空華 ー 日はまた昇る

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映画「ミツバチのささやき」

2020-05-22 09:16:53 | 映画「ミツバチのささやき」

川井郁子ヒマワリ

愛に包まれたアナ


映画『ミツバチのささやき』の紹介文に、「愛に包まれたアナ」とタイトルをつけたのは理由があります。あとで、書くように、アナとフランケンシュタインとの出会いは人間の持つ不幸に原因しているので、そちらに目を奪われると、この映画の素晴らしさを見失うからです。アナという少女が1940年ころ、スペインの田舎町に、姉イザベルと両親と家政婦と共に古びた邸宅に住んでいました。

しかし、アナを愛する人達は怖ろしいスペイン内戦によって、傷つけられていたのです。内戦では百万人の死者がでています。人民戦線側の政府とヒットラーの応援を受けたフランコ将軍との戦いで、人民戦線側は敗北しました。これはヘミングウェイの小説「誰がために鐘はなる」を読んだり、映画を見た方は、おそらく恋人を逃がした主人公の男がフランコの大軍と一人で銃撃戦をするラストシーンを思い出すかもしれませんね。

この映画のアナの父はかなり老けており、母は若いが、おそらくは人民戦線側の敗北した側の人間でしょう。それでも、かなり裕福で恵まれた階層の人であったということは映像で分かります。大きな邸宅。ミツバチを飼って、哲学的な思弁をノートに書きつける父、フエルデイナンド。
アナの母は、生きているか死んでいるか分からない昔の恋人に手紙をかくことがあります。幸福だった昔の人達と内戦で別れて、多くのものが失われたと嘆き、届くがどうか心配しながら、平原の小さな駅に滑り込む機関車のポストに投函するために自転車で行くことがあるのです。

さて、最初の場面で、移動巡回映画が村の公民館にやってきます。
映画の「タイトル」の「フランケンシュタイン」を見ただけで、監督の意図が見えるような気がします。舞台に説明に立つ初老の男は「この映画は人類創造の神の御業を忘れ、人間をつくりだそうとした科学者の話です」と紹介しています。
大人も子供も見に来ています。

主人公の女の子アナはこの映画に出てくるフランケンシュタインが小さな女の子を殺す場面にひどくひきつけられます。
両目の上のおでこがひどく突出している以外は中年の男の顔、歩き方がロボットのようにぎこちない。
花を愛したフランケンシュタインが何故そんな怖ろしいことをするのだろうという疑問にとりつかれたのです。

二つ並ぶベッドの上で、アナは眠そうにしているイサベルに向かって言います。 
「さっきの映画のお話しして。何故、怪物はあの子を殺したの。何故怪物は殺されたの」と質問するアナは真剣です。
イサベル 「怪物もあの子も殺されてないのよ」
アナ     「なぜ 分かるの。何故、死んでないと分かるの」
イサベル 「映画の中の出来事は全部ウソだから。私、あの怪物が生きているのを見たもの」
アナ    「どこで」
イサベル  「村はずれに隠れて住んでるの。ほかの人には、見えないの。
  夜に出歩くから」
  アナ   「お化けなの」
 イサベル  「精霊(spirit)なのよ」
アナ   「先生がお話ししていたのと同じ」
イサベル   「そうよ。でも、精霊は身体を持っていないの」
アナの頭に、フランケンシュタインが精霊であるという姉のイサベルの言葉は驚きであり、怪物という怖ろしいイメージがある種の魅力的なイメージに急展開したのではないでしょうか。人間とは違う神秘な存在ということで、幼いアナにはもっと知りたいという気持ちが起きたかもしれません。
【大人にはフランケンシュタインが悪い怪物だから、そういう怖ろしいことをすることが当たり前であっても】
当然、精霊にも色々あるのかもしれないという連想が湧くかもしれない。アナの頭は「精霊」という言葉の魅力とそれでは「あのフランケンシュタインはどういう精霊なのか」という気持ちが起きるに違いないのです。

アナ    「映画では身体があったわ。腕も足も」
イサベル「それは出歩く時の変装なのよ」
アナ  「夜しか出歩かないのに、どうやって話したの」
イサベル 「だから、精霊だって言ったでしょ。
    お友達になれば、いつでもお話しできるのよ。目を閉じて、彼  を呼ぶの。私はアナですって」
 
 
フランケンシュタインの内容はご存知の方が多いと思うが、簡単に言えば、人造人間です。
最初は良い人のように思えましたが、醜い顔のために、皆に嫌われ、段々と人間が悪くなり、犯罪を犯すようになるのです。

