koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

「風林火山」-晴信初陣

2007年02月19日 22時04分39秒 | 風林火山

今週もリアルで見ることは叶わず,本日ビデオ回しました。


勘助が氏康といきなり飲み出したのには参りました。
氏康に危機管理能力は無いのか・・・一応,家臣は陰に控えていたようですが・・・。
で,やはり氏康に「若殿」は無いのでは・・・。
朝から酒飲んでどうするんだ,若殿・・・。


氏康の間者となった勘助は関東から碓氷峠を越えて信州へ入ります。
これはてっきり上杉もとい長尾景虎のもとへ,いよいよGackt謙信登場か!!と思いきや違いました。
考えてみたら,この年景虎はまだ数えで7歳ですからあり得ません。


小県郡,と言えば真田です。
松尾城主真田幸隆は勘助とすっかり意気投合。
この時代,真田は独立した信州の一土豪で,北に埴科郡の村上義清(葛尾城),南に佐久郡の平賀源心(海ノ口城),西の上州吾妻郡に北条系の大名(沼田万鬼斉はもっと後か・・・)・・・と領国経営に腐心している時期だったと思われます。
後に幸隆の三男昌幸と孫の信幸(後信之)と信繁(幸村)が徳川軍を散々に打ち破る舞台となる神川に於いて,村上義清軍と戦った,と幸隆が述べる場面がありましたが,さもありなん,というところでしょう。


しかし,あの真田庄のロケ地はどこでしょう。
斜面に棚田の広がる農村風景はどこか懐かしく郷愁を誘います。
ロケ地から判断すると岩手県遠野市か福島県耶麻郡猪苗代町あたりでしょうか・・・。
長野県佐久市か山梨県北杜市かもしれませんが・・・。
ああした我が国の原風景のような景色を見ることはもはや困難なのかもしれません。
私なんかは子どもの頃に見た風景が鮮やかに蘇ってくるのですが・・・。


勿論,今回の内容も全くの創作であるわけですが,真田は後に勘助の手引きによって武田へ降り,東信~北信地方へ武田軍を侵攻させるのに大いに功があったわけで,世の上杉謙信贔屓の人たちは一様に真田が嫌いなようです・・・。
幸隆役の佐々木蔵之助さん,迂闊にも初めて聞く名前でしたが上手いですね。
地味ながら演技派を揃えたこのドラマらしい配役と言うべきでしょうか。
奥様の名前が忍芽とは安易ですね。
真田=忍び,というイメージなんでしょうが・・・。
私はてっきり松尾城近くで忍術修行でも行われているのでは・・・と憶測してしまいました・・・(な訳ないだろ・・・)。


真田氏は一応信濃の名族滋野氏族(清和天皇の皇子が祖)・海野氏族ということになっていますが,これはおそらく江戸期に松代藩が作り上げた系図と思われ,現在の菅平西麓を領有する土豪だったと思われます。
信濃源氏諸族が輩出した平安末期には真田姓は起こって居らず,とにかく幸隆の父以前は謎と言って良いでしょう。
僅かに,応永年間(1400年)の信濃大塔合戦(信濃守護小笠原氏に国人たちが抵抗した)や嘉吉年間(1440年)の結城合戦(結城氏朝が管領足利持氏の遺児を奉じて下総結城城に籠もった-「南総里見八犬伝」の端緒)に実田や真田という名が見られ,出自はともかく小県郡の真田に土豪が住んでいたことは事実でしょう。
でも考えてみたら,天文年間は幸隆じゃなくて父と思しき海野棟綱の代じゃなかろうか・・・。
武田軍によって真田父子は一度上州に追われる筈だし・・・。


・・・とついつい真田にばかり話がいってしまいました。
肝心の晴信初陣ですが,赤糸威の甲冑に(楠木正成のような多聞天を模したような三枚鍬形でした)栴檀の板と鳩尾の板が付いた大鎧風でした。
鉄砲伝来以前のこの時代ですから「胴丸」と呼ばれる具足はまだ出ていなかったので考証は正しいか,と思いきや胴丸風でした・・・。
海ノ口城のセットは結構土塁っぽくて見事でした。
平賀源心というのは,信濃源氏の平賀氏の子孫なのでしょうか・・・。
穂源・平治の合戦に参加した源盛義-義信父子とその子の朝雅が有名ですが,おそらくその末裔かと思われます。


・・・で,晴信と真田の食客となった勘助が使いとして海ノ口城に入り,晴信に
「軍師はだれか」
と言わせる次回のエピソードはちょっと出来過ぎかと・・・。
ま,毎回突っ込みつつも,楽しんでいます。
さて,今夜も寝る前にあの格好いいタイトルバック見るか・・・。


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