山口市の瑠璃光寺五重塔の内陣特別公開に出かけた日、実はそこに行く前に県立美術館に行くことにしていたのですが、美術館前まで行って見ると休館! ありゃりゃ・・・、
その日は火曜日で休館ではないはずだったのですが、前日が祝日だったので翌日が休館、「昨日が祝日だった」ということを同行した3人とも失念していたのです><;アチャー
ぽっかり空いた2時間で、美術館のすぐ裏の辺りにある
サビエル記念聖堂に廻ってみました。
サビエル記念聖堂は、大内義隆に庇護されながら山口で布教活動を行った、フランシスコ・サビエルの来山400年を記念して、昭和27(1952)年に建設されたカトリック教会です。
残念なことにその聖堂は平成3(1991)年9月に失火により焼失してしまって、現在ある新聖堂は、平成10(1998)年4月に再建されたものです。 私がここを訪れるのは、新聖堂完成直後にあったパイプオルガンの演奏を聞きに来て以来のことです。
井戸端で説教するフランシスコ・サビエル像
右:サビエルの前にあるのは《アジアに平和を祈る・大聖年の鐘》
足が痛くて思わしくなかったので私は、聖堂には行かずに駐車場のある亀山公園に残り、写真など何枚か撮りながらぼんやりと連れの二人が戻ってくるのを待ちました。
亀山公園から見えるサビエル記念聖堂
手前に見えてるのはサビエル記念聖堂の駐車場で
亀山公園の駐車場から二十数段下りたところになります。
亀山公園の駐車場の奥に置かれている
山口を第二の故郷として少年の日を過ごした国木田独歩の詩碑
碑の文字は独歩の自筆の原稿を拡大したものだそうですが、
美しくて惚れぼれします。
公園駐車場から石段を十何段ばかり上にも公園は広がっていて
そこには長州藩十三代の当主毛利敬親公之像と、もみの木が見えました。
日本の
クリスマスは
山口から
記念樹
「モミの木」
1552年12月24日、山口の地で宣教師らが賛美歌を歌って祝ったのが、日本のクリスマスの発祥なのだそうです。
日本のクリスマス発祥の地が
山口市と認定を受けた記念のモミの木らしい・・・
毛利敬親公の騎乗する馬、今にも動き出しそうな姿態が素晴らしい!
などと思いながらカメラを手にぼんやりと立っていると、毛利敬親公之像の奥の細い道から一人のご婦人の姿が現れた。 ウォーキングの速さで近づいて来られたご婦人は、「まぁ、ここであなたに会うなんて懐かしい!」とでもいうような笑顔だったので、私も笑顔で「こんにちは」とこっそりと言いながら道を譲った。
すると、少し立ち止まって休むにはちょうどいいと思われたのか、
毎日この辺りをぐるりと歩いているんですよ。 以前は主人と一緒にあの山やこの山を登ってたんですけどね、80を過ぎてもう歩かんと言うので今は私一人で歩いてるんです。 ここまで来たら、ああ今日も生きてるナァ、となんだかホッとするんですよ。
と嬉しそうに話しかけてこられた。
私よりも若く見えるけれども、ひょっとしたら少し年上なんだろうか・・・・と思いながら、
「そうですか。」と相槌をうった。
敬老の日の集いも、一度行った事はあるんですが、今年はもう行きませんでした。 どうもあまり好きではない。 あなたはどうされてますか? と訊いてこられた。
私はまだ、敬老の日の招待を受けたことがない、、、、 「私もまだ行ったことがないんですよ。」と答えた。 ウソではない、行ったことがないのでそう言ったまで^^。 私が同年輩か? と感じたように、ご婦人も同じ様な印象を受けられたらしい。 日よけの大きな帽子をかぶり、杖をついてカメラを持って、こんなところに一人でぼんやり立っているのは、それ相当の歳にちがいない。
石段に咲いていたウリクサ 小枝ごと拾ふてどんぐり持ち帰り ふじ
お近くですかと訊かれるので宇部からなんですよと答えると、まあ!私は宇部高女に行ってたんですよ。 行ってたと言っても1年の時は上級生のなにやらの手伝いばかりで、2年生では勤労奉仕に出て、 3年の時には、あそこにあった紡績工場で回天の左舷(?)を作ってたんですよ・・・・・卒業証書はもらいましたがこれといって勉強はしてないんです。
・・・・社会勉強?だったんですね・・・?
