ゆっくり、のんびり、あせらずにやるしかない

波乱万丈な日々も落ち着いてきたと思っていたら
母がアルツハイマー型認知症になりました。

見返してやるつもりだった

2005年05月16日 21時20分32秒 | バリアの中のバリア
笑顔君小児療育センター時代
担当の医師が「歩けるようになる」と言って、
歩かないのは「怠けてる、やる気が無い」と言った。

周りのスタッフもみんなそう言って私を苦しめた。
他の子の親達も笑顔君は知的障碍児だから私たちの子と違って
何でここに居るのだと言う目で見ていた。

だから一年で療育センターの通所をやめて
知的障碍児通園施設に行った。

心が育ち、やる気が育てば歩けると信じて。

そして、歩けるようになってみんなと違う知的養護学校に入って
ざま~みろと言って見返してやるつもりだった。

でも、歩けるようにならなかったし、またみんなと同じ学校へ行くことになった。
見返すことが出来なかった。

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トラウマの始まり

2005年05月12日 23時14分32秒 | トラウマ(心の傷)
トラウマが始まる前は、一瞬これが治るってことなのねと言う時期があった。
トラウマが出現しなければ治ったかもしれないなんて思ってしまう。

それは「新潟中越地区地震」の夜から出現した。
中越地区ではないため、直接の被害はなかったが、すごく揺れた。

実は今から40年ほど前に「新潟地震」があったのだ。
その頃はまだ1歳半くらいで記憶は無いのだが、身体が覚えていた。

その夜から3日寝られず、食事ものどを通らなくなり、めまい
のどが詰まる感じ(泣きたいのに泣けない時や夢の中で言いたいことが言えなくて苦しい)
などが出始めた。夕食時だったので食事の時間になると苦しくなった。

カウンセリングの先生によると多分「その時も」同じ症状が出たはずのこと。
まだ、小さくて上手く怖さを大人に伝えられなっかただろうし泣くにも泣けなかったのだろう。
心のケアなども無かっただろうし・・・・・。
その日をきっかけとして、忘れていたいろいろな心の傷があふれ出し始めた。

まるで、戦場(経験ないけど)のようだった空港が近いためか、
我が家の上をひっきりなしにヘリが飛んでいた。
夜明け4時ごろから8時ごろまでその音も怖かった。
TVはそのニュース一色になり、毎日毎日地震発生の日の映像を流し続けた。

そう言えばやっと最近ヘリの音が至近距離で聞かれなくなった。
めったに飛行機も飛ばないし・・・・・・・。何だったんだろう・・・

やっと最近普通食がのどを通るようになった。

実際に被災した中越地区のことを思うと胸が痛む。

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うつになって最近思うこと

2005年05月11日 22時17分18秒 | かなわぬ夢の後「そしてそれから」
抑うつだと、言われた時パソコンで調べまくった。
うつ状態とうつはどう違うんだろうとパソコンにへばり付いていた時期があった。
お気に入りは「うつ」でいっぱいになった。どんな病気か、軽いのか重いのか、
不安で一杯で苦しくて寝られない日々が続いた。
専門家のHP,個人のHPその中で【精神科医がうつ病になった】と言うサイトを見つけた。
本来であれば本を読んだ人が感想を書くページだったらしいが、本より先にサイトに行ってしまった。
その後いろいろあってやっと本を購入して読んだ。
なんとなく自分と似ていて涙が止まらなかった。


うつは、「克服する」とか「治す」ではなく、心に負担がかからないように、「どうやって上手くつきあっていくか」という病気だと書かれていました。

私も最近思うのですが現状(障碍児の母)は変わらない、
薬を飲みながら60%の力で生きていこうと思ってます。

以前の私には戻らない、戻れない、急がずあせらず諦めず生きたいです。




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食事が一緒にできない

2005年05月09日 22時19分23秒 | 夫の話
私達夫婦は、恋愛結婚ではない
完璧な見合い結婚だ。
好きで結婚したのではない嫌じゃないから

「がーこの世界」に詳しくかいてあるので、ここでは触れないが
うつになって、トラウマが出てくるようになると
夫と食事をするのが耐えられなくなってきたのだ。

嫌じゃないから結婚したので、嫌になったらおしまいなのです。
だから時々食事時に顔を合わさないように逃避して寝るがーこです。

子ども達のためにも父親は必要だし、
嫌にならないように努力してます。
ウツモードの時は特に耐え難い食事の時間です。
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トラウマ

