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『海辺の叙景』(ガロ1967年9月号)
『海辺の叙景』は、夏の海水浴場で出会った若い男女の数日の出来事を描いているのです。最後のシーンは、青年は雨のなか、女に泳ぎを褒められ、いつまでも泳いでいるのです。
思えば、題名を『海辺の叙景』ではなく、『海辺の情景』として読んでいた私ですが・・・・。情景とは、人間の心の働きを通して味わわれる、景色や場面。
叙景とは、自然の景色を詩文に書き表すこと。とあり、題名は『海辺の叙景』であり、このマンガ『海辺の叙景』は、そんなに登場人物に感情移入することはなく、この二人の男女が大きな空と海の風景のなかに溶けこんでいく一つのシーンとして見れば、それでよかったのでしょう。
言葉ではなく、劇性をもった絵に多くを語らせるという著者の手法は、ラストシーンにおいて効果的につかわれていると。
『ほんやら洞のべんさん』(ガロ1968年6月号)
『ほんやら洞のべんさん』は、冬の越後を舞台に、旅人である青年と、宿屋の主人・べんさんとの交流を描いた心あたたまる作品となっています。
雪のなか、田んぼを池にしてたくさんの鯉をかっている場面がでてきます。その一ぴき十万円もする鯉をべんさんと若者は雪のなか、取りにいくのです。また、雪のなかの子供たちの鳥追いの場面ができます。その雪景色を描くつげ義春の描写力には脱帽です。そして、最後のページ、柱時計のボーン・ボーンの描写には自分がそこにいるような思いになりました・・・・。
『やなぎ屋主人』(ガロ1970年2・3月号)
『やなぎ屋主人』の最初の場面は、いきなり裸の場面です。それから、「あれは去年の 四月頃 だった」「新宿から 房総行の列車に とび乗って しまったのだ」と、物語は展開していくのですが・・・・。それからの物語は、主人公の空想の物語であり、一晩泊まった大衆食堂の娘と、もし一緒になっていたらな・・・という話だったのです。
「ぼくはその ような空想を して一晩中 眠れないまま」「翌朝 早くに やなぎ屋を 出て」「そのまま あてもなく 房総を 一周して」「東京に 帰ってきた」
「そして ・・・・・・」「あれから 一年を過ぎた 現在でも」
なんだか、生きることに行き詰っている主人公の姿と裸の女。かつてのつげ義春漫画のおかっぱ頭の少女は消え、女性の肉体をリアルに描いています。
その目に見えない背景として、生きていることの寂しさがあるのでしょう。
・『つげ義春漫画と私』。いかがでしたか。今の若い人には、「漫画家つげ義春」を知っている人は少ないでしよう。なにしろ、ここに紹介した作品は、1967年から1970年の作品です。もちろん、Z世代はまだ生まれてはいない頃のお話ではあります。でも、その気になりましたら、昭和の時代の漫画を読んでみることをおすすめします。そこには、きっと、あなたの心に響く何かがあるでしょう。
『ねじ式つげ義春作品集』の紙帯より。西暦2000年分の孤独が生み出したリアリティの結晶。時代を超えたリアリティです。