生きたミイラ、ジョナサン・バス ― 全身骨化し、死ぬまで動けなかった男
「骨化した男」や「骨男」、他にも「石男」や「生けるミイラ」などと呼ばれたジョナサン・バス。原因不明の奇病に蝕まれ、全身が徐々に骨化していくという症状に苦しめられた彼は、見世物小屋の目玉として人気を博した。そう聞くと非常に不幸な生涯と思えるが、彼の人生は輝かしい家族愛に包まれたものであった。
【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2016/03/post_9289.html】
■健康で活発だった若年期
ジョナサン・バスは1930年、ナイアガラの滝近くのニューヨーク州の町カンブリアで生を受けた。4人兄弟の長男として農家に生まれた彼は、フレンチ・インディアン戦争で活躍した祖父の名を受け、ジョナサンと名づけられた。
まだまだ森が多かったニューヨーク州の大自然の中で育った彼は、幼少期から活発で、勉強がよくでき、外見も整っていたため、少し名の知れた存在となっていた。7歳と9歳のころにリウマチを患ったものの、それ以外は健康に過ごしていたという。
15歳の頃にはいかに彼がたくましかったのかを物語るエピソードもある。ある日、学校をサボったジョナサンに激怒した教師が、ジョナサンを呼び出して定規を激しく彼に打ちつけた。するとジョナサンは定規をつかみとってそれをやめさせるだけにとどまらず、教師を返り討ちにしてしまったのだ。
そんな彼が14歳のときに父親が亡くなり、まだ幼い弟たちと母を養うため、学校に通いながらも、家の農場で仕事をすることとなった。16歳になると夏の間、友人と一緒に近くにあるエリー運河で木材の荷揚げの仕事もするようになった。当時は運搬船の舵取りでジョナサンの右に出るものはいなかったほどの活躍をしたが、このときの待ち時間などで長い時間水に浸かっていたことが、後の病気の引き金になったのではないかと、ジョナサンは自叙伝で振り返っている。
そして1848年7月22日、17歳だった彼に最初の兆候が現れた。リウマチを患った時以来の謎の痛みが彼を襲ったが、それが骨化の始まりだとは思いもしなかったという。
■奇病の発症、止まらない進行
それは学校へと向かう途中のことだった。右足の拇指球に骨を貫かれたような激痛を覚えた彼は、釘か何かを踏んだかと思って靴を脱いだが、そこには何もなかった。その後患部は燃えるような痛みを増していったという。
翌日になっても立つことができず、痛みは膝にまで広がっていった。たくさんの医者に診てもらい、リウマチの治療を受けるも一向に改善することなく、結局その痛みは秋まで消えることがなかった。その頃には杖なしでは歩けないようになってしまっていた。
彼はその後も5年間にわたり各地の医者に診てもらったものの、原因は解明されず、あらゆる治療を試すも効果がなかった。それでも諦めずに方法を探し続けたジョナサンは、体力が低下していくのに反比例するように知識をつけていった。
治療への執念は消えず、何度も何度も医者に診てもらうことを続けたため、彼は医療界でも注目を浴びた。よく食べよく寝るという健康的な生活を続けていながらも進行する彼の症状に医者たちは困惑し、まれに見る奇妙な症例として「生ける不思議」と呼ぶなど、興味を深めていった。それと同時に、そんな症状に冒されながらも知的に健気に活動する彼を賞賛する声も上がった。
■家族による甲斐甲斐しい介助
1853年、ついに彼は働くことができなくなり、母親に世話をしてもらうことになった。母親はとても優しく献身的に世話をしてくれたが、3、4年後には骨化が進み、顔以外の筋肉は動かせなくなってしまった。アゴ先といくつかの歯を使うことができたため、食欲もあり、消化器官も健康に機能していた彼は、なんとか食事をすることができていた。
しかし症状は徐々に進み、1869年には白内障も発症する。彼は視力も失ってしまったが、周りの人々は彼のために新聞や本を読み聞かせてあげたという。この時期には、完全に骨化していた彼の指先やつま先から、骨が消えていくという奇妙な現象も起きている。そのためか、彼の体重は45キロから30キロにまで減ってしまった。
