたしたちは「はばかることなく」救い主に「近づ〔いて〕」憐れみと癒し,助けを受けることができます。説明のつかない苦難に見舞われたとしても,神は分かりやすくどこにでもある意義深い方法でわたしたちを祝福してくださいます。その祝福に気がつくようになると,わたしたちはさらに神を信頼するようになるのです。天の御父とイエス・キリストは,永遠の時の中であらゆる不公平を解決してくださいますが,わたしたちは当然,解決の方法と時期を知りたくなります。御二方はどのように,いつ,解決してくださるのか,わたしの知るかぎり,御二方はその方法と時期を明らかにはされません。確かなのは,必ず解決してくださるということです。


不公平な状況でわたしたちがするべきことの一つは,「人生の中で経験するすべての不公平なことは,イエス・キリストの贖いによって正される」と信じることです。イエス・キリストは世に打ち勝ち,あらゆる不公平を「取り去ら」れました。主がおられるので,わたしたちはこの世で平安を得て元気を出すことができます。主に委ねるならば,主はこの不公平を聖別してわたしたちの益にしてくださいます。慰めるだけでなく,失われたものを元に戻してくださいます。 不公平をわたしたちの益にしてくださるのです。方法と時期については,アルマのように認め,受け入れる必要があります。「それは重要​で​はない。神​は​これら​の​こと​を​すべて​​御存じ​だからである。これ​が​事実​で​ある​と​いう​こと……​が​分かれ​ば,わたし​に​は​それ​で​十分​である。

方法と時期に関する疑問は後回しにして,イエス・キリストを信じ,イエスがすべてを正す力を持ち,そうしたいと切望されていることを信じる信仰を育むことに焦点を当てるようにするとよいでしょう。方法と時期を知ることに固執するのは,非生産的で,やはり近視眼的なのです。

イエス・キリストを信じる信仰が育まれると,イエスのようになろうと努めるはずです。そうすると思いやりをもって人に接し,不公平な部分を正すよう努めるようになります。わたしたちは影響の及ぶ範囲で物事を正そうと努めることができるのです。実際救い主は,「熱心に善いことに携わり,多くのことをその自由意志によって行い,義にかなう多くのことを成し遂げなければならない」と教えておられます。

不公平な状況と戦っている一人に,弁護士であるブライアン・スティーブンソンがいます。アメリカで弁護士として働き,冤罪で起訴されている人を弁護し,過重な刑罰をなくし,基本的人権を守る活動を専門に行っている人です。数年前,スティーブンソン氏は殺人という無実の罪で起訴されて死刑判決を受けた男性を弁護しました。スティーブンソン氏は,その男性の所属している地元のキリスト教の教会に助けを求めました。ただその男性は教会に熱心ではなく,不倫などの事実が広く知られていることから近隣での評判はよくありませんでした。

スティーブンソン氏は大切なことに目を向けてもらうために,姦淫の罪で捕らえられた女がイエスの前に連れて来られたことについて,その教会の会員たちに話しました。女を非難する人たちは,彼女を石で打ち殺そうとしていましたが,イエスはこう言われました。「罪のない者が,まずこの女に石を投げつけるがよい。」この女性を非難していた者たちはその場からいなくなりました。救い主は女性を責めず,「今後はもう罪を犯さないように」と命じられたのです。

この話をしてから,スティーブンソン氏は,キリスト教徒であっても,独善的な考えや恐れ,怒りに駆られて,過ちを犯した人に対して石を投げつけることがあると述べ,「眺めているだけではいけません。石を防ぐ人になってください」とお願いしました。兄弟姉妹の皆さん,石を投げないことは,人に対する思いやりの第一歩です。次にするべきは,ほかの人が投げた石を防ぐ努力をすることです。

有利な状況と不利な状況をどう扱うかは,人生の試しの一つです。わたしたちは口にした言葉で裁かれるというよりは,弱い者,恵まれない者にどう接したかによって裁かれることになります。末日聖徒として,わたしたちは救い主の模範に従い,良い働きをしながら巡回します。天の御父のすべての子供たちを尊ぶよう努めて,隣人に愛を示します。