・・・・・ ・・・・・
「回天?」と私はビックリした。 直前に小太郎さんのブログで話題になったばかりだったからだ。 そうでないと カイテン と聞いてとっさに回天とは分らなかったかもしれない。
あの回天の一部分を造っていた? 学生?今で言えば高校生?なのに? 私が4歳の時に終戦になっていて、私の時代にはもう、宇部高女と言う名は影も形もなかった。 ということは、私とは少なくとも10年以上は違うことになる。 終戦間直には飛行機を飛ばすための油がなくなって、砂糖でブタノールという油を作っていたとも聞いている。 紡績工場も、本来の業務を擱いて回天の部品?を造っていたと言うことであろう・・・か?
宇部市立図書館にある赤レンガ
そう言えば、図書館のところに残されていたのは紡績工場の煉瓦塀だったか。 そうかあれも戦争と無縁ではなかったんだ・・・・。 日本中のどこもかしこもが戦争一色になっている図がチラと思い浮かんだ。
頭の中でクルクルと思いをめぐらせながらも、「そうですか、、、」「まぁ! そぉ~ですか!」としか口からは出ず、目を瞠ってるばかりの己に、「オイオイ、聞いてるだけカイ」と軽く突っ込みを入れながらご婦人の思い出話を聞き続けた。
物静かでそれほどおしゃべりではない彼女の口から、同年代らしい中安さん、河長の娘さん、、と私でも名前を知ってる程、宇部では有名な人の名前が次々にでてきて、当時を偲ばれ、60回も同窓会を続けたんですよ、と言われた。
水田さん、と名前が出たときに、「俳句をされてた?」と思わず口を挟んだ。 聞けばやはり、昔母が句会に行ってた頃に聞いたことのある、水田のぶほ先生のことだった。
山大付属病院の院長としての先生を私は知らないが、毎月通っているその病院の外来棟の前で、先生の胸像が、ここにやって来ては帰っていく患者をじっと見守っておられる。
「俳句をつくられるんですか?」「いえいえ、作ると言うほどではないのですが・・・」となったときに、男性の声が聞こえてきて2、3人の人影が近づいてきた。
道を避けながら、お互い立ち話にしては長い時間が経ってることに気づき、なんとなく笑いながら、どうも失礼しましたと言い合って、彼女はまた歩き始めた。
チラッと振り返って、お互い笑ってまた小さく頭を下げた。
もう会うことはないであろう小柄なご婦人の姿は、すぐに公園の向こう側に消えていった。
宇部市立図書館の敷地に保存されている元紡績工場の赤レンガ
左:奥に見えるのが図書館 右:奥は県営住宅
左:赤レンガの間から見えているのは桃色れんがオブジェ
調べてみると、旧宇部紡績は、昭和18年に呉海軍工廠宇部分工場となって、魚雷の部品などを作っていた、という記述があった。 それが広い意味での魚雷であったのかどうかはよく確かめられなかったが、それらしいことに使われたのは確かなことのように思える。
山口県選定近代化遺産として、今でもその「旧宇部紡績㈱倉庫」(構造:煉瓦1)が保存されている宇部市立図書館の敷地裏に、後日、行ってみた。
2002年にはその赤レンガ壁の傍に「桃色れんが──時間をつなぐ──」
として 桃色れんがオブジェ が置かれている。
桃色れんがに纏わり付くようにひらひらひらと飛んでいるのは、
これが蝶調さんのところで見た キタキチョウ??