そして1872年、19年間彼を世話し続けた母親が亡くなった。この頃、ジョナサンには医療界や見世物ショー界からたくさんのオファーが届いていたが、それを全部拒否している。彼は農場を売り、その後15年間、彼の弟であるフォスターの家族と暮らした。フォスターの娘であるローズが、彼の世話をしてくれていたようだ。
そのフォスターも1887年に亡くなると、いよいよジョナサンも生活が苦しくなった。そしてついに、見世物ショーに出演することを決意する。
■ショーで人気となり晩年を飾る
すでに全身が骨化していた彼は、ベッドに横たわりながら全国ツアーをすることになった。当時、彼の姿を見た新聞社は、「(逆さまになった)彼の頭を片手で支えれば、つま先まで一本の棒のように持ち上げることができます」とその奇妙な状態を報じている。
ナイアガラの滝から始まったツアーで全国を回った彼は大人気となり、その道中たくさんの友達や仕事仲間もできたという。
ある時、取材を受けたジョナサンはクリーブランドの市長についてどう思うか尋ねられたことがあった。それに対してジョナサンは「彼は私と同じくらい硬いバックボーンを持っているよ」と機知に富んだ答えをし、体が動かなくてもその才知は衰えていないことを示している。
大人気となった彼は1890年にストライキも起こしている。その頃は週25~250ドルという賃金を得ていたようだが、担当のマネージャーを変え、2番目の弟に任せることにした。
そして5年に渡るショー活動の後ジョナサンは体調を崩し、1892年息を引き取った。風邪をこじらせた末の肺炎だった。死期を悟ったジョナサンは兄弟に頼んで家に帰らせてもらい、その2日後に亡くなったという。
彼の死をニュースで知った医師たちは検死を申し出たが、家族によって拒否された。それは彼の体が盗まれるのを避けるためであったと考えられている。その後、遺体は盗難対策がなされた墓地に埋葬された。彼が遺した財産は彼の甥や姪へと送られている。
健康だった頃は家族を養い、病気を患ってからは家族に世話をしてもらい、家族がいなくなったらその子どもたちへ遺産を贈る。奇病を患った彼は、幸せな人生を送ったとはいえないかもしれないが、助けあって暮らした家族を誇らしく思っていることは間違いない。
※イメージ画像:「Thinkstock」より生きたミイラ、ジョナサン・バス ― 全身骨化し、死ぬまで動けなかった男
「骨化した男」や「骨男」、他にも「石男」や「生けるミイラ」などと呼ばれたジョナサン・バス。原因不明の奇病に蝕まれ、全身が徐々に骨化していくという症状に苦しめられた彼は、見世物小屋の目玉として人気を博した。そう聞くと非常に不幸な生涯と思えるが、彼の人生は輝かしい家族愛に包まれたものであった。
【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2016/03/post_9289.html】
■健康で活発だった若年期
ジョナサン・バスは1930年、ナイアガラの滝近くのニューヨーク州の町カンブリアで生を受けた。4人兄弟の長男として農家に生まれた彼は、フレンチ・インディアン戦争で活躍した祖父の名を受け、ジョナサンと名づけられた。
まだまだ森が多かったニューヨーク州の大自然の中で育った彼は、幼少期から活発で、勉強がよくでき、外見も整っていたため、少し名の知れた存在となっていた。7歳と9歳のころにリウマチを患ったものの、それ以外は健康に過ごしていたという。
15歳の頃にはいかに彼がたくましかったのかを物語るエピソードもある。ある日、学校をサボったジョナサンに激怒した教師が、ジョナサンを呼び出して定規を激しく彼に打ちつけた。するとジョナサンは定規をつかみとってそれをやめさせるだけにとどまらず、教師を返り討ちにしてしまったのだ。
そんな彼が14歳のときに父親が亡くなり、まだ幼い弟たちと母を養うため、学校に通いながらも、家の農場で仕事をすることとなった。16歳になると夏の間、友人と一緒に近くにあるエリー運河で木材の荷揚げの仕事もするようになった。当時は運搬船の舵取りでジョナサンの右に出るものはいなかったほどの活躍をしたが、このときの待ち時間などで長い時間水に浸かっていたことが、後の病気の引き金になったのではないかと、ジョナサンは自叙伝で振り返っている。
そして1848年7月22日、17歳だった彼に最初の兆候が現れた。リウマチを患った時以来の謎の痛みが彼を襲ったが、それが骨化の始まりだとは思いもしなかったという。
