不思議活性

一冊の本 『神の汚れた手』


 
 『神の汚れた手』曽野綾子

 積読になっていた一冊の本『神の汚れた手』です。若き日に読んでも、ほとんど理解出来なかったのでは。それは、人生自分なりに生きてきて、『神の汚れた手』ですが、少しは自分なりに受け入れることが出来るようになったのかなと・・・・。
 
 産婦人科医・野辺地貞晴を主人公とする産科医院を中心に、様々な出来事とエピソードからなる物語です。小説って、人生の負の世界というか、日に当たることがない世界が描かれることによって、読者は驚きの世界に遭遇するのですね。まさしく、私は小説『神の汚れた手』を読み進んでいくうちに、人間誕生の過程からその後の出来事・・・・。主人公貞晴とその家族やそのほか登場人物の心理描写などに引き込まれていました。
 
 本の帯に書かれていた文を紹介いたします。

「真実の愛とは何か?そして罪とは?産婦人科医の日々のドラマを通して、誕生と死―この人類永遠の主題を、深い祈りをこめて描いた問題作!」とあり、そこには、当然というか、堕胎に関する描写もでてきました。

 このドラマは、実際に読んでいただくより納得できないかも・・・・。

 主人公・野辺地貞晴がある胎児の中絶に関しての言葉でした。

「憂鬱ですなあ、神父さん、そういう生かし方は、僕はそういう場合なんですか、神父さん流に言えば、僕も神の手先なんでしょうな、それも汚れた手先なんでしょうね」

 物語りは全体に重たい話が多いのですが、ときに、ほっとする場面もありました。

 「先生、ちょっと来て下さい!」

 それは、単に看護婦たちが呼んでいるというより、むしろ悲鳴に近いものであった。
 貞晴は新生児室に入って行った。
 病棟の係の二人の若い看護婦たち―湯浅励子と潮田満子に混って、外来の岩波啓子と倉田順子まで集まっていた。
「何が起こったの?いったい」
 貞春は新生児室の入り口に立ち止まった。
「先生、ミコたんが笑ったんです!」
 若い看護婦たちは、その言葉を、報告するというのではなく、狂気して叫んでいるように口にした。
「本当か?」
 信じなのではないが、貞春はそう言って、鰻の寝床のような新生児用の寝台の、端から二番目に寝ている都の方に近づいて行った。
「さあ、ミコたん、先生よ、頑張って笑ってごらん」
「何よ、頑張ってるのは、励子さんじゃないの」
「そんなに頑張ったら笑えないよね」
 若い娘たちの声の中で、貞春は都とじっと視線を合わせた。

・『神の汚れた手』曽野綾子著ですが、上巻は(1979年)昭和54年12月10日、下巻は(1980年)昭和55年2月10日発行とあります。まもなく、半世紀になりますが、今、この令和の時代でも、変わらぬ話かなと思いました。
 ともかく、私にとって衝撃的な、一冊の本でした。

作者・曽野綾子さんの言葉です。

「小説家というものは、本来、未来を見抜く力もなく、社会の全般的現象として物事を捉える能力を欠如してもいいものだと私は思っている。むしろ、未来を見抜く力を重視したり、社会の全体像を捉える方向に能力が伸びたて来たら、小説はその立場を失うであろうという気がしている。私が目的とするのは、あくまでも、或る一人のささやかな生と死であり、それは嗚咽や小さな喜びの笑い声にはなっても、決して叫びにもシュプレヒコールにもならない。」



ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「一冊の本」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事