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『方丈記』と無常



   『方丈記』と無常

 今年もあとわずかおもむくままに『方丈記』について調べてみました。
 方丈記に一貫して流れているのは「無常観」といわれる思想です。 実際に起こった大火事・地震・飢饉などをなまなましく描写し、人の命や人生・社会のはかなさ、不安定さ、うつろいやすさを説き、その苦悩を訴えています。 その苦悩から逃れるために世間から離れるのが隠遁生活であり、彼らは隠者・世捨て人などと呼ばれていました。
 その、災害に対して無力な人と栖(すみか)の無常を目の当たりにし、俗世を離れて心の安らぎを追求した鴨長明ですが、 隠遁生活を通じて心の安らぎを獲得したように見えたものの、最後には、方丈での生活に愛着を抱く自身を顧みて、まだまだと自らを突き放します。

 以下に紹介するのは、『方丈記』鴨長明・佐藤春夫訳よりの概略です。

 この辺に美しい立派な住家があったのだがと見て見るともうその家は去年焼け失せて無くなっていたりする。又こんな所にこんな立派な住家は無かったのにと思って見ると前の貧しい家は焼け失せて現在はこれほどの立派な住家になっていたりするものである。この様に昔お金持であって立派な美しい住家に住んでいた人が今は見る陰もなく落ちぶれて昔の住家に比ぶれば掘立小屋同様の住家に住んでいたりする。こんな運命が人々の歩まねばならないものなのである。
 昔からの知り合いは居ないものかと見て見るとそうした人は中々に見付ける事が出来なくて、所も昔の儘の所であるのに、又そこに住んでいる人々も昔の様に多数の人々が住んでいるにかかわらず、十人の中わずかに二、三人しか見出す事が出来ない有様であって、真に人々の歩むべき運命の路のあまりにも変転極まりないのを見ると感動に堪えないものがある。
 人間のこういう運命、朝に生れては夕べに死して行かなくてはならないはかない運命、変転極りない運命、こういう事を深く考えて見ると全く、結んでは直に消え、消えては又結ぶ水流の泡沫の如きものではないかと思ったりする。奔流に結び且かつ消ゆる飛沫の運命、それが詮ずる所人々の歩むべき運命なのである。
 一体多くの人々がこの世に生れ出て来るのであるが、これらの人々は何処から来たものであろうか。そして又何処へ行ってしまうのであろうか。等と考えて見ると何処から来、何処へ行くかと云う問いに対して答え得るものは何処にも居るものではなく、何処から来て何処へ行くかは永遠に解くを得ない謎であって人々はこの謎の中に生れ、そうして死して行くのである。水に浮ぶ泡が結び且つ消える様に。

 世を挙げての悲惨な中にもまして最も哀れであるのは、お互に愛し合っている人々の運命である。相愛の夫婦、深く愛している夫を持ち妻を持つ人々は自分はとにかくとして先ず愛する夫へ、愛する妻へとなけなしの食物すらも与えるのが人情である。こうした人々は必ず深く愛する者が先に餓死しなくてはならないのはあまりにも明白な事である。
 この事は親と子の間には最も明白に現れるのであった。親を愛さない子は世にあるとしても、子を愛さない所の親は無い筈である。だから親は必ずその得た食物を子供に与えてしまうので、親は必ず先に餓死しなくてはならないのである。真に最も強き愛は親の子に対する愛と云わねばならない。こうした変事の時には最も明らかに現れるのである。母親の乳房を求めて泣く子供が方々に見られるのであるが、既に母親は死しているのに、その屍に取り付いて泣く赤んぼのいたいけな姿は、この世での地獄と云っても決して言い過ぎでない様な気がするのである。全く京の街々は昔の平和はどこへやら、今は生きながらの地獄の責苦に遭っている有様である。
 その頃仁和寺に隆暁法印と云う出家があった。この人はあまりにも悲惨な世の中の有様を見、またかくも多くの人々が日々に死して行くのを嘆き悲しむのあまり、何とかして死した人々に仏縁を結ばせてやりたいものだと発願したので、毎日毎日街を歩き廻って屍を発見する度に、その額に阿の字を書いて極楽往生を念じたのであった。こうして阿の字を書いて成仏させた人数はどれ程あったかと云うと、四月と五月の二ヶ月の間に阿の字を書いた死骸の数は、都の一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、その間だけでも驚くなかれ総て四万二千三百余もあったと云うのだから、どれだけ大きな変事であったかと云う事が解ることと思われる。二ヶ月と云う短い間にさえこれだけの死者を出しているのだから、ましてその前後に於て死している人々の数を入れて考えて見ると、莫大なる数になり、都の住人の総てが死したのではないかとさえ思われたかも知れない。その上に河原や、白河や、西の京の死者をもそれに加え、全日本の死者の数をも加えて行ったならば全く際限もない、途方もない数になったのは云うまでもない事である。その昔崇徳天皇の御代の長承の頃にも、この様な飢饉のあったと云うことを私は聞いているのであるが、その時の状況はまのあたり見たのではないから全く知らない。が今度の飢饉は目のあたりにその惨状を見せられて、如何に飢饉のひどいものであったか、今度のは全く稀有の椿事であり、前代未聞のものである事には違いなく、全くもって何とも言い得ぬ哀れな出来事であった。
 同じ頃の出来事なのであるが、もう一つその上に大きな地震と云う災難に見舞われた事があった。その地震と云うのが今まであったどれよりも強く、従ってまたその被害も常日頃の様なものではなく実にひどいものであった。大きな山は地震の為に崩れて来て、下に流れている河を埋めてしまったり、海の水は逆行して岸辺に上り、更に人の住家のある所まで流れて来たりした程であった。又土地が二つに割れてその間から水が湧出して来たり、大きな岩がゴロゴロと谷間にころげ落ちたりして、いやもう大変な物すごさであった。海に出ていた船は地震の為に、大波の為に木葉の如くに翻弄され、道を歩いている人々や、馬や牛などはひょろひょろとしてその足場を失って倒れたりする始末で大変な騒ぎであった。
 都にある所の立派な家や、大きな家や、小さな家は一軒として満足なものはなく、総てが倒されてしまっている。神社や仏閣等も数多くその立派な建造物を倒されている有様である。完全に倒されたのや、半分倒された家々のあたりには、まるで盛んな煙の様に塵や灰が立ち登っている。地面が、ゆり返しの地震にゆれたり、大きな家が倒されたりする時には、雷様のなる様なすさまじい音がするのである。
 人々は落ち付く所もなかった。家の中に居れば今にも家が圧しつぶされはしないかと心配でじっとしてはいられないし、外へ走り出れば地面が割れて来る始末、何処にも行き様がなかった。もしも空へ逃げる事が出来さえしたならば、一番好いのだが、情けないかな人々には羽がなくてそれすら出来ず、まことに又飢饉以上の情けない哀れな状態と云うべきだ。

