今の世相を見ていると、自分の目で社会を見たり、文章を見て的確に判断しようと努力している人と、そうでない人がいるような気がする。そうでない人は周囲の話や噂に飛びついてしまい、それが真実と断定してしまう傾向にあると思われるがいかがであろう。
皆と仲良くやっていくことはとても大切であるが、「和して動ぜず」という言葉もある。
自分のしっかりした目を持ちながら、人の声にも耳にも傾ける。ともかくこのことに関しても、格差があるという感想を持つ今日この頃である。
さて、本論に入ろう。今日は文学というものを話題にしたいと思う。ご存知の通り、私はこのブログで小説と映画感想などを掲載してきた。そこで、一つの感想を言えば、多くの人に満足していただくような物語を書くのは大変難しいということである。文章がすらすら運ぶ時の喜びはたとえようもないが、文章はきりがない。推敲しても、これでいいということがない。私の作品の中で、一番時間をかけ推敲したのはアマゾンで電子出版した長編小説である。
しかし、私の場合、電子出版というものが日本に上陸する前にはネットだのそういうものは少数の人がやっているだけで、1995年以前であろうか、その頃の話になるとそのネットすらなかったと記憶している。それで、発表する手っ取り早い方法は自費出版であった。最初にこれをやった時は実名で周囲の人に配り、批評を聞き、次の修練、文章修行に役だてたのである。これは四十年ぐらい前になるかと思う。ですから、今のネットに近い感覚で、お金も最小費用にするために、読みにくいことを覚悟で、文字をぎっしり詰め知人に配っただけである。
時間がない所で書きなぐったので、本の形になっていても公にするために、出版したものではないのである。
多少、物語をつくる感覚がつかめて、公にしてもいいと思った時から、ペンネームを使い製本も考えて良い本にすることを心がけた。それは二冊になる。そして最後の本が前から紹介している反公害、脱原発の長編小説「いのちの花園」である。
これを読者の皆様が文学と認めてくだされば、その日から、私は職業作家の道を歩むことになったでしょう。その自信もあった初めての大小説でした。しかし、自費出版とはそう甘いものではないのです。当たり前のことでしょうが、宣伝がないと直ぐにしぼんでしまうのです。広く世界を見渡せば、二-チェのような人でも、1冊の本を数百冊にして自費出版にしたことがあると聞きますが、最初はかんばしくなかったようです。その他、島崎藤村の「破壊」などもそうだったようです。
今は本が売れない時代と言われている。私はそういうことを調査したことがないので、そのあたりは、そうなのかなと思う程度だが、私個人に関して言えば、宣伝と信用が大切であるということを痛感している。
ところが、私の出版を快く思わず、邪魔しようとする一部の人がいるらしいということも
三年間のブログ生活で感じた。信用を傷つけようとする人達である。
それに、私の文章をちゃんと読まずに、あらを探そうとして、拾い読みをして、見つけると、そこを大げさに吹聴するのです。
相手は誰だか分からない。
年もくい、体調も悪い中で、随分頑張って書いたつもりだが、そんな状態なのに、何故書くのか、これは私の人生の必然性のようなものです。
これは本当に不思議なくらいである。この不思議さを小説にしたら、一巻の中編小説、しかも私小説が生まれるかもしれない。ただ、私は私小説を書いたことがない。いつも空想の人物を書くのが好きなのです。
私の文学修行は東京都立大学柔道部に始まると前に書いた。当時は65キロ以上あり、外見からは丈夫そうである。それに、柔道二段で、三段の人とやっても、一本とれたなどと書くと、タフガイの典型みたいに思われるけど、身体の内部の体質の方は意外にデリケートだったのである。
学生の時に若年性高血圧などといわれたのも、そのデリケートさが外に現れた結果であると思われる。
その頃、女子学生に「高血圧でね」などと言うと、彼女達はころころと笑ったものであるが、私にとっては、その後、私の人生を左右するほど、相当長い事、この高血圧には悩まされ、一時は大学病院に行ったことがあるほどである。【そこでも原因は不明であった】
今は胃と前立腺に悩まされている。
この筋肉と神経のアンバランスが小説を長く書く原動力になったともいえよう。
さて、話を移そう。物語にも色々な種類があるのはご存知の通りである。私の若い頃は、法律の勉強よりは世界の頂点にある大文学を読むことに挑戦していたのである。トルストイ、ドストエフスキー、ロマン・ロラン・ヘミングェイと。
そこでは、江戸時代の文学のように、人間は善人と悪人と分れていないのである。
一つ例を上げてみよう。好みもあろうが、世界文学の最高峰ともいわれるドストエフスキーの「罪と罰」は主人公は貧しい大学生で、金貸しの老婆を殺してしまうのである。そして、物凄い貧しさのために売春している心の清純なソーニャというキリスト教徒に出会うのである。ソーニャが語る言葉には、深い宗教的な感動がある。
