曾祖母を亡くして10年が経とうとしている。長かった気もするし短かった気もするという定型文でも添えて。
今でもあちらの世界で元気に笑顔で過ごしているのだろうか。
生まれた頃から家族は○○のおばあちゃん(○○は地名)と呼んでおりそういう存在であり曾祖母という感じではなかった。
曾祖父はとだをが小さい頃に亡くなった。居間の廊下側にいつも座っていた。可愛がってもらった憶えが微かにあるが生まれた頃は事情もあり当初は連れてくるなと言われていたようだ。昭和を生きた人らしい。
葬式をした憶えもある。理解出来てなかったことも憶えている。何で泣いてるのって聞いたような気がする。
話は戻り曾祖母の家には正月やGWなどに行っていた。それ以外にも行くことはあったが。
電車で行くことがもっぱらだったが車で行くこともあり今ほど道路がなかったのでよく迷った。休み中に行った時は親戚の同年代の子らと遊んだこともあった。
最期の年は当時の日記を観ると恐らく正月に行って以来家では逢っていないようだ。次に会ったのは6月でその時には病院で苦しんでいた。ほとんど目は開けられない状態で話す事も出来ない。とだをが話しかけて「分かる?」と尋ねられて何とか頷いていた。ほんとに分かっていたかは分からないけれど。
ほんとならその瞬間までずっとそばにいてあげたかった。
思えばまだ病状が軽い頃。とだをは曾祖母を自分の家に住ませてやれないかと家族に相談したことがあった。寂しかったのだろう。
理由は分からないが多分本人がそこを離れたくなかったのかもしれないし現実的に難しかったのかもしれない、それは実現せずに結局は病院で最期を迎えた。
亡くなったのは登校前に家で知った。明らかに普通でない電話だったのですぐに分かった。
通夜は学校のイベント後に行った。ギターを持ってきてもらったのか分からないが寂しさを紛らわすように弾いていた。
葬式は知らない人だらけだった。さすが昭和人は繋がりが広く深い。
奇しくもその年にGLAYはSAY YOUR DREAMという前半は今までのこと、後半はこれからのことと遺書のようなことが書かれた曲を春に出しており曾祖母のことを書いたかのようだった。
葬式等でその曲が頭の中で流れ哀しみに暮れるも泣かなかった。
“人はたくさんの涙に囲まれて 独り天国へ行くけれど どうか微笑んで今は泣かないでいて 生まれ変わる日にはまた逢えた嬉しさを 産声に変えて叫ぶから命の果てに祝福を
また必ず逢えるから泣かないで…”
もしかしたらもう人とは違う姿を見てとして生まれ変わって目の前に現れたかもしれないしまだこれからなのかもしれない。もしそういう存在が生まれた時には曾祖母に出来なかった分愛してあげたい。もちろん今いる家族、仲間も。
そして10年になる今、とだをはある挑戦をする。曾祖母らの知らない令和になって初めてでありもしかしたら最大でもあるかもしれない挑戦。
もしかしたら残念な結果になるかもしれないがやれるだけのことはやるつもりだ。
曾祖母はとだをが自我を持って初めて亡くなった身近な人だ。忘れようとしても忘れられないしこれからもその表情や声、姿を忘れないだろうし忘れたくもない。
そしてこれが出来なかった、こうしたかったという後悔をある種の教訓としてそう遠くない未来に起こるであろう祖父母との別れを悔いなく迎えられるように出来ることはしていきたい。
今でもあちらの世界で元気に笑顔で過ごしているのだろうか。
生まれた頃から家族は○○のおばあちゃん(○○は地名)と呼んでおりそういう存在であり曾祖母という感じではなかった。
曾祖父はとだをが小さい頃に亡くなった。居間の廊下側にいつも座っていた。可愛がってもらった憶えが微かにあるが生まれた頃は事情もあり当初は連れてくるなと言われていたようだ。昭和を生きた人らしい。
葬式をした憶えもある。理解出来てなかったことも憶えている。何で泣いてるのって聞いたような気がする。
話は戻り曾祖母の家には正月やGWなどに行っていた。それ以外にも行くことはあったが。
電車で行くことがもっぱらだったが車で行くこともあり今ほど道路がなかったのでよく迷った。休み中に行った時は親戚の同年代の子らと遊んだこともあった。
最期の年は当時の日記を観ると恐らく正月に行って以来家では逢っていないようだ。次に会ったのは6月でその時には病院で苦しんでいた。ほとんど目は開けられない状態で話す事も出来ない。とだをが話しかけて「分かる?」と尋ねられて何とか頷いていた。ほんとに分かっていたかは分からないけれど。
ほんとならその瞬間までずっとそばにいてあげたかった。
思えばまだ病状が軽い頃。とだをは曾祖母を自分の家に住ませてやれないかと家族に相談したことがあった。寂しかったのだろう。
理由は分からないが多分本人がそこを離れたくなかったのかもしれないし現実的に難しかったのかもしれない、それは実現せずに結局は病院で最期を迎えた。
亡くなったのは登校前に家で知った。明らかに普通でない電話だったのですぐに分かった。
通夜は学校のイベント後に行った。ギターを持ってきてもらったのか分からないが寂しさを紛らわすように弾いていた。
葬式は知らない人だらけだった。さすが昭和人は繋がりが広く深い。
奇しくもその年にGLAYはSAY YOUR DREAMという前半は今までのこと、後半はこれからのことと遺書のようなことが書かれた曲を春に出しており曾祖母のことを書いたかのようだった。
葬式等でその曲が頭の中で流れ哀しみに暮れるも泣かなかった。
“人はたくさんの涙に囲まれて 独り天国へ行くけれど どうか微笑んで今は泣かないでいて 生まれ変わる日にはまた逢えた嬉しさを 産声に変えて叫ぶから命の果てに祝福を
また必ず逢えるから泣かないで…”
もしかしたらもう人とは違う姿を見てとして生まれ変わって目の前に現れたかもしれないしまだこれからなのかもしれない。もしそういう存在が生まれた時には曾祖母に出来なかった分愛してあげたい。もちろん今いる家族、仲間も。
そして10年になる今、とだをはある挑戦をする。曾祖母らの知らない令和になって初めてでありもしかしたら最大でもあるかもしれない挑戦。
もしかしたら残念な結果になるかもしれないがやれるだけのことはやるつもりだ。
曾祖母はとだをが自我を持って初めて亡くなった身近な人だ。忘れようとしても忘れられないしこれからもその表情や声、姿を忘れないだろうし忘れたくもない。
そしてこれが出来なかった、こうしたかったという後悔をある種の教訓としてそう遠くない未来に起こるであろう祖父母との別れを悔いなく迎えられるように出来ることはしていきたい。