空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

ファウスト

2019-06-08 13:07:02 | ファウスト

 


 今回、テーマが「ファウスト」ですから、漫画と映画のファウストの両方を見てみました。


 原作のゲーテの「ファウスト」は学生時代に、何度も読んで好きでした。


筋の大枠はゲーテのものですけど、細かい内容となると、漫画と原作がかなり違うのは良いとしても、映画を見た印象があまりにも違いすぎるということで、驚きました。


  


映画の悪魔メフイストフェレスが金貸しというのは現代を皮肉ったのか。私でも現代の社会を金銭至上主義で、日本の伝統ある仏性論などの価値観を復活させたくなるのだから、監督がこういう設定をしたのはよく分かる。


最初から、人間の解剖を見せ、人間の内臓を見せる所は、ゲーテの美しい詩文から受けるよりは はるかにグロテスクである。このグロテスクな場面は現代を洞察した時に得る哲学の象徴かもしれない。


現代はみかけは人工的な美しさで綺麗に着飾った風景を見せているが、中身はどうだろうか。経済格差は広がるし、地球温暖化は進むし、戦争の火種はくすぶっている。


最近では、素晴らしい自動車は誕生するが、悲惨な事故に心痛める。


 


 物語のあらましはこうである。時は十九世紀のドイツ。主人公はファウスト博士。


ゲーテの原作では、当時のありとあらゆる学問を学んだ博士が老人になり、「結局、真理は分からないのだ」と絶望して、毒杯を仰ごうとすると、美しい教会の鐘の音が聞こえてきて、思わず、杯を落とす。


 


有名な書き出しなので、最初の所を引用しておく。


【いやはや、これまで哲学も


法律学も、医学も、むだとは知りながらも神学まで


営々辛苦、究めつくした。


その結果はどうかと言えば


昔と比べて少しも利口になってはおらぬ【略】


 


人間、何も知ることはできぬということだとは。


なるほど俺はそこらの医者や学者、


三百代言、坊主などという、いい気な手合いよりは賢いし、


そこで俺は霊の力やお告げによって、


ひょっと秘密のいくらかが知れはすまいかと思い、


魔法の道に入ってみた。】


 


  


手塚治虫の漫画ではここの所はかなり忠実に描写している。


漫画のファウスト博士という老人も「やれやれわしは世界中の学問という学問はかたっぱしからみんなひと通りやってみたのに、まだこの広い天地の大秘密を知ることができないなんて、まったくなさけない」と言い、地の精霊を呼び出す場面がある。そのあと、犬になった悪魔に魔女の住む洞窟に案内され、若返りの薬の上等なやつをつくってもらい、ファウストは飲んで青年になる。


 


映画では、ファウスト博士の弟子が  解剖をしながら「魂はどこにあるのか」


と探している場面で始まる。ファウストは魂の存在を研究していたのだ。それから金に困り、飢餓状態にあるファウストが金貸しの所に出かける。


そこの主人がどうも悪魔らしい。


 


ファウストが絶望している所は原作と似ているが、映画では飢餓というのが加わる。正直、言って、あの当時のドイツがあのような貧しい状態だったのかと、強い関心を持つ。


毒ニンジンを食べたのに、死なない金貸し、悪魔の本性が最初に出てくる所だ。悪魔に興味があるというファウスト。


金貸しの悪魔はファウストの望遠鏡を見て、月にサルがいると言う。


 


悪魔の金貸しとファウスト二人で、公共洗濯場と浴場を兼ねたような所に出かけ、金貸しの老人が裸になると、男なのに、前がなく、後ろに尻尾のようなものが出ている。


マルガレーテは洗濯をして面白そうに見ている。ここで、ファウストは純粋な魂を持つ乙女マルガレーテと話をする。


 


【手塚治虫の漫画はともかく面白く読めるようにつくられていて、天使は神によって、ファウストを悪魔から守れという命令を受けて、地上のお城のお姫さま、マルガレーテとして生まれ、育ち、犬になった悪魔と一緒のファウストと出会い、恋をする。】


 


  


さらに、映画では、酒場に行くと、若い連中が終戦祝いということで、ワインで酔っている。悪魔が壁にフォークで穴を開けると、そこからワインが吹き出て、皆が喜んで群がる。


  


そして、飲んでいる連中のところで、悪魔がマルガレーテの兄と言い合いになる。


その中で、ファウストは悪魔のフォークを持たされ、アルコールに酔った兄と三人がもみあっている間に、兄がつかみかかろうとして、勢いあまって、ファウストが持っていたフォークで腹をさしてしまう。ファウストはただ、持っていただけなのに、悪魔の計略によって、ファウストはマルガレーテの兄の殺人者となってしまう。


