ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「邪馬台国」

2017年08月18日 | 旅の豆知識
 近年、日本の古代史への関心が高まってきて、いろいろと本が出版されたり、テレビで関連番組が放映されたりしています。それらが誘因となって、古代史にロマンを感じて、遺跡などを巡る人も増えてきているのです。そんな中で、古代史の大きなミステリーの一つは、弥生時代の「邪馬台国」ではないかと思います。
 弥生時代は、本格的に稲作がはじまり、全国へ普及した時代だと言われています。それにともなって、狩猟中心の生活から農耕生活へ変化していき、定住生活も拡大して、原始的な“クニ”が形成されていったと言われています。
 邪馬台国などの日本の国の誕生については、近年、九州の吉野ケ里遺跡など重要な発掘が相次いで、この時代の“クニ”の姿が徐々に明らかにされてきています。そんな所を訪ねてみるのもなかなか面白いものです。
 特に邪馬台国は、『魏志倭人伝』という書物に書かれていて、朝鮮半島から北部九州に至る里程も載せられ、だいたいの道筋をたどることも可能で、関連する遺跡もいくつか知られているのです。しかし、北部九州から邪馬台国に至る道筋は、記述があいまいで、邪馬台国がどこにあったのかはっきりせず、大和説や九州説などいろいろと唱えられています。
 そんなところを尋ね歩いてみるのも、古代へのロマンが掻き立てられて面白いと思うのですが.....。

〇『魏志倭人伝』とは?
 中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称です。3世紀の頃(弥生時代後期)の日本列島にいた倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれていて、特に“邪馬台国”に関する記述は注目されています。当時の日本列島には、文字の使用が発達していなくて、文献資料のない時代で、これらの記述はとても貴重なのです。著者は西晋の陳寿で、3世紀末に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられました。

〇『邪馬台国』とは?
 「魏志倭人伝」に書かれた“邪馬台国”も弥生時代後期の日本列島にあったと思われますが、その所在地はいまだなぞで、九州説、大和説など色々と言われています。しかし、韓国から対馬、壱岐、九州北部の奴国までの道程はほぼたどることができます。特に、壱岐の原の辻遺跡は倭人伝の一支国だと考えられ、遺跡を巡り、博物館を見学できます。また、末盧国、伊都国、奴国に関する出土品もそれぞれ資料館で見学できます。

☆「邪馬台国」関連のお勧め

(1)山辺遺跡・塔の首遺跡<長崎県対馬市峰町・上対馬町>
 山辺遺跡は、2000年(平成12)に発見された、弥生時代前期から古墳時代にかけての集落遺跡で、「魏志倭人伝」に登場する“対馬国”に関連するものと考えられています。対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡ということで、マスコミにも取り上げられ、注目されました。中心は弥生時代前期で、竪穴式住居 3棟と、総柱高床式倉庫が確認され、出土遺物として、弥生式土器に混じって韓半島系無紋土器、楽浪土器が出土しています。この遺跡から出土した遺物は「峰町歴史民俗資料館」に収容・展示されていて、見学することが可能ですが、遺跡の方は埋め戻されていて、今のところ、そのあとを見ることができるだけです。また、上対馬町古里に塔の首遺跡があり、弥生時代後期(紀元1~2世紀)の古墳で、広形銅矛などと一緒に、韓国の無文土器と弥生式土器が出土し、この時代の大陸との交流を示す重要な遺跡なので、1977年(昭和52)に国の史跡に指定されました。ここの出土品は「上対馬町歴史民俗資料館」で展示されています。

(2)原の辻遺跡<長崎県壱岐市>
 弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落を中心とする遺跡で、「魏志倭人伝」に登場する“一大国”(一大国は一支国の誤記)の国都とされています。2000年(平成12)に国の特別史跡に指定され、出土品1670点が国の重要文化財に指定されています。現在は、「原の辻一支国王都復元公園」として整備されていて、竪穴住居、高床式倉庫、物見櫓などが復元され、見て回ることができます。また、公園内には、「壱岐市立一支国博物館」があって、出土品が展示され、遺跡の概要についても知ることができます。
 
