心配するな!なんとかなる。

今起きていること、ちょっと立ち止まって考えてみよう。

朝霞の森 今昔 記憶に残るもの

2014-01-16 19:26:40 | 日記
2014/1/16

<手投げ弾?>小学生らが遊び道具に 公園を当分閉鎖 埼玉
毎日新聞 1月16日(木)18時14分配信



「朝霞の森」で見つかった旧日本軍の手榴弾と見られる金属片=朝霞市提供
 埼玉県朝霞市の元国家公務員宿舎建設予定地跡に一昨年オープンした市民広場「朝霞の森」(3ヘクタール)で、旧日本軍の手投げ弾とみられる金属片が見つかり、同市は15日から当分の間、同公園を閉鎖すると発表した。

 金属片を見つけたのは、同公園で遊んでいた小学4年生らのグループ。13日に市民グループが同公園で開催した「冒険遊び場づくり」に参加した際、円柱状の金属片(長さ8.5センチ、直径5センチ、重さ0.8キログラム)を拾い遊び道具に使っていた。開催スタッフが預かり14日、市に届け出た。

 市都市計画課は朝霞署、陸上自衛隊に金属片を照会。「旧日本軍の手投げ弾と酷似している。信管はなく爆発の危険はない」との報告を受けたため、同課は専門業者に調査を依頼し、安全が確認できるまで公園の閉鎖を決めた。【海老名富夫】
                   
                   ☆

朝霞の森で、手榴弾発見の報を受け、地元主婦のコメント「危ない 早く撤去を」

そんな話しか報道できないのか、反日メディア。

せめて、この程度言って欲しかった。

平和を享受している現代に、戦火の残滓を見るにつけ、僅か70年前の生死を賭けて郷

土を守り抜こうとした先人の想いを感じ、当時の祖父母の苦労に涙がでる。

なお、キャンプドレイクと呼ばれたこの地で進駐軍とともに戦後逞しく生きた慰安婦

達も懐かしく蘇る。

日本女性は、星の流れと共に静かに消え、決して、世界記憶遺産への登録など望みはし

ないであろう。

代わりに我等は靖国に手を合わせるだけだ。

有史以来、かけがえの無い我が国土には、何千、何万という人の汗と涙が沁み込んでい

る。 

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                   ☆



君たちに伝えたい 朝霞、そこは基地の街だった。
中條克俊著

定価1800円+税  
A5判 196ページ 並製
ISBN4-8166-0608-4  C0021
2006年刊行

朝霞、戦前は軍都、戦後は基地の街だった。戦後の復興をささえた基地の姿を、そこに暮した人々をたずね、資料からあきらかにする。一教師が丹念に調べた朝霞の占領時代史

【プロフィール】

中條克俊(チュジョウ カツトシ)
1956年東京都新宿生まれ。新宿区立淀橋第七小学校、淀橋中学校(いずれも廃校)に学び、淀橋浄水場跡地(現在の新宿新都心)に超高層ビルが林立していく様を毎日眺めながら育つ。都立新宿高校に進学してから、新宿駅南口「旭町」のドヤ街、東口の「赤線地帯」跡、西口の「ションベン横丁」(正式名称「新宿西口思い出横丁」)に関心を持つ。埼玉大学経済学部卒業後、1981年より埼玉県公立中学校教員(社会科)となり現在にいたる。地域から見える戦争と平和を研究テーマとして、教材づくりと教育実践(平和学習)に専念している。
歴史教育者協議会会員。早稲田大学教師教育研究所招聘研究員
上記内容は本書刊行時のものです。


【目次 】

キャンプ・ドレイクについて 
まえがき 
一章 駅前商店街通りから見える―まっすぐに延びる一本道
1 国家公務員宿舎「朝霞住宅」建設問題 
2 本田美奈子と駅前商店街通り 
3 シベリア抑留と朝霞 
4 かめさん食堂 
5 町中にあった引き込み線 
6 尾崎豊が歩いた坂道 
7 もうひとつの「泣き叫ぶ魂の森」 
コラム1 16歳のオリンピアン 
8 クオンセット・ハットとスタッグ・バー 
コラム2 モハメド・アリのポスター
9 関東計画と基地返還 

二章 元ゴルフ場から―東洋一のゴルフ場から陸軍予科士官学校そしてサウス・キャンプ
1 東洋一のゴルフ場 
2 「鉄道王」根津嘉一郎 
3 「幻の朝霞大仏」 
4 陸軍予科士官学校からサウス・キャンプへ 
5 ルーム・ボーイの夕食はリメインド・チャウダー 
コラム3 映画『この世の外へ クラブ進駐軍』(坂本順次監督)と第一騎兵師団 
6 在日義勇兵 
7 マラソンランナー円谷幸吉 

