窓の外に、しとしとと降る雨音が聞こえてくる。梅雨なのだろうか。部屋の壁のカレンダーが六月になっている。
それにしても、ここはどこなんだ。机の上に見慣れた仏像が飾ってある。うん。とするとここは地球の京都のようだ。吾輩は本物の猫に戻っている。目をさましたようだな。何かとてつも長い変な長い夢を見た。
銀河アンドロメダの夢というやつだ。
でも、地球と少し似ていて、また違っているようでいて、奇妙な所だった。
変人の主人はどうしているかな。
何。朝から新聞を見て「共謀罪成立」と騒いでいる。
今日は日曜日のようなのかな。
どれどれ、のぞいてみるか。
奥さんと何か話している。
「おい。共謀罪が成立したぞ」
「あら、そう」
「随分と呑気だな。日本は少しおかしいぞ。」
「もともと、おかしかったのよ。だから、福島原発事故になったのでしょ。きちんとした世論というのがつくりにくいのよ。井戸端会議がチャットなんてものに変わってしまったでしょ。本当はそこで、民主的な話し合いがされて、素晴らしいポエム・文化あるいは政治的な意見が形成される筈なのに、不思議なことにそうはならない。あれはピンキリよ」
「どんな風に」
「あたしのようにね。優雅な文化を持つ奥さまがたや、お嬢さま方の本当の優雅な文化のお話しをするチャットから、地獄のチャットまであるのよ」
「うん。なんだ。その地獄のチャットっていうのは」
「自分のことは棚に上げて、人を中傷するうわさ話をするのを専門とする所よ」
「ふうん。そうだろうな。そんなの見当がついているよ」
「でも、天界のチャットでは、私のように優れた文化の話をしている人達も沢山いるのよ。勿論、天界のチャットから、地獄のチャットまでの間に百ぐらいの色々な段階のチャットがあるのじゃない。魂のレベルによっては、三千あるという人もいるわよ。」
吾輩はここまで聞いて、吾輩の夢を仲間の黒助に話そうと思ったが、話せば、どういう風になるか見当がつく。それでも、懐かしい懐かしい友だ。夢も壮大なアンドロメダ銀河の夢だから、これをあいつに話さずにはいられない気持ちにかられる。黒助はいつも吾輩を見ると、ふんとえばった顔をする。彼にこの夢の話をすれば、少しは感心するだろう。
ところが会って、いさんで話したら、例のふんというやつを二度もやって、それから言った。やはりこいつの頭のレベルに話したら、こうなることは見えていたではないか。それでも、彼の顔を見ていると懐かしいから不思議だ。
「何、トラ族。ライオン族のヒト。そんなものいるわけないだろ。
お前、ついに頭をやられたな。
第一、話の内容を聞いているとよ。フランス革命から第一次大戦、ヒットラーと何か歴史をごちゃまぜにしているだけじゃないか。」
「でも、夢だから」
「俺はそんな夢は許さん」
「許さんと言ってもね。僕が見る夢なんで、夢って、多少脈絡に変な所があるよね。それが夢ですよ。それに、核兵器のない世界をつくろうとか、憲法九条を守って、世界を平和の方向に向けようとか、何か一つのテーマが夢の中に流れているような気がする」
黒助君はどうも吾輩の言っている意味が分からないのか、すっとぼけた顔をして、突然大きなあくびをした。
樹木の上ではカラスが大きな声でないて、飛び立った。雨はしとしと降っている。
「もしかしたら、黒助の君とこうやって久しぶりに地球の京都で話しているのも夢かもしれん」
「何。夢ではない。俺は現実だ。夢だなんていう奴は許さん」
「信長は人生、五十年、夢まぼろしのごとしって言ってたよ。仏教のお坊さんもよく言っているじゃないか。
この現世は幻のようなものじゃ。真如を発見しなければ、ならんとね」
「真如。何だ。それは食べ物か」
