最寄駅に降りると雨は先ほどより強くなっていた。傘を持ってこなかったので足早に帰路に着く。
それでも雨はコートを濡らし、眼鏡越しの視界をワイパーが壊れた車のフロントガラスのように滲ませる。
雨に濡れるのって気持ちいいじゃん、自転車乗ってると特にさ。と言っていた友人のことを思い出すが自分はご免である。ただ今日雨に濡れてもまあしょうがないかと思えるのは、着ていたコートがイギリス製のキルティングだったからだ。霧雨の多いイギリスでは傘をささず防水のステンカラーコートやオイルドジャケット、キルティングジャケット(元来狩猟用途だから汚れるもんだし)でしのぐという。正しい使い道だと感じたので許せたのだ。
「ものには正しい使い道がある」という考え方が自分は強いと思う。ボールペンは書くため、カッターナイフは切るために存在している。故にボールペンのペン先で段ボールを開けるようなことはあってはならない。
しかし、世の中にはとりあえず今あるもので代用、という場面が多く存在する。ボールペンで段ボールを開けていたのは以前の職場の先輩で、最初はとても驚いた。驚きはいつしかボールペンへの憐れみへと変わった。段ボールに貼られたガムテープをペン先が割く音はPILOT REXGRIP(その人が使っていたペン)の悲鳴に聞えた。私はそんなことをするために生まれてきたんじゃない。そう叫んでいるように思えた。
ところがその人はとても仕事ができた。仕事ができるだけではなく周囲への気配りもできる人格者だったのだ。私の狭い経験の中では、ボールペンで箱を開けたり、シャチハタの押し方が雑で丸枠が滲みがちな人ほど仕事ができることが多かった。手段にこだわらない論理性がある一定の仕事においてはものを言うのだろう。ボールペンの悲鳴を聞いて悲しみ、正しい道順で進もうとする私はいつもどこかで苦労していたような気がする。
「ものには正しい使い道がある」とは飛躍すると「誰しも輝ける場所がある」という考え方につながると思う。きれいごとだと疑いつつも、心の底ではそう願っている気がする。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があるが、言葉もそれを提唱した人のことも嫌いだ。あなたは置かれた場所に恵まれたか、そうでなければもうすでに誰かを置く側なのだと言いたくなる。
夏の日差しを受けてすっくと立つ向日葵が、寒風吹きすさぶツンドラの大地で輝けるだろうか。雪解けを待ち小さな蕾をつける可憐な春の花が、都会のアスファルトの隙間で踏みつぶされはしないか。
カッターナイフに字が書けなくても、ボールペンが工作で役立たなくても何の問題もない。彼ら(または彼女ら)にはできることとできないこと、そして役割があるからだ。
役割を全うしている姿は美しい。同時に、何もできなくても、美しくなくても存在していい。現在私がまち歩きや文章を書くことを通して光を当てたいテーマの一つである。