(3)宇木汲田遺跡・桜馬場遺跡・菜畑遺跡<佐賀県唐津市>
 これらは、弥生時代の遺跡で、「魏志倭人伝」に登場する“末盧国”に関連するものとされています。その中で、菜畑遺跡は、佐賀県唐津市菜畑にある、縄文時代晩期から弥生時代中期の水田址を中心にした集落遺跡です。1979年(昭和54)に発見され、翌年から翌々年にかけて発掘調査が実施されました。その結果、板付遺跡の夜臼式土器よりも古い、縄文時代晩期後半の山ノ寺式土器を伴う、最古の水田跡が発見されたのです。他に、住居跡、遺物包含層が発掘され、動物遺体、炭化米、石包丁、石斧、木製農具なども見つかりました。最古期の水田農耕遺跡として貴重なので、1983年(昭和58)に国の史跡に指定されています。現在、『魏志倭人伝』に出てくる末盧国にちなんだ「末盧館」という資料館が建てられ、発掘資料や弥生時代の菜畑集落のジオラマ模型の展示がされ、外部に縄文の森や竪穴式住居、水田跡も復元されました。

(4)三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡・平原遺跡<福岡県糸島市>
 三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、平原遺跡は、弥生時代中期から後期のもので、「魏志倭人伝」に登場する“伊都国”に関連するものとされています。特に、原田大六氏を中心に学術調査された平原遺跡1号墓からは、直径46.5cmの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年(平成18)に、国宝に指定されました。周辺は「平原歴史公園」として整備され、近くに、1987年(昭和62)に「伊都歴史資料館」が開館し、2004年(平成16)年に、新館が建てられて現在の「伊都国歴史博物館」となりました。館内では、「福岡県平原方形周溝墓出土品」(国宝)や伊都国についての展示を見ることができます。

(5)奴国の丘歴史公園<福岡県春日市>
 1979年(昭和54)と翌年の発掘調査で、弥生時代中期の甕棺墓116基、土壙墓・木棺墓9基と、これに伴う祭祀遺構が確認され、1986年(昭和61)に岡本遺跡として国の史跡となりました。その弥生時代の遺跡は、「魏志倭人伝」に登場する“奴国”の中心地であったと考えられるようになったのです。そこで、1992年度から1997年度にかけて、「奴国の丘歴史公園」として整備され、面積は約2.3haにも及びます。その一角に、1998年(平成10)に開館した「春日市奴国の丘歴史資料館」があり、出土品や奴国についての展示があって、いろいろと学ぶことができるのです。

(6)纏向遺跡<奈良県桜井市>
 三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡で、2013年(平成25)に国の史跡に指定されました。邪馬台国機内説の最有力候補地で、近くにある箸墓古墳は、卑弥呼の墓とする説もあります。他に5つの最古期古墳があり、纏向古墳群として、2006年(平成18)に国の史跡に指定されています。出土品は、「桜井市立埋蔵文化財センター」で見ることができます。

☆「魏志倭人伝」(全文)

倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。
東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。
東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
自郡至女王國萬二千餘里。
男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東治之東。
其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、朱崖同。
倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。
出真珠、青玉。其山有丹、其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黑雉。
其俗舉事行來、有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當跪拜。
其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、交易有無、使大倭監之。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。
其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰:制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。
今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。
今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告喻之。
卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