三章 「日本の上海」から見える ―南栄通り1000メートル
1 日本の三大休養施設と「日本の上海」 
2 「血取り」と「日本の上海」の事件簿 
コラム4 サヨナラ増田屋旅館 
3 広沢池の観音堂 
4 『基地日本』と朝霞「基地の子」 
5 私の親分はキリスト 
コラム5 軍需品だったコカ・コーラ 
6 進駐軍ジャズ発祥の地 110
  
四章 キャンプ・ドレイクから見える―第一騎兵師団司令部からリトル・ペンタゴンへ
 1 キャンプ・ドレイクとモモテ・ビレッジ 
コラム6 朝鮮戦争と朝霞町人口倍増 
 2 キャンプ・ドレイクの頭脳 
 3 キャンプ・ドレイクで行われたこと 
  コラム7 映画『地獄の黙示録』に見る第一騎兵師団 
  コラム8 ベトナム戦争と反戦歌 
4 日米共同作戦計画 
 
参考文献等 
あとがき 
キャンプ・ドレイク 

【著者まえがきより】

まえがき
 二〇一二年一一月四日、さわやかな秋空の下、基地跡地の一角に「朝霞の森」(公募による命名)がオープンしました。オープニングセレモニーで、チャーリー・パーカーの「ナウ・ザ・タイム」そしてデューク・エリントン楽団のオープニング・ナンバーで有名な「A列車で行こう」が朝霞高校ジャズバンドによって演奏された時は、地元ならではの手作り開幕にうれしくなりました。戦後アイドル歌手第一号と言ってもよい江利チエミの「テネシーワルツ」が流れてきた時には、感極まりました。デビュー間もない十八歳の江利チエミは、ここキャンプ・ドレイクで腕を磨き大人気のジャズ歌手に成長していったのです。朝霞は進駐軍ジャズ発祥の地のひとつです。戦争を象徴するアメリカ軍隊と一緒に平和を象徴するジャズも朝霞に進駐してきました。

 三十数年前ここ朝霞の地でわたしの教員生活がスタートしました。その頃は「校内暴力の嵐」が吹く「荒れる学校」が全国的に問題になっていました。モップの柄で穴があけられ、破壊された天井の張り替えが私の教員としての最初の仕事で、生活指導、家庭訪問、職員会議が続き、連日最終電車に滑り込み、深夜一時に新宿の自宅に帰宅した頃がなつかしく思い出されます。騒然とした生活の中でくたくたに疲れ、心が折れそうになった時に救いだったのは生徒の声でした。
 あたふたと毎日が過ぎていく中で、ジャガイモの花が白いことを初めて知り、図鑑の中でしか見たことのないつくしんぼを黒目川の河川敷で発見して驚いたことを生徒に話して呆れられたことは楽しい思い出となっています。今でも職員室ではボーッとしていますが、教壇で生徒の前に立つと身にしみ込んだサービス精神がわき起こり、条件反射的に元気になる気質はその頃に作られたような気がします。