なぜ、映画監督は 最初の映画に「フランケンシュタイン」を持ってきたのでしょうか。

スペイン内戦では、人々が百万人死にました。
人口が今の日本の三分の一ぐらいで、スペイン人どうしの戦いで百万人の死者
という数字がどれだけの膨大な犠牲者がでたかということを考えてみる必要もあるでしょう。


というわけで、この童話的な映画の最初に出てくるフランケンシュタインは人間の二面性、善と悪、それが葛藤を引き起こし、行く方向を見失った時に起きる、凶暴性の象徴ともとれるかもしれません。

 

アナとイサベルという姉妹の精霊の話のあとの映像では、父親が自分の部屋でミツバチの考察をして、ノートを広げている。

「このガラス製の ミツバチの巣箱では  蜂の動きが時計の歯車のようによく見える。巣の中での蜂たちの活動は絶え間なく神秘的だ」という言葉は
おそらくスペイン内戦後の息苦しい人々の生活を思わせるものがあるに違いない。
「乳母役の蜂は蜂児房で狂ったように働き
他の働き蜂は生きた梯子のようだ
女王蜂はらせん飛行」という言葉は人々が自分というものがなく、ただ道具のように萎縮して働き、時には過労死することがあるのに、
独裁者フランコだけは生き生きと素晴らしく動いているということだろうか。

「間断なく 様々に動き回る
蜂の群れの 報われることのない過酷な努力
熱気で圧倒されそうな往来
房室を出れば眠りはない」という言葉もやはり、スペイン国民の過酷な労働と眠りのない生き方を強いられている有りさまの象徴か。
「幼虫を待つのは労働のみ
唯一の休息たる死も
この巣から遠く離れねば得られない
この様子を見る人は驚き ふと目をそらした
その目には悲しみと恐怖があった」
この映画がつくられたのが1973年。フランコが亡くなったのは1975。まだ、体制を直接的に批判することが出来なかった。映画がとりうるのは象徴的技法によるレジスタンスです。検閲をくぐるためにも、間接表現が映画には必要だったと思えます。


翌朝、学校では太った中年の女の先生が黒板にドン・ホセという男の人体を貼り付け、生徒に心臓 肺 の場所と機能を教えています。

先生がアナに、顔の大事な所を質問すると、後ろのイサベラが「目」と小声で教える。先生はアナに聞いているのよと言う。アナは「目」と言い、目の形をした紙を顔に張り付ける。


映像の画面が変わって、地平線まで続く荒野。小屋以外には何も見えない平らな平原に草が生えているだけ。
「あの井戸のある小屋に行ってみる」とイサベラがアナに問いかけます。
二人で行ってみます。

次はアナ一人でやってくるのです。
パオ―と井戸に向かって大きな声をするアナ。
井戸に向かって石を投げつける。
一人で小屋の中を見ます
何もない
外で大きな靴の足跡を見つける
その足跡に自分の足をあわせ自分の倍近い足跡を確認する
周囲は何もない荒野
アナの頭には何か精霊のイメージがもしかしたらあって、無意識にでしょうか。会って、話してみたいという気持ちがあるのかもしれませんね。

数日後、パパとイサベルとアナは林の中を散歩して、きのこを見つけます。
「ここにもある」
「きのこ」
「いいキノコ」
「いいキノコだ」というパパ。
「でしょう」
「名前を知っているか」

「キノコをとつたことないの」とイサベルがパパに質問。
「ない。何故か、分かるか。おじいさんに教えられた。毒かどうか分からない時はとらないこと。間違って毒キノコを食べたら、キノコもお前の命も何もかもおしまいだ。分かったか」
「はい」

「おじいさんは食べるより、探す方が好きだった。一日中でも。疲れなかった。山をごらん」と言うパパ。
低い山が見える
「おじいさんはキノコの園と呼んでいた」
「行かないの」
「遠いんだ」
いずれ連れてってやると子供たちに約束するパパ。
立派なキノコを見つけ、毒キノコだと言う。見かけはいいが、危険なキノコだ。「食べたら必ず死ぬ」

 

場面は変わって、朝、アナがママに髪をとかしてもらう場面。
ママ「精霊って、何だか知っている」
「精霊は精霊よ」と答える母。
「いいもの、悪いもの」
「いい子にはいいし、悪い子には、悪いもの」と言う母。
「お前はいい子ね」
「ママにキスして」
抱き合う母とアナ。素晴らしい親子の愛情の交換の場面です。どちらにしても、この場面はアナの頭に、精霊のイメージがふくらんで、それがいいものかどうか興味しんしんという気持ちが現れた母子の会話ととれますよね。

