イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

ジェス教会の殉教図

2018年12月19日 17時12分53秒 | イタリア・美術

既に何度か口にしたことが有ったかと思いますが、私の今年のマイブームは「潜伏&隠れキリシタン」でした。
そんな中、今年最後を締めくくるのにふさわしい話題を今日はお話しようと思います。
いきなりローマに飛びます。

実は10月にイタリアに戻った(もう「行った」がふさわしいかな?)時、どうしても見たいものが有ったのです。
それはRomaに有ります。
かつて何度か訪れたことが有る場所だったと思います。

イエズス会の大本山「ジェス(Chiesa del Gesù)教会」です。
直訳すれば「キリストの教会」を意味するこの教会は、本当はChiesa del Santissimo Nome di Gesù all'Argentinaというのが本名で、日本語では「イエス・キリストの神聖な御名の教会」というそうです。
このファサードは世界初の真のバロック様式で、世界中のイエズス会の教会がこのファサードをモデルにしています。
堕落を極めた16世紀のキリスト教会をよそ眼に、1534年イグナチオ・ディ・ロヨラ(Ignazio di Loyola)を中心にイエズス会が設立されます。その設立の同士の中に、日本人には非常になじみ深いこの人もいました。

写真:Wikipedia
フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier、伊:Francisco Saverio)です。
パリで創立されたイエズス会の面々は清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てました。
結果的に戦火のエルサレムへ行くことが出来なかった彼らは、教皇のおひざ元Romaから布教活動を始めることになります。
1540年、プロテスタントと協調し、教会改革を精力的に推し進めていたパウルス3世(Paolo III)によって承認されます。
新興宗派が生まれるパターンっていつも同じ。聖フランチェスコ(S.Francesco)がフランチェスコ会を設立した背景も教会の堕落、そして法王がそんな新興宗派を承認するのは、ひとえに教会の威信の回復のため。
本人(例えばフランチェスコ)は望んでないのに、大きな教会を建て、豪華に飾り建てるのは、その権力を示すため。

パウルス3世と言えば

この方。
この肖像画はティツィアーノ(Tiziano)が描いたもので、ミケランジェロ(Michelangelo)にシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」を描かせた人物で、芸術にも大変関心が深かったパトロン教皇の1人。

教皇に承認されたイエズス会は積極的に世界中へ布教活動を広げていきます。
教皇の目的はどんな時もぶれません。当の宣教師にはそんな思いはなかったのかもしれないけど、布教活動を積極的に応援したのは、プロテスタントが横行していたこの時代、新世界に新しい信者を増やすことで、教会の勢力を強めようという政治的意図が有ったことは明らかです。

余談ですが、ここ数日ですが、来年現教皇フランシスコ(Francesco)が日本訪問予定という記事が新聞に踊っていましたが、数百年だった現代でも目的は同じ。教皇のアジア訪問は、中国人の信者を増やすため、というのが最重要目的でしょう。今年に入って、バチカンではなく、中国当局が独自に認めた司教を、司教として認めると妥協したあたりも、狙いは同じでしょう。
とこの辺りは長年イタリアで異教徒としてバチカンを見て来た私の個人的な見解です。
とホントに個人的な意見のつもりでしたが、偶然今日書かれたこんな記事を発見。
そうか、信者獲得以外にも目的が有るのか…私はまだまだ甘いか。
どちらにせよ、個人的には中国訪問が確実になれば”ついでに”日本にも行きますよ、ということだと思う。
勿論現法王は日本のキリシタンおよび長崎、広島には特別な思いを抱いていない、とは言いません。
彼はイエズス会出身の初の教皇ですし、(何度も言ってますね…すみません)若い頃日本に布教に行きたいと望んでいたとも聞いています。
でも宗教と政治、そしてお金は切ってもきれないものですからねぇ…と残念ながらどうしても思ってしまいます。

ただいろいろな思惑を抱いていたのは上の方だけで、下の方はきっと純粋な気持ちだけで16世紀に死ぬ気で日本くんだりまでやって来たんだからすごいです。そして彼らのおかげで、私たち日本人はようやく西洋の文化に触れることが出来たのですから。
イエズス会有っての日本、と言えるかもしれないですね。

1773年にイエズス会の活動禁止令が出されたため、このジェズ教会が使えなくなったこともありますが、後にイエズス会はこれを取り戻して隣接する建物も入手しています。

ミケランジェロが無償で設計することを申し出ましたが、最終的には建築家はジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ(Giacomo Barozzi da Vignola)とジャコモ・デッラ・ポルタ(Giacomo della Porta)が設計を担当。ファサードについては当初ヴィニョーラの三層構造の均整のとれた設計でしたが、後にデッラ・ポルタの強い垂直要素と結びついた動的に溶け合った緊張感のある設計に変更されました。(参考:Wikipedia)

