イエス・キリストの福音をご紹介します。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

憐れみと愛の神の恵み

2022-01-10 20:22:11 | 日記
憐れみと愛の神の恵み
ジェフリー・R・ホランド長老
十二使徒定員会
イエス・キリストは苦しまれ,死を受けられ,死からよみがえられました。それは,イエスが,永遠の命へとわたしたちを引き上げられるためです。
安全用のザイルやベルトなど,登山用具類は何も持たずに,14歳のジミーと19歳のジョンの兄弟(両者ともに仮名)は,わたしの生まれ故郷,ユタ州南部にあるスノー・キャニオン州立公園の切り立った渓谷の崖を登ろうとしていました。

長く苦しい岩登りの末に山頂までようやく数メートルという所に来たとき,突き出た岩が行く手を妨げているのに気づき,二人は途方に暮れました。

越えることも,引き返すこともできません。

八方塞がりです。

慎重に戦略を練り上げたジョンは,弟を安全にその岩の上に押し上げられるだけの足場を見つけました。

しかし,自分自身を引き上げるのはとても無理です。

手がかり,足がかりを見つけようと必死になればなるほど,筋肉はけいれんを起こしそうになります。

パニックに飲み込まれそうになり,死ぬかもしれないと思い始めました。 

もう長く持ちこたえることができないジョンの選択肢は一つだけでした。

まっすぐに跳び上がって,突き出た岩につかまることにしたのです。

うまくゆけば,屈強な腕の力によって,安全に自分の体を引き上げることができるかもしれません。


彼はこう語っています。

「跳ぶ前,弟に,わたしがつかまれるだけのしっかりした枝を探しに行くよう言いました。

しかし,岩だらけの山頂にそんなものがないことは分かっていました。

必死の思いでついた嘘でした。

それが,ジャンプに失敗し,落下して死ぬわたしの姿を見せないために,弟にしてやれるせめてものことでした。

弟の姿が見えなくなるのを待ち,最後の祈りをささげました。

わたしが家族を愛していることを家族に知ってほしいこと,そして,弟が無事に自力で家に帰れるよう祈りました。

そして,跳びました。

わたしにはまだ十分なアドレナリンが残っていました。

跳び上がると岩を越えて肘の辺りまで腕が伸びました。

しかし,岩の上に勢いよくついた手に触れたのは,砂だらけの平らな岩でした。

しっかりつかまり,握ることのできる溝も突起もないまま,そこでぶら下がっていたときの砂の感触を今でも覚えています。

砂だらけの表面から指が少しずつ滑り落ちていくのを感じました。自分の生涯もこれで終わりだと覚悟しました。

しかし,そのとき突然,夏の嵐の落雷のように,2本の腕が崖の縁から突き出たかと思うと,小さな手からは想像できないような力と決意をもって,わたしの手首をつかみました。

忠実な弟は,ありもしない木の枝を探しには行かなかったのです。

兄が何をしようと考えているか,正確に把握し,一歩たりとも動きませんでした。

弟はただ待ちました。

黙って,息を殺して待っていました。

わたしが愚かにも跳び上がろうとしていることを完全に分かっていたのです。

そして跳び上がったとき,わたしをつかんで支え,落ちるのを防いでくれたのです。

あの日,落ちれば必ず死に至る高い所で,なすすべもなくぶら下がっているわたしの命を,弟の力強い腕が救ってくれました。」


愛する兄弟姉妹の皆さん,今日は復活祭の日曜日です。

わたしたちは(毎週聖餐の祈りで約束するように)いつも覚えていなければなりませんが,その中でも今日は一年で最も神聖な日です。

わたしたちを堕落や弱点,悲しみや罪から救うために,死の深みに差し出された兄弟愛に満ちた手と,決意に満ちた腕を特別に覚えるための日だからです。

ジョンとジミーの家族の報告によるこの物語を背景にして,わたしは主イエス・キリストの贖罪と復活に対する心からの感謝を表します。

そして,わたしたちを「主イエスの愛」に導き,主の愛の意味を伝える,神の神聖な計画の中にある幾つかの出来事に感謝を表します。

ますますこの世的になる社会では,アダムとエバやエデンの園の話や,二人が「幸運な堕落」をして肉体を得た話をするのは異例なことであり,時代遅れと言われるでしょう。

しかし,真理は簡潔です。

実際にアダムとエバが存在したこと,そして二人が実際のエデンから堕落したことによってあらゆる結果が持ち込まれたことを理解しなければ,わたしたちはキリストの贖罪と復活を完全に理解することはできませんし,他に類を見ないキリストの誕生と死の目的を十分に理解することは不可能です。