 その新米教員の頃のことです。何かの用事で市役所へ行った帰りに、周辺をぶらぶら歩いていると、延々と続くフェンスが目に入ってきました。中を覗くと、見渡す限り緑、緑のジャングルでした。そこが米軍基地であり、謀略基地であったという話以外くわしいことはわかりませんでした。教員生活に余裕がでてきて、朝霞の歴史を調べてみよう、地域の方々に聞き取りをしようということになりました。キヤンプ・ドレイクの任務のひとつが、インテリジェンス(軍事的な分野で広範囲にわたって情報を収集し分析する機関、役割。諜報活動)を中心とするコミュニケーション・センター(情報・通信基地)であったことがうっすらと見えてきました。
 二〇一二年現在、米軍の世界展開はどうなっているでしょうか。世界各地に約三〇万人の兵士が駐留、米国領内に一二二万人、合計で約一五〇万人もの兵士が展開しています。日本に注目すると、陸、海、空各軍と海兵隊の三万六七〇八人の米兵が駐留しています。米軍が日本で所有する施設・設備は八九五一か所です(『朝日新聞』二〇一二年三月二五日)。中でも、国土面積の〇・六%しかない沖縄に在日米軍基地面積の七四%が集中しているのが現状です。米兵による犯罪、普天間飛行場の移設問題、オスプレイ配備など沖縄の基地問題は、ウチナーンチュ(沖縄人)だけでは解決しようもない状況です。
 沖縄が米国施政権下(米軍占領)にあった時代、「ここは沖縄と一緒だ」というつぶやきが聞こえてきたといいます。地域住民は「ここは西部劇に出てくる無法地帯化した街のようだ」とささやきました。「ここ」とは、言うまでもなく基地の街朝霞を指します。米兵による暴行、傷害、殺人事件、麻薬密売、買売春問題、米軍機による事故・騒音などの基地公害は日常茶飯事でした。そして、「ここ」では、日本国政府よりも米国の思惑第一に動いていました。今の沖縄が置かれている状況と構図は一緒でした。
 地域の掘りおこしは地域おこしです。地域住民と朝霞市が共同・協同して完成させた「朝霞の森」の取り組みがそのことを教えてくれました。基地問題と基地跡地の利用を考えるにあたって、基地の街朝霞の出番が回ってきたようです。本書は私なりのキャンプ・ドレイク物語ですが、地域から戦争と平和を考える一助になればと思っています。本書を手に「朝霞の森」に行かれ、「現在と過去との対話」(E・H・カー)を試みていただけるとこの上なくうれしいです。
   2013年6月 中條克俊

【紹介されました】

[朝日新聞・埼玉版/毎日新聞・地域版]に早速紹介記事が掲載知れました!


【朝日新聞・埼玉版】


【毎日新聞・地域版】

        ☆

朝霞、JAZZが流れる街の歴史を掘り起こす。若者たちに伝えたい、かつての「基地の街」の歴史と現在――。
2012年基地の待ち秋、基地跡地に「朝霞の森」がオープンした。ここは戦後、キャンプ・ドレイクと呼ばれた米軍基地があり、極東のインテリジェンス(諜報活動)を全面的に担ったという。「基地の街」が背負った歴史を著者はここで暮らしてきた人びとに話を聞きながら、明らかにしていく。
 前書『君たちに伝えたい 朝霞、そこはだった。』(2006年)から7年目、続編の刊行!
★早速紹介されました!
   朝日新聞・埼玉版/毎日新聞・地域版で、記事になりました!



                  ☆


キャンプ・ドレイク出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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Camp Drake 全体の概要図 昭和49年撮影の航空写真より
同地域全体の概要図 平成元年撮影の航空写真よりキャンプ・ドレイク(英: CAMP DRAKE)は、埼玉県和光市、同県朝霞市、同県新座市、東京都練馬区にまたがる、アメリカ陸軍第8軍団[1]隷下部隊、第一騎兵師団(en:ウィリアム・チェイス将軍)が駐屯していた基地の名称である。旧米軍朝霞(あさか)キャンプ。施設番号はFAC 3048。

キャンプは「キャンプ・ノース(英: CAMP North)」「キャンプ・サウス(英: CAMP South)」から成る南北2つのエリアで構成されている。基地面積は約31.7平方キロ。一部地域を除き返還済みである。なおドレイクとは、1945年(昭和20年)マニラの戦いにて戦死した同騎兵師団大佐であったロイス・A・ドレイクに因む。[2]


目次 [非表示]
1 返還概要
2 キャンプ・ノース
2.1 帝国陸軍被服廠時代
2.2 米軍進駐後
2.3 返還後
3 キャンプ・サウス
3.1 帝国陸軍以前の歴史
3.2 朝霞大仏・大梵鐘計画
3.3 帝国陸軍時代
3.4 川口放送所占拠事件
3.5 進駐後の文化交流・治安問題
3.6 オリンピック村構想
3.7 自衛隊体育学校の設置
3.8 現在
4 その他
5 沿革
6 脚注・注釈
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク

返還概要[編集]北キャンプは、ベトナム戦争からの米軍撤退を受けて陸軍部隊が1970年代前半に他の米軍基地へ移転し、代わって第5空軍第475基地航空団[3]の管轄下に置かれていたが、1976年(昭和51年)11月30日に変電施設[4]および給水施設、ならびに中心部分を除く401,246m²が返還された。なお返還された土地のうち未返還地区の縁辺部分に隣接する3,846m²の区域は返還時の取極めにより緩衝地帯として保持する目的で事実上米軍へ継続提供され跡地利用が留保・制限されていた。[5]
1980年(昭和55年)12月19日には、県立朝霞西高の開校により、同校の校庭内に残存していたノースキャンプの給水施設(土地約80.94m²、建物約18.39m²ほか井戸、囲障等工作物)と地下に埋設されていた水道管の地役権が返還された[6]。
残余の未返還地区である117,359m²は米空軍の自動デジタル通信網スイッチ施設[7]として使用されていたが、1980年代半ばまでに米軍の通信網やシステムが近代化されたことに伴い横田飛行場への機能移転が決定し、移転完了後の1986年(昭和61年)2月14日をもって北キャンプの全域が返還された。[8]
南キャンプは、1973年(昭和48年)1月23日に行われた日米安全保障協議委員会第14回会合において協議された「関東平野合衆国空軍施設整理統合計画(KPCP/通称・関東計画)」に基づき1973年(昭和48年)6月20日に南地区内のゴルフコース・リクリエーション施設・兵舎地区の大部分が返還されたのを始め1978年(昭和53年)7月10日までに現演習地である根津パーク地区、住宅地区、放送局地区、ベーカリー・製パン工場地区も順次返還され後は国有地などになる。このことから跡地には国の施設や公団などが多く建設されている事が特徴である。現在、和光市南地区にあたるAFN送信用アンテナが設置されている敷地が残るのみとなっている。[9]
キャンプ・ノース[編集]
キャンプ・ノース概要図 昭和49年撮影の航空写真より。北側中央に見える特徴的な建物がリトルペンタゴンである。キャンプ・ノース・ドレイク(CAMP North Drake)ノースキャンプ。埼玉県朝霞市内に存在する国道254号(川越街道)[10]より北側、朝霞市役所手前までの敷地を指す。一般にキャンプドレイクと呼ばれているのは、このノースドレイク跡地の事を指したものである。帝国陸軍被服廠(ひふくしょう)跡地。[11][12]

帝国陸軍被服廠時代[編集]東邦電気研究所、銃器弾薬を生産した中央工業 新倉工場、計算尺を生産した逸見製作所 白子工場、風船爆弾の気球部分である和紙を製作した共和航空、同じく風船爆弾の高度保持装置フレームを製作した中外火工品 白子精機工場、菱興金属工業、日本鋳物工業、東京部品工場、山本螺子、松本興業、昭和食品、興和製作所など町工場が現在の和光朝霞地域に多くあり、中島飛行機ラジエター製作所である「皇国3002工場」と呼ばれた伸銅工場などもすでに操業しており、東武東上本線や幹線道路など輸送に適した立地であったことや朝霞作業廠が完成することにより所沢と並び大規模軍需施設となるため、陸軍の白羽の矢が立つこととなる。

当初、赤羽から陸軍被服廠本廠の分廠のみが移転。その後、陸軍により買収され10万坪に及ぶ大規模軍需工場の建設が開始され1941年(昭和16年)に正式操業を開始。工場の本格操業に合わせ1940年(昭和15年)に朝霞駅から被服廠朝霞出張所までの引き込み線が作られている。[13]

米軍資料から南地区を含む被服廠地域を爆撃目標から外すなど戦後政策が考慮されていた。[14]

米軍進駐後[編集]ノースドレイク敷地内にはリトルペンタゴンと呼ばれる第500情報団本部や米陸軍戦略陸軍通信隊(STARCOM)の主要中継局舎が作られ、これに付随した送信アンテナは桃手地区(現:和光市 南地区)に建設。名称もFEN東京となる。輸送隊、憲兵隊、補給隊が駐屯。これに纏わる隊員宿舎やバーなども建設され、1952年(昭和27年)には米軍極東指令部(ダグラス・マッカーサー司令)が置かれ朝鮮戦争時には諜略撹乱放送なども行われている。[15]また基地に従事していた日本人は4000人に及んだ。

朝鮮戦争時には、駐屯していた第一騎兵師団から1万5000人もの兵士が前線へと送られることとなる。この派兵は3ヶ月交代であり、朝霞は帰休兵の休暇場となる。この時期に基地内に戦車を修理するための修理工場なども作られている。基地周辺では様々な人種が絡む殺人、暴力事件や窃盗、買売春などが発生し治安が悪化。埼玉の「上海」と呼ばれるようになった。[16]この治安悪化により浦和警察署管内であったが、治安対策のため1947年(昭和22年)に朝霞警察署が建設されている。[17]戦死者が多く、辛うじて帰還した兵士も精神を病んでしまうことが多かったため、これが機縁したとも言われている。