撮ってもどうしようもないのに、動くものがいたらついつい私はカメラを取り出してしまうんですよ、 とご婦人に言いながら苦笑している自分の姿を想像しながら、 ひらひらと飛び回る黄色い蝶を私は追いかけた。
・・・・・・・
飛んでる蝶なんか、撮れないってば~! いいかげん学習してよね~!~
その日は火曜日で休館ではないはずだったのですが、前日が祝日だったので翌日が休館、「昨日が祝日だった」ということを同行した3人とも失念していたのです><;アチャー
ぽっかり空いた2時間で、美術館のすぐ裏の辺りにある
サビエル記念聖堂に廻ってみました。
サビエル記念聖堂は、大内義隆に庇護されながら山口で布教活動を行った、フランシスコ・サビエルの来山400年を記念して、昭和27(1952)年に建設されたカトリック教会です。
残念なことにその聖堂は平成3(1991)年9月に失火により焼失してしまって、現在ある新聖堂は、平成10(1998)年4月に再建されたものです。 私がここを訪れるのは、新聖堂完成直後にあったパイプオルガンの演奏を聞きに来て以来のことです。
右:サビエルの前にあるのは《アジアに平和を祈る・大聖年の鐘》
足が痛くて思わしくなかったので私は、聖堂には行かずに駐車場のある亀山公園に残り、写真など何枚か撮りながらぼんやりと連れの二人が戻ってくるのを待ちました。
手前に見えてるのはサビエル記念聖堂の駐車場で
亀山公園の駐車場から二十数段下りたところになります。
亀山公園の駐車場の奥に置かれている
山口を第二の故郷として少年の日を過ごした国木田独歩の詩碑
碑の文字は独歩の自筆の原稿を拡大したものだそうですが、
美しくて惚れぼれします。
公園駐車場から石段を十何段ばかり上にも公園は広がっていて
そこには長州藩十三代の当主毛利敬親公之像と、もみの木が見えました。
日本の
クリスマスは
山口から
記念樹
「モミの木」
日本のクリスマス発祥の地が
山口市と認定を受けた記念のモミの木らしい・・・
毛利敬親公の騎乗する馬、今にも動き出しそうな姿態が素晴らしい!
などと思いながらカメラを手にぼんやりと立っていると、毛利敬親公之像の奥の細い道から一人のご婦人の姿が現れた。 ウォーキングの速さで近づいて来られたご婦人は、「まぁ、ここであなたに会うなんて懐かしい!」とでもいうような笑顔だったので、私も笑顔で「こんにちは」とこっそりと言いながら道を譲った。
すると、少し立ち止まって休むにはちょうどいいと思われたのか、
毎日この辺りをぐるりと歩いているんですよ。 以前は主人と一緒にあの山やこの山を登ってたんですけどね、80を過ぎてもう歩かんと言うので今は私一人で歩いてるんです。 ここまで来たら、ああ今日も生きてるナァ、となんだかホッとするんですよ。
と嬉しそうに話しかけてこられた。
私よりも若く見えるけれども、ひょっとしたら少し年上なんだろうか・・・・と思いながら、
「そうですか。」と相槌をうった。
敬老の日の集いも、一度行った事はあるんですが、今年はもう行きませんでした。 どうもあまり好きではない。 あなたはどうされてますか? と訊いてこられた。
私はまだ、敬老の日の招待を受けたことがない、、、、 「私もまだ行ったことがないんですよ。」と答えた。 ウソではない、行ったことがないのでそう言ったまで^^。 私が同年輩か? と感じたように、ご婦人も同じ様な印象を受けられたらしい。 日よけの大きな帽子をかぶり、杖をついてカメラを持って、こんなところに一人でぼんやり立っているのは、それ相当の歳にちがいない。
石段に咲いていたウリクサ 小枝ごと拾ふてどんぐり持ち帰り ふじ
お近くですかと訊かれるので宇部からなんですよと答えると、まあ!私は宇部高女に行ってたんですよ。 行ってたと言っても1年の時は上級生のなにやらの手伝いばかりで、2年生では勤労奉仕に出て、 3年の時には、あそこにあった紡績工場で回天の左舷(?)を作ってたんですよ・・・・・卒業証書はもらいましたがこれといって勉強はしてないんです。
・・・・社会勉強?だったんですね・・・?
「回天?」と私はビックリした。 直前に小太郎さんのブログで話題になったばかりだったからだ。 そうでないと カイテン と聞いてとっさに回天とは分らなかったかもしれない。
あの回天の一部分を造っていた? 学生?今で言えば高校生?なのに? 私が4歳の時に終戦になっていて、私の時代にはもう、宇部高女と言う名は影も形もなかった。 ということは、私とは少なくとも10年以上は違うことになる。 終戦間直には飛行機を飛ばすための油がなくなって、砂糖でブタノールという油を作っていたとも聞いている。 紡績工場も、本来の業務を擱いて回天の部品?を造っていたと言うことであろう・・・か?
