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本日の日曜学校 教義と聖約107章77-90

2021-09-24 04:52:06 | 日記
77 これらいずれのひょうかい判決はんけつも、いましめにかなっていること。そのいましめはつぎのとおりである。
77 And the decision of either of these councils, agreeable to the commandment which says:

78 さらにまことに、わたしはあなたがたにう。きょうかいもっとじゅうよう、およびきょうかいもっと困難こんなんけんは、ビショップやはんたちの判決はんけつ満足まんぞくのいくものでなければ、これをきょうかいひょうかいに、すなわちだいしんけんだいかんちょうかいまえいでわたさなければならない。
78 Again, verily, I say unto you, the most important business of the church, and the most difficult cases of the church, inasmuch as there is not satisfaction upon the decision of the bishop or judges, it shall be handed over and carried up unto the council of the church, before the Presidency of the High Priesthood.

79 だいしんけんひょうかいだいかんちょうかいは、もんとしてするだいさい、すなわち十二にんちからつ。このようにして、だいしんけんだいかんちょうかいとそのもんたちは、きょうかいりっぽうしたがってしょうもとづいて判決はんけつくだちからつ。
79 And the Presidency of the council of the High Priesthood shall have power to call other high priests, even twelve, to assist as counselors; and thus the Presidency of the High Priesthood and its counselors shall have power to decide upon testimony according to the laws of the church.

80 この判決はんけつのちは、もうそれをしゅまえしてはならない。これはかみきょうかいさいこうひょうかいであり、またれいにかかわることがらかんするろんそうについての最終さいしゅう判決はんけつだからである。
80 And after this decision it shall be had in remembrance no more before the Lord; for this is the highest council of the church of God, and a final decision upon controversies in spiritual matters.

81 きょうかいぞくするもので、きょうかいのこのひょうかいからまぬがれるものはだれもいない。
81 There is not any person belonging to the church who is exempt from this council of the church.

82 もしもだいしんけんだいかんちょういましめにそむいたならば、かれだいしんけんつ十二にんもんによってされるきょうかい一般いっぱんひょうかいまえおぼえられる。
82 And inasmuch as a President of the High Priesthood shall transgress, he shall be had in remembrance before the common council of the church, who shall be assisted by twelve counselors of the High Priesthood;

83 かれこうべくだされるかれらの判決はんけつは、かれかんするろんそうわりである。
83 And their decision upon his head shall be an end of controversy concerning him.

84 このように、かみせいりっぽうからまぬがれるものはだれもおらず、すべてのことが、しんによってかみまえちつじょただしく厳粛げんしゅくおこなわれるのである。
84 Thus, none shall be exempted from the justice and the laws of God, that all things may be done in order and in solemnity before him, according to truth and righteousness.

85 さらにまた、まことに、わたしはあなたがたにう。しつしょくかんする会長かいちょうは、せいやくしたがってあたえられているとおりに、十二にんしつかんし、かれらとともにかいせきき、かれらにおしえ、たがいにきょううことである。
85 And again, verily I say unto you, the duty of a president over the office of a deacon is to preside over twelve deacons, to sit in council with them, and to teach them their duty, edifying one another, as it is given according to the covenants.

86 また、きょうしょくかんする会長かいちょうも、せいやくなかあたえられているとおりに、二十四にんきょうかんし、かれらとともにひょうかいせきき、かれらにそのしょくおしえることである。
86 And also the duty of the president over the office of the teachers is to preside over twenty-four of the teachers, and to sit in council with them, teaching them the duties of their office, as given in the covenants.

87 また、アロンのしんけんかんする会長かいちょうも、せいやくなかあたえられているとおりに、四十八にんさいかんし、かれらとともにひょうかいせきき、かれらにそのしょくおしえることである。
87 Also the duty of the president over the Priesthood of Aaron is to preside over forty-eight priests, and sit in council with them, to teach them the duties of their office, as is given in the covenants—

88 この会長かいちょうはビショップでなければならない。これはこのしんけんの一つだからである。
88 This president is to be a bishop; for this is one of the duties of this priesthood.

89 さらに、長老ちょうろうしょくかんする会長かいちょうは、せいやくしたがって、九十六にん長老ちょうろうかんし、かれらとともにひょうかいせきき、かれらをおしえることである。
89 Again, the duty of the president over the office of elders is to preside over ninety-six elders, and to sit in council with them, and to teach them according to the covenants.

90 この会長かいちょうかい七十しちじゅうにん会長かいちょうとはことなり、ぜんかいたびしないものたちのためにもうけられる。
90 This presidency is a distinct one from that of the seventy, and is designed for those who do not travel into all the world.

わたしの人生と信仰の錨

2021-09-23 21:15:37 | 日記

わたしの人生と信仰の錨


原伸二郎(日本,東京都)

モルモン書を読めば読むほど,これは神の言葉だというわたしの確信は強くなりました



モルモン書の写真/著者提供;その他の画像/GETTY IMAGES

子供のころ,わたしは少しも幸せではありませんでした。しかし,変化が起こったのは,二人のアメリカ人男性がわたしの家の扉をたたいたときのことでした。

14歳のわたしは,日本語を話し,自分たちは宣教師だと自己紹介したその二人のアメリカ人に興味を引かれました。二人が帰った後,父がわたしに,彼らから受け取ったモルモン書という本を手渡しました。わたしはそれを読み始め,何か特別なものを感じましたが,それが何なのかは分かりませんでした。1か月後,本を読み終えたわたしは,それを自分の本棚にしまいました。

3年後,わたしは東京のある駅で二人の宣教師に出会いました。宣教師は,自分たちのメッセージを聞いてみないかとわたしを誘いました。次に会ったとき,わたしはあのモルモン書を持って来ていました。

二人はこう話し始めました。「わたしたちは,ある大切な本をあなたに紹介したいと思っています。」

わたしはかばんからモルモン書を取り出すと,こう尋ねました。「この本のことでしょうか。これならもう読みました。」

二人はとても驚いていました。その後,わたしは福音について教わり,宣教師たちはわたしに,モルモン書が真実かどうかを心から神に尋ねてみるよう勧めました(モロナイ10:4-5参照)。

ある夜,神や教会やモルモン書について考え,どうしたら自分は幸せになれるのか考えていると,心の中に温かいものを感じました。そこで,わたしはバプテスマを受けることに決めました。