■奇病の発症、止まらない進行
それは学校へと向かう途中のことだった。右足の拇指球に骨を貫かれたような激痛を覚えた彼は、釘か何かを踏んだかと思って靴を脱いだが、そこには何もなかった。その後患部は燃えるような痛みを増していったという。
翌日になっても立つことができず、痛みは膝にまで広がっていった。たくさんの医者に診てもらい、リウマチの治療を受けるも一向に改善することなく、結局その痛みは秋まで消えることがなかった。その頃には杖なしでは歩けないようになってしまっていた。
彼はその後も5年間にわたり各地の医者に診てもらったものの、原因は解明されず、あらゆる治療を試すも効果がなかった。それでも諦めずに方法を探し続けたジョナサンは、体力が低下していくのに反比例するように知識をつけていった。
治療への執念は消えず、何度も何度も医者に診てもらうことを続けたため、彼は医療界でも注目を浴びた。よく食べよく寝るという健康的な生活を続けていながらも進行する彼の症状に医者たちは困惑し、まれに見る奇妙な症例として「生ける不思議」と呼ぶなど、興味を深めていった。それと同時に、そんな症状に冒されながらも知的に健気に活動する彼を賞賛する声も上がった。
■家族による甲斐甲斐しい介助
1853年、ついに彼は働くことができなくなり、母親に世話をしてもらうことになった。母親はとても優しく献身的に世話をしてくれたが、3、4年後には骨化が進み、顔以外の筋肉は動かせなくなってしまった。アゴ先といくつかの歯を使うことができたため、食欲もあり、消化器官も健康に機能していた彼は、なんとか食事をすることができていた。
しかし症状は徐々に進み、1869年には白内障も発症する。彼は視力も失ってしまったが、周りの人々は彼のために新聞や本を読み聞かせてあげたという。この時期には、完全に骨化していた彼の指先やつま先から、骨が消えていくという奇妙な現象も起きている。そのためか、彼の体重は45キロから30キロにまで減ってしまった。
そして1872年、19年間彼を世話し続けた母親が亡くなった。この頃、ジョナサンには医療界や見世物ショー界からたくさんのオファーが届いていたが、それを全部拒否している。彼は農場を売り、その後15年間、彼の弟であるフォスターの家族と暮らした。フォスターの娘であるローズが、彼の世話をしてくれていたようだ。
そのフォスターも1887年に亡くなると、いよいよジョナサンも生活が苦しくなった。そしてついに、見世物ショーに出演することを決意する。
■ショーで人気となり晩年を飾る
すでに全身が骨化していた彼は、ベッドに横たわりながら全国ツアーをすることになった。当時、彼の姿を見た新聞社は、「(逆さまになった)彼の頭を片手で支えれば、つま先まで一本の棒のように持ち上げることができます」とその奇妙な状態を報じている。
ナイアガラの滝から始まったツアーで全国を回った彼は大人気となり、その道中たくさんの友達や仕事仲間もできたという。
ある時、取材を受けたジョナサンはクリーブランドの市長についてどう思うか尋ねられたことがあった。それに対してジョナサンは「彼は私と同じくらい硬いバックボーンを持っているよ」と機知に富んだ答えをし、体が動かなくてもその才知は衰えていないことを示している。
大人気となった彼は1890年にストライキも起こしている。その頃は週25~250ドルという賃金を得ていたようだが、担当のマネージャーを変え、2番目の弟に任せることにした。
そして5年に渡るショー活動の後ジョナサンは体調を崩し、1892年息を引き取った。風邪をこじらせた末の肺炎だった。死期を悟ったジョナサンは兄弟に頼んで家に帰らせてもらい、その2日後に亡くなったという。
彼の死をニュースで知った医師たちは検死を申し出たが、家族によって拒否された。それは彼の体が盗まれるのを避けるためであったと考えられている。その後、遺体は盗難対策がなされた墓地に埋葬された。彼が遺した財産は彼の甥や姪へと送られている。
健康だった頃は家族を養い、病気を患ってからは家族に世話をしてもらい、家族がいなくなったらその子どもたちへ遺産を贈る。奇病を患った彼は、幸せな人生を送ったとはいえないかもしれないが、助けあって暮らした家族を誇らしく思っていることは間違いない。
※イメージ画像:「Thinkstock」より
