暑い日々が続いています・・・・。エリザベス・キューブラー・ロス著『死ぬ瞬間』より。すべての患者がこのような経過をたどるわけではないとも書いている死の受容のプロセスとして。死にゆく人の心理の変化を、5段階で捉えています。
1.否認と孤立
自分の命が長くないことに衝撃を受け、その事実を感情的に否認したり、その事実から逃避しようとしている段階。周囲の認識や態度にギャップが生じるため、孤立しがちになる。
2.怒り
死ぬという事実は認識したが、一方で、「ではなぜ、自分がこのような境遇になってしまうのか」といった思いが強く、周囲に反発したり、怒りがこみあげてきたりする。
3.取り引き
死をもう少し先延ばしできないか、あるいは、奇跡が起こって死を回避できないかと考えて、神仏にすがったり、善行を行ったりする。
4.抑うつ
死を避けられないことが分かり、あきらめや悲観、むなしさ、憂うつ、絶望といった気持ちが支配して、落ち込む。
5.受容
死を、誰にでも訪れる自然なものとして受け入れるようになる。これまでの価値観や視野とは異なる次元があることを理解し、心静かに暮らす。
『死、それは成長の最終段階』より。
死と再生についてのウパニシャッドの教えを要約すると、個人の魂もしくは霊的実体(アートマン)は永遠だということである。『バガヴァット・ギーター』がウパニシャッドと違うところは、『ギーター』には、魂が絶対神をも他の神々をも超え、あらゆる相違を超えた「永遠の絶対」なる超越的境地へ赴くことによって死からの解放を達成する、という観念が含まれていないことである。また、『ギーター』は、これよりずっと後世の『チベットの死者の書』の教説の中心思想と同じ思想を展開している。すなわち、人が死の直前および死ぬ瞬間に感じる気持ちは、そのままその人が死後に入る存在(あるいは非存在)状態を決定する、という考えである。
そして、「仏教の教義における死、再生、解放」より。人間は、死という事実を十分に受容して生きなければ、有意義な人生を送ってきたという満足感には浸れない_そう考える点では、ヒンドゥー教も仏教もおおむね一致している。
苦悩する全人類に対する仏陀の意味はこういうことである。万物は、たとえ千年生きながらえたとしても、いずれ死滅することは避けられない。生きとし生けるものは、死という掟を受け入れなければならないことを悟らねばならない。
しかし、他方、生物はすべて滅する運命にあるが、再生というかたちで死から逃れる方法もあるという。ヒンドゥー教徒と仏教徒を区別する最も重要な唯一の争点(すなわち、ある生涯から次の生涯へと生き続ける真の自己なるものがあるかないかという点)を別にすれば、死を克服する最も有効な手段について、両者はおおむね一致している。すなわち、生の主な要因としての死を受容せよ、ということである。永続してほしいと願ういっさいのものはやがては完全に滅び去るのであるから、死に憧れもせず死を恐れもしなければ、しだいに生をも死をも超越して不変の絶対と一体化してゆくのである。その主たる兆候としての死を受容せよということでる。
人間の本性は欲望のかたまりである。人は欲望したように意志を働かせる。意志を働かせたように行為する。そして、行為したとおりのものに、その人はなる。死を無視しようとする人間は、死や、自分自身の死への恐怖、他の人々の死に対する悲嘆という鎖にしばられる。道理をわきまえ落ち着いて受容する気持ちで、つかず離れず、生の伴侶として死を迎える人は、死という足枷や、死に伴う不安から解放される。延命したり死を免れようとして、あらゆる犠牲を払ってでも人間の生命の維持存続を追求する現代社会に生きるものにとって、これはきはめて貴い教えのように思われる。
・キューブラー・ロス博士はエイズ患者や小児癌の末期患者のケアに力を尽くした終末医療の第一人者でした。
精一杯病気と闘っている末期癌の子供たちに贈られたひとつの詩の紹介です。
地球に生まれてきて,
あたえられた宿題を全部すませたら,
もう,身体を脱ぎ捨ててもいいのよ.
身体は,
そこから蝶が飛び立つさなぎみたいに,
魂を包んでいる殻なの.
時がきたら,
身体を手放してもいいわ.
そしたら,
痛さからも,怖さや心配からも自由になるの.
神さまのお家に帰っていく,
とてもきれいな蝶のように,
自由に…… キューブラー・ロス