教会員になってからも,わたしはモルモン書を読み続けました。ある日,モルモン書を読んでいたとき,父が服用している高血圧の薬について,はっきりとした考えが浮かびました。その薬について詳しく調べてみると,副作用として重度のうつ病を引き起こす可能性があることが分かったのです。わたしの助言を受けて,父は主治医に頼んで薬を変えてもらいました。それ以来,父のうつ病はなくなりました。

モルモン書を読めば読むほど,これは神の言葉だというわたしの確信は強くなりました。わたしはさらに幸せになり,真理をほかの人に伝えたいと思いました。

両親はわたしが伝道に出ることに反対で,ついにはわたしを家から追い出しましたが,決意は変わりませんでした。わたしはアメリカ合衆国テネシー州で伝道しました。わたしは仏教の国からやって来て,合衆国の「バイブル・ベルト(キリスト教篤信地帯)」で末日聖徒の宣教師として伝道していたため,どうしてモルモン書を信じることができるのかと聞かれることがよくありました。わたしは,モルモン書が真実なのかどうかについて祈り,真実だという答えを受けたことを証しました。

伝道の後,学業を終えて就職した日本の大きな企業では,世界各地に転勤となり,ミャンマー,イギリス,アイルランドなどで働きました。行く先々で,わたしはタクシーの運転手から国務大臣に至るまで,できるかぎり多くの人にモルモン書についての自分の証を伝えました。

モルモン書はこれまでわたしの人生の錨であり,イエス・キリストを信じる信仰の錨でした。それは,これからもずっと変わりません。逆境に負けそうになると,わたしは必ずモルモン書を読み,天の御父と救い主からの霊的な支えによって困難を乗り越えます。モルモン書は,わたしの人生の一日一日を祝福してくれます。

https://www.churchofjesuschrist.org/study/liahona/2021/01/latter-day-saint-voices/the-anchor-of-my-life-and-faith?lang=jpn



義にかなった裁き主

2021-09-23 05:01:10 | 日記
義にかなった裁き主
リン・G・ロビンズ長老
七十人会長会
イエス・キリストが行われるような,義にかなった裁きをする方法はただ一つです。すなわち,主のようになることです。
現世での生涯を通して,イエス・キリストは愛あふれる裁き主であり,並外れて思慮深く,忍耐強い御方でした。聖典において,主は「公平な審判者」(2テモテ4:8),「義にかなった裁き主」(モーセ6:57)として知られています。また,主はわたしたちに「義にかなった裁きをし」(ジョセフ・スミス訳,マタイ7:1-2参照),「善を行うように導〔き〕,……義にかなって裁くように導く御霊を信頼しなさい」と勧めておられます(教義と聖約11:12)。

ニーファイ人の十二弟子に与えられた次の勧告は,わたしたちが主に倣って裁く助けとなるでしょう。「将来あなたがたは,わたしがあなたがたに与える公正な判断力によって,この民を裁く者となるであろう。したがって,あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに,あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」(3ニ―ファイ27:27,強調付加)わたしたちは時々,主のような人物であるようにとの勧めが,義にかなって裁くことを教える場面で与えられたことを忘れています。
不義な裁き


不義な裁きの恥ずべき例は,迷い出た羊のたとえ話にあります。このとき,パリサイ人と律法学者たちは,救い主,そして食事の場にいた人々の双方を裁いて次のように言いました。「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」(ルカ15:2)。彼らは自分たちが罪人であるという事実に気づいていませんでした。人を非難する心を持つ律法学者とパリサイ人たちが,失われた羊を救助する喜びを知ることは決してありませんでした。



また,「律法学者たちやパリサイ人たち」は「姦淫をしている時につかまえられた女」(ヨハネ8:3)を救い主のもとに連れて来て,主が彼女をモーセの律法に基づいて裁くかどうかを試そうともしました(5節参照)。皆さんはこの物語の続きを知っていることでしょう。主は不義な裁きをした彼らを謙遜にさせられ,「自分自身の良心にさいなまれ」た人々は「ひとりびとり」去っていったのです(欽定訳〔英文〕ヨハネ8:9から和訳,強調付加)。それから主は女にこう言われました。「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。女はそのときから神を賛美し,御名を信じた。」(ジョセフ・スミス訳〔英文〕ヨハネ8:11から和訳)



わたしたち一人一人の中にある生まれながらの性質は,他人を非難し,不義に裁き,独善的になる傾向があります。救い主の使徒,ヤコブとヨハネの二人にさえ,次のような経験がありました。サマリヤの村人たちが救い主を無礼に扱ったとき,二人は激怒したのです(ルカ9:51-54参照)


[二人は]それを見て言った,『主よ,いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように,天から火をよび求めましょうか。』

イエスは振りかえって,彼らをおしかりになった。『あなたがたは,自分の霊がどのような状態にあるか分かっていない。

人の子は人の生命を滅ぼすためではなく,これを救うために来たのである。』」(欽定訳〔英文〕ルカ9:54-56から和訳)

今日の「一般判士」(教義と聖約107:74)であるビショップと支部会長は,ヤコブとヨハネがそのときに行ったような,非難したいという,いかなる衝動をも避ける必要があります。義にかなった判士は,思いやりと理解をもって罪の告白に対応することでしょう。例えば,道を誤った青少年は,ビショップを通して救い主の愛を感じ,贖罪という癒しの力と喜びに包まれてビショップ室を後にすべきです。辱められた,軽蔑されたと感じることがあってはなりません。さもなければ,ビショップにそのつもりがなくとも,迷い出た羊をさらなる荒れ野へと追いやる可能性があります(ルカ15:4参照)。
鍛練
しかしながら,哀れみによって鍛練の必要がなくなることはありません。鍛錬する(英語では“discipline”)という言葉は,「学ぶこと」を意味するラテン語のdiscere,または「学習者」を意味するdiscipulusから来ており,弟子を教え子や従者にすることを意味します。主の方法で鍛練するとは,愛情を込めて根気よく教えるということです。主はしばしば聖典の中で鍛練することについて語られるときに,懲らしめるという言葉を用いられます(例えば,モーサヤ23:21,教義と聖約95:1参照)。懲らしめる(英語では“chasten”)という言葉は,「純潔または純粋な状態」を意味するラテン語のcastusから来ており, 懲らしめるには「清める」という意味があるのです。