2005年05月09日 21時54分24秒 | トラウマ(心の傷)
笑顔君は、措置入所なので措置費決定のための
書類を提出しなければならない。
今日はやたら眠い日で10時頃から午後3時近くまで
布団から出られずグースカ寝てしまいました。

それから昼ごはんを食べてなのでほとんど夕方
予防の意味で飲んでる「デパス」飲むのを
忘れていた。

措置費の書類を書き終えたとたん呼吸困難
動悸、胸の痛みに襲われた。
急いで「デパス」を飲んでパンダのぬいぐるみを
抱きしめて布団に入った。

「笑顔君を入所させるための書類」それだけで
身体が反応してしまう、自分でもびっくりした。

「がーこさえウツにならなかったら」とまだ
心のどこかで自分を責めているのかもしれない。

いるべき場所にいない笑顔君
そろそろ会いたくなってきた
来週にでも連れて来ようとがーこの母が言った。
この頃うつモードに入ってるからな~
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知的障碍児通園時代

2005年05月08日 22時42分53秒 | バリアの中のバリア
笑顔君はやる気さえ出れば歩くんだな
ってことで療育センターの通所を1年で退所して、
市内の知的障害児通園施設
母子通園することになった。
歩けない子と3歳未満は母子通所が原則だった。

でも、日程君が普通の子だと思っていたから
決心したんだけど、分かっていたら退所しないで
日程君にもっといろいろな道を選択できたかもしれない。
後悔しても仕方が無いがこの頃から日程君はおかしくなった。
週2回だけ笑顔君は通所していた。
帰ってくると日程君は、笑顔君にたいして熱烈歓迎で迎えてくれた。
なのに、ある日突然笑顔君は毎日でかけるようになると言う環境の変化が
日程君に大きな影響を与えたのかもしれない。
私と日程君との母子関係が希薄にになった。

知的障害児として入ったつもり
だったのだが、施設側は肢体不自由児としてみていたらしい。

入園の頃は歩けなくても後から入ってくる子たちが、
歩けるようになると母子分離が始まって単独通所に、
笑顔君は一向に歩けるようになる気配は無かった。
母の休息の時間は笑顔君の食事介助をして、
自分が控え室でお弁当を食べるほんの20~30分だけだった。

他に母子通園は筋ジス兄弟、歩けるけど頭の手術を受けたため
なにかあったら責任が取れないからと言われた子だった。

それで、みんなで市に陳情してみた。
回答は
ここは、知的障害の施設です。
あなた方身体の方は前の園長先生のご好意で入っているのです
と言われました。

いったい笑顔君は何者なんだろう

結局母子分離が叶うことなく卒園することになる。

日程君もこの頃には「自閉的傾向」と言われていたから笑顔君最後の年には日程君もこの施設に入ることになっていた。

園長先生はやっと国レベルで、そうできないか話し合いが持たれたばかりです。
園としては受け入れるつもりで研修などに行ったが市が「うん」と言わないんだ、
それにあなた達を受け入れるためには今の定員を50から30にしなければならないと言われ
じゃあそうして下さいとは言えなかった。
笑顔君のために日程君のような子が20人入れなくなるなんて
絶対言えない日程君の母としてがーこは言えませんでした。

そして、翌年二人の子どもと母子通園が始まりこの頃から回転性の眩暈に悩まされることになった。
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キーホルダー

2005年05月08日 21時33分57秒 | 夫の話
夕食後、「はい、これ片付けてたら出てきたから」とキーホルダーを渡す夫。
確かにいろいろ携帯にぶら下げてるがーこですが、何でもいいと言うわけではない。
「はいどうも」と受け取ったら恋愛占いのキーホルダーだった。
今更、恋愛占ってどうするんだ~~~~~。
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連休はめまいで寝てた

