イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

出島

2018年07月09日 10時47分07秒 | 日本のこと

インフォメーションセンターを出た後は、一路出島へ。

レトロな路面電車が良い。

出島…
小学生の時、「日本が鎖国していた時、唯一世界へ開いていた場所。でもオランダ人と中国人に限る」と教わった。
インターネットで地球の裏側で起きていることも瞬時に分かってしまう現代からは想像もつかない閉鎖された時代だったのだ。
西洋の文化、技術は欲しかったけど、西洋人、特にキリスト教徒に侵略されるのを拒んだ日本人。
果たしてそれは正解だったのか…
いや、歴史に「もし」がないように、「正解」も「不正解」もない。
これが歴史なのだ。

さて、その出島。

あれ?こんなに小さいの?とちょっと驚いた。



オランダ街道?オランダから続いてる…?わけはないか?
2000年に日蘭交流400周年を記念して名付けられた国道204号を含めた平戸市-佐世保市-西彼町(現:西海市)-時津町-長崎市を結ぶルートらしい。

これが出島の全景。教科書に出てた扇形の島だ。

”国指定史跡(出島和蘭商館跡)。鎖国時代の約200年間、日本で唯一西洋に開かれていた貿易の窓口でした。19世紀、島内には住居や料理部屋、蔵、番所など49棟もの建物があり、現在そのうちの25棟を復元させるための事業が進んでいます。明治期にその役割を終え、陸地の中に埋もれ、人々の記憶からも消えかけていましたが、今から約60年前に長崎市が出島の復元に着手しました。”(ながさき旅ネットより引用) 

ご当地キャラの「さるく」ちゃん。
なんでも「さるく」とは「まちをぶらぶら歩く」という意味の長崎弁だそうだ。
顔に「さ」「る」「く」の3文字が入っている…うさぎ?

西側の水門ゲートより入島。入島税は510円でした。
出島で取引された貿易品は、すべてこの門から出入りしていました。

1636年長崎の岬の先端に徳川幕府の意向で、地元の有力町人25名が資金を出し合って作ったのがこの出島。
幕府の金じゃない、というところにまたまた驚き。
町の中で暮らしていたポルトガル人を収容し、海外との貿易の掌握とキリスト教の広まりを防ぐ手段として作られた島です。
しかし1637年島原・天草の一揆が勃発し、1639年にはポルトガル船の来航は禁じられました。

元々スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダが日本との交易を望んでいましたが、幕府は「カトリック」に日本を侵略されることを恐れ、「プロテスタント」だったオランダとイギリス(英国国教会)のみ許可を出したのですが、今の貨幣価値で2億円ほどの出島使用料を提示され、イギリスは割に合わないと日本との交易を諦めました。残ったオランダは、なんとか使用料を半額にしてもらい、平戸で貿易していたオランダ商館は出島に移転し、幕末まで日蘭貿易は続きました。
中国に関しては当然キリスト教は関係ないし、古くからの歴史があるので、問題なかったのでしょう。

復元した建物の中でも一番新しいもの。
各建物色々な展示がしてありました。


オランダからやってきた植物。


当時を再現したジオラマ。
その中に私の卒論テーマである金唐革が!!


お~典型的なオランダの柄。
まさかこんなところで会えるとは。やっぱりここから入って来てたのね。

色々有ったのですが、私が一番気になったのはこれ。


中身は砂糖。
現在放映中の大河ドラマ「西郷どん」で奄美大島に流された西郷どん。薩摩の領地だった奄美大島では、さとうきびの年貢を厳しく取り締まっていた。
砂糖は高級品で、薩摩藩の主な財源だったと言っていた。
砂糖って日本では作られていなかったのか?
ということで当然出島から砂糖は入って来たわけ。

出島から大阪の中央市場に運ばれ、そこから江戸や諸国へ運ばれた。


その砂糖の道が「シュガーロード」
出島に荷揚げされた砂糖は、長崎から、佐賀を通って小倉へと続く長崎街道を、京・大坂、江戸などへと運ばれて行った。

そしてこの街道沿いの街には、砂糖だけでなく菓子作りの方法も伝わったため、色々な銘菓が生まれたという。
カステラが食べられるのもポルトガルのおかげ!!

長崎の料理が他県に比べて甘いのも、その名残?
長崎では、料理やお菓子に砂糖を十分に使っていませんと言う意味で、「長崎の遠か」とか「今日の料理は長崎の遠うございまして」などと言ったり、また「長崎で砂糖は砂のごとくなり」と言う俳句も残っているそうです。(参考:独立行政法人農畜産業振興機構

他にも輸出入された陶磁器とか

容器の首の部分に髭の男の顔を貼りつけた酒瓶で、日本では髭徳利とよばれています。

こんなのね。

陶器に装飾を写す銅板。オランダ製。

じっくり見たら1時間2時間はあっという間に過ぎてしまいそう。
そしてなんとミッフィーがいました。

こんなところでこんな大きなミッフィー!!

1/15に縮小されたミニ出島。

シーボルトがジャカルタを経由してオランダに持ち帰った植物を再び日本に持ち帰り出島に植えた「シーボルトの里帰り植物」

これは違うな。
あけびなどが植えられているようです。
とこんな感じで小一時間、出島を満喫。

中央・表門から出ました。


ラインの非常にきれいな橋。
日蘭交流を象徴する架け橋で、史跡を守るために片持方式で作られている。(片持?)
そしてここから中華街方面に向かっていたらなんと再びミッフィー


なんと、「かくれんぼミッフィー」、9個も有ったらしい…
私が見つけたのは9番目の子でした。


1854年、鎖国が解かれた後、横浜や函館でも海外貿易が行われるようになり、長崎でも貿易の中心は出島から外国人居留区に移っていき、役目を終えた出島は、河川の工事や埋め立てによって、本来の扇型が失われていきました。
しかし1922年、和蘭(オランダ)商館跡として国指定史跡にしていされ、第2次世界大戦後には復元計画が起こり、現在では16棟の建物が建ち、19世紀の街並みが再現されています。
2050年までには再び海に浮かぶ出島が完成するように事業を進めているそうです。



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