ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「源義経」

2019年11月24日 | 旅の豆知識
 旅先で、源義経の足跡を訪ねたことはありませんか?源義経は、平安時代末期の源平合戦で活躍しましたが、兄・源頼朝と不仲になって、京を追われました。そして、奥州平泉に落ち延びたものの、藤原泰衡に攻めらて、この地で果てたとされています。
 それだけでも、北九州から東北地方に至るまで、いろいろと足跡を残しているのですが、後に、悲劇の英雄として伝説化され、北海道に落ち延びたという伝説まで、残されてきました。従って、それらを含めると日本各地に足跡や伝承地があることになります。
 日本各地を旅した時に、そのような義経関係地をめぐってみるのも、はるかな源平合戦に思いを馳せて、印象に残るのでは.....。

〇源義経とは?

 平安時代末期の源平合戦で大きな戦功をあげた武将です。1159年(平治元)に、河内源氏の源義朝の九男(母は常盤)として生まれましたが、幼名は牛若丸と言いました。
 同年12月に平治の乱が起き、戦いに敗れた父・義朝は、翌年敗死します。平氏に捕えられ京の鞍馬寺に入れられましたが、1174年(承安4)頃ひそかに奥州平泉の藤原秀衡の下に赴いて庇護を受けました。
 1180年(治承4)に兄の源頼朝が挙兵すると、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝との対面を果たします。1183年(寿永2)に頼朝の代官として京へ向かい、翌年には源義仲を討って入京しました。
 1184年(元暦元)に平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担うことになります。1185年(文治元年2月)の屋島の戦いを制し、同年3月には壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込みました。
 同年4月に京へ凱旋し、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、6月に京へと戻ります。後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てましたが、失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させました。
 奥州平泉へと逃れましたが、1187年(文治5)の秀衡の死後、その跡を継いだ泰衡に、1189年(文治5年閏4月30日)、衣川の館を急襲され、数え年31歳で自刃したとされます。後に、悲劇の英雄として伝説化され、文学作品の素材ともなりました。

〇源義経の足跡を訪ねて(年代順)

(1)鞍馬寺(京都府京都市左京区)

 京都市北方の鞍馬山中腹にある鞍馬弘教の総本山です。奈良時代の770年(宝亀元)に鑑真の高弟鑑禎が山頂に毘沙門天をまつったのが始まりとされていますがはっきりしません。792年(延暦11)に藤原伊勢人が貴布禰明神の霊告を受け堂宇を建立したも言われています。平安時代以後、平安京北方鎮護として貴船神社と共に朝野の信仰を集め、修験道の霊地として栄えました。そんな中で、平安時代末期に、平氏に捕えられた源義経(牛若丸)がこの寺に入れられ、修業したと伝わっています。竹伐の行事(6月20日)、摂社由岐神社の火祭(10月22,23日)は有名で、多くの人々が訪れてきました。たびたびの火災により堂舎を焼失していて、現在の本殿、多宝塔などは近年再建されたものですが、木造「毘沙門天及吉祥天・善膩師童子立像」、鞍馬寺経塚遺物200余点の国宝をはじめ、いくつかの国指定重要文化財を寺宝としています。鞍馬山の中腹にあって、自然豊かで、修験道の霊地としての雰囲気を持ってきました。

(2)黄瀬川で頼朝との対面(静岡県駿東郡清水町)

 1180年(治承4)10月に源頼朝・武田信義軍と平維盛軍が、富士川の河口付近で戦ったのですが、夜陰に乗じて、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れると、水鳥が反応し一斉に飛び立ち、これに驚いた平家方は大混乱に陥って、敗走したといわれています。義経も平泉を出奔して駆けつけ、この戦いの後で、離れ離れになっていた源頼朝と義経の劇的な対面があったと言われてきました。その伝承地である黄瀬川八幡神社(静岡県駿東郡清水町)には対面石があります。

(3)一ノ谷の戦い(兵庫県神戸市須磨区)

 源平合戦の一つで、一ノ谷(兵庫県神戸市須磨区)一帯が戦場となりました。1184年(寿永3)2月に源義経・範頼軍が再挙を計った平氏軍を一ノ谷に襲い、海上に敗走させた戦いで、義経の鵯越の奇襲戦法が知られています。また、須磨海岸の波打ち際での平敦盛と熊谷直実一騎打ちによって打たれた敦盛の話は、「平家物語」中でも最も悲しく哀れを誘う場面として有名です。須磨寺には敦盛愛用の青葉の笛、合戦時に弁慶が安養寺から長刀の先に掛けて担いできて陣鐘の代用にしたという弁慶の鐘などの宝物があります。また、境内には、敦盛の首塚、義経の腰掛け松などの史跡があり、古来から「平家物語」を偲んで文人墨客が訪れている所です。それを示すように松尾芭蕉、正岡子規、与謝蕪村、尾崎放哉などの句碑や歌碑が建てられています。須磨浦公園には、敦盛塚や源平合戦800年記念碑などあって当時の合戦を思い出させてくれます。