ベトナム戦争時には、傷病兵治療のための野戦病院「米陸軍第249総合病院」を北キャンプ内に建設し、それに伴うヘリポートも併設される。[18]完成当初、延べ床数は200床であったが、ベトナム戦争が泥沼化するにつれその数は2000床を超え、テト攻勢時には傷病兵が入れ替わり運ばれていた。また戦死者の死後処理は日本人に委託されていたとも言われている。[19][20]担架に乗せられた傷病兵や遺体袋がフェンス越しに見えることによる精神的影響、伝染病などの衛生面での問題や搬送ヘリコプターが飛来するたびに、付近の朝霞第6小学校の授業がその騒音のため中断されることなどが問題視された。この時期には朝霞基地問題がマスメディアなどで取り上げられることが多くなり、大規模基地返還「野戦病院さよなら運動」へ繋がるきっかけとなる。1968年(昭和43年)には、活発に行われていた学生運動家による野戦病院反対デモ隊と警察機動隊が市内にて衝突している。[21]

全面返還の際には、基地の日本人従業員の中から自殺者が出た[22]。

返還後[編集]主な転用先として朝霞市民会館、朝霞市立図書館、朝霞中央公園野球場、青葉台公園、小中学校や高等学校など。
東武東上線の鉄道引込線終点地である新倉倉庫地区(現:和光市 本町地区)は1971年(昭和46年)全面返還。
1986年に放送を開始したあぶない刑事シリーズでは、横浜市中区本牧のアメリカ海軍住宅跡地という設定で、頻繁にロケに使用された。
1989年(平成元年)8月13日には『THE ALFEE』の野外コンサート「U.S CAMP DRAKE ASC」が[23]開かれた。

詳細は「THE ALFEE」を参照

1995年(平成7年)から毎年8月初旬に行われるよさこい市民夏祭り、「彩夏祭(さいかさい)関八州よさこいフェスタ」[24]はこの跡地に面した道路を封鎖して行われる。
2008年(平成20年)フェンスで仕切られている20ヘクタールは未整理区画であり協議中。国や県市が進める国家公務員宿舎計画があるが、市民側は緑地利用を求めている。[25]
詳細は「朝霞市」を参照

キャンプ・サウス[編集]
AFN送信用アンテナ 和光市にて2008年撮影キャンプ・サウス・ドレイク(CAMP South Drake)サウスキャンプ。国道254号川越街道より南側を指す。東京ゴルフ倶楽部、帝国陸軍予科士官学校跡地。[26][27]

帝国陸軍以前の歴史[編集]東京ゴルフ倶楽部[28](東京ゴルフ株式会社1914年(大正3年)創業)は、東京駒沢にて「駒沢ゴルフ場」として営業していたが、手狭になり近郊で候補地を探していた。現在の朝霞市、当時の膝折村(ひざおりむら)に土地を見つけ移転する。また早い段階から移設準備を始めており、1930年(昭和5年)5月には民有地19万2200坪を買収し登記を完了していた[29]。このゴルフ場はイギリス人C.H.アリソンによって設計された[30]。場内にはクラブハウスが設けられ、室内にはサロン室、婦人室などを完備し傍には25mプールもあるなど当時としては豪華な施設であった。また、設計にあたり京都への庭園見学を実施しこれを反映させたとも言われている。[31]


東京ゴルフ倶楽部の痕跡「びわ湖」一部未完成地域が残ってはいたが、1932年(昭和7年)5月1日に「東京ゴルフ倶楽部」膝折ゴルフ場として開場し、朝香宮鳩彦王による始球式が行なわれている。1934年(昭和9年)11月6日には日米野球で来日していたベーブ・ルース、フランク・オドールと外交官であるジョセフ・グルーが来場している。このゴルフ場で日本オープンが開催された実績などもある。その後、陸軍により買収され閉園。1941年(昭和16年)3月15日にはお別れ競技会が開かれている。ゴルフ場は狭山に転居し「秩父カントリークラブ」と合併。現在、埼玉県狭山市において「東京ゴルフ倶楽部」となっている。1941年(昭和16年)10月に市ヶ谷より陸軍予科士官学校が移転する。