世の中において,人を罪に定め,その人を獄に閉じ込めるのはこの世の裁判官です。これとは対照的に,モルモン書は,故意に罪を犯したなら,わたしたちは「自分で判断」し(アルマ41:7),霊の獄に自らを引き渡すことになると教えています。この場合,一般判士はその獄の扉を開く鍵を持っています。「わたしは懲らしめるとともに,すべてのことにおいて彼らが誘惑から救い出される道を備えるからである。」(教義と聖約95:1,強調付加)義にかなった判士の取る方法は,当事者を罰に定めるものではなく,憐れみ深く,愛にあふれ,贖いに基づいたものなのです。

若きジョセフ・スミスが金版を手に入れるまでには4年という期間が設けられ,ジョセフはその間に鍛練されました。「なぜなら,あなたは主の戒めを守らなかったからである。」後に116ページの原稿を失ったとき,ジョセフは再び鍛練されました。ジョセフは心から後悔しましたが,それでもなお主は短い間,ジョセフの権能を取り去られました。「わたしはまた,愛する者たちを懲らしめる。それは,彼らの罪が赦されるため」なのです(教義と聖約95:1)。

ジョセフはこう述べています。「天使は喜んでウリムとトンミムを返してくださいました。そして,神がわたしの忠実さと謙遜さを喜んでおられること,悔い改めて熱心に祈〔った〕……わたしを愛しておられること」を告げられました。主はジョセフの心を変えるような教訓をお教えになりたかったので,ジョセフの胸が張り裂けるような犠牲を求められました。鍛練の過程において,犠牲は不可欠なのです。
犠牲
「古代において,犠牲は何かの物あるいは人を聖なるものとする手段で〔した〕。」犠牲は,懲らしめるという言葉の定義,すなわち,「清める」と互いに関連しています。同様に,古代イスラエルでは,赦しは罪や過ちに対してささげ物をすることや,犠牲を通してもたらされました。犠牲は「この大いなる最後の犠牲を指し示している」(アルマ34:14)だけでなく,救い主の贖罪に対する深い感謝の念を生じさせました。悔いる気持ちを表す際に犠牲を避けることは,その罪に対するキリストのさらなる犠牲をあざ笑い,軽視することと同じです。主の苦しみを取るに足りないものとし,平然と恩知らずな態度を示すことになります。

一方,皮肉にも犠牲を払うことを通して,実にわたしたちは永遠に価値あるもの,すなわち主の憐れみと赦し,ゆくゆくは「父が持っておられるすべて」を得るのです(教義と聖約84:83)。悔い改めの一環として,犠牲は「良心のとがめ」(アルマ42:18)を「良心の安らぎ」(モーサヤ4:3)に置き換える助けとなる,癒しの軟こうにもなります。犠牲なくして,人が自分自身を赦すことは難しいでしょう。差し出すべきものを出さなかったという思いがいつまでも残るからです。
義にかなって裁く親
この世で一般判士に召される人は少数ですが,義にかなった裁きの原則は,わたしたち全員に当てはまります。この原則を子供に対して用いる機会が毎日ある親は,特にそうです。効果的に子供を教えることは良い子育ての核心であり,愛情を込めて鍛錬することは義にかなって裁く親となるうえで不可欠です。

ジョセフ・F・スミス大管長は次のように教えています。「子供が反抗したり,制御しにくければ,愛によって彼らの心を勝ち得るまで忍耐してください。そうすれば……,あなたの望むように性格を形成することができます。」

鍛練する方法を教えるとき,預言者たちが必ずキリストの特質を採り上げていることを考慮すべきです。教義と聖約には,鍛練に関する有名な勧告があります。

「いかなる力も影響力も,神権によって維持することはできない,あるいは維持すべきではない。ただ,説得により,寛容により,温厚と柔和により,また偽りのない愛により,

優しさと純粋な知識による。これらは,偽善もなく,偽りもなしに,心を大いに広げるものである。

聖霊に感じたときは,そのときに厳しく責めなさい。そしてその後,……いっそうの愛を示しなさい。」(教義と聖約121:41-43)

この聖句は,怒りを感じたときではなく,「聖霊に感じたとき」に責めるようにと教えています。聖霊と怒りが共存することはありません。なぜなら,「争いの心を持つ者はわたしにつく者ではなく,争いの父である悪魔につく者である。悪魔は互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる」(3ニーファイ11:29)からです。ジョージ・アルバート・スミス大管長はこう教えています。「主の霊感を受けているときに思いやりのない言葉は普通,出てきません。主の御霊は思いやりの霊であり,忍耐の霊であり,慈愛と愛,慎みと寛容の霊です。……

……けれども,あら探しをしようとして,……否定的な方法で指摘する態度を執っているとしたら,それは天の御父の御霊を受けた結果によるものではなく,常に有害なものとなります。

……思いやりは,閉ざした心の錠を開け,かたくなな心を和らげ……るために,神がわたしたちに下さった力です。」
子供たちの真の姿
ニーファイの民を訪れられたとき,救い主は子供たちに特別なことを行われました-


そしてイエスは,……群衆の子供たちをも教え導き,彼らの舌を緩められた。そこで子供たちは,大いなる驚くべきことを……自分たちの父親に語った。……

群衆は……,これらの子供たちが語るのを,まことに乳飲み子でさえも口を開いて驚くべきことを語るのを見聞きした。」(3ニーファイ26:14,16)

恐らく,乳飲み子の口を開くよりも,主は驚く彼らの親の目と耳を開かれたのです。この親たちは永遠を垣間見るという特別な賜物を与えられ,子供たちの真の姿と前世で培った特質を目にしました。これにより,親たちの子供たちに対する見方や扱い方が永遠に変わったのではないでしょうか。わたしは次のゲーテの詩の一篇が好きです。「〔子供〕に対する見方は,彼らに対するあなたの接し方に表れ,彼らはあなたが接したとおりの人物になるであろう。」子供の真の姿を忘れずにいることで,先見の明という賜物を得て,義にかなった裁き主の視点を天から授かることができるのです。
結論
トーマス・S・モンソン大管長は次のように教えました。「愛すべき人よりも,解決すべき問題の方を重要視しないでください。」この原則は,特に自分の子供に対して,義にかなって裁く者となるためにどれほど重要なことでしょう。

イエス・キリストが行われるような,義にかなった裁きをする方法はただ一つです。すなわち,主のようになることです。したがって,「あなたがたはどのような人物〔男性および女性〕であるべきか。まことに,あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」( 3ニーファイ27:27)イエス・キリストの御名により,アーメン。