 


ファウストはマルガレーテの兄に対する罪の意識と悪魔に対する怒りから、悪魔にマルガレーテと病気がちの母の二人を助けたいと言う。悪魔はしぶる。


 


マルガレーテの家を訪ね、大木の影から見ていると、マルガレーテは洗濯物を干している。そこに、兄の死体がかつぎこまれる。遺体は家の中に。


それを見ていたファウストは「彼女のために金を用意してくれ」と悪魔に言う。


「仕方ない。いざという時の金がある」と悪魔が答える。


「そうしてくれ」


悪魔のとっておきの金貨を母親に渡す。


そのあとの棺を乗せた馬車の葬式の列にファウストは参列する。


「参列はやりすぎだ」と悪魔は言う。




 


  


葬式の帰り、マルガレーテの母と金貸しの悪魔は話しながら帰る。そこから見えない程度に離れて、乙女マルガレーテはファウストと話しながら、歩く。


どんな植物がお好きですかという会話。周囲には凄い大木がある。


「本当に教授ですの」と問うマルガレーテに対して「学位だって、持っています」と言うファウスト。


「先生のご専門は」と問うマルガレーテに対して、「世界秩序、惑星の軌道、そして錬金術」と答えるファウスト。


「学問って、何ですの」と言うマルガレーテに対して、「空しさを埋めるものです。あなたは刺繍をするでしょう。学問は刺繍と同じです」


 


ここの所は原作の「ありとあらゆる学問はしたが、分からない」というニュアンスと少し違うように思える。学問は真理探究の筈だが、真理がつかめない、分からないという悲しみみたいなものが原作にはある。


 


映画ではかなりさめた言い方をしていて、ニーチェを思わせる。実際、学問で、空海や道元や親鸞が発見した真理など分かる筈がない。




 


 


マルガレーテが町の中を歩いている所を、ファウストの弟子ワーグナーが追いかける場面も奇妙でエキセントリックだ。


ワーグナーは「私が本物のファウストだ」と言い、「私は成功した」と言う。


「アスパラガスとタンポポの精油とハイエナの肝臓を混ぜ、人造人間が出来たので、見て欲しい」とマルガレーテに迫るワーグナーは狂人じみている。滑稽でもある。


マルガレーテがもみ合いながら逃げると、ワーグナーは人工生命体の入った瓶を落とし、瓶は割れてしまう。中にいる小さな人造人間は血だらけになった顔で、うごめいている。


 


 


ここの所もゲーテの原作と違う。原作の人工生命体は小人【ホムンクルス】であるが、ちゃんと喋り、理性もあり、お伽の国の美しい人のように見える。ゲーテが科学者として一流の人で、当時の楽観的な科学観が見える。


  原作の実験室の様子は次のよう。


ワーグナー  鈴の音が怖ろしく鳴り響き


       すすけた壁が震動する


       もうそろそろ、真剣勝負の極まりも


       つきそうなものだと思うが


       もう曇りが少しずつ薄らいできた。


       レトルトの真ん中には、


       燃える石炭の火のような


       いや、すばらしいルビーのようなものがあって、


       それが闇を貫いて稲妻のようにきらめく。


       強い白光が出てきたぞ。


       今度こそはぜひ成功させたいものだが、


       なんだ、何が扉をがたつかせるのだ。


悪魔     何事ですか


ワーグナー  人間が出来上がろうというところなのです。


 


これに対して、映画では、原爆をつくり、遺伝子工学に不安を感ずる現代人のさめた科学観がニーチェ的な衣装を着て、登場した感じがする。


 


 


乙女マルガレーテは兄を殺した犯人はファウストだと聞いて、ファウストを訪ね、ファウストに「兄を死なせました?」と聞く。「ええ、死なせました」と答えるファウスト。


 


ファウストはこの事件がばれたことを悪魔に告げ、マルガレーテと一晩ともにすることを手伝えとせまる。ここで二人の契約書が交わされる。それは魂と引き換えに、その望みをかなえるという内容のものだ。それもファウストの血で署名される。ここも原作とはまるで違う。


 


ゲーテの原作では、最初の方で悪魔メフイストフェレスと契約して、ファウストは若返り、青年としてマルガレーテに出会うという風になっている。


 


