『冥想と経験』玉城康四郎著より。
お釈迦様はゴータマ・シッダールタという仏教の創始者のことで、2500年前頃に生まれたとされています。一般的には釈迦のことを仏陀と呼びますが、仏教では悟りを得ることを仏陀と呼び、本来は個人を表すものではなく、「目覚めた者」や「真理、本質、実相を悟った人」、 「正覚者」のことであり、聖人・賢者をブッダと呼ぶようになったとあります。
釈尊が、菩提樹のもとで、くっきりと暗を破って明に安住した解脱・涅槃の世界に、われわれもまた、ささやかな一指を投ずるのでなければならない。
われわれ現代人が釈尊から学ばねばならぬ根源的なものは、釈尊自身がぬかづき従ったところの法(ダンマ)である。われわれ自身もまた、このダンマにぬかづき従うことによって、釈尊と同体の目覚めに至ることができる。
では、ダンマの目覚めは現代人にとっていかにすべきであろうか。差し当たって考えられることは、各自の所属する、あるいは縁故の深い宗派の教えに専心従うことである。天台・華厳・真言・禅・浄土・日蓮の各宗は、釈尊以来のダンマに培われ、ダンマの衆生への対応発展にほかならないからである。ただ問題は、感応道交、機法一体でなければならないということである。折角のすぐれた教えも、自分の能力・気質・心質・体質に合致しなければ物の役には立たない。要は、釈尊の目覚めたダンマが、同様に自己の実存、自己のパーソナリティー全体に顕わになることであり、それが自分の現存在に可能になるためには、宗派の限界を越えて、他宗の適切な教示をも受け入れるだけの無執の態度がなければならない。
仏教の真理は、ゴータマによって造り出されたのではなく、たまたま発見されたものであり、しかも眼を遠く転じてみれば、発見者はゴータマひとりではなく、すでに遥かな過去に、かれと同じ幾人もの先輩のブッダが活動していたことが知られてきた。
キリスト教では天地に先立って神があったのに、無神論に出発したかに見えたゴータマの目覚めは、目覚めの真相が開示され深められるにつれて、永遠の仏を呼び出すにいたった。仏教はどこまでも目覚めの宗教である。
そして、『冥想と経験』の最終章では、<諸祖礼讃>として、空海・法然・親鸞・道元について書いています。弘法大師空海については、以前、ブログに書いた私ですので、以下、法然・親鸞・道元について『冥想と経験』より・・・・。
<法然の実存>
往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して必ず往生するということを信じて念仏を称えていけば、間違いなく救われて往生ができるということであります。法然上人は、とにかく念仏をせよということをしきりに強調されるのですが、その精神をうかがってみると、念仏が申されるような生活をせよということになるかと思います。
それは、われわれのたましい、われわれのからだ、そしてパーソナリティ全体が、真実の世界に生まれていくその過程としてこの世を生きていく、その真実の世界に動かされ、催され、招かれてすすんでいるのである。そういう実感を、現代人は回復すべきであると思うのであります。
その上人の臨終の模様であります。
年が明けますと多少意識がはっきりしてきたのでありますが、もうすっかり浄土の大切な法なども頭から消えてしまって、いわゆるもうろく爺さんになっておるのであります。もう浄土の教えも何もかも、こころからすっかり消えてしまったその法然は、ただただ真実の仏だけをはっきりとそこに見ておられるのであります。
それは現代風にいえば、法然が実存の道をたどられたということであります。学習辛苦の末、念仏こそただ一つの救われていく道であるという発見は、法然にとって実存の開かれていく出発点であったと思います。したがって念仏は法然の全生活の中心になったのであります。その念仏とは何か。ただ生まれつきのままで仏の名を称することである。それが本願である。ついには本願力に催されて、法然は念仏のまにまに、真仏の只中に安ろうたのであります。法然にとって真の実存とは何か。それはすなわち真仏であったのであります。
<釈尊と親鸞>
釈尊は悟ったとか大悟したとかいうことをいわれるけれども、釈尊が釈尊の力で悟りを打開したということではなくて、実はダンマが釈尊に開かれてくる、ダンマがあらわになってくる。結局一番大事なことは、私の分別、計らいを全く越えた法の命、仏の命というものが、わたし自身にあらわになってくるということが仏道の根本であると思います。
そこで、仏のいのちが受けられるために、どのような道があるかというと。私は、晩年の親鸞聖人が惹かれていた、尽十方無碍光如来ということに気づいたのであります。これは聖人ひとりだけのことでなく、その如来の名が聖人の口から出てくるまでには、仏教史の長い流れがあるのですが、ともかく尽十方無碍光如来。仏のいのち。仏の光というものは尽十方に行き渡っているというのであります。
もはや全身合掌というようなこちら側の作為ではなくて、私の内なる奥の彼方から然らしめてくる力。それが私を貫いて。さらに私を越えて法界へ伸びていく。時間・空間ともに限りない力となり、光明となって拡がっていく。私はもう全身沈黙させられて、無碍光の通ずるままに任せるのみであります。
ここに述べた一条の経路の背後には、もとより親鸞聖人ひとりではないけれども、親鸞の生命に強く打たれているということを、私は否認することができません。いずれ聖人については、ゆっくり申し述べてみたいと思いますが、まだまだ聖人は、私のお話しできるような相手ではないかも知れません。
<道元と現代>
現代の日本は経済繁栄を謳歌しているのでありますが、その陰で、われわれ日本人の心は混迷をきわめております。願わくはこの混迷がやがて新しい時代の社会における、人間性の新しい確立であってほしいと思います。このような混迷の中で、道元禅師の思想、禅定、行、その世界観などをよく味わい、よく反省し、また見直してみることは大きな意味があると思います。
『正法眼蔵』はその一言一言が禅師にとっては生命の息吹に充満しております。しかしわれわれにとってはただ言葉に示されたものにすぎないのであります。『眼蔵』の生命、『眼蔵』の精神を実現するというのは、ことばや、また禅師の世界の追体験にとどまるのではなくて、まさにこれを社会に実現する事でございます。いいかえれば経済人は経済人として、芸術家は芸術家、医者は医者、政治家は政治家、技術者は技術者、それぞれ活動の領域の中で禅定を実現することであります。さらにいいかえれば、それぞれの領域のなかで働きながら禅定するのではなくて、逆に禅定しながら働くのであります。禅定が主体であって、それぞれの領域が実現の場であります。
道元禅師は、こういう世界を切り開いたわれわれのすぐれた先輩として、私は渇仰に耐えないのであります。つつしんで道元禅師に帰依の念を捧げたいと存じます。
・以上、『冥想と経験』よりの抜粋でしたが、終わりに、玉城康四郎氏の次の言葉を噛みしめたいと思います。
「しかしながら、いかに冥想を深めても、ただそれだけでは救いにはつながらない。わが深めていく冥想は、依然としてわが骨肉のあいだである。救いというのは、骨肉のあいだの一切の世俗を踏み越えている無為の力が開かれてくることである。釈尊はそれをダンマ(法)と名づけられた。ダンマが冥想の釈尊に開かれたのである。そのとき釈尊は道を成就されたのである。」
この成就の道はいつになるかわかりませんが、私たちはみな、なにげない日々の生活のなかでの、「冥想と経験」の道を歩いて行くのですね・・・・。