(このお話しは末日聖徒イエス・キリスト教会総大会2016年10月から、ご紹介しました。)


神権の鍵と権能

2021-09-21 04:20:55 | 日記
神権の鍵と権能
ダリン・H・オークス長老
十二使徒定員会
神権の鍵は男性同様,女性にも指示を与え,また神権の儀式と神権の権能は男性同様,女性にも関わりがあります。
Ⅰ.
今回の大会で何人かの忠実な兄弟が解任され,また何人かの召しの支持が行われました。この交代において―教会では非常によく知られていますが―わたしたちは解任されるときに「降格」するのではなく,召されるときに「昇進」するわけではありません。主の奉仕の業において「上,下」はないのです。「前に出るか,後ろに下がるか」だけなのです。その違いは,解任と召しをどのように受け入れ,どのようにそれに従って行動するかです。わたしはかつて,9年間立派な奉仕をしてきた,ある若いステーク会長の解任を担当しました。彼は,自分の解任と,妻とともに受けたばかりの新しい召しを喜んでいました。二人はワードで託児指導者になる召しを受けたのです。それを等しく誉れあることと見るのは,この教会だけでしょう。
Ⅱ.
中央扶助協会のリンダ・K・バートン会長は,女性の大会で話したときに,次のように述べました。「わたしたちは,神権についてもっとよく理解したいという,さらに大きな望みを一人一人に注ぎ込みたいと願っています。」それはわたしたち全員にとって必要なことです。そこで,それができるように,神権の鍵と権能についてお話しします。これらの主題は男性にも女性にも等しく重要なものですので,この部会の模様が全ての教会員のために放送され,公開されることをうれしく思います。神権の力はわたしたち全員に祝福をもたらします。神権の鍵は男性同様,女性にも指示を与え,また神権の儀式と神権の権能は男性同様,女性にも関わりがあります。
Ⅲ.
ジョセフ・F・スミス大管長はこう述べています。「神権は…… 人に委任された神の力であり,この力によって,人は……人類家族の救いのために地上で正当に行動することができるのです。」 別の指導者はこう教えています。神権は「この地球上の最も大いなる力です。この力によって地球が創造され……ました。」 聖文はこう教えています。「初めにあったこの神権は,世の終わりにもあるであろう。」(モーセ6:7)このように,神権は,わたしたちに復活をもたらし,永遠の命に向けて進めるようにする力です。

わたしたちが求める理解は,神権の鍵についての理解から始まります。「神権の鍵とは,地上における神権の行使について指示を与え,支配し,統治するために神が神権〔者〕に与えられた権能で〔す〕。」 教会で執り行われる全ての行為や儀式は,その職務に関する鍵を持っている人の直接的あるいは間接的な承認の下で行われます。M・ラッセル・バラード長老が説明しているように,「神権の鍵を持つ人は,……文字どおり,その指示の下に忠実に働き奉仕する全ての人が,神権の権能を行使し,神権の力を使うことができるようにするのです。

神権の権能の行使をコントロールすることによって,神権の鍵の働きは拡大もしますし,制限を与えもします。神の全ての子供たちが神権の権能と祝福を得られるようにすることによって,それは拡大します。神権の権能を誰に与えるか,その職を誰が持つか,その権利と力をどのように授けるかを指示することによって,それは制限を与えます。例えば,神権を持っている人は,鍵を持っている人から承認を与えられない限り,他の人に職や権能を授けることができません。その承認がなければ,聖任は無効となります。このことから,なぜ神権者は――職に関わりなく――適切な鍵を持っている人からの承認がなければ,自分の家族を聖任したり,自宅で聖餐の儀式を執り行ったりできないのかが分かります。


神殿会長が持っている鍵の下で姉妹たちが神殿で行う神聖な業を例外として,後でこれについて述べますが,神権の儀式を執り行えるのは神権の職を持っている人のみです。また,承認された神権の儀式は全て,教会の記録に残されます。


究極的には,神権の全ての鍵は主イエス・キリストが保有しておられ,それはイエス・キリストの神権なのです。死すべき人間にどの鍵を委任するか,またそれらの鍵がどのように使われるかを決める御方は,イエス・キリストです。わたしたちは一般に,神権の全ての鍵がカートランド神殿でジョセフ・スミスに授けられたと考えていますが,聖文では,そこで授けられたのは「この神権時代の鍵」だけであると述べられています(教義と聖約110:16)。何年も前の総大会で,スペンサー・W・キンボール大管長は,地上の人に与えられなかった神権の鍵が他にあることをわたしたちに気づかせてくれています。創造の鍵と復活の鍵がそれに含まれます。


神権の鍵の行使に対して神が制限を設けておられることから,教会の管理運営事項に関する決定と神権に影響を及ぼす決定との間に,本質的な相違があることが分かります。教会を管理している大管長会ならびに大管長会・十二使徒定員会評議会は,教会の建物の場所や伝道奉仕の年齢など,教会の方針と手続きに影響を及ぼす多くのことを決定する権限を与えられています。しかし,たとえこれらの管理役員がこの神権時代に人に委任された鍵の全てを持っていて行使しているとしても,男性だけが神権における職を持つという神の定められた規範を自由に変更することはできないのです。
Ⅳ.
次に,神権の権能という主題でお話しします。今話したばかりの3つの原則から始めます。(1) 神権は人類家族の救いのために行動するよう人に委任された神の力です。(2) 神権の権能は神権の鍵を持っている神権者によって管理されます。そして,(3) 聖文に述べられているように「教会における他のすべての権能〔と〕職は,この〔メルキゼデク〕神権に付属するもの」(教義と聖約107:5)であって,それらの神権の鍵の指示の下で行われるすべてのことは,神権の権能で行われます。


これは女性にどのように当てはまるでしょうか。扶助協会に向けた話の中で,当時十二使徒定員会会長であったジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,次のように述べています。「姉妹たちには神権が与えられておらず,神権が姉妹たちに授けられていないとはいえ,主が姉妹たちに権能を与えておられないという意味ではありません。……わたしたちの救いに関連があって絶対に必要な特定の事柄を教会内で行うために,男性あるいは,姉妹に与えられている権能があります。姉妹たちが主の宮で行う業などがそれです。彼女たちには幾つかの大いなるすばらしい事柄を行う権能が与えられています。それは主にとって神聖であり,神権を持っている男性によって与えられる祝福と同様に完全に拘束力を持っています。