2005年05月07日 21時27分12秒 | かなわぬ夢の後「そしてそれから」
連休前の、病院でもカウンセリングでも
この二週間調子が良いですって
言ったばかりだったのに、次の日から
回転性のめまいが出始めて
連休は寝込みました。

原因は「ブログにいろいろ書きはじめたこと」だと
思う。未だがーこの心の中では消化してないこと。
自分でどつぼに落ちたんだわ
でも、トラウマ(心の傷)は自分で安全地帯を
増やしていかなきゃいけないんだからしょーがないんだ

いつかこんな日もあったねって笑い飛ばせる日も
来るさ・・・来るよ・・・・来るかな
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それって、いつのはなし

2005年05月07日 00時37分46秒 | 夫の話
1週間前のカウンセリングの帰り
「ほら、あれが日産のファーゴ(だったような)だよ」
と、突然言い始めました。
「へっ?だから何」
「ほら、言ってたじゃないあの車外車かなって」
「それって、いつの話?」
「笑顔君が入院してた時」
そんな10年も前のこと言われてもね~。
でもすげ~記憶力
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てんかんと自閉症(発達障碍)

2005年05月05日 21時31分27秒 | 障碍の違う兄弟
てんかんと自閉症って似てると思う。
状況がと言う意味でです。

一般に障碍基本法と言えば「身体」「知的」「精神」の
ことを言う。(法律の名前間違ってたらごめんなさい)

「てんかん」と「自閉症」は附帯事項として載っているだけで
障碍と認められているわけではない。
どちらも自閉症だけてんかんだけではなんの福祉の恩恵はない。
(「てんかん」は通院費助成があるけど)
知的障害があれば「療育手帳」身体障害があれば「身体障害者手帳」
それぞれの等級によって、自治体によってちがうけど福祉の恩恵が
受けることができる。

何も無ければ何も無いてんかんで手帳を取るとすれば
「精神障害手帳」になるけど恩恵は少ない。

自閉症は自閉症として重度でも知能テストの出来がよければ
軽度の判定しか出ない。
「軽度の療育手帳」では恩恵は少ない。
高機能になると手帳は出ない福祉の恩恵は受けられない。

「発達障碍者支援法」が施行されたどれだけの支援が受けられるのだろう
まだ始まったばかりだ。
支援費の見直しも始まるようだ介護保険のようにならなければよいが
「送迎だけ」には使えなくなるらしい。

てんかんの通院費も改悪されそうだ。
だんだんいやな世の中になっていく

 何を言いたいのかというと「日程君」は、療育手帳は軽度なので
「医療費が助成がない」
ので通院費を申請しようとしたけど
もっと精神病的な病名じゃないとだめと医事課で断られた。
アレルギー、精神安定剤、などで医療費はかさむ

がーこも申請したけど返事が無いダメかも・・・・医療費はかさんでいく。
もうこうなれば愚痴になってしまってお茶お濁すことになちゃった。
何を言いたいんだったけ・・・・・・
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障碍の違う子ども達でよかった

2005年05月04日 10時07分59秒 | 障碍の違う兄弟
最初の赤ちゃんは生まれてこなっかた。
笑顔君が生まれるまでの5年間に
母方の義理の伯父が亡くなり、祖父が亡くなり
がーこの父が白血病で8ヶ月の闘病の末亡くなった。
笑顔君の誕生はみんなを悲しみの淵から救い出してくれた。
親戚中に笑顔が戻ってきた。

笑顔君がてんかんで入院している時さまざまな人達との
出会いと別れをたくさん見てきた。
退院後小児療育センターに3ヶ月母子入所した。
その中に自閉症の親子が居ました。
笑顔君母とその他の母達は自閉症を知らなかった。
とにかく朝起きない、掃除をしない、当番もしない、保育師さんを独占して遊んでいる
みんな喧々囂々だった。もちろんがーこも

日程君が産まれて日程君が自閉症だと
分かって初めて朝起きられるわけ無い、掃除してる暇も無い、
子どもが夜寝ないんだからなどが分かったのだ。
そして保育師さん達と遊ぶのが訓練だったことも

