koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

關西紀行-其之九:南淡海紀行四-当日最後も大暴走・・・

2012年01月11日 18時53分46秒 | 旅行,および「鉄」

石山寺の帰途は,駅まで瀬田川沿いを歩きました。
近江八景のうち,三井の晩鐘(行ったのは午前中ですが),石山の秋月(冬の日中ですが),瀬田の夕照(時間的には程遠かったですが),比良の暮雪(遠望ですが)取り敢えず4つを見たことになります。
まだ夕刻には少し間があったので,もう一カ所京阪沿線を見て,500円の切符の三倍元をとってやることに・・・。
終点の坂本まで行って,比叡山のケーブルを往復すれば,それこそとんでもなく元を取ることになったのですが,延暦寺で日が暮れても・・・ということで,少し手前の近江神宮に行くことにしました。


暫く京阪に乗ったままだから寝ておけ・・・と言ったのですが,私は地図を確認し,他の3人も珍しく寝ないでいました・・・。
近江神宮前下車。
駅前は,いかにも地方の停車場といった雰囲気で,小規模な書店があったことが余計趣を添えた。
このあたりの住所は大津市錦織(にしごおり)。
同じ地名が湖北の浅井郡にもあったようですが,帰化人系の姓でしょうね。
・・・ということは,この近辺に大津京があったというのも首肯できる・・・と思って歩き出すと,何と4箇所程遺構がありました。
近江京は667年に天智帝即位と共に遷都されましたが,671年の天智崩御と続く壬申の乱に天智の後を継いだ弘文帝が,天智弟の天武帝に敗れたことから廃都となり,僅か5年という短期間の首邑でした。
白村江での敗戦後,百済からの亡命帰化人が大量に流入したとされますが,もしかすると錦織氏もそうした氏族の1つだったのかも知れません。
いずれにしても,幻と言われた近江京のことが,近年の調査でだいぶ解明されてきた感があります・・・。
柿本人麻呂の歌は勿論,割と新しいところでは旧制三高(現京大)の寮歌として知られる「琵琶湖周航の歌」にも歌われた「志賀の都」の全容もやがて明らかになる日が来るのでしょうか・・・。
天智帝が,飛鳥より遙かに北方に位置する近江に都を造営した狙いは,多分白村江の敗戦による朝鮮半島や大陸に対する危機感だったのかもしれません。
街道交通の要衝である近江は琵琶湖の舟運も計算でき,敦賀や鯖江といった北陸道・山陰道方面にも通じています。
また,蘇我氏や藤原氏といった大和の豪族との癒着を断つこともできるでしょうし,本拠地から離すことで勢力を削ぐ目的もあったのかもしれません・・・。
尤も,官吏も民衆もたまったものではなく,幾度となく出火があったと「日本書紀」に記されているようですが・・・。
読んだだけでわくわくする・・・。
何でもないごくありふれた光景。しかし,ここが大津京だったかと思うと・・・
高校生の時,古文の時間に習ったのが懐かしい。やはり「万葉集」は素晴らしい。

・・・などと考えているうちに,近江神宮の参道へ。
川をわたるとうっそうとした森が茂り,御神域の雰囲気を高めてくれます。
・・・で,案内板によると川沿いの道を近江神宮の外苑に沿って西へ登ると宇佐八幡宮があり,さらに登った山頂には宇佐山城跡があると・・・。
宇佐山城・・・・・・。
元亀元(1570)年,織田勢(森可成・織田信治・青地茂綱)と浅井・朝倉勢の間で合戦となり,城外の坂本近郊で織田勢が敗れ,大将3人が戦死したのが宇佐山城を巡る戦いです。
可成長子可隆は同年春越前手筒山城攻めに初陣し一番槍を付けたものの深入りしすぎで父に先立ち討死。
次男の長可は天正12(1584)年の小牧長久手の戦いにおいて徳川勢と交戦して討死。
その弟の成利(蘭丸),長隆(坊丸),長氏(力丸)に関しては述べるまでもないでしょう。
結局,織田家の譜代とも言える森家の家督は,六男の忠政が継ぎました・・・。
この森氏は,河内源氏の流れを汲む名族で,先祖を辿ると八幡太郎義家の七男である陸奥六郎義隆に行き当たります(七男なのに六郎ということは,反乱を起こしたということで長男の義親は外されたのか・・・)。
そう,昨日の暴走エントリで述べた義朝麾下で,京北郊大原と近江を結ぶ竜華越にて叡山横川の僧兵と戦って討死した武将です。
400年の後,よもや子孫が程遠からぬ坂本にて討死するとは,何という因縁でしょうか・・・。
因みに,この陸奥六郎義隆ですが,相模国毛利庄(現厚木市毛利台付近か?)を領し,毛利六郎とも称したそうです。
尤もこの毛利庄出身で有名なのは,何と言っても戦国大名の毛利氏でしょう。
意外に知られていないことですが,毛利氏の祖先を遡ると鎌倉幕府創業の功臣である大江広元まで遡ることができます。
鎌倉幕府の打ち出した全国支配の最大の特徴は守護・地頭であることはよく知られていますが,これは平安末期に興った武士団を全国規模で配置した結果,東国武士団が全国に広がることになりました。
守護は国ごとに配置されましたが,地頭は荘園や国衙(こくが)に配置されたので,さらに細かく武士団が散らばることになります。
身内の例で恐縮ですが,うちの相方の親戚に板橋姓があります。
これは元を辿れば,現在の東京都板橋区から発祥した桓武平氏秩父氏の一氏族ということになりますが,それが何故現在の宮城県中央部に子孫が・・・と考えると,鎌倉時代の地頭職として奥州に下ったのでは・・・と推測します。
尤も,同じ平姓の千葉氏族に板橋氏があり(発祥地は同じ),下総から陸奥に移って伊達政宗に仕えたという記録があるので,この系統かもしれませんが・・・。


・・・ということで,今日も大暴走してしまいました・・・。
近江路は,個人的に思い入れの大きい地域なので,ついつい余計なことを語りたくなります・・・(悪癖だ・・・)。
特に,古代から中世にかけての政権交代期(つまり武士の起こりと院政~保元・平治の乱~治承寿永の内乱~鎌倉幕府の成立と承久の乱)あたりに関しては,語り出すと止まらなくなりますので,自粛して大河ドラマの「平清盛」根多の時にでも書こうかと思います・・・。
近江神宮。御神域に相応しい門構え・・・。
初詣準備が始まっている。
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