現在の朝霞駐屯地構内の池「びわ湖」は三番ショートホールの名残りである[30]。

朝霞大仏・大梵鐘計画[編集]1933年(昭和8年)膝折上の原の地(現:武蔵大学グランド、自衛隊演習地)に根津公園計画が立案される。東上鉄道社長であった根津嘉一郎が5万坪(約16万平方メートル)を購入し計画した一大レジャーランド施設である。1935年(昭和10年)には購入した根津公園内に梵鐘、大仏用台座を製作する鋳造工場を建て梵鐘製作が始まる[32]。京都の梵鐘技師である高橋才次郎を招き鋳造された。この梵鐘は、高さ3m90cm、重さ6750キロで日本第3位の大きさを誇った。またこの年、武蔵の原には大仏用の鉄骨造り30mの作業所が建設され、この作業所に於いて彫刻家、内藤仲による大仏原型の作成が行われ、1937年(昭和12年)には130万円もの巨費を投じた高さ58尺(19.1m)、仏身39尺(12.8m)、蓮台9尺(2.9m)大仏の原型が完成している。[33]

大仏設計者である斎藤歳次郎は「昭和の大仏として永久に残るもので、精神をこめてつくり、見て自然と頭が下がるものにしたい」と語っている。なお大仏の本完成を前に根津公園には記念碑が建立されている。

この年に日中戦争が勃発。その後の太平洋戦争時に陸軍予科士官学校や近隣地区に存在した大和田通信所の目標になるとされ計画は中止、完成していた大仏の原型は破壊されている。梵鐘は金属提供され[32]軍需物資へと成り変わった。近年この大仏計画に纏わる大燈籠のひとつが、東京多磨霊園に残っていることが判明している。

米軍進駐後には根津にちなみ「ネズパーク」(正しくは“ネヅ”)と名付けられた。

帝国陸軍時代[編集]日中戦争の拡大、対米関係緊迫などの事情から士官学校入学者が激増し、市ヶ谷のみでは対応しきれなくなる。 1939年(昭和14年)4月12日に牟田口少将が陸軍予科士官学校長となり、当時の朝霞町への移転計画が立てられた[34]。この計画は「ヨシ工事」と名付けられ、竹中工務店が施工、また700日で完成させなければならない突貫工事であった。その他、整地、基礎工事段階での困難な重労働は徴用された朝鮮人労務者200人が移転までの2年間担当していた[35]。陸軍士官学校(旧本科)は神奈川県座間(相武台)に移転し、埼玉県豊岡(修武台、現:入間市 航空自衛隊入間基地)には陸軍航空士官学校が置かれている。

陸軍予科士官学校に在学していた生徒は、陸軍幼年学校の卒業生、16-19歳までの採用試験合格者や同じく試験に合格した下士官などで、1941年(昭和16年)から終戦時まで1万5000名もの生徒が学んでいた。中国、タイ、モンゴル、フィリピン、インドなどの留学生なども入学している[36]。

戦争末期には本土決戦を想定した「対戦車肉迫攻撃訓練」[37]が開始される。終戦年の4月7日にはB29による1トン爆弾が学校に命中し、12名が死亡している。なお爆撃目標から外されていたが、南西方向に存在した中島飛行機武蔵野工場を狙ったものが誤爆したと考えられている。

終戦直後には「終戦業務処理委員会」が置かれ、被服廠の軍需物資処理を行なった。

川口放送所占拠事件[編集]終戦直後、陸軍予科士官学校には61期生5000名在籍していたが、空襲が激しくなったため県内外に疎開していた。この中で埼玉県寄居地区に疎開していた教官と生徒の一部が徹底抗戦を求め、同県にある川口放送局を占拠しラジオ放送で国民に徹底抗戦を呼びかけようと蜂起。8月23日の夜半から24日にかけ警戒が十分でなかった川口放送所を占拠した。ラジオ放送を要求したが、送電を停止され実現せず反乱軍は直ちに東部軍憲兵隊により鎮圧された。参加した60名は東部軍司令官にその場で説諭され、その日のうちに予科士官学校へと引き返している。[38]

詳細は「川口放送所占拠事件」を参照

進駐後の文化交流・治安問題[編集]進駐後は主力部隊である第1騎兵師団司令部が置かれる。その他製パン工場、レクレーション施設、下士官クラブや将校クラブ、映画館などが建設され、桃手地区には家族向け居住施設なども建設された。基地外周辺にも米兵相手のジャズ・バーやビヤホール、アメリカン・リージョンクラブ(現:朝霞市 栄町。朝霞第4中学校前)と呼ばれたキャバレーなどがあり、アメリカ独立記念日にあたる7月4日には花火が打ち上げられるなど、夜間は活気に満ちた地域であった。米兵向けの写真店や「スベーニアショップ」と呼ばれるお土産店などもあった。下士官クラブでは渡辺貞夫、フランキー堺、フランク永井、ペギー葉山、江利チエミ、雪村いずみ、ダーク・ダックス、などがステージで演奏している。このことから日本のジャズ普及の地とも言われている。