この「ミツバチのささやき」の映像の中に登場する「家族と学校」のごくありふれたお話の流れの中に、アナの重要な問いかけが美しいポエムのように流れているのではないでしょうか。
つまり、精霊とは何か。人は死ぬが、精霊は死なないとはどういうことか。
生きるとはどういうことか。死ぬということはどういうことか。そういう素朴な疑問を持つと同時に、いつか、自分も精霊に会える日が来るのだろうかという心が働いているのかもしれません。
できれば、フランケンシュタインに会って、色々聞いてみたいとアナは思っているのかもしれませんね。


数日後ベッドにいる姉のイサベラはベッドにいる黒猫をかかえてなでて、可愛がっている。途中から黒猫の首を絞めるのです。猫は怒って、イサベラの指をかみついて逃げ出します。血がついた指をなめ、唇に血をまるで口紅でもつけるようにして、鏡を見ながらつけるイサベラ

アナがタイプを打っていると、キャーという叫びが聞こえる。
アナは立ち上がり、広い廊下で死んだ振りをしているイサベラ
戸口から外の日差しの明るさが見える部屋の中で横たわるイサベラ
「イサベラ。起きてよ。ウソなんでしょう」と言うアナ。

 

ある時、荒野のなかにある小屋に一人の若者がころげこみます。彼は怪我をしています。ピストルを持っています。もしかしたら、人民戦線側の兵士だったのかもしれません。

そこへ、アナがやってきて、男を見ます。男は人が来たので、銃口を向けたが、相手が少女だと分かり、銃を引っ込め、やさしくほほえみます。少女も果物をさしだし、二人は助け合う仲となるのです。父のジャンバーを持って来たり、そのポケットの中にはオルゴールのある時計が入っていました。

しかし、数日して、そこへフランコの軍人がやってきて、男を射殺して、死体を始末してしまいました。

軍はアナの父親を町に呼び、男の遺体の顔を見せ、ジャンバーと時計を返します。

 

そのあと、男に会えることを楽しみにやってきた少女はその小屋に彼がいない。
何故、いないのだろう。現場にある血など見て、直感的に悲劇を察したのでしょう。

父親はその小屋の入口の所で、アナを見つけ、時計のオルゴールをならす。
アナが怪我をした若い男に持ってきてやった上着に入っていた父親の時計です。
アナは発作的に小屋から飛び出します。
父親は「アナ」と呼ぶが、彼女は見つからなくなってしまうのです。
皆で探します。アナは夢のように、森の中に彷徨い、フランケンシュタインに出会います。
その間の、アナの家族の心配は大変だったことでしょう。若い母は映像の最初の場面で、スペイン内戦の心の傷を背負いながら、生きているのか死んでいるのか分からない昔の恋人との手紙のやり取りをしていた場面がありました。
アナの失踪で、大きなショックを受けた母は、今ここで彼女にとって一番大切なものは何かと悟り、手紙を破り、火で燃やしてしまう場面があります。
幸い、翌朝、父親はアナを見つけました。アナは無事だったのです。

私の感想としては、アナは両親を中心に愛に包まれた聡明な少女です。でも、アナは愛に包まれ、精霊の謎を解きたい気持ちにかられていたのでしょうけど、周囲の社会はスペインン内戦の直後で、多くの大人達は傷ついていたのです。姉のイサベラはある程度、大人の社会が分かっていて、何も知らない妹のアナを愛しながら、無知の彼女を面白がっているようなところがあります。イサベラはフランケンシュタインを大人と同じように悪い奴と考えていますが、アナはイサベラのついた嘘、「精霊である」を信じているようなところを楽しんでいるようにも思えます。その中で、殺すとか殺されるとかいう不条理、生と死の秘密を知りたいと思い、フランケンシュタインという精霊を追い求めたのかもしれません。

これほど、深く愛に包まれた少女のアナが周囲の傷ついた大人達に向ける視線には人間の奥深い神秘が感じられます。そういう美しい神秘な瞳を感じさせる映像で、それがこの映画を素晴らしい魅力的なものにしています。


【参考】
映画  ミツバチのささやき

監督   ビクトル・エリセ
出演   アナ    アナ・トレント
     イサベル(姉) イサベル・テリェリア
     フェルナンド(父)   フエルナンド・ゴメス
1974年  スペイン映画作家協会賞  最優秀作品賞

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水岡無仏性のペンネームで、ブックビヨンド【電子書籍ストア学研Book Beyond】から、「太極の街角」という短編小説が電子出版されています。