「骨化した男」や「骨男」、他にも「石男」や「生けるミイラ」などと呼ばれたジョナサン・バス。原因不明の奇病に蝕まれ、全身が徐々に骨化していくという症状に苦しめられた彼は、見世物小屋の目玉として人気を博した。そう聞くと非常に不幸な生涯と思えるが、彼の人生は輝かしい家族愛に包まれたものであった。
【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2016/03/post_9289.html】
■健康で活発だった若年期
ジョナサン・バスは1930年、ナイアガラの滝近くのニューヨーク州の町カンブリアで生を受けた。4人兄弟の長男として農家に生まれた彼は、フレンチ・インディアン戦争で活躍した祖父の名を受け、ジョナサンと名づけられた。
まだまだ森が多かったニューヨーク州の大自然の中で育った彼は、幼少期から活発で、勉強がよくでき、外見も整っていたため、少し名の知れた存在となっていた。7歳と9歳のころにリウマチを患ったものの、それ以外は健康に過ごしていたという。
15歳の頃にはいかに彼がたくましかったのかを物語るエピソードもある。ある日、学校をサボったジョナサンに激怒した教師が、ジョナサンを呼び出して定規を激しく彼に打ちつけた。するとジョナサンは定規をつかみとってそれをやめさせるだけにとどまらず、教師を返り討ちにしてしまったのだ。
そんな彼が14歳のときに父親が亡くなり、まだ幼い弟たちと母を養うため、学校に通いながらも、家の農場で仕事をすることとなった。16歳になると夏の間、友人と一緒に近くにあるエリー運河で木材の荷揚げの仕事もするようになった。当時は運搬船の舵取りでジョナサンの右に出るものはいなかったほどの活躍をしたが、このときの待ち時間などで長い時間水に浸かっていたことが、後の病気の引き金になったのではないかと、ジョナサンは自叙伝で振り返っている。
そして1848年7月22日、17歳だった彼に最初の兆候が現れた。リウマチを患った時以来の謎の痛みが彼を襲ったが、それが骨化の始まりだとは思いもしなかったという。
■奇病の発症、止まらない進行
それは学校へと向かう途中のことだった。右足の拇指球に骨を貫かれたような激痛を覚えた彼は、釘か何かを踏んだかと思って靴を脱いだが、そこには何もなかった。その後患部は燃えるような痛みを増していったという。
翌日になっても立つことができず、痛みは膝にまで広がっていった。たくさんの医者に診てもらい、リウマチの治療を受けるも一向に改善することなく、結局その痛みは秋まで消えることがなかった。その頃には杖なしでは歩けないようになってしまっていた。
彼はその後も5年間にわたり各地の医者に診てもらったものの、原因は解明されず、あらゆる治療を試すも効果がなかった。それでも諦めずに方法を探し続けたジョナサンは、体力が低下していくのに反比例するように知識をつけていった。
治療への執念は消えず、何度も何度も医者に診てもらうことを続けたため、彼は医療界でも注目を浴びた。よく食べよく寝るという健康的な生活を続けていながらも進行する彼の症状に医者たちは困惑し、まれに見る奇妙な症例として「生ける不思議」と呼ぶなど、興味を深めていった。それと同時に、そんな症状に冒されながらも知的に健気に活動する彼を賞賛する声も上がった。
■家族による甲斐甲斐しい介助
1853年、ついに彼は働くことができなくなり、母親に世話をしてもらうことになった。母親はとても優しく献身的に世話をしてくれたが、3、4年後には骨化が進み、顔以外の筋肉は動かせなくなってしまった。アゴ先といくつかの歯を使うことができたため、食欲もあり、消化器官も健康に機能していた彼は、なんとか食事をすることができていた。
しかし症状は徐々に進み、1869年には白内障も発症する。彼は視力も失ってしまったが、周りの人々は彼のために新聞や本を読み聞かせてあげたという。この時期には、完全に骨化していた彼の指先やつま先から、骨が消えていくという奇妙な現象も起きている。そのためか、彼の体重は45キロから30キロにまで減ってしまった。
そして1872年、19年間彼を世話し続けた母親が亡くなった。この頃、ジョナサンには医療界や見世物ショー界からたくさんのオファーが届いていたが、それを全部拒否している。彼は農場を売り、その後15年間、彼の弟であるフォスターの家族と暮らした。フォスターの娘であるローズが、彼の世話をしてくれていたようだ。
