一昨日、書いた玉の海の話。亡くなる2ヶ月前に秋田で巡業をしていました。この時の話を諸先輩方よりお聞きしたことがありましたのでご紹介します。
昭和46年、5月場所中に急性盲腸炎を発病した横綱玉の海は、注射で散らして場所を勤めました。その後もだましだまし病気と付き合っていたそうです。
その年の8月の夏巡業は、北の富士班(北海道回り)と玉の海班(東北回り)と2班にわかれて巡業をしていました。
玉の海は8月21日、大曲での興行を終え、次の興行先の阿仁町に向かっている途中で盲腸炎を再発。
すぐに帰京しようという話になったが、明日の興行に集まってくれるお客さんに申し訳ないと、翌日の興行では、親方と共に紋付袴姿で土俵に上がり、急病の為、土俵入り並びに相撲を取れない事を説明して、四方のお客さんに頭を下げたそうです。
挨拶を終え、すぐに秋田大学付属病院で検査をし、東京の病院までヘリで搬送されたそうです。
その後、玉の海班は大館と八郎潟で巡業があったのですが、看板の横綱玉の海が不在。
急遽、北海道の巡業を終えていた北の富士に連絡し、北の富士は八郎潟町の巡業で、玉の海の綱を締め、不知火型土俵入り(北の富士は雲竜型)を披露したそうです。両方の土俵入りをした事があるのは長い相撲の歴史でも北の富士ただ一人、二人の友情が垣間見えるいい話ですね。
入院した玉の海は、9月場所が目前であること、また場所後の10月には横綱大鵬の引退相撲で太刀持ちがあり手術はできないと、注射で散らし無事に務めあげた。大鵬引退相撲と翌日の浅瀬川引退相撲終了後に入院、その後は前出の通りです。
興行の前日、阿仁町は相撲が来ると大盛り上がりだったそうです。各家々には関取が泊まり、それこそ正月と盆が一緒に来たような状況だったとお聞きしました。また玉の海の調子が悪いという話も聞こえてきたそうです。
それだけに、玉の海が土俵に上がりお詫びをしたのには感動したそうで、その後の訃報にはより一層悲しみを覚えたそうです。
これは是非、後世に語り継がなければいけない話だと思います。
写真はその阿仁町興行の時の巡業番付。
勧進元より相撲仲間(親ほど年がはなれていますが)が譲り受けた品。これを拝見した時は、感激しました。非常に貴重なものです。
玉の海さんの事が好きで、この番付を見せていただいた時は感動しました。
いつか蒲郡へ行ってみたいなと思っていますが…なかなか時間を作れませんで。
また、よろしくお願いします。
岐阜市 三宅