基地内の日本人作業者が待遇改善を求めストライキなどを起こしMPから暴行を受ける。この他米兵による暴力事件、交通事故、発砲事件、麻薬販売など、現在在日米軍が集中している沖縄で発生している諸問題が発生した。

RAA(Recreation and Amusement Association 特殊慰安施設協会)による米兵相手の「特別女子従業員」募集が行なわれた。その仕事内容が売春とは知らずに応募した女性が多かった。いわゆる慰安婦問題。これにまつわる混血児問題なども発生している。その後、近隣地区である成増(東京都板橋区)にも「成増慰安所」が作られている。[39][40]最盛期には、東上線沿線である池袋や有楽町などから「パンパン」と呼ばれた売春婦が流れ込み、その数2000人にも達する。性病の蔓延と風紀の乱れを防止するため、1950年(昭和25年)9月8日には占領軍が売春取締りに乗り出し、朝霞町に於いて「売いん等取締り条例」が制定され、娼婦は朝霞を追われ大和町(現:和光市)に逃げ込むが、大和町に於いても9月14日に「売いん等取締り条例」が制定された。9月25日の夜には朝霞、大和町署共同での一斉取締り「狩り込み」が行われている。

近隣の住民は基地内での労務を課せられた。内容は草刈りなどで、まるで奴隷扱いだったという。一方で、売春婦に部屋を貸して収入源とする住民もいた。[30]

1955年(昭和30年)8月には核弾頭発射可能なオネストジョンロケット砲が南キャンプに配備され、8月22日基地ペニシリン広場に置いて記者、政府、県関係者などを前に公開され物議を醸した。翌年5月20日には一般公開も行なわれている。[41]

オリンピック村構想[編集]1959年(昭和34年)ミュンヘンで開催されたIOC総会で1964年東京オリンピックが決定される。これに伴いキャンプ朝霞を選手村として一時利用する計画があった。1957年(昭和32年)5月9日に行なわれた日米合同委員会(返還協議)に於いて一時使用案を米軍に提示、米軍側は緊急時には即時返還する事などの条件付で一時使用を認める。政府は桃手地区(現:和光市 南地区)を利用しその後の返還を視野に入れた計画を立てるが、米軍側との調整が難航。その後、米軍側から東京・代々木のワシントンハイツ全域の返還が約束され、選手村はそちらへ建設されることとなった。桃手地区計画は消滅、代わりに東京オリンピック射撃会場となった。根津パークでは近代五種である馬術競技が行なわれている。

自衛隊体育学校の設置[編集]1960年(昭和35年)暫定協定が成立し、南キャンプ内に陸上自衛隊が駐屯した翌年、敷地内に自衛隊体育学校が設立された。東京オリンピック重量挙げ金メダリストである三宅義信や、同マラソン銅メダリストである円谷幸吉などの選手が在籍した[42]。

現在[編集]
和光樹林公園内にある掲示板和光市内跡地には、当時のモモテハイツ北延跡地に理化学研究所が建設され、その他司法研修所、裁判所職員総合研修所、国立保健医療学院、自衛隊官舎、西大和団地、諏訪原団地、南大和団地、和光樹林公園など公の施設や公団住宅、大型公園、小中学校、高等学校などが建設されている。

朝霞市内跡地にはサウスキャンプ利用としては最大となる「陸上自衛隊朝霞駐屯地」、その他労働大学校、税務大学校、埼玉県警察機動隊宿舎、中学校、高等学校、武蔵大学グラウンドなどが建設されている。

新座市内跡地は小学校、高等学校、市営墓地などとして利用されている。

東京都練馬区内跡地は大泉学園町600番台(住居表示実施後9丁目)に編入され、東京都立大泉学園高等学校・東京都立大泉特別支援学校・大泉中央公園や練馬区立の小中学校として利用されている。

その他[編集]跡地より南西方向に埼玉県新座市と東京都清瀬市にまたがる在日米軍(米第5空軍第374空輸航空団)大和田通信所、跡地南東方向にはグラントハイツ(現:光が丘公園、光が丘団地)などが点在している。