 総て世の中は無情であって、中々に住み難い所であると云う事は上述の通りであり、又自分自身の運命の果敢なく頼りない事も同じであり、その住家さえいつなんどきどんな災害に見舞われないとも限らないのも同様のことである。まして人々はその上に住む場所や、身分に応じて世の絆の拘束の為にどれ程に悩んでいる事か知れやしない。この様に世の中はむずかしく住み難い所なのである。一方には自然の災害があり、一方ではお互が愛し合う事もなく一人一人が勝手に暮らしているこんな世の中は全く地獄も同然と云っても好いのだ。

     * * * * * * * *

 さて私の一生ももう余命幾何もなくして死出の旅路に出なくてはならないのであるが、もう現在では何も今更に嘆くことも、悲しむ事もないのである。仏様の御教えは何事に対しても執着心を持つなとあるのだが、今こうして心静かに楽しく住み得るこの山の中の草庵を愛することさえ一つの執着心の現れで罪悪なのである。私は仏様の世界から見れば何等価値のない楽しみをごたごたと並べ立てて無駄な時を過したものである。
 物静かな夜明け方にこうした真理を考え続けて行き、自分の心持を深く反省して見ると自分がこうして浮世を脱れて山の中へ入った最初の目的は何だったかと云えばそれは仏様の道に精進しようとしてやった事なのであるが、それにも拘わらず自分の生活というものを考えて見ると外見は聖人の様ではあるがその心持はまだまだ聖人には遠く及びも付かないもので全く俗人の如くに濁ったものなのである。
 私の住家は昔の維摩(ゆいま)居士の方丈の庵室を真似て建てたのであるが、自分の行いや信仰の上に於ては一番魯鈍(ろどん)だったと言われている仏弟子の周利槃特(しゅりはんどく)のものにすら劣っているではないか。そしてこの原因はあまりにも貧しい苦しみをしたのでその為にあまりに苦しんだから思う様に修業が出来なかったのであろうか、又は煩悩があまりにも強かったが為に心が狂ったのであったか、等と自分がどうして悟入出来得なかったかと自問自答しても何等の答も与えられなかった。それで唯口舌の力を借りて南無阿弥陀仏と二、三度仏の御名を唱えてその加護をお祈りするまでである。
 時に建暦二年三月晦日頃、僧蓮胤(れんいん)が外山の庵でこれを書きしるしたものである。

・「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」の、文は余りにも有名で高校の教科書にあったと思うのですが、その最初の文の続きは記憶になく、今回初めて知った次第です。
 振り返るに、2011年には、東日本大震災が起き、その後も、世界各地で災害が起きていたりするのをみるに、800年も前に書かれた『方丈記』の時代も今も何ら変わらないんだなと思いました。それは、出来事だけでなく、その時の人々の心のおもいも・・・・。
 そんなおもいのなかで、『方丈記』のなかの次の文章には、ほっとした私です・・・・。

「草庵から少し行った山の麓に一つの小さな小屋があってそこには山番の人が住んでいるのである。そこには一人の子供がいて、その子供が時に私の庵を訪ねて来て私と話し合うのである。まあ私の庵の唯一人の客人と云っても好いのである。話す事も別段に無く、それかと云って為す事もない時にはこの子供を友としてその辺の山を逍遥するのである、その子供は十歳で私は六十の坂を越している年寄ではあるが、年こそ違っているけれども二人で山を歩いてお互に楽しむと云う事には少しも差しつかえはなく、全くの好い友達同志なのである。」



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