 ファウストの死後の魂を悪魔が自由にするという所は同じだが、映画では最後の方で、この契約そのものをファウストは破棄して、悪魔を岩に閉じ込め、荒野に一歩、一歩確実に歩みだすシーンで終わる。この契約破棄という所も、キリスト教の旧約聖書にある神と人間の契約を無視するという風にとれるので、まさにニーチェのキリスト教批判に通じる。


 


無の中で逞しく生きることを推奨するニーチェ。ただ、禅などの仏教の考えはニヒリズムを超えて、仏性という永遠の生命を見出すことにあると思うので、ニーチェよりさらに人生肯定的である。


 


ゲーテの原作と映画の芸術での違いは結局、当たり前のことであるが、詩文の美と映像美の差であろう。映画「ファウスト」は至る所に、独特の映像美がある。「映画」はゲーテの【スピノザ的】汎神論をニーチェの無神論に置き換えたような印象を持つ。この映画のニヒリズム的書き出しには驚いたが、現代への皮肉とか警告ととると、面白くなる。




 


  


御覧、緑にかこまれた農家が


夕映えを受けて輝いている


太陽は次第に沈んで行って、一日は今まさに終わろうとしている。


ああして西に没した太陽は また新たな一日を促すのだ。


翼を得て、この地上から飛び立ち、


あの跡を追って行けたらどんなにいいだろう。


そうしたら、永遠の夕陽を受けた静かな世界が


己の脚もとに横たわって、


丘は燃え輝き、谷は静まり返って


白銀の小川が黄金の大河に注ぐさまは見られよう。


そうなれば、深い谷 を擁した荒々しい山も


己の神の如き飛行を妨げることはできまい。


水のぬるんだ入江のある海が


己の驚嘆する眼の前に早くも開けてくるだろう。


しかし陽の女神は遂に姿を消してしまったようだ。


とはいえ己の中には、今新しい衝動が目覚めている。


己は女神の永遠の光を飲もうとして


昼を前に、夜を背後に


空を頭上に、大海原を眼下に翔けて行くのだ。


          【略】


          高橋義孝訳


 


 


【参考】


  映画 「ファウスト」


   監督・脚本 アレクサンドル・ソクーロフ


   ファウスト   ヨハネス・ツアイラー


   マウリツィウス・ミューラー【高利貸】 アントン・アダンスキー


   マルガレーテ   イゾルダ・ディシャゥク


 




【久里山不識より】


アマゾンより「霊魂のような星の街角」と「迷宮の光」を電子出版


【永遠平和を願う猫の夢】をアマゾンより電子出版


  


水岡無仏性のペンネームで、ブックビヨンド【電子書籍ストア学研Book Beyond】から、「太極の街角」という短編小説が電子出版されています。


 


グレート・ギャツビー

2019-06-01 14:09:32 | グレート・ギャツビー

  


  私は最近アマゾンで電子出版した「永遠平和を願う猫の夢」で、金銭も大切だが、それ以上に尊いいのちに根差した優れた価値観が必要であるという立場を模索してきたつもりだ。


「グレート・ギャツビー」という物語は金銭至上主義の原点がここにあったと思わせるものがある。プールつきの大邸宅に住む大金持ちになることが、既に結婚している女の心を自分のものにする道であると信じた男ギャツビー。だからこそ、この物語のニックは彼の最も軽蔑するものを一身に持った絢爛豪華な個性のある男という印象をギャツビーに持ったのではないか。


 


この物語は文章芸術である。映画もよく出来ているが、場面、場面に表現される人・建物・庭園・町、そして人の心理にある不可思議な美しさを描いている文章の巧みさを映像で表現しようとするということは至難の業ではないか。それでも、次々と映像化されるのは、この物語が人間という生き物の面白さを見る者に訴える効果を持っているのであろう。


 


粗筋を言うと、ギャツビーという貧しかった男が第一次大戦のあと、大金持ちになり、昔の恋人デイズィーに会おうとするが、彼女は既にトムという富豪と結婚している。仕方なく、このトムの邸宅の対岸にあたる所、つまり霧がなければ入江の向こうにデイズィーの家の緑色の電燈が見える所に、宮殿のような豪邸を買う。そして、パーティをして、デイズィーが来ることを待つが、彼女は現れない。


 


 そんなギャツビーの隣に、彼の宮殿から見れば、小屋みたいな家を、証券会社に勤める三十才ぐらいの独身男のニックが、借りる。このニックがこの物語の語り手となる。語り手であるから、あんまり自分の深い心理描写はしないし、そういうタイプの人間ではないのである。分かりやすく言えば外向的に世間をわたっていくのが上手なタイブ。