言い換えれば,そのような理解がなければ,クリスマスや復活祭を真に祝うことはできないのです。

それよりも前にこの惑星で何が起きたのかわたしは詳細に知っているわけではありません。

しかし,わたしが確かに知っていることは,この二人が御父の神聖な御手の下で創造されたということ,二人はしばらくの間楽園のような環境で生活したということ,そこでは人の死はなく,将来家族をもうけることもなかったということ,二人は一連の選択によって神の戒めに背いたことで園を去ることになりますが,そのおかげで肉体の死を迎える前に子供をもうけることが許されたということです。

二人のこの状況をさらに悲しく,複雑にしたのは,彼らが背いたことで,神の御前から永遠に断ち切られるという,霊的な結果を招いたことでした。

それ以来,わたしたちはその堕落した世界に生まれたために,そして同じように神の律法に背いてしまったために,アダムとエバと同じ罰を宣告されたのでした。

何と痛ましいことでしょう。全人類は落ちるがままです。

老若男女を問わず全ての人は肉体的に永遠の死に向かって転がり,霊的に永遠の苦悩に向かって進んでいます。

それが人生の目的なのでしょうか。

それが人生の最終結果なのでしょうか。

わたしたちは皆,無慈悲な宇宙のどこかで,冷たい絶壁にぶら下がっているだけなのでしょうか。

一人一人がつま先をかける場所を探し求め,つかめるものを探しても,砂が指の下を流れていくだけで,救ってくれるものも,つかむものも,しがみつくものもないのでしょうか。

むなしく存在するだけが人生の目的なのでしょうか。

できるだけ高く跳び,定められた齢60年と十歳(よわい60ねんとととせ)をぶら下がり続け,そして,力尽きて落ち,永遠に落ち続けるだけなのでしょうか。

そうした問いの答えは,明らかに,そして永遠に「否」です。

古代や現代の預言者とともに,わたしは「すべての物事は,万事を御存じである御方の知恵によって行われてきた」ことを証します。

こうして,アダムとエバの決断を予想しておられたわたしたち全ての父である神は,最初の両親がエデンの園から足を踏み出した瞬間から,天の御使いたちを送られ,二人に対して宣言させました。

その宣言は時代を下ってわたしたちにも伝えられています。

それは,この一連の出来事全体が,わたしたちの永遠の幸福のために計画されたものであるという宣言です。

そして,一人の救い主,すなわち神御自身の御子であり,使徒パウロが呼んだもう一人の「アダム」が備えられ,その御方が,最初のアダムの背きを贖うために,時の中間に降臨されるということも,この神聖な計画の一部でした。

この贖罪は,肉体の死に完全な勝利をもたらすものであり,かつてこの世に生を受けた者,これからこの世に生を受ける者全てに,無条件の復活をもたらすものです。

また,慈悲深くも,悔い改めて神の戒めに従順であることを条件として,アダムからこの世の終わりに至るまで,あらゆる人の個人的な罪にも赦しがもたらされることになったのです。

主に聖任された証人の一人として,この復活祭の朝に宣言します。

ナザレのイエスはこの世の救い主であられました。

また,「最後のアダム」であり,わたしたちの信仰の導き手,完成者,そして永遠の命のアルパでありオメガであられました。

「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのである」とパウロは宣言しました。

また,預言者であり族長であったリーハイも宣言しました。

「アダムが堕落したのは人が存在するためであり,……時が満ちると,人の子らを堕落から贖うためにメシヤが来られる。」

そうした宣言の中で最も端的な教えが,モルモン書の預言者ヤコブが2日にわたって語った,イエス・キリストの贖罪に関する説教の一部です。

「復活は,堕落のゆえに必ず人に及ばなければならない。」

そして今日,わたしたちは,死からの復活と罪の赦しについては言うに及ばず,これまで経験したあらゆる失敗,知る限りのあらゆる悲しみ,あらゆる失意,直面したあらゆる恐れに対する勝利の賜物を祝います。

その勝利は,2,000年ほど昔,エルサレムで,今日とほとんど同じようなある週末に起きた出来事のゆえに,わたしたちの誰もが手にすることができるのです。

罪も汚れもない聖なる御方である神の御子御自身がなさったことは,それまでに亡くなった人の誰もしなかったことであり,誰もなしえなかったことでした。

それはゲツセマネの園での霊的な苦悶で始まり,カルバリで十字架にかけられ,美しい日曜日の朝,主のために提供された墓の中で完成しました。

御自身の力で死からよみがえられた主の体は,二度と再び霊と離れることはありません。

自らの御意志で,体を包んでいた埋葬のための亜麻布を外され,顔にかけてあった埋葬用の布は,聖典によれば「はなれた別の場所に」丁寧に置かれました。

最初の復活祭の贖罪と復活をめぐる一連の出来事には,最も重要な瞬間があり,最も寛大な賜物があり,最も耐え難い痛みがあり,世界の歴史の中でも最も壮大に表された純粋な愛があります。