その重要な話の中で,スミス大管長は,女性に権能が与えられていると繰り返し語っています。女性たちにこう言っています。「皆さんは権能をもって語ることができます。主が皆さんに権能を与えられたからです。」またこうも言っています。扶助協会には「たくさんの事柄を行う力と権能が与えられています。姉妹たちが行う業は神の権能によって行われます。」もちろん,神殿でも,あるいはワードや支部でも,女性や男性によって行われる教会の業は,神権の鍵を持っている人々の指示の下に行われます。扶助協会について語りながら,スミス大管長は次のように説明しています。こうして「〔主は〕この偉大な組織をお与えになりました。それにより,ワードのビショップの指示の下で奉仕する力を受け,……人々の霊的および物質的必要に心を配るためです。


このようにして,扶助協会は女性のためのクラスであるだけではなく,姉妹たちが所属するものであり,それは神権に付属するものとして神によって設けられたものであると真に言われています。


わたしたちは普通,教会の召しにおいて女性は神権の権能を持っているとは言いません。では,それは何の権能と言えるでしょうか。女性は――若くても年を取っていても――専任宣教師として福音を宣べ伝えるように任命されるとき,神権の働きをなす神権の権能を与えられるのです。女性が神権の鍵を持っている人の指示の下で教会の組織の中で役員や教師として務めを果たすように任命されるときも同様です。神権の鍵を持っている人から受ける職や召しにおいて働く人はだれでも,割り当てられた義務を果たす際に神権の権能を行使するのです。


神権の権能を行使する人はだれでも,自分の権利のことは忘れて,自分の責任に集中しなければなりません。それが一般に社会で必要とされる原則です。著名なロシア人の作家,アレクサンドル・ソルジェニーツィンの言葉を引用します。「人間の権利よりも人間の義務を守る時である。」昇栄を得るのにふさわしいとは,権利を主張することではなく,責任を果たすことにあるということを,末日聖徒は確かに理解しています。
Ⅴ.
主は,神権における職に聖任されるのは男性だけであるとの指示を与えられました。しかし,何人もの教会指導者が強調してきたように,男性が「神権」なのではありません。男性は,神の全ての子供たちを祝福するために神権を使うという神聖な義務とともに,神権を受けているのです。


神が御自分の息子たちに与えられた最も偉大な力は,神の娘の一人を伴侶としなければ行使することができません。なぜなら,「神の御心と偉大な計画が実を結ぶように, 肉体の創造者となる」力を神から与えられたのは,神の娘だけだからです。 これはJ・ルーベン・クラーク・ジュニア管長の言葉です。


クラーク管長はこう続けています。「これが永遠の計画における妻の,また母親の役割です。彼女たちは神権者ではありません。神権の義務と職務を果たす責任があるわけではありませんし,その責任を負わされることもありません。彼女たちは神権の力の下で築き上げる人であり,組織する人です。また,その祝福にあずかる人です。神権の力の支援を受け,また神から召されるときに,神権自体と同様にその務めにおいて永遠に重要な職務を受けるのです。


その霊感に満ちた言葉の中で,クラーク管長は,家族について語っていました。家族の宣言の中で述べられているように,父親は家族の中で管理し,父親と母親は別々の責任を負いますが,二人は「対等のパートナーとして互いに助け合うという義務を負っています。」 家族の宣言が発表される何年も前に,スペンサー・W・キンボール大管長は,次のような霊感に満ちた説明をしました。「結婚生活は協力関係によって支えられると言いましたが,完全な協力であると付け加えます。わたしたちは,末日聖徒の女性にこの永遠の業にあって,沈黙の協力者,部分的な協力者にはなってほしくないのです。どうぞ,献身的に,そして全面的に協力してください。


神の目から見て,教会でも,あるいは家族の中でも,女性と男性は異なった責任を持った対等の存在です。


最後に,神権の祝福に関する幾つかの真理をお話しします。神権の鍵や神権の聖任とは異なり,神権の祝福は,女性と男性が同じ条件で受けることができます。聖霊の賜物と神殿の祝福は,この真理のよく知られている実例です。


M・ラッセル・バラード長老は,昨年夏のブリガム・ヤング大学教育週間で洞察に満ちた話をし,次のように教えています。


教会の教義は,女性を男性と同等に置いていますが,女性は男性と異なっていることを示しています。神はどちらかの性がもう一方の性より優れているとか,より大切であるとは見なしておられません。……


男性と女性が神殿に参入するとき,彼らはともに同じ力を授けられます。それは神権の力です。……用意されている神権の力と祝福を神の全ての子供たちが受けることができるのです。


わたしは神権の力と祝福について証します。神の息子と娘は等しくそれを受けることができます。神権の権能について証します。それは末日聖徒イエス・キリスト教会の職と活動の全てにわたって働きます。わたしは証します。神権の鍵の働きは神によって指示されており,預言者,トーマス・S・モンソン大管長がその全てを行使しています。最後に,最も重要なことですが,わたしは主なる救い主,イエス・キリストについて証します。これはイエス・キリストの神権であり,わたしたちはイエス・キリストの僕です。イエス・キリストの御名により,アーメン。

(このお話しは末日聖徒イエス・キリスト教会総大会2014年4月から、ご紹介しました。)

本日もお読みいただいてありがとうございます。
良い1日をお祈りします。

水を動かす

2021-09-18 00:02:29 | 日記
水を動かす

ボイ ド ・K・ パツカー
十二使徒定員会会員


エ ルサ レム の羊 の 門 のそ ばに ひ と つ の池 が あ ります。5つ の 回廊 の あ るそ の池 はヘ ブ ライ語 でベ テ スダ と呼 ばれて い ます。

そ こに は病 気 の人 ,足 や 目の不 自由 な人 , 自分 ひ と りで は思 う よ うに体 を 動 かせ ない人 が 数多 くい て,水 が動 く のをじっ と待 って い ま した。

それ は, とき ど き天使 が 降 りて きて 水を動 かす ので すが ,水 が動 いた とき 一番 に入 る者 は どんな病 気 にか か って い て も癒 さ れ た か ら で す 。(ヨ ハ ネ 5:2-4参 照)

