イエス・キリストの福音をご紹介します。

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十分の一の律法

2022-02-11 22:57:15 | 日記
〔創世記14:18-19〕

14:18その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。

14:19彼はアブラムを祝福して言った、
「願わくは天地の主なるいと高き神が、
アブラムを祝福されるように。
14:20願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された
いと高き神があがめられるように」。
アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。

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〔ジョセフ・スミス訳創世記9:25-39 〕

25 メルキゼデクはこえげて,アブラムをしゅくふくした。
26 さて,メルキゼデクはしんこうひとであり,おこなった。どものころ,かれかみおそれ,ライオンのくちふうじ,もうしずめた。
27 こうしてかれかみからみとめられ,かみがエノクとわされた聖約せいやくくらいしたがだいさい聖任せいにんされた。
28 それは,かみくらいしたがうものであり,そのくらいひとによらず,ひとによらずにあたえられたもので,ちちははもなく,はじめもとしわりもない。それはかみからたものであった。
29 それは,かみしんこえしにより,かみしんこころしたがって,人々ひとびとに,すなわちかみしんじるすべてのひとあたえられた。
30 かみしんがエノクとかれそんかたちかっておられたからである。このくらいしにしたがって聖任せいにんされたひとみなしんこうにより,山々やまやまくずし,うみけ,みずがらせ,そのながれをえるちからつであろう。
31 また,もろもろのくに軍勢ぐんせいをものともせず,け,あらゆるなわき,かみまえち,かみこころ命令めいれいのとおりにすべてのことをおこない,はいけん服従ふくじゅうさせるちからつであろう。これは,創世そうせいまえからおられたかみこころによるのである。
32 このしんこうち,このかみくらいのぼった人々ひとびとは,えられててんげられた。
33 さて,メルキゼデクはこのくらいさいであった。そのため,サレムでへいて,へいきみばれた。
34 そして,このたみおこない,てん,エノクのまちもとめた。それは,末日まつじつまで,すなわちわりまでっておくために,かみがかつてからけてげられたまちである。
35 かみは,てんひとつとなり,かみらがによるかのようにためされるとい,かたちかわれた。
36 このメルキゼデクはこのようにてたので,かれたみによっててんおうえれば,へいおうばれた。
37 そして,かれだいさいであり,かみくらまもひとであったので,こえげて,アブラムをしゅくふくした。
38 かみかれを,まずしい人々ひとびとのために什分じゅうぶんいちるようにさだめておられた
39 そこでアブラムは,ぶんっていたすべてのもの,すなわちかみ必要ひつようえてさずけてくださったすべてのしょゆうとみ什分じゅうぶんいちかれおさめた。
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創世記は、
アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。
とさらっと書いてあります。
ジョセフ・スミス訳創世記では、
38 かみかれを,まずしい人々ひとびとのために什分じゅうぶんいちるようにさだめておられた
39 そこでアブラムは,ぶんっていたすべてのもの,すなわちかみ必要ひつようえてさずけてくださったすべてのしょゆうとみ什分じゅうぶんいちかれおさめた。
什分じゅうぶん一は、貧しい人々のためにと詳しく述べられています。
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お読みいただいてありがとうございます。
〔モルモン書 第1ニーファイ13:40〕
40 てん使はわたしにった。「あなたがほうじんなかたそれらあとほう録〔モルモン書〕ろくは、ひつじじゅう使からはじめの録〔聖書〕ろく真実しんじつであることをりっしょうし、またそのなかからられたかりやすくてとうとぶんあきらかにする。またそれらのろくは、かみひつじ永遠えいえん御父おんちちおんであって、すくぬしであられること、すべてのひとはこのすくぬしのみもとになければならず、そうしなければすくわれないことを、すべてのぞくこくたみ民族みんぞくらせる。
と述べられています。










