「尊敬する先輩へ 感謝の言葉」
最初に出会ったのは10年前、T200MSセンタの更改の時でした。
出逢った最初から、強烈なインパクトがありました。
私は技術支援担当でサービス企画や実験システムの構築、方式支援をやっていて
UNIX、LAN、RDB、分散処理など自信過剰だった。
汎用機? そんなもん古いよ。
そんな私に先輩は、この厳つい顔で「理論だけの評論家はいらねぇんだよ」とカウンターパンチ。
しかし、実際に手がけて見ると、学ぶべきところがとても多かった。
こんなところにスーパーSEがいた。
方式論はもとより、商用オンラインシステムの厳しさを教えて貰いました。
特に、技術よりも「考え方」「心構え」、そういうことを多く教えて貰いました。
例えば、
「コンソールメッセージは情報の宝庫だ」
「そこに出てるメッセージの一字一句たりとも、見逃すな」
「説明のつかないメッセージは絶対にないはずだ」
「基本設計では中の作りに踏み込むな」
「処理はブラックボックスで考えろ」
「入り情報と出の情報と周期、タイミング」
「それだけを考えて、業務運用、サービスが回せるかを考えろ」
当たり前のことだけど、教科書や技術書、標準類には載ってない言葉でした。
システム作りのノウハウって、そういうことなんだと思います。
仕様書が一切無い中での8000TBOXの全面切替えは大変だったし、痺れました。
今だから言うが、一ヶ月の超勤が×××時間を超えてました。
しかし、一円足りとも不払いもなく、課長から引っ張り出してくれた。
それから大阪。
T200大阪戦争の時は、先輩、私、京太郎でレイバン組を結成し、堂島へ乗り込んだ。
関西支社のメンバが震え上がらせた。
いつの間にか、管理する側になりましたが、きついお小言は今も続いてます。
「ここのやり方は特殊だぞ。これを普通だと思うなよ」
自信過剰ぎみだったので、今回、お客さんが変わって、その言葉の意味が良く理解できた。
42年間、本当にご苦労様でした。
第二の人生がどういう形になるのか判りませんが、
これからもずっと、週末は三ツ沢の丘の上で待ってます。
例のレイバン姿で三ツ沢のバックスタンドに居続けて下さい。
ありがとうございました。
最初に出会ったのは10年前、T200MSセンタの更改の時でした。
出逢った最初から、強烈なインパクトがありました。
私は技術支援担当でサービス企画や実験システムの構築、方式支援をやっていて
UNIX、LAN、RDB、分散処理など自信過剰だった。
汎用機? そんなもん古いよ。
そんな私に先輩は、この厳つい顔で「理論だけの評論家はいらねぇんだよ」とカウンターパンチ。
しかし、実際に手がけて見ると、学ぶべきところがとても多かった。
こんなところにスーパーSEがいた。
方式論はもとより、商用オンラインシステムの厳しさを教えて貰いました。
特に、技術よりも「考え方」「心構え」、そういうことを多く教えて貰いました。
例えば、
「コンソールメッセージは情報の宝庫だ」
「そこに出てるメッセージの一字一句たりとも、見逃すな」
「説明のつかないメッセージは絶対にないはずだ」
「基本設計では中の作りに踏み込むな」
「処理はブラックボックスで考えろ」
「入り情報と出の情報と周期、タイミング」
「それだけを考えて、業務運用、サービスが回せるかを考えろ」
当たり前のことだけど、教科書や技術書、標準類には載ってない言葉でした。
システム作りのノウハウって、そういうことなんだと思います。
仕様書が一切無い中での8000TBOXの全面切替えは大変だったし、痺れました。
今だから言うが、一ヶ月の超勤が×××時間を超えてました。
しかし、一円足りとも不払いもなく、課長から引っ張り出してくれた。
それから大阪。
T200大阪戦争の時は、先輩、私、京太郎でレイバン組を結成し、堂島へ乗り込んだ。
関西支社のメンバが震え上がらせた。
いつの間にか、管理する側になりましたが、きついお小言は今も続いてます。
「ここのやり方は特殊だぞ。これを普通だと思うなよ」
自信過剰ぎみだったので、今回、お客さんが変わって、その言葉の意味が良く理解できた。
42年間、本当にご苦労様でした。
第二の人生がどういう形になるのか判りませんが、
これからもずっと、週末は三ツ沢の丘の上で待ってます。
例のレイバン姿で三ツ沢のバックスタンドに居続けて下さい。
ありがとうございました。