「やだな。もう忘れたの。黒助君も少し物忘れの兆候が出てきているのじゃないかな。あそこの禅のお坊さんよ。よく掃除をしている年配のお坊さんよ。
掃除をしていたら、ほうきではいた石が飛び、コーンと音がした。その音で真如の世界を発見した。真如の世界では人も猫も同じ仲間だ。何しろ、仏性どおしだからなって、会うたびに言うじゃないか」
黒助はやはり、仏性と聞いてもまんじゅうのように丸い何かうまそうな食べ物を想像しているらしい。顔つきで分かる。そう言えば、道元の言葉に「全世界は一個の明珠である」というのを思い出した。
黒助と話していてもしょうがないから、自分の家に戻って、主人の書斎に行ったら、部屋の中がいやに乱雑になっている。
本も増えているせいか、そこら中の畳の上に、本が積んである。
吾輩は久しぶりにこの部屋に寝ころんだら、本の上のコーヒー茶碗を転がしてしまった。中に半分ほどコーヒーが入っているのだから、薄い表紙がすっかり汚れてしまった。雑誌のような薄い本だから、彼もそう目くじらたてまいと吾輩は勝手に思った。
ただ、よく見ると、タイトルに「脳幹と解脱」と書かれている。
また奇妙な本を読んている。科学の本なのか、禅の本なのか分からない。それに本というにはかなり古ぼけた本だ。
しばらくして、入つてきた主人は大騒ぎになった。
「玉城康四郎先生の大切な本にコーヒーをひっくり返したな。何やっているんだ。お前は」と主人は怒り心頭である。
そんな大事な本の上にコーヒー茶碗を載せておく方が悪いと、吾輩はにやあにやあと猫の言葉で言った。やはり、ここは銀河アンドロメダの夢と違って、まるで通じていないようだ。
「でも、この本。大分、古くなったし、安い本だから、新品のに、取り換えよう」と一人ぶつぶつ言っている。
書斎のテーブルに向かい、既にあったパソコンにしがみつき、何かインターネットやらを始めた。
「驚いた。千六百円の本が五千五百円になっている。」と主人ははしゃいでいた。
吾輩はそんな高価な本なら、コーヒー茶碗を載せておく方が失礼だ、と言ってやりたかったが、なにしろ、本棚をよくよく見ると、玉城康四郎先生の「正法眼蔵」の厚手の本は全巻仕入れ、本棚に飾ってある。それで、この薄い一冊ぐらいは親しみの思いで畳の上に置いていたのかなと、吾輩は想像した。
主人はパソコンの前で、ファウストのようにうなっている。
「パソコンは便利で楽しい。しかし、故障すると、それを直すのに、この間のことでよく分かった。まるで非人間的だ。
のっけるものは素晴らしい文化、しかし、ハードは人間の精神を抹殺するようなものがある。しかし、人間のつくった機械の多くがそういうものがある。何百億円もする戦闘機も戦いもしないで、故障で墜落することがあるのだからな。
だからこそ、先生の本を読まないと、人間の心を取り戻せなくなる」と主人は急に厳粛な顔になって、机の上の仏像に手を合わせた。
それから、吾輩は黒助に会いに行く。
外は雨だ。隣の垣根にビヨウヤナギが一面に咲いている。
その黄色い五枚の花弁があんまり美しいのでみとれて、多少雨にぬれてしまうかも、それでも仕方あるまい。それでも、にやーと猫語で黒助がいるかどうか声をかけてみた。
隣の家は声楽専門の高校の音楽教師のようだ。おまけに オペラが好きときている。
戸口があいているので、雨の音にまじって、聞こえてくる。
どうもセビリアの理髪師であるらしい。前にも聞いたことがあるから、直ぐ分かった。伯爵は身分を隠し、貧しい男になって富や身分でなく、恋する女が真実の自分を愛するかためす、そういう伯爵、それを応援する何でも屋の理髪師の話だった。その歌っている場面は恋敵の男が伯爵をおとしめる策略を練っている場面だ。それには中傷がいいと助言する者がいる。