笑顔君の母だけだったときはその大変さに気づくことのない傲慢な母
だったのだ。今更10年もたってからだけどごめんなさい
ほんとにごめんなさい

笑顔君は手が自由に動かせない目が見えない
だから通園時代の作品はがーこ作であった。
日程君が生まれておもちゃが消耗品だと知ったし
にぎやか(騒々しいやかましい)になり
母の日のプレゼントはもちろん日程君作
日程君語もあるけど、おかあたんって呼んでもらえてとってもうれしい

日程君の母だけであったらやっぱり笑顔君のような子ども達のことが分からなくて
困った母が出来上がっていたに違いない。

笑顔君にとっても今まで声を出さずともかまって貰えて殿様だった。
でも日程君の出現で声を出さなきゃ忘れられる(笑)と言うことを
学習したのです。
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うつになった(病院編)

2005年05月02日 21時21分00秒 | 病院受診

ところで、初診の日送ってもらったけど付き添いは居なかった。
未だ支援費使ってなかったから「日程君」を連れて病院で
長時間待つわけも行かず帰ってしまったのよ。
家族の方はと言われて帰りましたというと、ため息の先生。
「抑うつです。」って言われて不安度テスト?したら
「不安状態がかなり強い」ってことで薬が処方された。

担当の先生は未婚の若い女医さん。途中で結婚したけど
最初コミュニケーションが取れなくて困った。
精神的な悩みを言うと「ここは内科ですから」???????????
あれ?心療内科じゃないのか?
パソコンで調べまくって分かったんだけど
内科医と精神科医がやっているところがあるそうで、
私の行ったところは、幸か不幸か内科でしたしかも「心身科」
7ヶ月の間苦しみは増すばかり子育てしたこともない先生に
何を言っても立て板に水、「内科ですから」・・・・・・。

「内科ですから」って言わないで下さいと言ったし
精神科にいきたいとダダを捏ねたことも有った。

だいたい2週間のことを私覚えて無くって自分で記録して
もって行くようになると先生とも何とかまともな会話が
成立し始めた。

担当の先生がお休みの時たまたま女医先生の指導教授に
見てもらえることになった時、
「日程君」がちょうど脱走頻繁時期だったから
「もしこの子に何かあったら生きていけない」と言うと

絶対死んではいけないよ
はじめてやさしい穏やかな言葉をかけてもらって涙が溢れてきた。

そしてカウンセリングを紹介してくれた。
やっとその時から少しずつ楽に病院に通うことができるようになった気がする。
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なんでーこうなるのぉ~~~~~。

2005年05月01日 21時25分11秒 | 障碍の違う兄弟

それぞれの子ども達の障碍の会(親の会)に
友達が欲しくて、情報が欲しくて入会した。

そこで普通なら聞いても別に心傷つくこともない
言葉の嵐に振り回されることになった。
様はもう一人の障碍を持つ子どもの悪口を
聞かされることになるのだ。

そのたびに日程君の親の会では笑顔君の母が
笑顔君の親の会では日程君の母が突然出没し、
反論したり、説明したりしちゃってる。

私の中に別々にそれぞれの母がいて合体できないで
おかしなことになってしまうのだ。
それって、疲れる。

で、知的障害という面では同じだからと
全国どんな小さな町にもある○○会に入った。
これで私は、二人の障害児の母で居られると思っていた。

が、知的障害児としては重度過ぎる笑顔君
ここの会の人はどうやら「肢体不自由児」と
見ていたらしい。
まあ確かに重複障碍だけどさ・・・・・
夢がかなう場所がここで出来るはずだったのに、
出来ませんでした。

ようは、知的と身体の親の会が連名で陳情して
障碍が違っても一緒の場が出来るはずだった。
でも・・・・・・・・またここで
お互いの理解が足りないのも原因だけど
障碍別のものが出来ても希望すれば選べるものが
出来るはずだったと思ってたけど・・・・・・。

結果は各学校ごとに出来ることになった。
重度優先てことで養護学校から始まった。

この会もあくまでも笑顔君の母だけが必要だったんだ
って今は思ってる。

居場所が無い


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