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紀行文は、古来から結構たくさん書かれているのですが、脚光を浴びて、世間に親しまれているものは、そんなに多くはありません。
皆さんは、いくつぐらいの紀行文が思い浮かぶでしょうか。鎌倉時代の阿仏尼著の『十六夜日記』、江戸時代の松尾芭蕉著の『おくの細道』あたりは、高校の国語の授業でも習ったかもしれませんが、明治時代の紀行文は、あまり知られていないのが現実です。
その中で、明治時代後期の1900年(明治33)に、与謝野寛(鉄幹)を先導に、若き北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里が北部九州を旅した時の紀行文『五足の靴』が再評価されていて、これに関する出版物も増えました。また、この旅で立ち寄った各所に文学碑が建てられるようになっています。
尚、2007年(平成19)に、岩波文庫よりこの紀行文が刊行され、入手しやすくなりましたので、この本を携えて、北部九州を旅してみるのも良いのではないでしょうか‥‥。
〇『五足の靴』の旅をしたメンバーとは?
詩歌を中心とする月刊文芸誌『明星』は、明治時代後期の1900年(明治33)、与謝野寛(鉄幹)の主宰する、新詩社の機関誌として創刊されました。ロマンチシズムを鼓舞して、短歌の革新に貢献したとされています。
同人で、この雑誌に拠って活躍したのが若き北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里でした。鉄幹が、まだ学生だった4人を率いて、長期旅行したのが、『五足の靴』の旅で、その後、これら若き詩人・歌人の開眼に大きな役割を果たしたと言われています。
白秋の『邪宗門』、『天草雑歌』、杢太郎の『天草組』は、この旅に想を得て誕生した詩です。
〇『五足の靴』の旅とは?
『五足の靴』は、1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行をした、5人(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里--五足の靴としゃれている)による紀行文です。
その年の「東京二六新聞」に旅程より10日ほど遅れて8月7日より9月10日まで、5人が交互に執筆して、29回にわたり連載されました。いろいろな所に立ち寄っていますが、特に、天草下島西海岸の富岡より大江まで約32㎞を徒歩で行く部分が印象的です。
一行は、平戸、長崎、島原、天草などでキリシタン史遺跡に立ち寄り、戦国時代から苦難を乗り越えてきたキリシタン信仰に思いを馳せています。
尚、新聞連載時の執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」、文中では与謝野寛(鉄幹)は「K生」、北原白秋は「H生」、木下杢太郎は「M生」、吉井勇は「I生」、平野万里は「B生」の仮名を用いています。
この紀行文は、2007年(平成19)に、岩波文庫より刊行され、入手しやすくなりました。
☆1907年(明治40)の『五足の靴』の旅の旅程
・7月28日
東京を夜行列車で出発
↓
車中泊
↓
・7月29日
↓
車中泊
↓
・7月30日
朝4時半、宮島駅に着き渡船場へ
↓
厳島を見学する
↓
亀山八幡宮から関門海峡を見る
↓
下関「旅館川卯」泊
↓
・7月31日
汽車で福岡へ向かう
↓
夜、福岡県文学会が催される
↓
福岡「川丈旅館」泊
↓
・8月1日
汽車で奈多へ向かう
↓
千代の松原で海水浴
↓
柳川へ向かう
↓