そのフォスターも1887年に亡くなると、いよいよジョナサンも生活が苦しくなった。そしてついに、見世物ショーに出演することを決意する。
■ショーで人気となり晩年を飾る
すでに全身が骨化していた彼は、ベッドに横たわりながら全国ツアーをすることになった。当時、彼の姿を見た新聞社は、「(逆さまになった)彼の頭を片手で支えれば、つま先まで一本の棒のように持ち上げることができます」とその奇妙な状態を報じている。
ナイアガラの滝から始まったツアーで全国を回った彼は大人気となり、その道中たくさんの友達や仕事仲間もできたという。
ある時、取材を受けたジョナサンはクリーブランドの市長についてどう思うか尋ねられたことがあった。それに対してジョナサンは「彼は私と同じくらい硬いバックボーンを持っているよ」と機知に富んだ答えをし、体が動かなくてもその才知は衰えていないことを示している。
大人気となった彼は1890年にストライキも起こしている。その頃は週25~250ドルという賃金を得ていたようだが、担当のマネージャーを変え、2番目の弟に任せることにした。
そして5年に渡るショー活動の後ジョナサンは体調を崩し、1892年息を引き取った。風邪をこじらせた末の肺炎だった。死期を悟ったジョナサンは兄弟に頼んで家に帰らせてもらい、その2日後に亡くなったという。
彼の死をニュースで知った医師たちは検死を申し出たが、家族によって拒否された。それは彼の体が盗まれるのを避けるためであったと考えられている。その後、遺体は盗難対策がなされた墓地に埋葬された。彼が遺した財産は彼の甥や姪へと送られている。
健康だった頃は家族を養い、病気を患ってからは家族に世話をしてもらい、家族がいなくなったらその子どもたちへ遺産を贈る。奇病を患った彼は、幸せな人生を送ったとはいえないかもしれないが、助けあって暮らした家族を誇らしく思っていることは間違いない。
※イメージ画像:「Thinkstock」より生きたミイラ、ジョナサン・バス ― 全身骨化し、死ぬまで動けなかった男
「骨化した男」や「骨男」、他にも「石男」や「生けるミイラ」などと呼ばれたジョナサン・バス。原因不明の奇病に蝕まれ、全身が徐々に骨化していくという症状に苦しめられた彼は、見世物小屋の目玉として人気を博した。そう聞くと非常に不幸な生涯と思えるが、彼の人生は輝かしい家族愛に包まれたものであった。
【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2016/03/post_9289.html】
■健康で活発だった若年期
ジョナサン・バスは1930年、ナイアガラの滝近くのニューヨーク州の町カンブリアで生を受けた。4人兄弟の長男として農家に生まれた彼は、フレンチ・インディアン戦争で活躍した祖父の名を受け、ジョナサンと名づけられた。
まだまだ森が多かったニューヨーク州の大自然の中で育った彼は、幼少期から活発で、勉強がよくでき、外見も整っていたため、少し名の知れた存在となっていた。7歳と9歳のころにリウマチを患ったものの、それ以外は健康に過ごしていたという。
15歳の頃にはいかに彼がたくましかったのかを物語るエピソードもある。ある日、学校をサボったジョナサンに激怒した教師が、ジョナサンを呼び出して定規を激しく彼に打ちつけた。するとジョナサンは定規をつかみとってそれをやめさせるだけにとどまらず、教師を返り討ちにしてしまったのだ。
そんな彼が14歳のときに父親が亡くなり、まだ幼い弟たちと母を養うため、学校に通いながらも、家の農場で仕事をすることとなった。16歳になると夏の間、友人と一緒に近くにあるエリー運河で木材の荷揚げの仕事もするようになった。当時は運搬船の舵取りでジョナサンの右に出るものはいなかったほどの活躍をしたが、このときの待ち時間などで長い時間水に浸かっていたことが、後の病気の引き金になったのではないかと、ジョナサンは自叙伝で振り返っている。
そして1848年7月22日、17歳だった彼に最初の兆候が現れた。リウマチを患った時以来の謎の痛みが彼を襲ったが、それが骨化の始まりだとは思いもしなかったという。
■奇病の発症、止まらない進行