生けるキリストの生ける証人

2022-02-11 22:34:34 | 日記
生けるキリストの生ける証人
ジェラルド・コセー ビショップ
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モルモン書の中心となるメッセージは,人類の救いと昇栄におけるイエス・キリストの重要な役割について,真の知識を回復することです。
2017年のある晴れた春の日,フランス・パリ神殿のオープンハウスが順調に行われていました。そのとき,一人のツアーガイドのもとへ,悲しみに顔を曇らせた男性が近づいてきました。彼は神殿の隣りに住んでいると言い,神殿の建設に反対していたことを認めました。ある日,アパートの窓から外を眺めていると,大型クレーン車が,空からイエスの像をおろしていき,神殿の敷地に静かに置く様子を目にしました。その男性は,この経験が教会に対する彼の気持ちを完全に変えてくれたのだと力説しました。わたしたちがイエス・キリストに従っていることに気づき,男性はこれまで損害を与えてしまったかもしれないことに対して赦しを求めたのです。


クリスタス像は,パリ神殿や教会のそのほかの施設にも設置されていて,救い主に対するわたしたちの愛を証しています。オリジナルの大理石像は,デンマークの彫刻家ベルテル・トルバルセンの作品で,最初の示現と同じ1820年に作られました。その像は,当時のほとんどの芸術的表現,すなわち十字架上で苦しむキリストを主体にして描いたものとはまったく対照的でした。トルバルセンの作品は,死に勝利し,腕を広げ,すべての人を御自身のもとに招いておられる生けるキリストを表現しています。全人類を救うために主が耐えられた,筆舌に尽くし難い激しい苦痛を証しているのは,主の手足にある釘の跡と脇腹の傷だけです。


恐らく,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員がこの像を愛する理由の一つは,救い主がアメリカ大陸を訪れられたモルモン書の記述を思い起こさせるからでしょう。


すると見よ,天から一人の男の方が降って来られるのが見えた。この御方は白い衣を着ておられ,降って来て群衆の中に立たれた。……

そこでこの御方は,片手を差し伸べて人々に言われた。

『見よ,わたしはイエス・キリストであ〔る〕……。

……わたしは,父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み,世の罪を自分に負うことによって父に栄光をささげた。』」

それから主はすべての男女と子供に,自分のもとに来て,脇腹に手を差し入れ,両手と両足の釘跡に触れることで,主が確かに待ち望んでいたメシヤであるという個人の証を得るように招かれました。

この崇高な場面は,モルモン書のまさに最高潮です。福音の「よきおとずれ」全体が,この救い主の像に込められています。「憐れみの御腕」 を優しく差し伸べ,主のもとに来て主の贖いの祝福を受けるように,一人一人を招いておられるのです。

モルモン書の中心となるメッセージは,人類の救いと昇栄におけるイエス・キリストの重要な役割について,真の知識を回復することです。このテーマは,モルモン書の最初のページから最後の章の最後の言葉にまで反映されています。背教と霊的混乱の数世紀を通して,キリストがゲツセマネとゴルゴダで行われたことのより深い意味は失われるか,改悪されてしまいました。ニーファイ第一書を翻訳していたジョセフ・スミスは,次のすばらしい約束を発見したとき,どんなに胸を躍らせたことでしょうか。「……それら後の方の記録〔モルモン書〕は……初めの記録〔聖書〕が真実であることを立証し,またその中から取り去られた分かりやすくて貴い部分を明らかにする。またそれらの記録は,神の小羊が永遠の御父の御子であって,世の救い主であられること,すべての人はこの救い主のみもとに来なければならず,そうしなければ救われないことを,すべての部族,国語の民,民族に知らせる。