柳川「北原白秋宅」泊
↓
・8月2日
白州生家の酒蔵を見学する
↓
柳川「北原白秋宅」泊
↓
・8月3日
雨中、佐賀へ向かい途中から鉄道馬車乗車
↓
14時佐賀へ着き、佐賀城跡を一周する
↓
佐賀泊
↓
・8月4日
鉄道馬車で唐津へ向かう
↓
虹ノ松原を散策
↓
唐津での文芸会へおもむく
↓
唐津「博多屋」泊
↓
・8月5日
汽車で佐世保へ向かう
↓
平戸行き汽船に乗り遅れ、宿泊することに
↓
佐世保「京屋旅館」泊
↓
・8月6日
朝10時、佐世保港から平戸行き汽船乗船
↓
14時平戸着、下島氏を訪問
↓
亀岡神社、阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸等見学
↓
「米屋」で夕食休憩、夜半の汽船で佐世保へ
↓
佐世保泊
↓
・8月7日
汽車で長崎へ向かう
↓
長崎「上野屋旅館」泊
↓
・8月8日
長崎から乗合馬車で茂木へ向かう
↓
茂木港を11時出船、富岡港13時着
↓
富岡泊
↓
・8月9日
大江まで約32㎞を徒歩で出発
↓
海沿いの悪路を行き、下津深江で昼食
↓
大江「高砂屋」泊
↓
・8月10日
大江天主堂にガルニエ神父を訪ねる
↓
14時の汽船で牛深港へ向かう
↓
崎津、魚貫に寄港し、16時牛深港へ
↓
牛深「今津屋」泊
↓
・8月11日
早朝3時、大門経由際崎行き汽船乗船
↓
際崎港に14時着、三角港まで歩く
↓
三角港17時発の汽船で島原港へ
↓
島原泊
↓
・8月12日
島原城跡で、キリシタンの歴史を偲ぶ
↓
12時に汽船で長洲港へ向かう
↓
長洲駅から汽車に乗り上熊本駅下車
↓
熊本「研屋旅館支店」泊
↓
・8月13日
馬車で阿蘇を目指し、大津で昼食
↓
栃の木過ぎて下車し、徒歩で垂玉へ
↓
垂玉温泉「山口旅館」泊
↓
・8月14日
阿蘇中岳登山し、火口を見学する
↓
下山途中案内人が道を間違え迷う
↓
栃木温泉「小山旅館」泊
↓
・8月15日
馬車で熊本市内へ戻る
↓
水前寺畔の画津湖で、船遊び
↓
熊本「研屋旅館支店」泊
・8月16日
汽車で三池へ向かい三池炭坑見学
↓
柳川「北原白秋宅」泊
↓
・8月17日
柳川で船下りなどして遊ぶ
↓
柳川「北原白秋宅」泊
↓
・8月18日
白州を残し、汽車で九州を出る
↓
徳山「徳応寺」泊
↓
・8月19日
汽車で京都へ向かう
↓
京都「お愛さん」泊
↓
☆『五足の靴』関係文学碑一覧
・「五足の靴」文学碑(福岡県福岡市博多区中州3-1-18 川丈旅館前)1966年7月31日建立
吉井勇の歌<旅籠屋の/名を川丈と/いひしこと/ふとおもひ出て/むかし恋しむ>が上に彫られ、下に解説が刻まれている
・五足の靴ゆかりの碑(福岡県柳川市三橋町高畑333 松月文人館の敷地内)1977年7月建立
五足の靴と「松月」とのゆかりについて説明が刻まれている
・「五足の靴」文学碑(福岡県大牟田市岬町1-3 諏訪公園内)2011年6月建立
「今日は一千尺の地下に入って親しく埋もれたる太古の熱に触れようとする。大牟田は平地である。表面はただの田だ。稲が青々と繁って田の先の中に生存を嬉んでいる。裏面は即ち炭坑だ・・・・・。一行は白仁、稲田二氏によりて坑内を見るべく案内された。」と刻まれている
・「五足の靴」記念碑 (佐賀県唐津市 JR唐津駅前)1999年10月31日建立
木下杢太郎の詩「はためき」<はためくは何ぞ/あな、おぞ/渡海船今し出づとて/帆捲くなり/唐津の殿の/いとわかきあえかの姫/髪に塗る伽羅を買ふべく>の全文が刻まれている
・五足の靴文学碑(長崎県佐世保市下京町 旧京屋旅館前の下京町京町児童公園内)1978年8月建立
<五足の靴文学碑>と刻まれている