神の独り子であるイエス・キリストは苦しまれ,死を受けられ,死からよみがえられました。

それは,イエスが,夏の嵐の落雷のように,落ちていくわたしたちを力を込めてつかみ,支え,そしてわたしたちが主の戒めに対して従順であることを条件に,永遠の命へとわたしたちを引き上げられるためです。

復活祭の今日,キリストと御父に感謝します。

御父がイエスを差し出されたのは,イエスが,御足に傷を負っても,なお死を克服して勝利のうちに立たれるためです。

復活祭の今日,イエスと御父に感謝します。

御父がイエスを差し出されたのは,イエスが,手のひらを突き抜かれ,手首に傷を負っても,なお無限の恵みの御手をわたしたちに差し伸べられるためです。

復活祭の今日,イエスと御父に感謝します。

御父がイエスを差し出されたのは,汗のしみが残る園について,釘が打ちこまれた十字架について,そして栄光に満ちた無人の墓について,わたしたちが賛美の歌を歌えるようにするためです。
救いの計画
いかに尊し
憐れみと愛の
神の恵み
復活された主イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。

このお話しは、末日聖徒イエス・キリスト教会2015年4月の総大会から、ご紹介しました。

赤字青字は追加しています。段落も変更しています。

お読みいただいてありがとうございます。

良い1日をお祈りします。





真理3:エホバは個人にとっての神であられる

2022-01-10 03:01:18 | 日記
旧約聖書の中にイエス・キリストを見いだす(5-3)
マリッサ・ウィディソン
教会機関誌



真理3:エホバは個人にとっての神であられる
時々,旧約聖書の神は怒っておられ執念深い御方のように思えることがあるかもしれません。

わたしたちは,この書物を最初に書き記した人々が古代の文化に属しており,その文化の慣習や表現を今日のわたしたちが完全に理解するのは難しいかもしれないことを心にとどめておくべきです。

『わたしに従ってきなさい』のテキストや,グループでの話し合い,聖霊により注がれる光が,旧約聖書で読む事柄と,ほかの聖典からイエス・キリストについて分かる事柄とを調和させるための助けになります。

ここで,救い主について学んでいる人にはなじみ深いであろう,エホバの注目すべき特質を一つ挙げましょう。

それは,エホバが個人にとっての神であられるということです。

その介在は,壮大なものであれ小さなものであれ,エホバには御自分を信頼する者をいつでも救う用意がおありであることを示しています。

以下は,旧約聖書に記されている主の務めの例です:
アダムとエバが戒めに背いた後,主は二人に皮の衣を着せられました。

すなわち,二人を皮の衣で覆われました(創世3:21参照)。

ヘブライ語で「贖い」にあたる言葉は,「覆う」または「赦す」を意味します。
主は御自分とともに歩むようエノクを招き(モーセ6:34参照),シオンの民を高く上げられました(モーセ7:69参照)。
主は,ヨセフの家族やほかの無数の人たちを飢えから救うためにヨセフを備えられました(創世37-46章参照)。
主はイスラエルの子らを荒れ野で導かれました(出エジプト13:21-22参照)。
主はアロンとミリアムを訪れ,生ける預言者を信じる二人の信仰を強められました(民数12:5参照)。
主はルツを導き,彼女の子孫を通じて御自分の家系を保たれました(ルツ3:10-11;4:14-17参照)。
主は少年サムエルを名前で呼ばれました(サムエル上3:3-10参照)。
主はエステルが勇気を持って民を救えるよう力を与えられました(エステル2:17;8:4-11参照)。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2022年1月号リアホナからご紹介しました。

赤字青字は追加しています。

段落も変更しています。

聖句も末尾に追加しています。

本日もお読みいただいてありがとうございます。

良い1日をお祈りします。


創世3:21

3:21主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。


モーセ6:34

34 よ、わたしのたまがあなたのうえにあるので、あなたのすべてのことを、わたしはただしいとする。山々やまやまはあなたのまえからり、かわはそのながれをえるであろう。あなたはわたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたとつながっていよう。それゆえ、わたしとともにあゆみなさい。