事実は小説より奇なりと言うが、今の時代にも、ニュースを見ていると、不可解な恐ろしい事件が相次いで起こるので驚くが、
恐らく、人間というのはそういう不可解なものを持っている。そしてそういうニュースを見ている我々は善人の側に立って、色々批評をしている。
ただ、親鸞の浄土真宗の核心が書かれている本に耳にとめておいてもよいと思うのがある。それは、倉田百三という明治の作家が世界一の本と評した「歎異抄」である。
親鸞の弟子が親鸞のいうことならば、何でもきくというようなことを言ったら、親鸞が「それなら、人を千人殺してこい」と言ったそうだ。弟子は驚いて、「私の器量では一人ですら人をあやめることは出来ません」と答えたそうだ。そうしたら、親鸞は「そうだろう、人は善人だから、人を殺さないのではない。そういう縁がなかっただけある。」
親鸞の教えにはこういう風に、自我の悪を凝視するところがある。勿論、当時の時代が武士が台頭して刀を振り回し、法然の父は暗殺されたような時代であることは頭にとどめておく必要がある。今でも、戦争は一人の人の引き金で沢山の人が死ぬことがあるのはご存知の通りである。だから、戦争はしてはいけないのである。
キリストのこういう話も耳にとめておいて良いだろう。キリストの周囲に、悪いことをしたという女をひきたててきた群衆が「この女を罰しようでないか」と言ったそうだ。
キリストは「自分に罪を犯したことがないという自信のあるものだけが、この女に向かって石を投げつけなさい」というようなことを言ったら、群衆は一人去り、二人去りという風に全員去っていったそうである。
この人間の持つ悪と対極にあるのが、「愛と大慈悲心」である。
さて、これだけの悪と善の知識を踏まえて、現代文学を見た時、ドストエフキーのように、
悪を書いて、そのなかに、宗教的光と愛を見出すのは文学の一つの理想とも思えよう。
しかし、ドストエフキーのような天才だから、そういう物語が書けるのである。
普通の人が若い未熟な時にこの真似をすると、志は高く良くても、奇妙な文章になってしまうことが多い。それほど、人間の悪と善を書くのは難しいのである。だから、文学にも修行がいる。
世界の多くの作家が傑作を書くのは絵画と同じように、晩年に多いのはそのためと思う。まれに、処女作から傑作を書く、ドストエフキーやヘミングウエイもいるが、そういう人は天才である。
フランスのバルザックなど、若い頃はへたな小説しか書けず、ある修練を経てから、頭角を現わし、晩年に近くなってから、次々と大傑作を書いたと聞いている。
今はネットがあって、無料で若い人はどしどし書き、仲間に批評してもらい、文章を磨く
ことができる。文章修行がネットという良い場所にある。まずい文章を掲載したと、気がついても、直ぐに削除すれば良い。こんなに、
文章を書くのに恵まれた時代はかってなかったことである。
優れた才能が花開くのを、みんなで見まもろうではありませんか。
私は今まで、ブログの中に掲載した小説の中で、「愛と大慈悲心」こそ、これからの価値観に必要なことを書いてきた。金銭至上主義の価値観が現代にはある。これが変な事件を生む大きな原因となっていると思うので、ここらで、価値観を変えようではありませんか。具体的には既に多くの方が取り組んで頭の下がる方も大勢いらっしゃるのである。その末席に私の「永遠平和を願う猫の夢」を加えてもらえれば、これほどありがたいことはないのである。
今後ともよろしくお願いします。
久里山不識
【参考】
1 法華経
「この善男子、善女人は如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に座して、しこうしていまし、四衆のために、広くこの経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心これなり 」
2 新約聖書
「たとい私が予言の賜物をもち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどに満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい。
愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛はねたまず、誇らず、高ぶらぬ。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをゆるし、すべてを信じすべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ。
愛はいつまでも、絶えることはない。だが予言ならばすたれ、異語ならばやみ、知識ならば滅びる。^^^^もっとも偉大なものは愛である。】
【コリント人への第一の手紙 13章】[長いので一部、省略してあります]