(訳文)
倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に拠って国邑を為している。昔は百余国、漢の時代には朝見する者がいて、今は使訳が通じるのは三十国。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。
初めて一つ海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。海に囲まれた孤島に住んでいて、周囲は四百余里ほどしかない。土地は山が険しく、深い森が多く、けもの道が通っている。千戸ほどの家があり、良い田は無く、海の物を食べて自活していて、船で南北に出かけて穀物を買い求めている。
また、南に一つの海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、ここでも船で南北に出かけて穀物を買い求めている。
また一つの海を渡り、千余里で末盧国に至る。四千ほどの家があり、山海に沿って暮らしている。草木が茂って、道を行くときに前を行く人の姿が見えないくらいだ。上手に魚鰒を捕り、水深の浅いところも深いところもかまわずに、皆が水中に潜って、これを取っている。
東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千ほどの家があり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに留まる。
東南の奴国に至るには百里、官は兕馬觚、副は卑奴母離といい、二万ほどの家がある。
東に行き、不彌国に至るには百里、官は多模、副は卑奴母離といい、千ほどの家がある。
南に投馬国に至るには水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利といい、五万ほどの家がある。
南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万ほどの家がある。
女王国より北の国々は、その戸数と道程を略載しえたが、その他の国は遠く絶たっていて、詳細することが出来なかった。次に斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、これが女王の境界内の全てである。
その南に狗奴国があり、男子を王と為し、官には狗古智卑狗があり、女王に従属していない。
帯方郡より女王国に至るには一万二千余里である。
男性は大人や子供の区別無く、顔や身体に入れ墨をしている。古から、倭の死者が中国を詣でると皆が大夫と自称している。夏の国王少康の子が、会稽に封じられた時、蛟龍の害を避けるため、断髪して身体に入れ墨をした。今の倭の海人は好んで水に潜って魚や蛤を捕獲する。身体の入れ墨は大魚や水鳥を避けていたからである。後に装飾のようになった。国によっては入れ墨の施し方も異なり、あるいは左や右に、あるいは大や小に、身分の尊卑でも差がある。その道程から計ってみると、会稽の東冶の東に位置する。
その風俗は淫らではない。男性は皆が露紒で、木綿の布を頭に巻いている。衣服は幅広の布を結び、ほとんど縫われていない。婦人は髮を曲げて結び、衣服は単衣のように作られ、その真ん中に穴を開けた貫頭衣である。
水稲や紵麻を栽培し、桑と蚕を育てて、絹糸を紡いでいる。また細紵、薄絹、綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。兵器には、矛、楯、木弓を用いている。木弓は下部が短く、上部が長い、矢は竹製で、鉄、または骨の鏃が付いている。それらは、儋耳や朱崖と同じである。
倭の地は温暖なので、冬でも夏でも生野菜を食べ、皆が裸足で生活している。家屋には室があり、父母兄弟は寝所を別にしている。身体に朱丹を塗り、それは中国で白粉を用いるようなものである。飲食には籩豆を用い、手を使って食べる。人が死ねば棺に入れるが、墓には槨がなく、土を盛って家を作る。死去から十日ほどは喪に服す。その時は肉食をせず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞、飲酒をする。埋葬が終われば、家人は皆が水に入って体を清める。まるで、中国の練沐のようである。
倭人が、渡海して中国を詣でる時には、いつも一人の者の頭髪を櫛で梳らず、蚤や蝨も取らず、衣服は垢で汚れるのに任せ、肉食をせず、婦女子も近づけず、喪に服している人のように慎ませる。これを持衰と呼んでいる。もし航海が無事に済めば、人々から生口や財物が与えられ、もし疾病が出たり、暴風雨の被害などに遭った場合は、これを殺そうとする。その者の不謹慎よるものだというのだ。
真珠や青玉を産出する。山からは丹が取れる。樹木には柟、杼、予樟、楺、櫪、投、橿、烏号、楓香がある。竹には篠、簳、桃支がある。薑、橘、椒、蘘何があるが、美味しいことを知らない。獮猴や黒雉もいる。
そこの習俗では、行事を行ったり旅に出るとか、事を起す時には、骨を焼いて卜を行う。これで吉凶を占ない、それを告げる。その解釈は令亀法のように、火坼を観て吉凶の兆を占う。そこでの集まりでの立ち居振る舞いに、父子や男女の区別がない。人々は元々酒を好む。大人への敬意の表し方を観ると、拍手を以てするが、これは中国の跪拜に相当している。
その人々は長命で、あるいは百年、あるいは八、九十年を生きる。そこの風俗では、国の大人は皆、四、五人の妻、下戸でも二、三人の妻を持つものがいる。婦人は貞節で、嫉妬もしない。盗みはなく、訴訟も少ない。そこでは法を犯した場合は、軽い者は妻子の没収、重いものはその一門と宗族を根絶やしにする。人々には尊卑それぞれに差別や序列があり、上下の秩序が成り立っている。人々は租賦を収め、その収納のための邸閣がある。国々には市が立ち、人々は有無とする物を交易し、大倭に命じてこれを監督させている。