(4)屋島の戦い(香川県高松市)

 源平合戦の一つで、屋島(香川県高松市)一帯が戦場となりました。1185年(文治元)2月、屋島に留まっていた平氏軍を源義経らが奇襲により、海上に追いやった戦いです。ここでは、那須与一が、船上の扇の的を射抜いたことで有名ですが、屋島からは瀬戸内海と古戦場が一望でき、屋島寺などに遺跡や遺品が残されていて、この合戦の情景を思い浮かべるには最適の場所です。また、周辺には、菊王丸の墓、佐藤継信の碑、駒立岩、祈り岩、義経由美流し跡、義経鞍掛松、獅子の霊巌、射落畠などの伝承地が残されています。

(5)壇ノ浦の戦い(山口県下関市)

 源平合戦の一つで、壇ノ浦(山口県下関市)一帯が戦場となりました。1185年(文治元)3月に、平氏軍と源義経を総大将とする源氏軍が戦い、平家滅亡となった最後の一戦です。この時に、幼い安徳天皇は母の平徳子と共に船から海に飛び込みましたが、徳子だけが助けられました。下関市には安徳天皇を祭った赤間神宮があり、この合戦で亡んだ平家一門の墓があります。有名な耳なし芳一の話もここを舞台にしたものです。また、隣接して、安徳天皇阿弥陀寺稜もあり、毎年、5月2日の安徳天皇の命日より3日間に亘って、先帝祭も行われています。

(6)衣川館跡(岩手県西磐井郡平泉町)

 源義経終焉の地で、現在は高館と呼ばれ、義経堂が建てられています。義経は、兄・頼朝と不仲になり、京を逃れて奥州平泉の藤原秀衡に匿われていました。しかし、秀衡の死後、その跡を継いだ泰衡に、1189年(文治5年閏4月30日)、衣川の館を急襲され、数え年31歳で自刃したとされます。江戸時代になって、俳聖松尾芭蕉が、「奥の細道」の途中に立ち寄り、「夏草や 兵どもが 夢の跡」と絶唱したことで有名となりました。義経堂の前に、それを刻んだ句碑も立てられています。また、中尊寺には、芭蕉も参拝した国宝に指定されている金色堂が残され、藤原氏三代の遺骸も安置されてきました。。

☆源義経関係略年表(日付は旧暦です)

・1159年(平治元年) 河内源氏の源義朝の九男(母は常盤)として生まれる
・1159年(平治元年12月) 平治の乱が起きる
・1160年(平治2年) 父・義朝が敗死する
・1162年(応保2年)頃 母・常盤が一条長成と再婚する
・1169年(嘉応元年)頃 鞍馬寺で稚児となる
・1174年(承安4年3月3日) 現在の滋賀県蒲生郡竜王町の鏡の宿にて元服する
・1174年(承安4年)頃 鞍馬寺を出奔して奥州平泉へ下り、藤原秀衡の下で庇護を受ける
・1180年(治承4年8月) 兄・頼朝が挙兵。平泉を出奔して駆けつける
・1180年(治承4年10月) 黄瀬川で頼朝と対面する
・1183年(寿永2年11月) 頼朝代官として上洛する
・1184年(元暦元年1月) 源義仲を討って入京する
・1184年(元暦元年2月) 一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担う
・1184年(元暦元年7月) 三日平氏の乱が発生する
・1184年(元暦元年8月6日) 左衛門少尉・検非違使に任官し、乱の鎮圧にあたる
・1184年(元暦元年9月3日) 従五位下に叙位され、左衛門少尉・検非違使に留任する
・1184年(元暦元年9月) 河越重頼の娘(郷御前)と結婚する
・1185年(文治元年正月) 平氏追討のため西国へ出陣する
・1185年(文治元年2月) 屋島の戦いに勝利する
・1185年(文治元年3月) 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する
・1185年(文治元年4月) 京へ凱旋する
・1185年(文治元年5月) 平宗盛親子を鎌倉へ護送。頼朝に鎌倉入りを拒否される
・1185年(文治元年6月) 京に戻る
・1185年(文治元年8月16日) 伊予守任官。検非違使・左衛門少尉を兼任する
・1185年(文治元年10月16日) 後白河法皇に頼朝追討の宣旨を要請する
・1185年(文治元年10月17日) 土佐坊昌俊に襲撃される
・1185年(文治元年10月18日) 頼朝追討の宣旨が下される
・1185年(文治元年11月3日) 都を落ちる
・1185年(文治元年11月7日) 解官される
・1185年(文治元年11月) 頼朝は守護、地頭の設置権を得て、義経を厳しくこれを追捕させる
・1187年(文治3年2月) 奥州平泉の藤原秀衡の下へ落ち延びる
・1187年(文治3年10月29日) 藤原秀衡が病没する
・1189年(文治5年閏4月30日) 藤原泰衡の襲撃を受け、衣川館で数え年31歳で自刃する