『経験の歌』
「序詩」
うたのつかさ人の声を聞け!
その人の現在、過去、未来を見
その耳は
いにしえの木の間を歩いた
聖き語を、
堕ちゆきし霊に呼びかけ、
夕露に泣き、
星天の極みも従え
失われし光をもかえすべき、聖き語を
聞きとめたその声を聞け!
おお地よ、おお地よ、還れ、
露けき草から起ちあがれ
夜は移り、
あかつきは
眠れる堆積より起こちあがる
かさねて背き去るなかれ、
何ゆえに汝は背こうとする
星天の床、
水のなぎさは、夜あけまで汝のもの
「蠅」 訳=江河 徹
小さな蠅よ
おまえの夏のたわむれを
つれないこの手が
はらいのけた
わたしもおまえのような
一匹の蠅ではないのか
それともおまえはわたしのような
ひとりの人間ではないのか
わたしも踊り
飲みかつ歌う
なにか盲目の手がおとずれて
わたしの翼をはらいのけるまで
考えることが生命であり
力であり呼吸であるなら
考えないことが
死であるなら
ではこのわたしは
しあわせな蠅
生きていようと
死んでいようと
「ロンドン」
天下御免のテムズ河に沿い
天下御免の街路を歩き
ゆき交う人の顔に見るのは
ひよわのしるし 苦悩のしるし
あらゆる人のあらゆる叫びに
あらゆるこどもの恐怖の叫びに
あらゆる声に あらゆる呪いに
心を縛る桎梏のひびき
煙突掃除の少年の声が
煤けた教会の心胆を寒からしめ
幸うすき兵士のためいきが
血となって王宮の壁を流れる
しかし深夜の街頭にもっともしげく聞こえるは
生れたばかりのおさなごの涙をからし
結婚の柩を疫病で損なう
若き娼婦の呪いの声
「人間の姿」
だれかを貧しくさせないかぎり
憐みの用はあるまい
だれもがぼくらみたいに幸福ならば
慈しみの用はあるまい
たがいに恐れて平和が生まれ
かくして自己愛はつのる
やがて残忍がわなを編み
用心ぶかく餌をまく
残忍は聖なる恐怖とともに座し
涙をもって地をうるおす
そこで謙遜が足もとに
ふかぶかと根をおろす
まもなく陰気な神秘の大樹が
残忍の頭上に枝を張り
毛虫と蠅が
神秘を食って肥える
やがて樹木は欺瞞の実をつけ
赤く熟して口に甘い
やがて鳥が巣をつくる
こんもり繁ったくらがりに
大地と海の神々たちは
この樹をもとめて自然界を探索
しかしすべては徒労におわる
人間の頭脳のなかに一本その木が生えているから
「毒のある木」
わたしは友に腹を立てた
口に出してぶちまけたら腹立ちも消えてしまった
わたしは敵に腹を立てた
それを口に出さずにいたら腹立ちはつのるばかり
そこで不安の水をそそぎ
夜も朝も涙をそそいだ
それを微笑の日にあてて
やさしい欺瞞のたくらみをした
するとその木は日夜育ち
ついにつややかな林檎の実をつけた
敵は林檎のつややかなのを見て
それがわたしの林檎と悟り
夜のとばりのおりたころ
わたしの庭にしのびこんだ
翌朝わたしは見て喜んだ
その木の陰に長々とわたしの敵がのびていた
・以上で、『無垢と経験の歌』(天真と知憂の歌)の紹介でしたが、永遠的なものにはこういう相反はありえない。従って、天真知憂ともに同価であるはずで、普通に考えるように天真は清らかな正しい状態、知憂は罪に陥った状態というだけのものではないということ・・・・。
このようなものの見方が、その後のブレイクの予言的な構想とそのための特殊な象徴手段になっていったということ・・・・。
1790年には、この方向での最初の巨歩と言える、『天国と地獄の結婚』が刊行され、『無垢と経験の歌』は、1794年出版。その後、ブレイク神話の展開として、『ユリゼンの書』『ロスの書』などの彫版となっていきました。
私なりに『無垢と経験の歌』を紹介しましたが、実際、どれだけブレイクの人と詩と絵に接近できたか、心もとないです。残された『ヨブ記絵図』などには、圧倒されて言葉もありません。これからも、ウィリアム・ブレイクの詩と絵について、何か書いていけたらなと思う私です・・・・。