そう言えば、図書館のところに残されていたのは紡績工場の煉瓦塀だったか。 そうかあれも戦争と無縁ではなかったんだ・・・・。 日本中のどこもかしこもが戦争一色になっている図がチラと思い浮かんだ。
頭の中でクルクルと思いをめぐらせながらも、「そうですか、、、」「まぁ! そぉ~ですか!」としか口からは出ず、目を瞠ってるばかりの己に、「オイオイ、聞いてるだけカイ」と軽く突っ込みを入れながらご婦人の思い出話を聞き続けた。
物静かでそれほどおしゃべりではない彼女の口から、同年代らしい中安さん、河長の娘さん、、と私でも名前を知ってる程、宇部では有名な人の名前が次々にでてきて、当時を偲ばれ、60回も同窓会を続けたんですよ、と言われた。
水田さん、と名前が出たときに、「俳句をされてた?」と思わず口を挟んだ。 聞けばやはり、昔母が句会に行ってた頃に聞いたことのある、水田のぶほ先生のことだった。
山大付属病院の院長としての先生を私は知らないが、毎月通っているその病院の外来棟の前で、先生の胸像が、ここにやって来ては帰っていく患者をじっと見守っておられる。
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「俳句をつくられるんですか?」「いえいえ、作ると言うほどではないのですが・・・」となったときに、男性の声が聞こえてきて2、3人の人影が近づいてきた。
道を避けながら、お互い立ち話にしては長い時間が経ってることに気づき、なんとなく笑いながら、どうも失礼しましたと言い合って、彼女はまた歩き始めた。
チラッと振り返って、お互い笑ってまた小さく頭を下げた。
もう会うことはないであろう小柄なご婦人の姿は、すぐに公園の向こう側に消えていった。
左:奥に見えるのが図書館 右:奥は県営住宅
左:赤レンガの間から見えているのは桃色れんがオブジェ
調べてみると、旧宇部紡績は、昭和18年に呉海軍工廠宇部分工場となって、魚雷の部品などを作っていた、という記述があった。 それが広い意味での魚雷であったのかどうかはよく確かめられなかったが、それらしいことに使われたのは確かなことのように思える。
山口県選定近代化遺産として、今でもその「旧宇部紡績㈱倉庫」(構造:煉瓦1)が保存されている宇部市立図書館の敷地裏に、後日、行ってみた。
2002年にはその赤レンガ壁の傍に「桃色れんが──時間をつなぐ──」
として 桃色れんがオブジェ が置かれている。
桃色れんがに纏わり付くようにひらひらひらと飛んでいるのは、
これが蝶調さんのところで見た キタキチョウ??
撮ってもどうしようもないのに、動くものがいたらついつい私はカメラを取り出してしまうんですよ、 とご婦人に言いながら苦笑している自分の姿を想像しながら、 ひらひらと飛び回る黄色い蝶を私は追いかけた。
・・・・・・・
飛んでる蝶なんか、撮れないってば~! いいかげん学習してよね~!~
もしもし、照れまんさん サンフランシスコが寂れてどうしますの?さびれているのは あんたんとこの島でしょう?もう バレてますから・・・・。
「はい、そうですか。」
ということで、・・・・。
fujimさん 文章上手になったんと違う~~!!素晴しい☆☆
一気に読んでしまいましたよ。
私の母と同じくらいの人ですね。80歳は越えているんじゃあないですか。
呉の海軍工廠は私の母と同じ。宇部も分工場になってたんですね。しかも、私の母と同じ回天の部品を作っていたなんて、運命の出会いを感じます。
俳句をやってらっしゃるんでしょうかねえ。ますます運命を感じますね。
とりあえず、そういうことで、また ゆっくり来ます。
もしもし、fujimさん おだてを本気にしてどうしますの? 驚嘆してるのは運命の出会いのことでしょう?
「はい、そうですね^^」
この方と会って、話を聞いてる間中、とても不思議な気持ちだったんです。 どうして今、この人とこんなところで偶然会って、偶然こんな話を聞いてるんだろう???
