不思議活性

『ゴッホの手紙』(ベルナール宛)を読み 3

   第二十信

 ここは、実にひどく狭いとこなんだ。漠然とした事実でない真のプロヴァンス地方の風土に内在する性格を見分けるのはなかなか難しい。それを理解するには辛抱強く仕事する必要がある。そのために、幾分抽象化してもくる。太陽と青空にその力強さや輝きを与え、焼けつくような土地には―ときには憂鬱そうな―たちじゃこう草の微妙な香気を出さなければならない。
 ここのオリーブ樹は、君のいい題材になりそうだ。白い大きな太陽の下のオレンジジがかる紫がかった土地の上では銀色だ。僕が見たある画家や自分の絵でも、全然感じが出ていない。その銀緑色はコローに一番近い、だが誰もまだ描いたことのないものだ。それに引きかえ幾人かの芸術家は―例えば―林檎や柳では成功している。

 「オリーブ林」 1889―90年
 「山と円い太陽のあるオリーブ林」 1889年11月


    第二十一信  1889年12月

 手紙を有難う写真は殊にうれしかった、君の仕事の見当がついた。
 先日弟がそれについて書いてよこして、調和のある色彩と顔の上品な感じが好きだと云ってきた。

 君の宗教画は失敗だったね。こんなひどい間違いをする人もすくない、錯覚だ。しかし、それに気がついた報いはきっと素晴らしいにちがいない。間違えてかえって本道を発見するものだ。

 いま僕の前にある画を説明すると、この病院(サン・レミーの療養所)の庭の眺めで、右に灰色の露台と家屋の壁の一部がみえ、しぼんだバラの茂みがあり、左側の地面は―赤土色で―陽に焼けて松の枯れ葉に覆われている。

 もう一枚の画はまだ若い麦畑の日の出だ。遠ざかってゆく線状の畦は、絵の上の方、壁とリラ色の一連の丘へとどいている。畑は紫と黄緑。白い太陽は大きな黄色い光輪で囲まれている。この絵では前の絵とは反対に、崇高な平和、静寂を表わそうとした。

 たとえどんなに油絵が呪うべきものであっても、それが我々の時代には障害でも、職業として選んだからには熱心に稽古すれば、責任感と、強い意志と、節操を重んずる男ということになる。社会はわれわれに、時には苦しい生活を強いる。その結果無力となり、作品は不完全なものになる。同様にゴーガン自身やっぱり生活に困っていて、才能を持ちながらそれを伸ばせないのだと思う。僕はモデルが全然雇えないので苦しんでいる。その代り、ここは風光明媚だ。三十号でオリーブの樹を五点描いたところだ。

 ほかにも話したいことが沢山ある。今日便りしたわけは、少し頭がしっかりしてきたからで、すっかり治るまでは興奮してはよくないと思ったのだ。心を籠めた握手を送る。

 「サン・レミー病院の庭」 1890年

 「アルルの療養院の庭」 1889年4月

・ゴッホは1890年7月29日、死去です。

 附録として。編者宛の多くの書簡のうちに、ヴィンセントからポール・ゴーガンへ出した一通の手紙がありました。
 1888年のもので、ゴーガンがアルルへ着く前に、家を飾ろうとしてすでに向日葵を描いたことがわかる。ヴィンセントの部屋の素描まで添えられた興味ある手紙です。

   第二十二信   


 「寝室」
 
 手紙を有難う、この二十日に当地へ来るという知らせはうれしい。

 この前の冬、パリからアルルへ向う途中の感激をまだまのあたりに想い出す。まるで日本へ来たのかとさえ思うおもいだった。全く子供じみたことかもしれないが。
 過日、眼が妙に疲れたと書いたが、そのために、二日半休んでそれからまた続けたが、まだ外へ出るのは差し控えている。いつも室の装飾画にかかっている、君も知っている白木造りの家具のある寝室を三十号へ描いた。

 この家はまだ君の気に入るほど住みよくはないかもしれないが、少しずつ改善しようと思っている。費用がすごく嵩むのだ!とても一気には出来ない。兎も角、ここへ着いたら、ミストラルの合い間には、僕みたいに熱心に秋景色を製作することだろう、早く来るように勧めたわけもそれでわかったと思う。まだ天気の好い日がある。
 では、会える日を楽しみにして。

 「ゴッホの部屋」 1889年

・『ゴッホの手紙』(ベルナール宛)ですが、第一信は、1887年夏とあり、第二信からパリから南フランスのアルルに移り『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した頃(アルル時代・1888年-1889年5月)の手紙です。画家の協同組合を築くことを夢見て、ポール・ゴーギャンを迎えての共同生活がありましたが、次第に2人の関係は行き詰まり、ファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻しました。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返したアルル時代です。
 1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所しました。発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けたサン=レミ時代。(1889年5月-1890年5月)。1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡です。

 漠然としたゴッホへの知識でしたが、今回、『ゴッホの手紙』(ベルナール宛)に出会い、ファン・ゴッホへの親しみが増しました。『ゴッホの手紙』は、弟・テオに当てた多くの手紙があります。それらの手紙も読んでいけたらなと思った私です・・・・。




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