・「五足の靴文学碑」(長崎県佐世保市下京町 夜店公園内)
与謝野鉄幹の詩「夜店の詩」 1983年3月
・「五足の靴碑」(長崎県長崎市樺島町9-16 西日本新聞長崎総支局下)1970年4月1日建立
<五足の靴碑>と刻まれている
・吉井勇歌碑(熊本県天草市大江1782 大江天主堂前)1952年5月27日建立
吉井勇の歌<白秋と/ともに泊りし/天草の/大江の宿は/伴天連の宿>が刻まれている
・吉井勇歌碑(熊本県天草市大江1782 大江天主堂前)2001年6月17日建立
吉井勇の歌<ともにゆきし/友みなあらず/我一人/老いてまた踏む/天草の島>が刻まれている
・平野萬里歌碑(熊本県天草市大江 天草ロザリオ館前)2006年新春建立
平野萬里の歌<赤葡萄/たわわにみのり/風かをる/南の島を/けふもさまよう>が刻まれている
・木下杢太郎詩碑(熊本県天草市大江 天草ロザリオ館前)2004年7月24日建立
木下杢太郎の詩「 あまくさ」<天草高来の民こそは 耶蘇の外法を伝えぬれ/港に入れる、やあら、いよ、勇魚追いこしみやびとは/さみどりの胸いとかたき 無花果樹島の 少女らに/あらら、キリシタン伴天連の 恋の秘法ぞ伝えぬる>が刻まれている
・北原白秋詩碑(熊本県天草市本渡 天草キリシタン館前)1967年4月23日建立
北原白秋の詩天草雑歌「ただ秘めよ」が刻まれている
・「五足の靴」記念碑(熊本県天草市 下田温泉の海岸道路)2001年10月21日建立
「五足の靴」研究家の濱名志松の歌<寛白秋/勇杢太郎/萬里らが/たどりし径ぞ/五足の靴で>が刻まれている
・五足の靴碑(熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽2331 垂玉温泉「山口旅館」前)
<垂玉の湯 五足の靴碑 南阿蘇史談会>と刻まれている
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皆さんは、いくつぐらいの紀行文が思い浮かぶでしょうか。鎌倉時代の阿仏尼著の『十六夜日記』、江戸時代の松尾芭蕉著の『おくの細道』あたりは、高校の国語の授業でも習ったかもしれませんが、明治時代の紀行文は、あまり知られていないのが現実です。
その中で、明治時代後期の1900年(明治33)に、与謝野寛(鉄幹)を先導に、若き北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里が北部九州を旅した時の紀行文『五足の靴』が再評価されていて、これに関する出版物も増えました。また、この旅で立ち寄った各所に文学碑が建てられるようになっています。
尚、2007年(平成19)に、岩波文庫よりこの紀行文が刊行され、入手しやすくなりましたので、この本を携えて、北部九州を旅してみるのも良いのではないでしょうか‥‥。
〇『五足の靴』の旅をしたメンバーとは?
詩歌を中心とする月刊文芸誌『明星』は、明治時代後期の1900年(明治33)、与謝野寛(鉄幹)の主宰する、新詩社の機関誌として創刊されました。ロマンチシズムを鼓舞して、短歌の革新に貢献したとされています。
同人で、この雑誌に拠って活躍したのが若き北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里でした。鉄幹が、まだ学生だった4人を率いて、長期旅行したのが、『五足の靴』の旅で、その後、これら若き詩人・歌人の開眼に大きな役割を果たしたと言われています。
白秋の『邪宗門』、『天草雑歌』、杢太郎の『天草組』は、この旅に想を得て誕生した詩です。
〇『五足の靴』の旅とは?