それは学校へと向かう途中のことだった。右足の拇指球に骨を貫かれたような激痛を覚えた彼は、釘か何かを踏んだかと思って靴を脱いだが、そこには何もなかった。その後患部は燃えるような痛みを増していったという。
翌日になっても立つことができず、痛みは膝にまで広がっていった。たくさんの医者に診てもらい、リウマチの治療を受けるも一向に改善することなく、結局その痛みは秋まで消えることがなかった。その頃には杖なしでは歩けないようになってしまっていた。
彼はその後も5年間にわたり各地の医者に診てもらったものの、原因は解明されず、あらゆる治療を試すも効果がなかった。それでも諦めずに方法を探し続けたジョナサンは、体力が低下していくのに反比例するように知識をつけていった。
治療への執念は消えず、何度も何度も医者に診てもらうことを続けたため、彼は医療界でも注目を浴びた。よく食べよく寝るという健康的な生活を続けていながらも進行する彼の症状に医者たちは困惑し、まれに見る奇妙な症例として「生ける不思議」と呼ぶなど、興味を深めていった。それと同時に、そんな症状に冒されながらも知的に健気に活動する彼を賞賛する声も上がった。
■家族による甲斐甲斐しい介助
1853年、ついに彼は働くことができなくなり、母親に世話をしてもらうことになった。母親はとても優しく献身的に世話をしてくれたが、3、4年後には骨化が進み、顔以外の筋肉は動かせなくなってしまった。アゴ先といくつかの歯を使うことができたため、食欲もあり、消化器官も健康に機能していた彼は、なんとか食事をすることができていた。
しかし症状は徐々に進み、1869年には白内障も発症する。彼は視力も失ってしまったが、周りの人々は彼のために新聞や本を読み聞かせてあげたという。この時期には、完全に骨化していた彼の指先やつま先から、骨が消えていくという奇妙な現象も起きている。そのためか、彼の体重は45キロから30キロにまで減ってしまった。
そして1872年、19年間彼を世話し続けた母親が亡くなった。この頃、ジョナサンには医療界や見世物ショー界からたくさんのオファーが届いていたが、それを全部拒否している。彼は農場を売り、その後15年間、彼の弟であるフォスターの家族と暮らした。フォスターの娘であるローズが、彼の世話をしてくれていたようだ。
そのフォスターも1887年に亡くなると、いよいよジョナサンも生活が苦しくなった。そしてついに、見世物ショーに出演することを決意する。
■ショーで人気となり晩年を飾る
すでに全身が骨化していた彼は、ベッドに横たわりながら全国ツアーをすることになった。当時、彼の姿を見た新聞社は、「(逆さまになった)彼の頭を片手で支えれば、つま先まで一本の棒のように持ち上げることができます」とその奇妙な状態を報じている。
ナイアガラの滝から始まったツアーで全国を回った彼は大人気となり、その道中たくさんの友達や仕事仲間もできたという。
ある時、取材を受けたジョナサンはクリーブランドの市長についてどう思うか尋ねられたことがあった。それに対してジョナサンは「彼は私と同じくらい硬いバックボーンを持っているよ」と機知に富んだ答えをし、体が動かなくてもその才知は衰えていないことを示している。
大人気となった彼は1890年にストライキも起こしている。その頃は週25~250ドルという賃金を得ていたようだが、担当のマネージャーを変え、2番目の弟に任せることにした。
そして5年に渡るショー活動の後ジョナサンは体調を崩し、1892年息を引き取った。風邪をこじらせた末の肺炎だった。死期を悟ったジョナサンは兄弟に頼んで家に帰らせてもらい、その2日後に亡くなったという。
彼の死をニュースで知った医師たちは検死を申し出たが、家族によって拒否された。それは彼の体が盗まれるのを避けるためであったと考えられている。その後、遺体は盗難対策がなされた墓地に埋葬された。彼が遺した財産は彼の甥や姪へと送られている。
健康だった頃は家族を養い、病気を患ってからは家族に世話をしてもらい、家族がいなくなったらその子どもたちへ遺産を贈る。奇病を患った彼は、幸せな人生を送ったとはいえないかもしれないが、助けあって暮らした家族を誇らしく思っていることは間違いない。
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