自分の有利な状況と不利な状況についてよく考えるのは,健全なことです。アナが自転車を手に入れた理由を理解したジョンも,母の視点に立つとマーラに靴を買う必要があることを知ったルースも,目からうろこが落ちる思いをしました。永遠の観点から見るよう努めると,物事がよく理解できるようになることがあります。救い主のようになるにつれて,思いやりや理解力や憐れみの心が育まれます。


キガリ空港で知り合った乗客の質問に戻りましょう。虐殺の不公平さを嘆くその人が投げかけたのはこんな質問でした。「もし神がいるなら,このことに対して神は何かするはずなのではないか。」

虐殺がもたらした苦しみを軽んじることなく,それが理解し難い苦難であることを認めたうえで,妻とわたしはその憤りを感じるほどの不公平に対してイエス・キリストがあることをなさっている,と答えました。そして,イエス・キリストに関する多くの福音の教えとキリストの教会の回復について説明したのです。


するとその人は目に涙を浮かべて聞いてきました。「亡くなった両親やおじのために何かできることがあるということですか。」


「そのとおりです!」と答えました。そして人生のあらゆる不公平はイエス・キリストの贖いによって正され,キリストの権能によって家族が永遠に結ばれると証しました。

不公平な状況に立たされるとき,わたしたちは自分自身を神から遠ざけるか,助けと支えを求めて神に近づくかのどちらかです。例えば,ニーファイ人とレーマン人の間の長期にわたる戦争から受ける影響は人によって異なっていました。モルモンは「多く​の​者​が​かたくな​に​なった」が,「苦難​を​受けた​ため​に​柔和​に​なっ〔て〕……​神​の​前​に……​謙遜​に​へりくだった」者もいたと書いています。

不公平なことに遭遇しても,かたくなになったり,神を信じる信仰を失ったりしないでください。逆に,神に助けを求め,救い主にさらに深く感謝し頼ってください。憤慨するよりも,主からの助けによって今よりも良い人になりましょう。耐えられるよう神に助けていただき,あなたの苦難が「キリスト​の​喜び​に​のまれて​しまう​」ようにしましょう。「打ち砕かれた心を癒〔し〕」不公平を正すよう努力し,石を受けとめる者になるという主の使命を主とともに果たしてください。

救い主が生きておられることを証します。主は不公平を理解しておられます。主は,御自分の手のひらの傷を見て,いつもあなたとあなたの状況を思い起こしておられます。あらゆる苦難の中にいるあなたにミニスタリングをしてくださいます。主は御自分のもとに来る者には,悲しみの灰に代えて冠を与え,嘆きに代えて喜びを与え,落胆と絶望に代えて称賛をお与えになります。天の御父とイエス・キリストを信じるあなたの信仰には,想像できないほどの報いがあります。あらゆる不公平,特に憤りを感じるほどの不公平は,聖別されてあなたの益となるでしょう。イエス・キリストの御名により証します,アーメン。

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※お読みいただいてありがとうざいます。

赤字青字は、追加しています。

憤りを感じるほどの不公平

2021-08-08 09:28:47 | 日記
憤りを感じるほどの不公平

デール・G・レンランド長老
十二使徒定員会

イエス・キリストは不公平を理解すると同時に,その治療薬を与える力をお持ちです。

(このお話しは、末日聖徒イエス・キリスト教会2021年4月の総大会での説教のひとつです。)


1994年,東アフリカの国ルワンダで大虐殺が起こりました。原因の一つは部族間の根深いわだかまりでした。犠牲者は50万人以上に上ると推定されています。驚くべきことに,ルワンダの人たちは大部分和解に至りましたが,この出来事の波紋は広がっています。

10年ほど前,ルワンダを訪問中に妻とわたしは,キガリ空港である乗客と会話を始めました。虐殺の不公平さを嘆くその人は,痛烈な質問をしました。「もし神がいるなら,このことに対して神が何かするはずではないですか。」苦難やむごい不公平は,憐れみと愛を持つ天の御父がおられるという事実と相いれないと考える人はこの男性だけでなくたくさんいます。それでも神は実際におられ,憐れみ深く,御自分の子供たちを完全に愛しておられます。このような相反は人類の歴史と同じくらい古くからあり,宣伝文句やバンパーに貼られたシールのように簡単には説明できません。