沿革[編集]1932年(昭和7年) - 東京駒沢にて営業していた「東京ゴルフ倶楽部」移転開設。
開園当初は「東京ゴルフ倶楽部」膝折ゴルフ場。当時東洋一の広さであった。
5月1日 - 移転当初、膝折ゴルフ場と命名されていたが、膝を折るとは縁起が良くないとされた。
膝折の由来はある武士の馬がここで骨折したことによる。そこで村名の改称と町制施行を同時に行なおうと当時「東京ゴルフ倶楽部」名誉会長であった朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)の名前から同じ読みの漢字「朝霞」の使用許諾を得て膝折村から朝霞町へ移行。「東京ゴルフ倶楽部」朝霞コースとなる。
1935年(昭和10年) - 後のキャンプ・ノースに、陸軍被服廠が置かれる[43]。
10月30日-11月1日 - 日本オープンゴルフ選手権競技が開催される。優勝者は宮本留吉。
1940年(昭和15年) - 陸軍省により買収される。
1941年(昭和16年) - 「東京ゴルフ倶楽部」閉場。
10月 - 陸軍予科士官学校が市ヶ谷から移転。これに伴い、軍の衣料品を調達する施設、いわゆる「被服廠(ひふくしょう)」設立。軍事上重要施設となるに辺り昭和天皇行幸時、この地を振武台(しんぶだい)と命名された。2008年(平成20年)現在も陸上自衛隊朝霞駐屯地内において碑石や振武台記念館として保存されている。なおこの記念館は座間にあった陸軍士官学校当時の建物である。その後、隊員の手で移送された。開校当時陸軍予科士官学校57期生から61期生がここで将校教育を受けた。
1945年(昭和20年)9月8日 - アメリカ陸軍第8軍団隷下部隊 、第一騎兵師団進駐。この被服廠跡地などを「キャンプ・ドレイク」基地として使用する。第8軍司令部は横浜市内横浜税関本庁舎に設営。
1950年(昭和25年)7月 - 第一騎兵師団が朝鮮半島に派遣される。
1957年(昭和32年) - アメリカ陸軍第8軍団が大韓民国へ移籍。情報通信施設のみ残ることとなる。
1959年(昭和34年)8月 - 日米共同使用に関する暫定協定が成立。
1960年(昭和35年)3月 - 陸上自衛隊サウスキャンプ駐屯。自衛隊朝霞駐屯地として正式運用開始。
1961年(昭和36年) - 898号棟(リトルペンタゴン)改修。マイクロウェーブ塔(155フィート)完成。
1965年(昭和40年)12月30日 - ノースキャンプで第249総合病院(USAMCJ/在日米陸軍医療司令部隷下)運用開始。ヘリパッド(25,000平方ヤード)移転。
1966年(昭和41年)1月21日 - 越中島倉庫(東京都江東区)の返還に伴う代替施設としてノースキャンプに新設されたフィルムセンター(AAFMPSPAC、959号棟、3,381.73m²)など建物3棟が在日駐留米陸軍司令部技術部(Garrison Engineer, HQ. USAGJ)に引き渡される。[44]
1968年(昭和43年) - ノースキャンプ1010号棟(ASC)運用開始。898号棟Bアベニュー沿いに新規マイクロウェーブ塔(164フィート)完成。
3月31日 - ノースキャンプ北ゲート出入路(土地1,462.23m²、立木竹・架設送電線・囲障等工作物含む)が返還される。[45]
1971年(昭和46年)
1月14日 - 第249総合病院運用停止・閉鎖(一部施設は空軍診療所に転用)。
3月17日 - ノースキャンプと新倉倉庫地区(FAC 3137、和光市本町)を接続する鉄道引込線(土地10,815.41m²、軌道871.87m²) が返還される。[46]
11月10日 - 朝霞渉外労務管理事務所用地としてノースキャンプの一部(土地715.56m²、囲障22m²)が返還される。[47]
1973年(昭和48年)1月23日 - 日米安全保障協議委員会第14回会合に置いて施設返還合意。
6月20日 - サウスキャンプゴルフコース・兵舎地区など大部分を返還。
1976年(昭和51年)11月30日 - ノースキャンプ中心部分を除いた401,246m²を返還。
1978年(昭和53年)7月10日 - サウスキャンプ根津パーク地域など順次返還される。
1980年(昭和55年)12月19日 - 県立朝霞西高校庭内のノースキャンプ給水施設(土地約81m²、地役権約2,226m²、建物約18m²、貯槽・地下給水管等工作物)が返還される。
1986年(昭和61年)2月14日 - ノースキャンプ中心部117,359m²返還。
現在 - サウスキャンプのごく一部(約1,000m²)がAFNの送信施設として運用中(和光市南二丁目)。唯一の未返還地区である。
自衛隊朝霞駐屯地の沿革は朝霞駐屯地参照


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