救い主の贖罪についての分かりやすくて貴い真理は,モルモン書全体に鳴り響いています。それらの真理を幾つかリストアップしますので,それがいかに自分の生活を変えてきたか,あるいは変えることができるかよく考えてください。
イエス・キリストの贖罪は,地上にかつて生きた人,現在生きている人,そして今後生まれてくる人全員に無料で与えられる贈り物です。
キリストは,わたしたちの罪の重荷を負うことに加えて,わたしたちの悲しみや弱さ,苦しみ,病,そして人が死すべき世で経験するあらゆる苦痛を御自分に受けられました。主がわたしたちのために経験されなかった苦悩や苦痛,悲しみはありません。
救い主の贖いの犠牲により,わたしたちは,肉体の死を含む,アダムの堕落の否定的な結果を克服できます。キリストのゆえに,この地上に生まれた神の子供たちは皆,義の状態がどうあれ,復活の力によって霊と肉体が再び結合し,「自分の……行いに応じて裁かれる」ために,主の御前に連れ戻されます。
その一方で,救い主の贖罪の完全な祝福を受けるには 「キリストの教義」に従って熱心に生活することが条件とされます。リーハイは夢の中で,命の木に至る「細くて狭い道」 を見ました。その実は,キリストの贖罪の至高の祝福を通して経験する神の愛を表わし,「非常に貴く,……好ましいもので,……神のあらゆる賜物の中で最も大いなるもの」です。この実を味わうには,イエス・キリストを信じる信仰を行使し,悔い改め,「神の言葉に聞き従って」,必要な儀式を受け,生涯を終えるまで神聖な聖約を守らなければなりません。
イエス・キリストは贖罪を通して,わたしたちの罪を洗い流すだけでなく,能力を授ける恵みの力を与えてくださいます。主の弟子たちはその力により,「生まれながらの人を捨て」,「教えに教え」を受けて成長し,聖さを増し加え,いつの日かキリストの面影を持った完全な者となって,再び神とともに住む資格を得て,天の王国のあらゆる祝福を受け継ぐのです。
モルモン書に記されている,慰めとなるもう一つの真理は,主の贖罪が,無限で万人に及ぶにもかかわらず,非常に個人的で私的な賜物であり,わたしたち一人一人に当てはまるということです。イエスがニーファイ人の弟子たち一人一人を招いて御自分の傷跡に触れさせたように,主はあたかも皆さんやわたしが地上で唯一の人であるかのように,わたしたち一人一人のために亡くなられたのです。主は御自分のもとに来て,主の贖罪の驚くべき祝福を受けるよう,個人的に招いておられます。

個々人に当てはまるというキリストの贖罪の性質は,モルモン書の中の卓越した男女の模範について考えるとき,よりいっそう現実のものになります。その中には,エノス,アルマ,ゼーズロム,ラモーナイ王とその妻,ベニヤミン王の民がいます。彼らの改宗談と力強い証は,主の無限の慈しみと憐れみを通して,いかに人の心が変わり,生活が変化するかを示す生きた証言です。

預言者アルマは民に次のような熱烈な質問をしています。「もしあなたがたが心の変化を経験しているのであれば,また,贖いをもたらす愛の歌を歌おうと感じたことがあるのであれば,今でもそのように感じられるか尋ねたい。」この質問は今日でもきわめて重要です。なぜなら,主の弟子としてわたしたちは,日々共にあり,動機づけ,わたしたちを変えてくれる主の贖いの力を必要としているからです。

アルマの質問は次のように言い換えることもできます。あなたの生活で,救い主の贖罪の優しい力を最後に感じたのはいつですか。それは,罪が赦されたという証を心に得られ,「麗しく,また快い喜び」を味わうときです。または,つらい試練が突然軽くなり負いやすくなるとき,あるいは心が和らいで,自分を傷つけた人に赦しを伝えられるようになるときに感じます。もしくは,人を愛し奉仕する力が増したことに毎回気づくときや,聖めのプロセスで,救い主の模範に倣って人柄が変わっていくときにかもしれません。

わたしは証します。これらすべての経験が真実であり,イエス・キリストと主の贖罪を信じる信仰を通して生活が変わり得ることの証拠です。モルモン書は,この高貴な賜物についてのわたしたちの知識を明確にして,広げてくれます。この書物を研究するとき,皆さんは主のもとに来るように招く生けるキリストの声を聞くでしょう。この招きを受け入れ,主の模範に倣って生活するならば,主の贖いの力が皆さんの生活にもたらされると,わたしは約束します。皆さんが「ついには真昼」の輝きのようになる,つまり,主の宣言のように,「〔主〕の顔を見て,〔主〕がいることを知る」ときまで,日々聖霊の力を通して主は皆さんを変えてくださいます。イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2020年4月の総大会からご紹介しました。

青字赤字は付加しています。

お読みいただいてありがとうございます。