これを理解するために,まず様々な種類の不公平について考えてみましょう。ある家庭で,子供が日常の家事の手伝いをすることで毎週小遣いをもらっていたとします。息子のジョンはキャンディーを買いましたが,娘のアナはそのお金を貯金しました。やがてアナは自転車を買いましたが,ジョンは自分が持っていない自転車をアナが手に入れたことを,まったくの不公平だと思いました。しかし,この不平等の原因はジョンの選択にあり,両親の行動ではありません。アナがキャンディーを食べるという目先の楽しみを我慢したのは,不公平の原因にはなりません。ジョンにも同じことができたからです。

同様に,わたしたちの決断の結果は,長期的に見て有利にも不利にもなり得ます。主が明らかにされたように,「もしある人が精励と従順によって,この世でほかの人よりも多くの知識と英知を得るならば,来るべき世でそれだけ有利になる」のです。ほかの人が努力によって利益を得た場合,自分にも同じ努力をする機会があったのであれば,不公平に扱われたと結論付けることは当然できません。

もう一つの不公平の例は,妻のルースが子供のころに遭遇した状況です。ある日,母親が新しい靴を買い与えるために,妹のマーラと出かけるのを見たルースは文句を言いました。「ママ,そんなのずるい。マーラはこの前新しい靴を買ってもらったばかりだよ。」
母親は言いました。「ルース,あなたの靴は足に合ってるでしょ。」
ルースは答えました。「うん,合ってるけど。」
母親は言いました。「マーラの靴は足に合わなくなったのよ。」
ルースは子供たち全員が足に合った靴を履くべきだということに納得しました。新しい靴が欲しいのは確かでしたが,母親の視点で状況が理解できたので,不公平に扱われたという思いは消えたのです。

説明できない不公平もあります。説明の付かない不公平はひどく腹立たしいものです。不完全で傷や病のある肉体は不公平の原因です。この世はもともと不公平なのです。裕福な家庭に生まれる人もいれば,そうでない人もいます。愛ある両親がいる人もいれば,そうでない人もいます。長生きする人もいれば,短命な人もいます。例を挙げればきりがありません。最善を尽くしていても致命的なミスを犯してしまう人もいます。やろうと思えばできるのに,不公平を正そうとしない人もいます。悲しいことに,神から与えられた選択の自由を使って,決してそうするべきではないのに人を傷つける人もいます。

様々な不公平が相まって,押しつぶされそうな不公平の津波が生み出されることがあります。例えば,新型コロナウイルス感染症のパンデミックは,それでなくとも様々な理由で不利な状況にある人たちに追い打ちをかけています。そんな不公平な状況にある人のことを思うと心が痛みます。それでも,イエス・キリストは不公平を理解され,また治療薬を与える力をお持ちであることを,心から宣言します。主が堪え忍ばれた不公平に勝る不公平はありません。主が全人類の痛みと苦しみを味わわれたのは,不公平なことでした。主がわたしや皆さんの罪と過ちのために苦しまれたのは,不公平なことでした。しかし,主はわたしたちと天の御父を愛しておられたので,あえてその道を選ばれたのです。主はわたしたちが経験していることを完全に理解しておられます。

聖文には,古代イスラエルの民が神から不公平に扱われたと不平を言ったことが記録されています。それに対してエホバは,「女が乳飲み子を忘れ,自分の産んだ子を哀れまないようなことがあろうか」と答え,御自分の思いは,子供を愛して忘れることのない母親よりもさらに深いと述べておられます。主は明言されました。「たとえ女たちが忘れようとも,……わたしはあなたを忘れない。見よ,わたしはあなたを,わたしの手のひらに彫り刻んだ。あなたの石垣はいつもわたしの前にある。」イエス・キリストは無限の贖いの犠牲を払われたので,人の気持ちを完全に理解されます。イエスは常に,わたしたちとわたしたちの状況を御存じです。