そんな気持ちで一杯になりながら聞いていたので、どうしても書き残しておきたくて、書きました。
俳句も無関心ではないようでした。
こんな傍観的な態度でよかったのか・・・ もっと突っ込んで意気投合するところまで行くべきではなかったかと、思ったりもしました。
こんな陰の性格で、うーんむにゃむにゃと、考えたりもしましたが、それがそのまま自分の性格なんですから仕方ないですね。
お母様もきっと、お年よりは若く見えるお元気な方だったのでしょうね。 この年代の方は、中途半端な私年代が、見習わなければならないくらい、しっかりしていらっしゃいますよね。
広島では19年ぶりというではありませんか~!
いい活性剤になるといいですね。
来年のチーム予想は何勝ですか^^。
ウォーキングのご夫人の話、ありましたね~
亀山公園ってザビエル駐車場の向こうの丘のことですか?
大竹にもありますよ亀山公園、桜の名所です^^。
ほんでも照れまん君、文章が上手になったはないでしょう^^。失礼な!ね~fujimさん。。
しかし、兵器の部品を作っていたという年代だと、どうしても80代かそのくらいですよね。
80代の夫人が早足でウォーキングするんでしょうか?・・いても不思議ではないです・・か。
第一印象ではfujimさんと同年代か年下に見えたとか・・それもまた不思議ですね~
よほど若々しいご夫人なんでしょうね^^。
それにしてもそんな何気ない話からフォトエッセイ風に記事を書くとはさすがですね~^^。
痕跡を探して赤レンガを訪ね、そこでまたヒラヒラと舞う蝶を撮る!@@!
いやいや・・すばらしい!
ザビエル聖堂は昔の方がよっぽどよかったと思いません?
・・本当は昔の聖堂の記憶は無いんですけど、今の聖堂は・・ありきたりに見えてしまう。
毛利敬親といえば晋作の時代の御殿様ですね~
彼はそうせい公と言われていた。 家来が何を進言しても そうせい、そうせい ・・と言ったらしい^^。
敬親公がワンマンで頑固なお殿様だったら長州は幕末の中心にはいなかったでしょう。
あんれま、照れまん君からは誉められたわけではなかったん^?^
ご婦人は見た感じ、十年は若く見える方でしたよ。
ずっと登山などされてたようなので元来若々しい方なのでしょう。 私と同年代ぐらいにお若いのだけれど、山歩きされてるので少し老けて見えてるのかなと思ったのですが、逆でしたね。
80と言っても背骨の曲がった昔とは違います。 しゃんしゃん歩かれる方はたくさんいらっしゃいます。 私だって・・・ と言いたいところですが^^、杖をついてたんではネェ><。
Pu'uwaiさんなんか想像してごろうじませ。 今から20年経ったって、フラダンスだろうがタンゴだろうが、踊りながら歩けますよ。
サビエル聖堂は以前の方が・・・同感です。 ええそう、記憶からは薄らいでしまってるんですけど、新聖堂を見た時には、ヨーロッパの古都の教会とまでは言わないけど・・・と正直ガッカリしたものです。
今は見慣れましたけど^^。
そう・せい? どの単語の頭文字なんだろう、、、と思ったら そうせい! 太っ腹だった?@@!
