不思議活性

殺人からの脱出

 『殺人からの脱出』

 人間っていったい何なんでしょう。
 生きていれば、いつか死が訪れるのですが、望まれない死として、殺人があります。人間の最初の殺人の記述でしょうか。聖書の創世記第四章に、カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
 振り返って、この21世紀の日本でも、痛ましい殺人事件がときどき報道されます。もっとも、テレビドラマでは当たり前のように殺人事件が起きています。では、いったいそれら日常生活における殺人を防ぐには、どうしたら良いのでしょうか。私は、幼い頃からの親子のあたたかな愛情ある家庭生活がいちばん大事なのではと思います。テレビドラマなんかでも、愛情ある家庭生活から見放された人が殺人を起こすシチュエーションなどが見られます。

 『殺人の哲学』コリン・ウィルソン著より。

 多くの殺人は、何らかの激情に駆られて行われる犯罪である。例えば、家庭内での殺人。嫉妬に狂った夫が妻を殺害する場合、疲れ果てた妻が、夫や子供を殺害する場合、等々。彼らは危機的状況に直面し、それに反応する際、自制心を失い、その結果、悲劇が生まれる。
 しかし、新聞の見出しを飾る殺人事件の多くには、そのように扱われるだけの十分な理由がある。すなわち、そういった殺人は、きわめて異常な選択行為をしているのだ。つまり、賭博者、冒険家、指導者の選択行為を。殺人犯は、かなり高度の知能を持っていることもある。彼らはまた、社会に対して漠とした怒りを覚えている。彼らは、その思考―また感情―の流れを、論理的に追って行き、ついに殺人に至る。

 二十世紀の殺人のパターンは、極めて複雑である。二十世紀までの殺人事件は、いずれもその時代全体の雰囲気をわれわれに伝えてくれた。しかし、二十世紀を代表するような殺人事件などはない。あらゆる殺人事件は、二十世紀の混沌と複雑さのそれぞれの異なった面を反映しているのだ。

 その複雑さのひとつの面、性犯罪が二十世紀を代表する犯罪なのかについて。

 殺人者と被害者は、性交中の男と女の関係にある。二十世紀以前には、男女は非常に懸命に働いていたので、性は、“週末に起こる何か”であった。工業化は余暇をもたらしたが、余暇は、いつでも性を意味する。そして、かつては完全に仕事に吸収されていた莫大な量のエネルギーが、性に向かって流れ込む。
 このような性的欲望に充満した雰囲気が、二十世紀という時代の上に重く垂れこめているが、その様子は、エリザベス朝時代の人間には不可解に思われたであろう。抑圧された欲望が、非理性的な暴力となって爆発する。
 第二次大戦後、犯罪発生率は徐々に増加し、変態性欲と奇怪な空想から生まれた殺人事件の数は法外なものになった。「古典的」な殺人事件―動機を探り出し、いろいろな手がかりを集めて解決する―は、稀なものとなった。
 また、二十世紀の殺人の傾向を論じる場合、同性愛からの殺人事件が、殊に近年に至ってふえて来たことに触れなければ完全とは言えない。

 以上、『殺人の哲学』からの引用でしたが、コリン・ウィルソンは、次のようにも述べているのです。

 人は、芸術家をその最も高い瞬間で判断し、犯罪者を、その最も低い瞬間で判断する、というショーの言葉を私はすでに引用した。そして、偉大な詩や交響曲が、人間の生命は無限の可能性を持っているという感じをわれわれに与えてくれるように、殺人は、『原罪』と呼んでよいものをはっきりとわれわれに自覚させてくれる。すべての人間は、限定された、近視眼的な生き方をしているが、偉大な芸術家や聖者は、みずからの感覚や生活が彼らに課する限界を認めようとしない。彼らは、日常的意識の限界に打ち負かされること、および、小人のように振舞うことで己のうちなる神を裏切ることを拒否する。
 それに反し、殺人者は、かつて黒魔術師が悪魔と契約を結んだように、瑣末なことと正式に契約を結ぶのである。そして殺人者の立てる忠誠の誓いとは、のっぴきならぬ犯罪を行う、ということなのだ―「のっぴきならぬ」というのは、一度犯罪を行えば、もはや取り返しがつかないからである。
 殺人者とわれわれを分けるものは、被害者に対する思いやりの有無なのである。

     * * * * * * * *

 ところで、『原罪』という言葉が気になりましたので、調べてみましたら、原罪とは。

人類の初めから罪と死が人間をとらえたので、キリストの十字架の死と復活によって贖(あがな)い、回復されなければならないとする「人類堕落の教義」をいうとありました。

 人間って何なんでしょう。たとえば、憎しみや怒りなどですが、怨みは、他者からの仕打ちに対して不満と思い、憤って憎む気持ちのことを指す。また、心残りや悲しみなどを指すこともあると。
 人間って、感情に翻弄されやすい生きものかもしれません。でも、ときにそれら感情を離れて見れるようになることが大事なのであり、時々、自分自身を反省して見ることが出来たら良いのではと思う私です・・・・。

・『殺人からの脱出』なんて、ちょっと怖い題をつけてしまいましたが、心のない恋愛がないように、肉欲だけで行動するところに性犯罪が起こるのではないのでしょうか。創世記第二章では、主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。とあるように、男と女は二人で一つでもあるのでしょう。『殺人の哲学』コリン・ウィルソン著を読み、ブログの題を『殺人からの脱出』とした私です。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「一冊の本」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事