現世でわたしたちは「はばかることなく」救い主に「近づ〔いて〕」憐れみと癒し,助けを受けることができます。説明のつかない苦難に見舞われたとしても,神は分かりやすくどこにでもある意義深い方法でわたしたちを祝福してくださいます。その祝福に気がつくようになると,わたしたちはさらに神を信頼するようになるのです。天の御父とイエス・キリストは,永遠の時の中であらゆる不公平を解決してくださいますが,わたしたちは当然,解決の方法と時期を知りたくなります。御二方はどのように,いつ,解決してくださるのか,わたしの知るかぎり,御二方はその方法と時期を明らかにはされません。確かなのは,必ず解決してくださるということです。


不公平な状況でわたしたちがするべきことの一つは,「人生の中で経験するすべての不公平なことは,イエス・キリストの贖いによって正される」と信じることです。イエス・キリストは世に打ち勝ち,あらゆる不公平を「取り去ら」れました。主がおられるので,わたしたちはこの世で平安を得て元気を出すことができます。主に委ねるならば,主はこの不公平を聖別してわたしたちの益にしてくださいます。慰めるだけでなく,失われたものを元に戻してくださいます。 不公平をわたしたちの益にしてくださるのです。方法と時期については,アルマのように認め,受け入れる必要があります。「それは重要​で​はない。神​は​これら​の​こと​を​すべて​​御存じ​だからである。これ​が​事実​で​ある​と​いう​こと……​が​分かれ​ば,わたし​に​は​それ​で​十分​である。

方法と時期に関する疑問は後回しにして,イエス・キリストを信じ,イエスがすべてを正す力を持ち,そうしたいと切望されていることを信じる信仰を育むことに焦点を当てるようにするとよいでしょう。方法と時期を知ることに固執するのは,非生産的で,やはり近視眼的なのです。

イエス・キリストを信じる信仰が育まれると,イエスのようになろうと努めるはずです。そうすると思いやりをもって人に接し,不公平な部分を正すよう努めるようになります。わたしたちは影響の及ぶ範囲で物事を正そうと努めることができるのです。実際救い主は,「熱心に善いことに携わり,多くのことをその自由意志によって行い,義にかなう多くのことを成し遂げなければならない」と教えておられます。

不公平な状況と戦っている一人に,弁護士であるブライアン・スティーブンソンがいます。アメリカで弁護士として働き,冤罪で起訴されている人を弁護し,過重な刑罰をなくし,基本的人権を守る活動を専門に行っている人です。数年前,スティーブンソン氏は殺人という無実の罪で起訴されて死刑判決を受けた男性を弁護しました。スティーブンソン氏は,その男性の所属している地元のキリスト教の教会に助けを求めました。ただその男性は教会に熱心ではなく,不倫などの事実が広く知られていることから近隣での評判はよくありませんでした。

スティーブンソン氏は大切なことに目を向けてもらうために,姦淫の罪で捕らえられた女がイエスの前に連れて来られたことについて,その教会の会員たちに話しました。女を非難する人たちは,彼女を石で打ち殺そうとしていましたが,イエスはこう言われました。「罪のない者が,まずこの女に石を投げつけるがよい。」この女性を非難していた者たちはその場からいなくなりました。救い主は女性を責めず,「今後はもう罪を犯さないように」と命じられたのです。

この話をしてから,スティーブンソン氏は,キリスト教徒であっても,独善的な考えや恐れ,怒りに駆られて,過ちを犯した人に対して石を投げつけることがあると述べ,「眺めているだけではいけません。石を防ぐ人になってください」とお願いしました。兄弟姉妹の皆さん,石を投げないことは,人に対する思いやりの第一歩です。次にするべきは,ほかの人が投げた石を防ぐ努力をすることです。

有利な状況と不利な状況をどう扱うかは,人生の試しの一つです。わたしたちは口にした言葉で裁かれるというよりは,弱い者,恵まれない者にどう接したかによって裁かれることになります。末日聖徒として,わたしたちは救い主の模範に従い,良い働きをしながら巡回します。天の御父のすべての子供たちを尊ぶよう努めて,隣人に愛を示します。

自分の有利な状況と不利な状況についてよく考えるのは,健全なことです。アナが自転車を手に入れた理由を理解したジョンも,母の視点に立つとマーラに靴を買う必要があることを知ったルースも,目からうろこが落ちる思いをしました。永遠の観点から見るよう努めると,物事がよく理解できるようになることがあります。救い主のようになるにつれて,思いやりや理解力や憐れみの心が育まれます。