聖 典 の中 で 「盲 人 」 「足 の不 自由 な 人」 「口 の 利 け な い 人」 「衰 え た 人 」 「耳 の聞 こえ な い人 」 な ど と表 現 され て い る この ような人 々 は, 時代 を問わ ず, どこへ行 って も見受 け られ ま した。 私 た ちは その よ うな人 々 を心身 障害 者, 視覚 障 害者 ,聴 覚 障害者 , な どと呼 ん で い ます。 また情緒 障 害,知 恵 遅 れ, 精神 薄 弱 な どの言葉 を使 う こ ともあ り ます。 中 に はそれ らの障害 をい くつ も 持 って い る人 もい ます 。彼 らに は人 の 助 けが必 要 です 。

先 天 的 な理 由 に よるか, あ るい は事 故 や病気 な ど後 天 的 な理 由 によ るか を 問 わず ,家族 の中 に その よ うな障害 者 を抱 えて お られ る方々 に 向 けて話 した い と思 い ます。 「障 害」 とい う言 葉 を 自分 自身 に とって特 別 な意 味 を持 つ も の として受 け留 め てお られ る方 々 に慰 め をさ しあ げたい と思 い ます。

教義 を教 え る

まず教 義 を明 らか に したい と思 い ま す。 それ を理解 す る こ とに よって, 勇 気 と忍 耐心 を増 し加 え る ことが で きま す。 また それ は, みず か ら招 いた ので も, 自分 の過失 に よる もので もな い に もかか わ らず, 日々直視 せ ざる を得 な い状 況 を安 らかな気 持 ち で受 け留 め る 思 い を強 めて くれ ます 。

罪 と感 じる 必要 はな い

まず初 め に, 特 に強 調 した いの が次 の点で す。 障害 児 を持 つ親 が 「自分 た ち に何 か悪 い点 が あ った のだ ろうか」 と考 え るの は珍 しい こ とで はあ りませ ん。 とにか く苦 しみ はす べて罪 の直 接 的 な結 果 で ある とい う考 えが大 昔 か ら あ ります。 しか しそれ は偽 りの教 えで す 。古 代 の使徒 たちで さえ も, 主 に正 され る まで その教 えを信 じて い ま した。 「イエ スが 道 を とお っ て お られ る と き,生 れ つ きの盲人 を見 られ た。弟 子 たち はイ エ スに尋 ね て言 っ た, 『先 生, この人 が生 れ つ き盲 人 な の は, だれが 罪 を犯 した ためで すか 。本 人 です か,

(聖徒の道/1991年7月 号 7 )

それ と もそ の両 親 で す か。』 イエ ス は 答 え られ た, 『本人 が罪 を犯 し たの で もな く, また, その両親 が犯 した ので もな い。 ただ神 の みわ ざが ,彼 の上 に 現 れ るた めで あ る。』」(ヨ ハ ネ9:1- 3)

心 身 の障 害 に関 して,罪悪 感 を持 つ 必 要 は まった くあ りませ ん。障 害 は不 注意 , 虐待 な どが原 因 で起 こる こ とも あれ ば,親 の薬 物常 用 が原 因 で起 こる こ と もあ ります。しか し,その よ うな例 は きわ め て まれで す。 何 の過 ち もない の に, 苦 しみ を受 け る人 もい るの です。

自然 界 を治 める 律法

この世が 創造 され, そ こに人 間が 置 か れ た こ とには 目的が あ ります 。 そ し てそ の 目的が達 成 され るに は, 自然界 を治 め る律 法 は人 間 の感 情 と無 関係 に 機能 して い く必 要 が あ ります。 私 たち は 自然 の律 法 か らの適 用除 外 を求 め る こ とな く, 自 らの救 い を全 う しな けれ ばな りませ ん。 ときに は, 自然 界 の律 法 が奇 跡 に よって超 越 され る こ ともあ ります 。 しか し多 くの障害 者 は,ベ テ スダ の池 の あの病人 の よ うに, 水 が動 くの をい つ まで も待 って い ます。

あ ざ けっ てはな らな い

次 の こ とを両 親 の皆 さん に話 してお かな けれ ば な りませ ん。愚 か な子供 や 思 いや りの ない大人 が 障害 者 を あざ け るの は決 して珍 しい ことで はあ りませ ん。障 害者 をか らか った り, あ ざけ っ た りす るの は非 常 に残 酷 な こ とで す。 その ような行為 は,不 当 な もので あ る ゆえ が故 に, 肉体 的 な攻撃 以上 にひ どい苦 しみ を負 わせ る ことに な ります。私 は, 神 の永 遠 の計 画 に照 らして みれ ば, そ の よ うな残 酷 な行 な い は神 の不 興 を招 き,償 い を求 め られ る こ とにな る と信 じて い ます。

私 は幼 い ときに,決 して その よ うな ことを して はな らな い と教 え られ まし た。私 の母 は6歳 の ときに,母 親 と死 別 し, 幼 い ときか ら農 場 で働 き続 けま した。 あ る日何人 か の若人 が果 実 摘 み を してい た ときに, ひ とりの少女 が笑 い なが ら脳 性 小児 麻痺 の子供 の まね を して か らか い ま した。 彼 女 は 「見 て, だれ の まね かわ か る?」 と言 い, それ か らその障 害者 の名 を口 に しま した。 彼 女が わ ざ とよ ろけ る ように して歩 く 姿 を見 て, ほか の子 供 たち は皆声 を上 げて笑 い ま した。 とこ ろが 突然彼 女 は だれ か に押 された か の ように倒 れ て し まい ました。皆 び っ くりして彼 女 の周 りに集 ま りま した。彼 女 は問 もな く起 き上 が りましたが , それか らは だれ も 障害者 を笑 い者 にす る よ うな こ とはし ませ んで した。母 は決 して その とき見 た ことを忘 れ ませ ん で した。 そ して そ こか ら得 た教 訓 を私 た ちに伝 えたの で す。

ご両親 の皆 さん, 障害者 を笑 い者 に した り, 外見 , あ るい は肌 の色, 個性 が 自分 た ちの勝手 な思 い込 み に よる理 想像 と違 うか ら とい う理 由 で人 を あざ けっ た りす るこ とが 決 して ない ように, 次 の家庭 の夕べ で時 間 を割 いて教 えて くだ さい。 また,彼 らが味 わ って い る 孤独 感 , き ま り悪 さ,人 々 か ら拒 まれ てい る とい う思 い を消 し去 って , その 心 を癒 し, 水 を動 かす 天使 の よ うにな るべ きだ とい うこ とを教 えて くだ さい。

