『太陽の画家 フィンセント・ファン・ゴッホ』
6
1889年5月。サン・レミの精神病院へ移されたゴッホですが、その一室で、ゴッホは、久しぶりに自由な気持ちで創作活動を再開しました。ゴッホは、病院の近くを歩きまわって、麦畑やオリ-ブの木や糸杉を描き、その形は誇張され、線はくねり、独特の力強さを表わすようになりました。
描かれた麦畑には、糸杉が炎のように、また、夜の風景も、星たちは渦を巻き、自然の内部の声に耳を澄ましているかのようです。
しかし、少しずつ、ゴッホの生命は死に近づいていたのです。
1890年、「鳥の群れ飛ぶ麦畑」を描いて、まもなく、7月27日の午後であった。一人の百姓が、畑の間を「どうにもならない、どうにもならない」と、つぶやきながらうろついているゴッホを見たという。やがて、ポケットからピストルを取り出し、自分の胸に向けて・・・・。29日、午前1時半、フィンセント・ファン・ゴッホは37年の生涯を閉じたのです。
そして、最愛の理解者、弟テオも、追うように翌年の1月、ユトレヒトの精神病院で亡くなったのでした。
* * * * * *
ゴッホは、その生涯において数え切れない手紙を弟テオにあてて書いていました。そのなかの、ひとつ、サン・レミ時代の№406より。
「仕事はうまく行っている。身体の具合が悪くなる数日前に始めた一つのカンヴァスと、今、悪戦苦闘している。<刈入れ>という全部黄色の習作だ。恐ろしく厚く描かれているが、主題は美しく単純なのである。暑熱のただなかで、仕事をやりあげようと悪魔のように戦っている一人の判然としない人間の姿、この刈る人に、ぼくは、死の影像を見ている。と言うのは、人間どもは、こいつが刈ってる麥かもかも知れぬという意味でだ。こんどのは、以前に試みた麥刈りの真反対だと言いたければ言ってもいいが、この死には悲しいものは少しもないのだ。あらゆるものの上に純金の光を漲らす太陽とともに、死は、白昼、己の道を進んで行くのだ。
獄房の鉄格子越しに、こんな具合に景色が眺められるとは、我ながら妙な事だよ。さて、今ぼくが抱き始めた希望とはどんなものか、君にはわかるかな。ぼくにとっての自然、土くれや草や黄色い麥や百姓は、君にとっての家庭のようなものだろうという希望だ。と言うのは、君は人々に対する君の愛の裡に、必要とあれば、ただ人々のために働くばかりではなく、自分を慰め、自分を立て直す、何かを見つけてよろしい、という意味だ。」
終わりに
私は、人生半分は過ぎ、今は後半の道のりです。両親もこの世を去り、愛する妹も今はこの世にいません。
ゴッホは私の青春の象徴というか、憧れだったのかもしれません。いつのまにか還暦を迎えていた私ですが、失業中の私が、こうしてゴッホについて紐解いていくうちに、人間とは、生きるということは・・・・。太陽の画家ゴッホを通して、いろいろと考えさせられました。生きるとは、人の人生でなく、誰もが自分自身の人生を生きるしかありません。そう、人や自然との出会いが、その人の心を豊かにしてゆくのですね。ゴッホの絵は、ゴッホが生きたという証しであり、これからも、その絵と生き方は、人を魅了し続けるのでしょう・・・・。
最後に、拙い青春時代に書いた詩を紹介させていただきます。
『ゴッホ巡礼』
空虚なおもいと呼んでもいい
空虚を
つかまえることなく
離してしまえば
金縛りにあった時 必死で
意識を肉体のすみずみまで戻したのと違い
もう だした手紙の返事がかえってこなくとも
気にすることのない
三月三十一日
明日が四月馬鹿なんて言わない
ぼくは
セザンヌは好きだが
ゴッホのほうが もっと好きだ
色が色であることの喜びをあらゆるものに反映させて
もの自身がものであることに
我がものがおだから
そう 玉葱ひとつにしても パイプにしても
ものそれ自身になってしまって
空虚なおもいが
離れているということ
しかし ゴッホの自画像の眼差しが
虚空を見つめているのは
まれなる 悲劇の証しだろうか
でも
なんといっても
刈入れの絵が一番いい
(・・・このぼんやり見える人物は 仕事を終わりにしようと 炎暑のなかを鬼みたいになって働いているのだが ぼくはそのとき この人物のなかに死の影像を見た つまり 人間が刈り取られる麦のように 思えたのだ しかし この死には悲しみというものがなく すべてを 美しい黄金色の光でひたす 太陽のあかるい輝きのなかの出来事なのだ )
そう そこでは 空虚と呼ばれるものは 完全に消失し 虚空は光で
再び 満たされているのだ
創世記のはじめのように
・行く先を見失ったかに思える21世紀、ふと、太陽の画家ゴッホとその絵を思いました・・・・。
2016/02/05発行の紹介です。