銅像を見た時には、敬親公より馬の方が立派に見えるなぁと思ってしまったんですが、こうして写真で見ると、立派なお殿様に見えて安心しました^^。
古い聖堂見れないのが残念です。
カトリックの教会も新しい建物はこう言う近代的なデザインが増えてますよ。
お袋が毎週通ってる教会も規模は小さいですが、デザインには共通点がありますね。私は隠れキリシタンの末裔なのですが、諸般の事情で信者ではないです。それでも年に数回教会へ行って神父様のお説教聞いて来ます。
背筋が伸びてるお年寄り増えましたよね。何とはなしに言葉を交わす・・・それだけなんだけど凄く印象に残りますよね。本来なら辛いお話のやり取りなのに、読んでると爽やかさを感じました。
飛んでる蝶やトンボって上手く撮れないのに私もレンズ向けちゃいますよ。下手な鉄砲・・・全く当りませんが(笑)
fujimさん 文章が上手になったんと違う・・・、何て失礼な奴ですね。
照れまんさんに 喝ーーーッ★ ですいね。
実は五重塔やザビエル記念聖堂を見ながら、すごい昔書いたコメに間違いがあるのに気が付きました。
一休さんに出てくるやんちゃ姫は 大内氏のお姫様と書いた記憶があります。
そこで、調べてみたら、間違っていました。
やんちゃ姫は菊姫と言い、アニメの中では五条家のお姫様。
大内家の姫は末姫といい、蜷川新右衛門さんが恋をするんだけど実らなかった、という話のようです。
私は大内の姫がやんちゃ姫だと思っていたのですが、間違いでしたね。だから、記憶と言うのは当てにならないでね。
お詫びして、訂正します、ナンチャッテね。
一休さんが生きていた頃に出来た五重塔が、今でも残っているのは、素晴しいことですよね。
そういうことで、また・・・・。
古い聖堂の写真だけでもと思ってリンクを貼りました。
http://www.xavier.jp/xavier/old_church/5.html#5
灰になってしまったのは、なんと酷いことです。
聖堂にも、時代時代のハヤリがあるのでしょうね。
隠れキリシタンの末裔・・・・ 私にとっては、歴史の中での言葉でしかなかったのですが・・・!
信者ではないです、と言われながらも年に数回教会へ出向いて居られるのですね。 いいことですね。
最近はテレビを見ていて、80です、と言われる方もとてもしっかりしていらっしゃる方が多いですよね。
そんな方とお話をすると、もう全然気負いがなくて、すーと風のように聞くことが出来ますね。
日ごろから体を動かしている人が、お元気なようです。
saganhamaさんなんかはその代表ではないですか、 お元気そうで何よりです^^。
照れまんさんの記憶力、とにかくすごいですね! 記憶が間違っていたと言う記憶?^^? 弘法も木から落ちる?
お蔭で私も一休さんの記述を覗いてみましたが、現実と架空とが入り混じって、なかなか面白そうですね。
と言っても、小口をコン と叩いてみただけですけど。
どうも、菊 が付くのは、一休さんの幼名? 千菊丸(せんぎくまる)のようですよ。
「一休さんの研究のお部屋2」
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/1935/souitenn.html
やんちゃ姫は五条家の露姫様。
大大名大内家の末姫は、蜷川新右衛門さんに想いを寄せるが実らなかったんですね。
「・・・新右衛門は末姫に惚れているが、実は相思相愛、女心に疎い新右衛門はその想いに気付いていない。・・・」ですってよ。 いい男は得てして女心に疎いーー。。
新右衛門さんは、連歌師(号は「ちうん」)として、『浮き世をば なんのへちまとおもうなよ ぶらりとしては くさられもせず』 などと作って、ぶいぶい言わせてたんだそうですね。
「一休さん登場人物能力表」というのもあって面白いのですが・・??ホンマカイナ? 開いたトタンに大きな音が流れるのでご用心><。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/1935/kennkyuu.html
大内のお姫様は、権威 とんち 武力 人徳 とも新右衛門さんといい勝負!? 新右衛門さんが勝ってるのは武力だけ^^?
いや~おかげで面白かったです。 こんな時代からあった五重塔なんですね。
大内のお姫様を思い出してもらって ありがとう。
竜馬みて長州人って凄いと気付いたけど、西国はとんと疎くて遠い国だったのよ。いやいや、みなさん素晴しい能力を秘めてますね。ザビエルの布教からキリシタン受難、saganhamaさんは隠れキリシタンの末裔だったなんて歴史は繫がってますね。
現代風カトリック教会はモダン過ぎて昔がいいと言う訳ではないけど、(小さい声で、安っぽくなったね)こちらでもクリスチャンの友が、喫茶店と間違えて入って来る若者がいると言ってました。
ピンク煉瓦と言うのが又、産業廃棄物リサイクルですか、、、、実物を見た事ありません。赤煉瓦ならどこにでもあります。
急に寒くなりました。みなさん冬支度はおさおさ怠りなく済んでますか? 植木鉢の冬支度が忙しくて次がupできないでいますよ。