koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

關西紀行-其之八:南淡海紀行参-石山寺にて大暴走・・・

2012年01月10日 20時32分04秒 | 旅行,および「鉄」

膳所からは電車1本で石山寺へ。
ここは30年来のお気に入りの場所ですし,何と言っても紫式部が「源氏物語」を書き始めた地ということで,ぜひとも見せたいと思い,足を運びました。
ところが・・・。


乗った京阪はがら空き。
終点の石山寺で下りたのは私たちだけ。
当然,山門までの瀬田川沿いを歩いたのは私たちのみ。
門前にあった土産物店はすべて閉店(年末だから?)。
山内の観光客もまばら・・・。
さらにお目当ての1つである国宝の多宝塔は修理中・・・。
期待が裏切られたわけではないですが,さすがに拍子抜けしました。
しかし,さすがに開山以来千数百年を誇る伝統の大寺だけに見どころ満載で,今回はゆっくりとほぼ全山を見て回ることができました・・・。

石山寺と言えば,何と言ってもこの硅灰石。その上の国宝多宝塔は改修中。
本堂源氏の間。人形は実寸よりひとまわり小さいか。

月見亭。立ち入り禁止が残念だが,見晴らし抜群だろう・・・。
瀬田川と琵琶湖方面を・・・。過去2回は好天だったのに・・・。


個人的に石山寺で思い出すのは,もう830年以上前に悲運に散った1人の若武者のことです・・・。
否,今回改めて訪れて案内板を見て,彼のことを思い出したのですが・・・。


彼の本名は源義平。
通称鎌倉悪源太。
父は左馬頭(最後は播磨守?)義朝。
右兵衛介頼朝は三弟になります。
父と共に鎌倉に住み,西武蔵の秩父一族と対立した結果,叔父である帯刀先生(たてわきせんじょう)義賢を討ち,勇名を馳せます。
この場合の「悪」とは,悪いということではなく強いという意味に捉えられるそうです。平氏の侍大将だった悪七兵衛景清という武将の名も伝わっていますし,頼朝麾下には岡崎悪四郎義実なる武士もおりました(保元以来の歴戦の武士です)。


平治の合戦の際は,父義朝に従い東国武士たちを率いて奮戦。
御所を占領した源氏軍に対して,清盛嫡男重盛を大将とする500騎の平氏軍が襲来。
待賢門を守っていた総大将の藤原信頼は怯えて逃げ出す。
それを見た義平は17騎の東国武者を引き連れ,重盛軍を撃破。
紫宸殿前の左近の桜,右近の橘前で散々重盛を追い回し,組もうとするものの重盛は敵わないと見て退散。
義平は追撃するも,重盛の郎党が身を盾にして守ったため,無念にも重盛を討ち漏らす・・・(このあたりが,「平治物語」のハイライトでしょうか・・・)。
その後,内裏から誘導された源氏軍は平氏の屋敷である六波羅に攻め寄せるも,新手を繰り出す平氏軍に完敗。
義朝は再起を期して東国へ脱出を図ります。
しかし,京北郊の大原から近江へ抜ける龍華越にて比叡山横川の僧兵と遭遇。
矢戦の結果,義朝大叔父の陸奥六郎義隆(八幡太郎義家七男)が討死。
義平次弟皇宮亮朝長は太腿に重傷を負います。
美濃青墓宿(大垣市)まで逃げ延びた義朝主従ですが,途中で三男頼朝が吹雪の中逸れます。
そこで再起の計画を立て,義平は隣国の飛騨で挙兵を,次男朝長は甲斐・信濃の兵を,そして義朝自身は東国へ・・・となります。
しかし朝長は深手のために歩くことができず,青墓へ戻ってきます。
足手纏いとなるならいっそ・・・ということで,義朝は次男を自ら手に掛けます・・・。そして,尾張国知多郡野間内海に郎党である鎌田正家(政清とも)の舅である長田忠致・景致父子を頼るも,長田の裏切りによって風呂場で敢えなく果てたのは周知の通りです。
飛騨の義平の元には,結構な数の兵が集まったらしいですが,義朝討たるの報を聞き,一気に散ってしまいます。
もはやこれまで・・・と,自害をしようとした義平ですが,せめて清盛・重盛父子にひと太刀を・・・と思い,大胆にも京に潜伏します。
六波羅近辺を伺っていたところ,かつての家人である志内景澄とばったり遭い,下人ということで志内とともに宿屋に潜伏。
しかし,宿の者が義平の下人らしからぬ風貌と食事中に義平が上座に座るのを怪しまれて密告。
平氏の郎党である難波太郎経遠が兵300を率いて捕縛に向かいますが,飛び出した義平は源家相伝の太刀石切丸を抜くや,数人をあっという間に斬り捨て,ひらりと屋根の上へ逃げて行方をくらまします。
その一週間後,石山寺に潜んでいたところを,難波三郎経房に発見され,遂に捕縛されます。
六波羅へ連行され,清盛の面前に引き出された際は,
「生きながら捕らえられたので運も尽きた。かくなる上は俺ほどの者を生かしておくと何を起こすか分からないから早う斬れ」
と,剛胆に言い放ち,刑場の六条河原で斬られる際も,太刀を執る前記難波経房に,
「俺ほどの者を白昼に斬るとは,平家は情けを知らない奴輩だ。こんなことなら阿倍野で(清盛主従を)待ち伏せして皆殺しにしてやるんだった。不覚人の信頼めに従ったため,それができなくて悔やまれるわ」
と言い,
「俺ほどの者を斬るのだからうまく斬れ。うまく斬れなんだら貴様に喰い付いてやるぞ」
と憎まれ口を叩き,死んだ首が喰い付けるかと返す経房に対し,
「今ではなく,後で雷になって貴様を蹴殺してやる」
と言って,首を打たれたといいます。
享年僅かに20。
これだけでも十分剛胆というか執念深いのですが,まだ続きがあります
後年,清盛が経房を共に摂津国布引の滝を訪れた際,一天俄にかき曇り雷鳴が轟きます。
「すわ,悪源太が来たわ-」
と,経房が太刀を抜いた途端・・・・・。
この手の怪異な話古代~中世史には多く存在し,永井路子著「悪霊列伝」に詳しいので割愛しますが(但し悪源太義平のことがあったかどうか・・・),「太平記」にも雷になった楠木正成の話がありますし,菅原道真のことといい,雷は付きもののようです・・・。
鎌倉悪源太はこの谷の何処かに潜んだのだろうか・・・。


・・・ということで,完全に暴走モード全開になってしまいました。
「源氏物語」はどこにいってしまったんだ・・・。
次は近江神宮ですが,これも暴走しないようにしないと・・・。
瀬田川沿いを駅まで歩く・・・
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