女王国より北にある国々に対しては、特に一大率を置き、諸国を検察させており、それらの国はこれを畏憚している。常に伊都国で治めており、国の中では中国の刺史の如くである。女王が使者を京都や帯方郡、諸韓国に遣わす時、及び郡使が倭国に赴いた時、皆は港に臨んで搜露し、文書、賜物を女王に詣でて伝送する際に、間違いが起こらぬようにしている。
下戸が大人と道路で出会えば、後ずさりして草むらに入る。言葉を伝達したり、物事を説明すべき時は、あるいは蹲するか、あるいは跪して、両手を地面に着ける。これは、大人に対する敬意の表し方である。受け答えの声は噫と言い、これは承諾のごときものだ。
その国、元々は男子を王としていたが、七、八十年ほど前、倭国は擾乱状態となり、相争うこと何年にも及んで、一人の女子を王として共に立てた。名を卑彌呼といい、鬼道に秀で、よく衆を惑わす。年齢は重ねているが夫はなく、弟がいて国政を補佐した。王となって以来、会える人は少なかった。婢が千人、その側に侍っていて、ただ一人の男子が飲食を給仕し、伝言の取次のために出入する。居んでいるところの宮殿や楼観、城柵は厳重につくられ、常に兵士が守衛している。
女王国の東に海を渡ること千余里で、また国々があるが、みな倭人である。また、その南に侏儒国が在り、身長は三、四尺で、女王国から四千余里離れている。また、その東南に裸国や黑歯国も在って、船で行くならば一年で至るという。倭の地と比較して問うと、隔絶した海の中央の島上に在り、あるいは隔て、あるいは連なっている。それらを周回すると五千余里にもなるだろう。
景初二年六月、倭の女王は大夫の難升米らを帯方郡に遣わして、天子に謁見して朝献したいと求めた。太守の劉夏は役人を遣わし、これを引率して京都に詣でさせた。
その年の十二月、詔書を下して倭の女王に伝えて言うには、「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方郡太守の劉夏は使者を遣わし、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献じた男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の国のある所は、はるかに遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝のあらわれであり、我はとても汝を哀れに思う。
今、汝を親魏倭王と為し、とりあえず金印紫綬を包装して帯方郡太守に付託して、汝に授けようと思う。その種族の人々を綏撫し、努めて我に孝順をなせ。汝の使者の難升米、都市牛利は遠くから来たりて、道中の苦労も大変だったであろう。今、難升米を率善中郎将、都市牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい、送り返す。
今、絳地の交龍錦を五匹、絳地の縐粟罽を十張、蒨絳を五十匹ならびに紺青を五十匹、これらを汝の貢献に相応するものとして贈答しよう。また、特別に汝には紺地の句文錦を三匹、細班華罽を五張、白絹を五十匹、金を八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹を各々五十斤を賜う。いずれも封印して難升米、都市牛利に託するので、帰還したら記録して受けとるがよい。ことごとく汝は国中の人々に示し、魏国が汝を大事に思っていることを知らしめよ、よって鄭重に汝に良い品物を下賜したのである」。
正治元年、帯方郡の太守弓遵は、建中校尉の梯雋らを遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に至り、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を贈り、倭王はこれに対して使者に上表文を渡して、詔書と恩恵に答礼した。
其の四年、倭王はまた大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として、生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹、木弣、短い弓矢を献上した。掖邪狗らはみな率善中郎将の印綬を拝受した。
其の六年、詔を以て倭の難升米に黄幢を賜り、帯方郡に付して仮授せしめた。
其の八年、帯方郡太守に王頎が任官された。倭の女王卑彌呼と狗奴国の男王卑彌弓呼はもともと不和だった。倭は載斯、烏越らを派遣し、帯方郡に詣でて、戦いの状況を報告した。太守は、塞曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢を託して送り、難升米に授けて、檄を以て告諭した。
卑彌呼の死去により、大きな墓が作られた。その径百余歩あり、殉葬するは百余人を数えた。その後男の王を立てたが、国中が服従せず、しかも互いが殺し合い、その時は千余人が殺されたという。そこで再び卑彌呼の宗女十三歳の壹與を立てて王とし、ようやく国中がおさまることになった。張政らは檄を以て壹與を告諭した。壹與は倭の大夫の率善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わして、張政らの帰国を送らせた。ついでに臺に詣でて、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢進した。

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