キガリ空港で知り合った乗客の質問に戻りましょう。虐殺の不公平さを嘆くその人が投げかけたのはこんな質問でした。「もし神がいるなら,このことに対して神は何かするはずなのではないか。」

虐殺がもたらした苦しみを軽んじることなく,それが理解し難い苦難であることを認めたうえで,妻とわたしはその憤りを感じるほどの不公平に対してイエス・キリストがあることをなさっている,と答えました。そして,イエス・キリストに関する多くの福音の教えとキリストの教会の回復について説明したのです。


するとその人は目に涙を浮かべて聞いてきました。「亡くなった両親やおじのために何かできることがあるということですか。」


「そのとおりです!」と答えました。そして人生のあらゆる不公平はイエス・キリストの贖いによって正され,キリストの権能によって家族が永遠に結ばれると証しました。

不公平な状況に立たされるとき,わたしたちは自分自身を神から遠ざけるか,助けと支えを求めて神に近づくかのどちらかです。例えば,ニーファイ人とレーマン人の間の長期にわたる戦争から受ける影響は人によって異なっていました。モルモンは「多く​の​者​が​かたくな​に​なった」が,「苦難​を​受けた​ため​に​柔和​に​なっ〔て〕……​神​の​前​に……​謙遜​に​へりくだった」者もいたと書いています。

不公平なことに遭遇しても,かたくなになったり,神を信じる信仰を失ったりしないでください。逆に,神に助けを求め,救い主にさらに深く感謝し頼ってください。憤慨するよりも,主からの助けによって今よりも良い人になりましょう。耐えられるよう神に助けていただき,あなたの苦難が「キリスト​の​喜び​に​のまれて​しまう​」ようにしましょう。「打ち砕かれた心を癒〔し〕」不公平を正すよう努力し,石を受けとめる者になるという主の使命を主とともに果たしてください。

救い主が生きておられることを証します。主は不公平を理解しておられます。主は,御自分の手のひらの傷を見て,いつもあなたとあなたの状況を思い起こしておられます。あらゆる苦難の中にいるあなたにミニスタリングをしてくださいます。主は御自分のもとに来る者には,悲しみの灰に代えて冠を与え,嘆きに代えて喜びを与え,落胆と絶望に代えて称賛をお与えになります。天の御父とイエス・キリストを信じるあなたの信仰には,想像できないほどの報いがあります。あらゆる不公平,特に憤りを感じるほどの不公平は,聖別されてあなたの益となるでしょう。イエス・キリストの御名により証します,アーメン。

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※お読みいただいてありがとうざいます。

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日曜学校 教義と聖約86:1-3 面白いところです。

2021-08-08 07:11:46 | 日記

教義と聖約86:1-3

Doctrine and Covenants 86:1-3


1 まことに、​は、小麦​と​毒麦​の​​たとえ​に​ついて、わたし​の​僕で​ある​あなたがた​に​この​よう​に​言う。

1 Verily, thus saith the Lord unto you my servants, concerning the parable of the wheat and of the tares:

2 見よ、まことに、わたし​は​言う。畑​は​世界​で​あり、使徒たち​は​種​を​まく​者で​あった。

2 Behold, verily I say, the field was the world, and the apostles were the sowers of the seed;

3 彼ら​が​眠った​後、教会の​ひどい​迫害​者、背教者、淫婦、すなわち​バビロン​が​現われる。この​バビロン​は​すべて​の​国民​に​自分​の​杯​から​飲ませる。そして​彼ら​の​心​の​中​に、敵、すなわち​サタン​が​座して​支配する。見よ、彼​が​毒麦を​まく。それゆえ、毒麦​は​小麦​の​生長​を​妨げて、教会を​荒野​に​追いやる。


3 And after they have fallen asleep the great persecutor of the church, the apostate, the whore, even Babylon, that maketh all nations to drink of her cup, in whose hearts the enemy, even Satan, sitteth to reign—behold he soweth the tares; wherefore, the tares choke the wheat and drive the church into the wilderness.