あの頃、権威であった善良な伯爵でさえ、うまく中傷すれば悪者になるという内容の歌だ。こうなると、名誉棄損では弱い。名誉棄損は悪質なものは痴漢と同じくらいの重い不正という認識が必要だ。猫でもここの場面の歌を聞いていると、そう思う。
「中傷はそよ風のように」心地よく人の耳に入り、人の心と脳をまひさせ、そしてうろたえさせてしまい、やがて雷や嵐となって変貌していく有様を歌詞にしているのだと、吾輩は思った。
吾輩は「如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座して」という経典の言葉を思い出した。同時に、「大慈悲心」が大切なのだと思った。こんなことで争うのは愚かなことだ。
黒助が吾輩のにおいをかぎつけて、
「お、来たな。先生のまたへたなオペラの練習だよ。オペラが好きなんだから仕方ないか。俺もオペラを聞くのがきらいでなくなった。お前、最近、どこへ行っていたんだ」
また、黒助の物忘れが始まった。それでも、オペラの感じ方が前と違う。どうやら、雨にうたれて黒助も詩人になったのかもしれない。
部屋に戻ると、隣りから聞こえてくる。
「おい、千六百円の雑誌が五千五百円になっているぞ。さすが、玉城康四郎先生の本は値打ちがある」と主人は奥さんに大きな声で言っている。
「あら、キリストと仏教の道元の考えが同じだと主張する先生ね」
「キリストだけでない。孔子もソクラテスも道元の仏教とも比較して、宇宙の形なきいのちととらえている。純粋生命ともいう。
それをキリストは神のプネウマ。孔子は天命あるいは道。釈迦はダンマと言われているが。これはみんな生命のみなもとなんだよ」
吾輩はあとで、一人になって、書棚に戻された例の本を読んでみた。
こう書いてある。
「ブッダの教えを長いあいだ学んでくると ダンマの形なきいのちが私の体に通徹してくる。そうすると、これはもはや仏教の枠組を超えて、ブッダ以外の人類の教師たち、キリスト、ソクラテス、孔子などにも、おのずから通じてくるのです。
互いに形はちがいますけれども、本質的には同じことを教えていることが知られてきます。ブッダを学んだだけでもそうなるのですが、先に述べましたように、科学との対応関係を考えてくると、いつそう深刻にうなづかれてくるように思います。」
【つづく】
【久里山不識より奇妙な夢の話】
本当はこういう現実の地球の話をいくつもこの物語に入れるべきだったのでしょう。というのは、「アンドロメダ銀河の猫の夢」は、やはり、夢のような話ですし、荘子の有名な話にあるように、夢が本当の自分なのか、夢から覚めた方が本当の自分なのだろうかと考えるのも面白い。
つまり、荘子の「いつか荘周は夢に胡蝶となる。その蝶々になったことを楽しんでいた。荘周のことは全く知らなかった。
やがて、目を覚ますと自分は荘周ではないか。荘周が夢で胡蝶となったのか、それとも、胡蝶が夢で荘周となったのか、私には分からない」という有名な話がありましたね。
ちょうちょになった夢を見た。はたして、ちょちょうが本当の自分なのか、人間の自分が本当の自分なのか、こんなことは、分かり切った話だと思うならば、こういうイメージはどうでしょうか。
臨済録によれば一心は無なのだから、両方とも幻のような自分と解釈しますね。仮に霊界があるとすれば、霊界の自分も無が現われたもの。この地球に生まれた自分も無が現われたもの、この無を西欧風に霊とか聖霊とかに置き換えると、無の印象がまた違って見えてきて面白いと思います。
ハイデガーの言う「存在」も興味深い。臨済録は「一心は無」だと言う。そうすると、一心はハイデガー流に言えば、存在ですから、臨済の話からすれば存在は無だということになり、その時、宇宙の真理が分かったということになる。まあ、色即是空を思い出しますな。