アルゼ ンチ ンの メ ン ドーサ でセ ミナ リー の卒業 式 に出 席 した ときの こ とで す。 そ の クラス に は普 通 の階段 を上 る のが とて も大変 な少年 が ひ とりい まし た。 ほか の生徒 たちが どん どん教室 に 進 んで い く中で, 力 の強 いふ た りの少 年が や さ し く彼 を持 ち上 げ, 階段 を上 りま した。 その一 部始 終 を見 て いて わ か った の は, ほかの生 徒 た ち は皆 あ る 意味 で 目が くらんで い た とい う こ とで す。 困 って い る仲間が い るの に, 彼 の 必 要 に気 付 かず, 彼 を単 な る クラス メ ー ト,友 人 として しか見 て い なか った のです。 しか し3人 の少 年の 上 に は神 のみ業 が現 われ て い ました。 ふ た りは 肉体 を変 え られ たわ けで もな いの に, 天 使 の よ うに仕 え, 不 自 由な体 に拘 束 され なが らも永 遠 に完全 な者 となれ る 日を待 ち望 ん でい た友 の苦 しみ を和 ら げた ので す。

見えにくい本当の姿

最近 あるステーキ部大会で,私は最 前列にひとつの家族が座っているのに 気付 きました。その家族の中には,手 足が麻 痺 し, 耳 が聞 こえな い10歳 の女 の子 が い ま した。父 親 は, いす か らず り落 ちない よう にそ の子 の体 を支 えて い ました。 そ の家族 のや さ しさ に私 は 深 く心 を打 た れ ま した。 大会 が終 わ っ て か ら,私 は彼 らに手招 きを しま した。 彼 らが 私 の と ころへ来 るの をた め らっ てい る様 子 が見 えたか らです。 父親 は ハ イ ジ とい うそ の女 の子 の顔 が私 に見 え るよ うにす るため に,体 の 向 きを変 え ま した。 ハ イ ジ は父 親 に抱 かれ, そ の腕 の中 に顔 をうず めて い ま した。彼 は笑 い な が ら, 「この 子 はな か な か本 当 の姿 を見せ て くれ な いんで す よ」 と 言 い ました。

確 か に彼女 の真 実 の姿 は, そ の肉体 の 内 に秘 め られ て い ました。 そ して彼 女 の家族 も皆 ,一 見 しただ けで は,本 当 の姿が 見 え に くい人々 で した。

ジ ョセ フ ・フ ィー ル デ ィ ング ・ス ミ ス大 管 長 は こ う説 明 して い ます。 「前 世 にお いて霊 はすべ て完 全 な形 を有 し, その機能 ,精 神 的 な能力 に は欠 けてい る とこ ろが全 くな か った。 …… 心身 の 障 害 は …… 物 質 界 に つ け る事 柄 で あ る。」(「福 音 の 質 疑 応 答 」3=19)「 物 質界 につ け る」 とい う こ とは この世 限 りの とい う意味 で あ り, この世 限 り と い う ことは, か りそ めの とい う意 味で す。罪 とは無縁 のす ば ら しい霊 が , 肉 体 的 な障害 に よって一 時 的 に拘 束 され る こ と もあ るので す。

た とえ この世 にお いて はか なわ な く て も, 次 の世 におい て は癒 し を受 ける こ とがで きます。 さな ぎか ら目の覚 め るよ うな美 しい ち ょうが 出 て くる よ う に, す ば ら しい霊 が , その 肉体 か ら解 き放 たれ るので す。

完全な形への回復

彼 らの 眠 れ る塵 は, 骨 と骨 とが 結 合 して腱 と肉 とで覆 わ れ, そ の完 全 な 形 に回復 され る はず で あ った。 す なわ ち, 彼 らが 完 き喜 び を受 け るため に, 霊 と肉体 とが再 び分 か れ る こ との ない よ うに結 び合 わ され るので あ る。」(ジ ヨセ フ ・F・ ス ミス 死 者 の蹟 い に 関 す る示現1=17)

また, 「霊 は再 び体 に か え り, 体 は 再 び霊 にか え り,手 足 も骨 の 関節 もみ

(聖徒の道/1991年7月 号 8 )

な元の自然の完全な身体 の ものにかえ り,髪の毛一筋 もな くならず,身体 の どの部分 もみな元の自然の完全な形に 復 るので あ る。」(ア ルマ40:23)

お お 私 た ち の神 の計 画 の偉 大 な こ とよ。 … …霊 と体 とは また も との通 り 一 し ょにな る。 ここです べ ての人 間 は 不 朽 で不死 不 滅 の者 とな り, しか もか れ らは生 ける人 で あっ て この世 で 肉体 を持 っ てい る私 た ちの よ うに物事 を知 そ な る力 を具 え, 今 の私 た ちが持 って い る 物 事 を知 る力 はそ の時 に完全 にな るの で あ る。」(II二 一 フ ァイ9:13)

使徒 パ ウロ は 「もしわ た したち が, この世 の生活 で キ リス トにあ って単 な る望 み をい だ いて い るだ けだ とす れ ば, わ た した ちは, す べて の人 の 中で最 も あわれ むべ き存 在 とな る」(1コ リン ト15:19)と 言 い ま した。

人 生 を この世 限 りの もの としか 見 る ことがで きない と, とて も耐えきれな くなる こ とが い くつ か あ ります。 そ れ らが あ ま りに不 公 平 で, どう しよ う も ない もの と感 じ られ るか らです。 こ こ でい くつ か教義 に触 れて み ます。 ひ と たび それ らを理解 す れ ば, ほか の方法 で は納 得 の い く説 明 が得 られ ない問題 を, まった く異 な る観 点 か ら とらえ, あ りの ま まに受 け入 れ る こ とが で き る よう にな ります。

その ひ とつ は, 私 た ち は父 な る神 の 霊 の子 供 で あ る とい う真 理 です 。私 た ち は前世 にお いて神 と共 に住 んで い ま した。前 世 に始 ま りはあ りませ ん。 あ り得 な い の で す。啓 示 の 中 に は, 「創 世 の前 よ り」 の事 柄 につ いて書 か れて い ま す。(教 義 と聖 約124:33-41参 照)