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(ここからは、The ScripturePlus app からの、注釈です。)


イエスがなぜたとえ話で話されるのか、尋ねられた時、彼は弟子たちにこう言われました。

When Jesus was asked why He spoke in parables, He told His apostles,


"あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。

“Because it is given unto you to know the mysteries of the kingdom of heaven, but to them it is not given.


おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

For whosoever hath, to him shall be given, and he shall have more abundance: but whosoever hath not, from him shall be taken away even that he hath.


だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである"(マタイ13:11-13)

Therefore speak I to them in parables: because they seeing see not; and hearing they hear not, neither do they understand” (Matthew 13:11–13).


譬は、霊を持つ人々への福音の奥義を開く道であり、神の王国の奥義を守る道です。しかし、それらを受ける用意のできていない人々へは閉ざされるのです。

Parables are a way of opening gospel mysteries to those with the Spirit and keeping the mysteries of the kingdom of God closed to those who are not ready to receive them.


この啓示で、救い主は、毒麦と麦の譬を説かれました。

In this revelation, the Savior interprets the parable of the wheat and the tares.


主が説明されたように、畑はこの世で,

そして種をまく人は、使徒たちを表しています。

As the Lord explains, the field refers to the world, and the sowers represent the Apostles.


初めの譬で、救い主は、ご自身を種まく人と言われました。

In the original parable, the Savior identifies Himself as the sower.


しかし彼の教えの最後に、弟子たちにイエスと同じように種まく人としてつかえるように勧め、"それゆえ行って、全ての国民に教えなさい"(マタイ28:19)と命じました。

But by the end of His ministry, He gives the charge to His Apostles to “go ye therefore, and teach all nations” (Matthew 28:19), enlisting them to serve as sowers as well.


しかし、弟子たちが"眠った"つまり死んだ後に、"背教​者、淫婦、すなわち​バビロン​"は、毒麦を蒔きました。

However, after the apostles had “fallen asleep,” or died, “the apostate, the whore, even Babylon” sowed tares.


毒麦はその初期には麦のように見えますが、しかし成長すると周りの麦を最後は窒息させてしまう種類の雑草です。

A tare is a kind of weed that looks like wheat in its early stages but ultimately chokes the wheat it grows around.


数週間後に与えられた啓示で、キリストは、毒麦を次のように明らかにしています。

In a revelation given just a few weeks later, Christ identifies the tares as


"あの​大きな​教会、すなわち、自分の​不貞に​対する​激しい​怒り​の​ぶどう​酒​を​すべて​の​国民に​飲ませ、神​の​聖徒たち​を​迫害​し、彼ら​の​血を​流した​忌わしい​行い​の​母。すなわち、多く​の​水​の​上​に、また​海の​島々​の​上に​座して​いる​者もの"(教義と聖約88:94)


“that great church, the mother of abominations, that made all nations drink of the wine of the wrath of her fornication, that persecuteth the saints of God, that shed their blood—she who sitteth upon many waters, and upon the isles of the sea” (D&C 88:94).


譬話の解き明かしを超えて、救い主は、もっと大切なことを、初期のキリスト教会は背教することを証されています。

Beyond interpreting the parable, the Savior, more importantly, witnesses that the early Christian church apostatized.


イエス キリストの本当の教会は、荒野に追い払われて、末の日に召されたジョセフ スミスや他の人々の働きを通して、福音の回復が必要とされたのです。

The true church of Jesus Christ was driven into the wilderness, causing the need for the Restoration of the gospel through the work of Joseph Smith and others called in the latter days.

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※本日もお読みいただいてありがとうざいます。

青字は教会の正式な翻訳です。

黒字は個人的な翻訳です。


譬話は、立体視ステレオグラムと似ています。

https://ko-nan.co.jp/12817/


普通に見ていると画像が見えます。

ここまでは、当たり前です。

しかし、画像に目を近づけ、画像の中心に両目で焦点を合わせて、少しずつ画像を離していくと、新たな像が見えてきます。

同じように、イエスキリストの譬話は、霊で理解すると別の理解が開けてきます。

試されて見て下さい。

祈って聖典を読まれることをお勧めします。

良い安息日をお祈りします。