『五足の靴』は、1907年(明治40)7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月間の長期旅行をした、5人(与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里--五足の靴としゃれている)による紀行文です。
その年の「東京二六新聞」に旅程より10日ほど遅れて8月7日より9月10日まで、5人が交互に執筆して、29回にわたり連載されました。いろいろな所に立ち寄っていますが、特に、天草下島西海岸の富岡より大江まで約32㎞を徒歩で行く部分が印象的です。
一行は、平戸、長崎、島原、天草などでキリシタン史遺跡に立ち寄り、戦国時代から苦難を乗り越えてきたキリシタン信仰に思いを馳せています。
尚、新聞連載時の執筆者は匿名で、表題には「五人づれ」、文中では与謝野寛(鉄幹)は「K生」、北原白秋は「H生」、木下杢太郎は「M生」、吉井勇は「I生」、平野万里は「B生」の仮名を用いています。
この紀行文は、2007年(平成19)に、岩波文庫より刊行され、入手しやすくなりました。
☆1907年(明治40)の『五足の靴』の旅の旅程
・7月28日
東京を夜行列車で出発
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車中泊
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・7月29日
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車中泊
↓
・7月30日
朝4時半、宮島駅に着き渡船場へ
↓
厳島を見学する
↓
亀山八幡宮から関門海峡を見る
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下関「旅館川卯」泊
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・7月31日
汽車で福岡へ向かう
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夜、福岡県文学会が催される
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福岡「川丈旅館」泊
↓
・8月1日
汽車で奈多へ向かう
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千代の松原で海水浴
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柳川へ向かう
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柳川「北原白秋宅」泊
↓
・8月2日
白州生家の酒蔵を見学する
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柳川「北原白秋宅」泊
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・8月3日
雨中、佐賀へ向かい途中から鉄道馬車乗車
↓
14時佐賀へ着き、佐賀城跡を一周する
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佐賀泊
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・8月4日
鉄道馬車で唐津へ向かう
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虹ノ松原を散策
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唐津での文芸会へおもむく
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唐津「博多屋」泊
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・8月5日
汽車で佐世保へ向かう
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平戸行き汽船に乗り遅れ、宿泊することに
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佐世保「京屋旅館」泊
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・8月6日
朝10時、佐世保港から平戸行き汽船乗船
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14時平戸着、下島氏を訪問
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亀岡神社、阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸等見学
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「米屋」で夕食休憩、夜半の汽船で佐世保へ
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佐世保泊
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・8月7日
汽車で長崎へ向かう
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長崎「上野屋旅館」泊
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・8月8日
長崎から乗合馬車で茂木へ向かう
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茂木港を11時出船、富岡港13時着
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富岡泊
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・8月9日
大江まで約32㎞を徒歩で出発
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海沿いの悪路を行き、下津深江で昼食
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大江「高砂屋」泊
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・8月10日
大江天主堂にガルニエ神父を訪ねる