次 は,現世 は一時 的 な もの で あ り, 永遠 と比 較 す れ ば取 るに足 らな い短 い 時期 で あ る とい う真 理 で す。現 世 の長 さ を, 目で は見 えな い小 さ な水 滴 にた とえる と します。 で は,地 球 の海 のす べ て の水 を もっ て,永 遠 とい う時 を表 現 で きるか とい う と, そ れで もま った く足 りな いの です 。

最後 は, 人 は死 ん で もやが て復 活 し, 終 わ りのない次 の世 へ行 くとい う真理 です 。啓 示 の 中 に 出 て くる 「永 遠 」, 「い つ まで も尽 きな い」 な ど とい う言 葉 は,福 音 と生命 の両 方 を説 明 して い る もの です。

いつ か癒 しの時 が 来 ます。 障害 のあ る心 身 もや がて完 全 な もの とな る ので す。 それ まで の間, 私 たち はベ テ スダ の池 で待 ち続 け る人 々 に手 を差 し伸 べ な けれ ば な りませ ん。

障害 を持 つ子供 あ るい は き ょうだい の た めに 自分 の都 合 を後 回 しに し, そ の力 と時間 を捧 げてい る方 々 は, す ば ら しい英 雄 です 。皆 さん は,彼 らに対 す る思 い, や さ しい態度 ,行 ない のす べ て を通 して, 神 の み業 を現 わ して い るので す。 涙 を流 し, 悲 しみ, 落胆 す る ときが あ って も, 心 配 しないで くだ さい。 必要 とされ て も自分 には それ以 上 は耐 え られ な い と思 う ときが あ るか もしれ ませ ん。 しか し心配 しない で く だ さい。皆 さん は本 当 に純 粋 な形 で イ エス ・キ リス トの福 音 の原 則 を実践 し てい る のです 。 そ して, それ を通 して 自分 自身 を磨 きあ げてい る のです 。

さて今 まで 述べ て きた すべ て の事柄 の中 に は,見落 として はな らな い側面 が あ ります。 とい うの は, た とえ障害 を持 つ人 で あ って も, 救 いへ の道 は自 分 で切 り開 く責任 が あ るか らで す。行 動 や しつ けの仕 方が 通常 の形 に近 くな れ ば な るほ ど, 障害 を持 つ人 自身が さ らに幸 せ にな れ るので す。

心 身 の向 上 は どん なに さ さや か な も の で あっ て も, 追 い求 め てい く価値 が あ ります。 予言 者 ジ ョセ フ ・ス ミス は こ う話 して い ます 。 「神 が この地 上 に 遣 わ され た人 はす べて成 長 の可 能性 を 持 って い る。」(「予 言者 ジ ョセ フ ・ス ミス の教 え」p.354)

体 が 弱 くて ,人 の助 けを受 けて い る に もかか わ らず, い たず らにその人 々 の生活 をか き乱 し,惨 め な思 い をさせ てい る人 が い ます 。 その よ うな人 は, 普 通霊 的 な成 長 にあ ま り役 立 た ない 同 情 心 の 中 に浸 りきってい る のです 。障 害 者 自身 に肉体 的 また感情 的 な苦 痛が 伴 う場 合 ,彼 らに ど こまで 自立 を求 め るか を判 断す るの は, その周 囲で働 く 人 々 に とって非常 にむず か しい ことで す。 しか し, 予 言者 ジ ョセ フ ・ス ミス が言 って い る よ うに, 「同情 心 に よる ので はな く, よ くよ く考 えた末 の決意 が必 要」 で す。(「教会 歴 史」4:570)

次 の ことにつ い て考 えて ください 。 私 たち は早死 に しない限 り, 最後 には 肉体 的 あ るい は精 神 的 に障害 を受 け る

(聖徒 の道/1991年7月 号 9 )

よ うに な る可能 性 が あ るので す。 いつ か そ うなっ た と きには,人 の世 話 に な らぎ るを得 ないか も しれ ませ ん。 そ の ときに助 け て も らうた めに は, 今 か ら 人 々 の ため に働 き,思 い や りを示 して お くべ きで はな いで し ょうか 。

障害 を持 つ子供 の た めに普通 の人 以 上 に多 くの用 事 や出費 を抱 え,外 出 も 思 う に任 せ ない人 を助 け ようで はあ り ませ んか 。 障害者 の教 師 や ソー シ ャル ワーカ ー として働 く人 々 を励 まして く だ さい。 数 あ る障害者 援助 組 織 のひ と つ に小額 の献 金 をした り,数 時問 の奉 仕活 動 をす る の は, す ぐにで きる こ と で はな いで し ょうか 。利 己的 な気 持 ち を少 し も交 えず にその よ うな行為 をす る人 は, 自分 が助 け を必 要 とす る と き の た めの備 えをす る こ とにな ります。 そ して神 のみ業 が, 私 たち の生活 の中 に現 わ され る ことで し ょう。

汝 らは今 後 来 らん とす る事 な どに 関 す る汝 らの神 の み こ ころ, お よび多 くの艱難 の後 に続 いて来 るべき栄光に 就 きては,現在肉眼 を以て これ を見 る ことを得ず。多 くの銀難 の後 に祝福 は 来 る。 この故 に汝 らが大 いな る栄 えの 冠 を受 くべ き 日は来 るな り。而 して そ の時 は未 だ来 らず とい え ども近 きにあ り。」(教 義 と聖 約58:3-4)

私 はやが て来 るそ の回復 につい て証 した い と思 い ます 。す べ ての 肉体 と精 神 が完 全 な形 に 回復 され ます。 この現 世 が長 く, 不公 平 な もの に感 じられ る か も しれ ませ ん。 またそ の苦 しみ と待 って い る時間 が長 く続 くか も しれ ませ ん。 しか し主 は こう述 べ てお られ ます。 「そ の後 わが能 力 の 日 これ に次 で来 る。 その 時貧 し き者, 足 な えた る者 , 目見 え ざ る者 ,耳 聞 え ざ る者 な どみ な子羊 の婚 礼 に来 りて, や がて 来 るべ き大 い ばんさ ん な る 日のた め に備 え られ た る主 の晩餐 にあず か らん。見 よ, これ らの ことは 主 な るわれ これ を語 れ り。」(教 義 と聖 約58:11-12)

私 は幕 のか なたへ 去 って い った人 々 が どの ような状 態 に あるか を証 す る こ とがで きます。 私 た ちは御 父 と贖い 主 に栄 光 を帰 さな けれ ばな りませ ん。 イ エ ス ・キ リス トの み名 に よっ て証 し ます。アーメン。