モーセ7:69

69 エノクとそのすべてのたみかみとともにあゆみ、かれはシオンのなかんだ。それから、シオンはなくなった。かみしんふところにそれをむかれられたからである。そのことから、「シオンはえうせた」ということひろまった。


創世37-46章

長いので割愛します。

出エジプト13:21-22

13:21主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。 13:22昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。


民数12:5

12:5主は雲の柱のうちにあって下り、幕屋の入口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。彼らふたりが進み出ると、

ルツ3:10-11;4:14-17

10 ボアズはった、「むすめよ、どうぞ、しゅがあなたを祝福しゅくふくされるように。あなたは貧富ひんぷにかかわらずわかひとしたがくことはせず、あなたが最後さいごしめしたこの親切しんせつは、さきにしめした親切しんせつにまさっています。
11 それで、むすめよ、あなたはおそれるにおよびません。あなたがもとめることはみな、あなたのためにいたしましょう。わたしのまち人々ひとびとみな、あなたがりっぱなおんなであることをっているからです。

ルツ4章
14 そのとき、おんなたちはナオミにった、「しゅはほむべきかな、しゅはあなたを見捨みすてずに、きょう、あなたにひとりの近親きんしんをおさづけになりました。どうぞ、そのがイスラエルのうちにたかげられますように。

15 かれはあなたのいのちをあらたにし、あなたの老年ろうねんやしなものとなるでしょう。あなたをあいするあなたのよめ、七にんのむすこにもまさる彼女かのじょかれんだのですから」。

16 そこでナオミはそのをとり、ふところにいて、やしなそだてた。


17 近所きんじょおんなたちは「ナオミにおとこうまれた」とって、かれをつけ、そのをオベデとんだ。かれはダビデのちちであるエッサイのちちとなった。

サムエル上3:3-10


3 かみのともしびはまだえず、サムエルがかみはこのあるしゅ神殿しんでんていたとき

4 しゅは「サムエルよ、サムエルよ」とばれた。かれは「はい、ここにおります」とって、


5 エリのところはしっていってった、「あなたがおおよびになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリはった、「わたしはばない。かえってなさい」。かれってた。

6 しゅはまたかさねて「サムエルよ、サムエルよ」とばれた。サムエルはきてエリのもとへってった、「あなたがおおよびになりました。わたしは、ここにおります」。エリはった、「よ、わたしはばない。もう一なさい」。

7 サムエルはまだしゅらず、しゅ言葉ことばがまだかれあらわされなかった。


8 しゅはまた三度目どめにサムエルをばれたので、サムエルはきてエリのもとへってった、「あなたがおおよびになりました。わたしは、ここにおります」。そのとき、エリはしゅがわらべをばれたのであることをさとった。


9 そしてエリはサムエルにった、「ってなさい。もしあなたをばれたら、『しもべはきます。しゅよ、おはなしください』といなさい」。サムエルはって自分じぶんところた。


10 しゅはきてち、まえのように、「サムエルよ、サムエルよ」とばれたので、サムエルはった、「しもべはきます。おはなしください」

エステル2:17;8:4-11
17 おうはすべての婦人ふじんにまさってエステルをあいしたので、彼女かのじょはすべての処女しょじょにまさっておうまえめぐみといつくしみとをた。おうはついに王妃おうひかんむり彼女かのじょあたまにいただかせ、ワシテにかわって王妃おうひとした。

8:4王はエステルにむかって金の笏を伸べたので、エステルは身を起して王の前に立ち、 8:5そして言った、「もし王がよしとされ、わたしが王の前に恵みを得、またこの事が王の前に正しいと見え、かつわたしが王の目にかなうならば、アガグびとハンメダタの子ハマンが王の諸州にいるユダヤ人を滅ぼそうとはかって書き送った書を取り消す旨を書かせてください。 8:6どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。どうしてわたしの同族の滅びるのを、だまって見ていることができましょうか」。 8:7アハシュエロス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った、「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、わたしはハマンの家をエステルに与え、またハマンを木に掛けさせた。 8:8あなたがたは自分たちの思うままに王の名をもってユダヤ人についての書をつくり、王の指輪をもってそれに印を押すがよい。王の名をもって書き、王の指輪をもって印を押した書はだれも取り消すことができない」。
8:9その時王の書記官が召し集められた。それは三月すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてインドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。 8:10その書はアハシュエロス王の名をもって書かれ、王の指輪をもって印を押し、王の御用馬として、そのうまやに育った早馬に乗る急使によって送られた。 8:11その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。