古代エジプト人はアメリカ大陸に渡っていた!? 証拠多数、世界史を覆す大発見か
およそ紀元前3000年頃に始まったといわれ、巨大なピラミッドに象徴される古代エジプト文明は、まだまだ数多くのミステリーに包まれている。その中でも注目されている謎のひとつが、エジプト文明の“行動範囲”である。
【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2016/03/post_9272.html】
■アメリカ大陸は古代エジプト人が発見していた!?
地中海の南西岸沿い、およびナイル川沿いに発展した古代エジプト文明だが、周囲が砂漠に囲まれていたこともあり、メソポタミア文明やインダス文明などの他の古代文明に比べれば孤立していたと考えられており、他民族の侵攻が相次いだ文明史の終盤になるまでは、あまり積極的に対外的な活動を行わなかったともいわれている。
もちろん、メソポタミア文明の国々や地中海沿岸の国々などと交易を行っていたことは確認されているが、概して“行動半径”は狭かったというのが今や定説になっているのだ。しかし本当にそうだったのだろうか? 最近になって、この古代エジプト文明のイメージを大きく覆す指摘がなされている。なんと、今から3000年前、つまり紀元前1000年頃の古代エジプト人は、アメリカ大陸まで渡っていたというのだ。
古代エジプト人によってアメリカ大陸が“発見”されていたとすれば、コロンブスの“新大陸発見”よりもさらに2500年前にさかのぼる話となり、驚きであるとしか言いようがない。もっとも、北アメリカ大陸へは、西暦1000年前後にはヴァイキングが到達し、入植していたという説が最近では有力になっているようだ。ところが、エジプト文明の話はそれよりもなお2000年も前のことになる。それほど昔に、北アフリカからアメリカ大陸へ向けて船を漕ぎ出すことができていたとすれば、これまでの古代史を覆しかねないものになるのは当然だろう。ではその根拠はどこにあるのだろうか。
■当時アメリカにしかなかったコカインとタバコがミイラから検出
1992年にドイツの研究員、スヴェトラ・バラバノヴァ氏は、紀元前1000年頃に埋葬されたと鑑定されている上流階級の女性、ハヌト・タウイ(Henut Taui)のミイラを詳細に分析している。ミイラの皮膚からは大麻の一種であるハシシに加えて、コカインとタバコが検出されたのだが、この時代のエジプトにはコカインもタバコもないはずなのだ。当時、コカインの原料となるコカノキ、そしてタバコはアメリカ大陸にしか自生していなかったという。そして今のところ、このハヌト・タウイより以前の時代のミイラや遺物などからは、コカインとタバコは検出されていないということだ。
ということは、紀元前1000年あたりに古代エジプト文明がアメリカ大陸と何かしらの接触をもったと考えられることになる。古代エジプト人がアメリカ大陸に到達したのか、あるいはアメリカ大陸の先住部族などと交易があったことになるわけだ。
“歴史”上、ある程度正確な世界地図の登場は大航海時代を経た16世紀後半以降を待たねばならないが、一説によれば古代文明はそれよりも数千年も前から全世界の地理をそれなりの精度で把握していたといわれている。とすれば、古代エジプト文明がアメリカ大陸を知っていても不思議ではないのかもしれない。
■グランド・キャニオンに古代エジプト文明の象形文字
アメリカ・アリゾナ州北部に広がる雄大な観光名所のひとつであるグランド・キャニオンだが、なんとここに古代エジプト文明の痕跡が認められるという。
話は百年以上前にさかのぼるのだが、1909年4月5日の地元紙「Arizona Gazette」の一面を飾った記事は、グランド・キャニオンの一角を占める美しく迫力のある景観で人気のマーブル・キャニオンの岩肌にいくつかの異様な洞窟があり、その中に文化的遺物が残されていることを報じていたのだ。
記事は共に米スミソニアン博物館の研究者であるS・A・ジョーダン教授とG・E・キンケイド氏によってレポートされており、教授らは洞窟の中で象形文字のようなものが刻まれた石版を発見したと報告している。そしてこの象形文字のような刻印は、古代エジプト文明で使われた文字であるヒエログリフだと主張しているのだ。
残念ながら証拠の石板や写真などは残されていないのだが、ひょっとするとスミソニアン博物館に秘密裏に保管されているのではないかという憶測もあるようだ。この件に関しての物証は、今のところ当時の新聞紙面だけということになるが、古代エジプト文明とアメリカ大陸の関係を示すアッと驚くような遺物が、今後どこかのタイミングで世に公表されるのかもしれない。
■エジプト文明には大型の船舶があった
もし古代エジプト人がアメリカ大陸に渡っていたとするならば、どんな船を使ったのだろうか。これについては、すでに確認されている古代エジプト文明の遺物から類推が可能である。
現在のエジプト・ルクソール西岸には、古代エジプト唯一人の女性ファラオであるハトシェプスト(紀元前1479年頃~紀元前1458年頃)の命によって建造された「ハトシェプスト女王葬祭殿」がある。この神殿の装飾壁画(レリーフ)に、ハトシェプストの一大事業であった「プント遠征」における海路で使われた船の絵が描かれているのだ。
最低でも200人の乗組員が乗船していたといわれ、金をはじめ動植物などさまざまな交易品が運ばれていたことがわかっている。古代エジプトの最も重要な貿易相手国で「神の国」とも呼ばれていたプントは、エジプトの南東、現在のエチオピアやソマリアにあったとする説が有力だが、まだ特定はされていない。ともあれ、確かにこの大きさの船舶数隻で艦隊を組めば、アメリカ大陸への到達も可能であったのかもしれない。
日本人は江戸時代の鎖国という歴史的な記憶があることからも、昔にさかのぼるほど世界が“狭い”というイメージを抱きやすいかもしれないが、大陸の古代文明が狭い世界の中だけで完結していたと考えるのは確かに性急に過ぎるだろう。そして古代エジプト文明の影響が、思いもよらない場所にも及んでいたと想像をめぐらせてみるのも、ロマンに溢れる“思考実験”かもしれない。