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14時の汽船で牛深港へ向かう
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崎津、魚貫に寄港し、16時牛深港へ
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牛深「今津屋」泊
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・8月11日
早朝3時、大門経由際崎行き汽船乗船
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際崎港に14時着、三角港まで歩く
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三角港17時発の汽船で島原港へ
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島原泊
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・8月12日
島原城跡で、キリシタンの歴史を偲ぶ
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12時に汽船で長洲港へ向かう
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長洲駅から汽車に乗り上熊本駅下車
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熊本「研屋旅館支店」泊
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・8月13日
馬車で阿蘇を目指し、大津で昼食
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栃の木過ぎて下車し、徒歩で垂玉へ
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垂玉温泉「山口旅館」泊
↓
・8月14日
阿蘇中岳登山し、火口を見学する
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下山途中案内人が道を間違え迷う
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栃木温泉「小山旅館」泊
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・8月15日
馬車で熊本市内へ戻る
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水前寺畔の画津湖で、船遊び
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熊本「研屋旅館支店」泊
・8月16日
汽車で三池へ向かい三池炭坑見学
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柳川「北原白秋宅」泊
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・8月17日
柳川で船下りなどして遊ぶ
↓
柳川「北原白秋宅」泊
↓
・8月18日
白州を残し、汽車で九州を出る
↓
徳山「徳応寺」泊
↓
・8月19日
汽車で京都へ向かう
↓
京都「お愛さん」泊
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☆『五足の靴』関係文学碑一覧
・「五足の靴」文学碑(福岡県福岡市博多区中州3-1-18 川丈旅館前)1966年7月31日建立
吉井勇の歌<旅籠屋の/名を川丈と/いひしこと/ふとおもひ出て/むかし恋しむ>が上に彫られ、下に解説が刻まれている
・五足の靴ゆかりの碑(福岡県柳川市三橋町高畑333 松月文人館の敷地内)1977年7月建立
五足の靴と「松月」とのゆかりについて説明が刻まれている
・「五足の靴」文学碑(福岡県大牟田市岬町1-3 諏訪公園内)2011年6月建立
「今日は一千尺の地下に入って親しく埋もれたる太古の熱に触れようとする。大牟田は平地である。表面はただの田だ。稲が青々と繁って田の先の中に生存を嬉んでいる。裏面は即ち炭坑だ・・・・・。一行は白仁、稲田二氏によりて坑内を見るべく案内された。」と刻まれている
・「五足の靴」記念碑 (佐賀県唐津市 JR唐津駅前)1999年10月31日建立
木下杢太郎の詩「はためき」<はためくは何ぞ/あな、おぞ/渡海船今し出づとて/帆捲くなり/唐津の殿の/いとわかきあえかの姫/髪に塗る伽羅を買ふべく>の全文が刻まれている
・五足の靴文学碑(長崎県佐世保市下京町 旧京屋旅館前の下京町京町児童公園内)1978年8月建立
<五足の靴文学碑>と刻まれている
・「五足の靴文学碑」(長崎県佐世保市下京町 夜店公園内)
与謝野鉄幹の詩「夜店の詩」 1983年3月
・「五足の靴碑」(長崎県長崎市樺島町9-16 西日本新聞長崎総支局下)1970年4月1日建立
<五足の靴碑>と刻まれている
・吉井勇歌碑(熊本県天草市大江1782 大江天主堂前)1952年5月27日建立
吉井勇の歌<白秋と/ともに泊りし/天草の/大江の宿は/伴天連の宿>が刻まれている
・吉井勇歌碑(熊本県天草市大江1782 大江天主堂前)2001年6月17日建立
吉井勇の歌<ともにゆきし/友みなあらず/我一人/老いてまた踏む/天草の島>が刻まれている
・平野萬里歌碑(熊本県天草市大江 天草ロザリオ館前)2006年新春建立
平野萬里の歌<赤葡萄/たわわにみのり/風かをる/南の島を/けふもさまよう>が刻まれている
・木下杢太郎詩碑(熊本県天草市大江 天草ロザリオ館前)2004年7月24日建立
木下杢太郎の詩「 あまくさ」<天草高来の民こそは 耶蘇の外法を伝えぬれ/港に入れる、やあら、いよ、勇魚追いこしみやびとは/さみどりの胸いとかたき 無花果樹島の 少女らに/あらら、キリシタン伴天連の 恋の秘法ぞ伝えぬる>が刻まれている
・北原白秋詩碑(熊本県天草市本渡 天草キリシタン館前)1967年4月23日建立
北原白秋の詩天草雑歌「ただ秘めよ」が刻まれている
・「五足の靴」記念碑(熊本県天草市 下田温泉の海岸道路)2001年10月21日建立
「五足の靴」研究家の濱名志松の歌<寛白秋/勇杢太郎/萬里らが/たどりし径ぞ/五足の靴で>が刻まれている
・五足の靴碑(熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽2331 垂玉温泉「山口旅館」前)
<垂玉の湯 五足の靴碑 南阿蘇史談会>と刻まれている
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