教会の中に足を踏み入れるとまずこの天井画に圧倒されることでしょう。

ジョバン・バッティスタ・ガウッリ(Giovan Battista Gaulli)、通称 バチッチョ(il Baciccio)に寄って描かれた「イエスの御名の勝利(Trionfo del Nome di Gesù)」のフレスコ画です。丸天井も彼の作品。
また内陣近くには、ピエトロ・ダ・コルトーナの設計「聖フランシスコ・ザビエル礼拝堂」があり、銀の聖遺物箱の中にはザビエルの右腕の一部が収められています。
1552年、46歳で中国の上川島で客死したザビエルの遺体は、ゴアのボン・ジェズ教会内に安置されました。
しかし1614年にローマのイエズス会総長の命令で、右腕が切り落とされます。おいおい、なんて罰当たりなぁ…と思うのは私だけですか?
ザビエルの死後50年以上経過しているにもかかわらず、なんとその腕から鮮血がほとばしったとか。その腕がここに安置されているというわけ。
更にこの「奇跡の右腕」は1949年(ザビエル来朝400年記念)および1999年(同450年記念)に日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示されたそうです。ははは…そうすると2049年には「500年記念」で再々来日するかもねぇ。あと30年か、生きてるかな?
それはさておき、このジェス教会に安置されているのは右腕の下膊で、上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京に…などと分散して保存されているそうですよ。かわいそうに。(参考:wikipedia)

他にも色々見どころ満載のジェス教会なのですが、今回ここを訪れたのは、この教会に「26聖人殉教図」が有ると聞いたから。
今年長崎で見たこのテーマの作品は、イタリア人が描いた(?)大浦天主堂にあるもの(こちらに記事書きました)
そして「日本26聖人記念館」で見た長谷川路可の遺作のフレスコ画、「長崎への道」です。


実はこのフレスコ画を見た時、詳しく調べようと思っていたのですが、すっかり忘れていて、今回検索したところ、作者について非常に詳しく紹介されているサイトを見つけました。
http://kugenuma.sakura.ne.jp/k097c.html
写真もこちらから拝借しました。
イタリアと非常に関係の深い方だったんですねぇ。

そしてここジェス教会にも有ったんです。
と言っても教会の中ではなく、ブックショップの中(?)だったんです。
この情報が半信半疑だったので、一応教会内を探してみましたが、それらしいものは見当たらず、とりあえずブックショップに向かったものの、そこにも絵はなかったのです。
う~ん手がかりないぞと思った矢先、絵葉書の中に見つけたんです。
そして、その絵葉書を片手に「この絵、今は見られないのですか?」とレジで聞くといともたやすく「見られるよ」と。
ちょっと拍子抜け…でもここにはないんですけど。
と思ったら、なんとレジの後ろにあるドアを開けてくれて「はい、どうぞ」と。
中に入ると廊下みたいなばしょなんですよね、大変無造作に置かれていました。
でもちゃんと電気も付けてくれて…
そして私は置き去りに。
私が何かするって考えないのかな?といつも思うんですけど、勝手にさせてくれるのはうれしい。
とにかく写真を撮り、穴があくほど見つめましたよ。
その写真ですが…

陰が…蕨ではありませんよ。



以上3枚が実物ですが、これではわからないので、ブックショップで購入した絵葉書で。

こちらは1619年11月18日、レオナルド木村と他4名のキリシタンの殉教図

こちらはちょっと人数が多いんですけど「26聖人殉教図」と考えられています。

そして唯一これだけがちょっとだけ詳しいことが分かっています。
この絵は「26聖人の殉教」ではなく「元和の大殉教」で、1622年9月10日(元和8年8月5日)に長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑、殉教したというシーンです。(26聖人は1597年、豊臣秀吉の命による)

処刑されたのは神父や修道士、老若男女の信徒で、女性や幼い子供が多いのは、宣教師をかくまった信徒の一家全員を処刑したせいなんだそうです。秀吉の禁教政策を引き継いだ徳川幕府のキリスト教徒への弾圧は、ますます厳しくなっていたことが想像できます。
火刑25名。その中にはイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9人と修道士数名が含まれていました。残る30人は斬首。その中には、日本人だけでなく神父をかくまったことで既に逮捕・処刑されていたポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である4歳のイグナシオも含まれていたそうです。
この絵はたぶんこの処刑の様子を見ていた日本人修道士で、かつてセミナリヨで西洋絵画を学んでいた者が様子をスケッチし、マカオで油絵として完成させローマに送ったとものと考えられています。(参考:Wikipedia
日本に撤退した今となってはこれらの作品の詳細を調べることは困難ですが、もう少し詳しいことが知りたいなぁ…と思いながら教会を後にしました。
外は既に夕暮れ。

この時間のRomaって一番きれいです。
あ~Roma行きたい!!

今年のヴァチカンのPresepio(プレゼピオ)は砂で出来ているそうですよ。
(写真はここから拝借しました)



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