ニックは、毎日、証券ビジネスに取り組み、日夜そういう方面を勉強している。


ニックは、高い教育を受け、ビジネスマンとしてのそれなりの能力を持ち、人に好かれる育ちの良さがある。


第一次大戦にも参加している。


それなりに、恵まれた才能を持つ独特の個性なのだろう。


ただ、こういうニックのような人物だけだと、強烈な物語は生まれにくい。あくまでも、この小説のように、ギャツビーとの出会いに至る過程、出会い、そして悲劇へという話の語り手となっているのが自然なのかもしれない。


 


ニックとデイズィーは親戚関係にあるだけでなく、かなり親密である。


やがて、ギャビーはニックとデイズィーの関係を知るようになり、隣人のニックをパーティーに招待し、親密になる。それから、ギャツビーは、デイズィーがニックの小さな家に来るようにしてもらい、そこで会えるようにとりはかることをニックに頼む。


 


 そのあと、ディズィが初めてニックの家を訪ねた場面を小説家フィツジェラルドは次のように書いている。


 


「車が停まった。デイズイーの顔が藤色の三角帽子の下から斜めに見える。彼女はうっとりと明るく微笑しながら、ぼく【語り手ニック】を眺めていた。


「ねえ、ニック。ここがあなたの住んでいる所だというの」


さざ波のように広がる彼女の明るい声は、雨の中で、野性的な強い力を持っていた。一瞬ぼくは、耳だけで、その声の音だけを追わねばならなかった。その言葉の意味が心に入ってきたのはそのあとだった。濡れた髪の毛が、線を描く一筆書きの青い絵の具のように、頬にくっついている。


   【略】


玄関のドアを軽くたたく荘重なノックの音がした。ぼくは出て行って、ドアを開けた。


ギャツビーが死人のように蒼ざめて、上着のポケットに分銅でも入れたみたいに両手をつっこんでいた。そして、悲しげに、にらむようにぼくの眼を見つめながら水溜りの中に立っていた。


彼はポケットに手をつっこんだまま、ぼくのそばをゆったりした足取りで通り抜けて、玄関の間に入った。それから、いらいらしたかのようにくるりと曲って、居間の中に姿を消した。【略】


 


三十秒ばかりのあいだは物音一つしなかった。ついで、居間の中から、息をひそめたようなささやきと笑いかけたような声が聞えた。それから、続いてディズィの澄んだいつもとは違う声が聞えた。


「あなたにお会い出来て、あたし ほんとうに嬉しいわ」 】


 


 


恋人に会いたいという衝動から来る物語の筋は、古今東西の恋愛小説の基本である。「ロミオとジュリエット」「若きヴエルテルの悩み」「谷間の百合」  短編では、チェーホフの「子犬を連れた奥さん」もそうである。


 


 さて、私は少し一風変わった恋愛論を披露したいと思う。それを言う前に、スタンダールの有名な恋愛論の中で、情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛と分けていることをご存知の方も多いと思うが、ここから見ればギャビーは情熱恋愛の心の結晶作用が見事に美しく作用して、あんな物語風な行動に出たと言えるのかもしれないが。


私は禅の立場から、変わった解釈をしよと思う。恋愛の本質は、相手の仏性を恋慕することにある。本来、生命は一なるものである。この目に見えない仏性を発見するのには大変な修行がいるのであろうから、普通の人はABC DE・・・・という風に分離されているのが常識的な判断である。この分離状態では、仏性はつかまえられない。


人間は特に文明状態が進むと、この分離状態はますます激しくなる。電車に乗っても、道を歩いていても、見知らぬ者には声をかけない。こういう分離状態では、全ての人が持っていると、お釈迦さまがおっしゃつた仏性はつかまえることが出来ない。


男が女を追うという性欲の中で、互いの自我がとれた瞬間がある。その自我のとれた意識が愛に昇華するのである。それが恋愛になるのではないかと、私のように禅を勉強した者はそういう解釈をとる。相手の仏性を見て、一なる生命を経験するというのは強烈である。だから、ロミオとジュリエットのように一つになろうとする衝動が激しくなる。しかし、ABは強固な自我を持っているが故に、時間がたつと、自我と自我は衝突する運命にある。そのために、恋愛はうっかりすると、しぼんでいく。場合によっては、崩壊することもある。


まれに、ギャツビーのように、金銭の力で昔を復活させようとするものもある。


だからこそ、再会の夢を実現させたギャツビーは昔の中尉の軍服を着て、ディズィーと踊ったのではないだろうか。


 


どちらにしても、普通、禅では、こういう説明に仏性を持ってくることはしない。イメージの上では、上記のような解釈も成り立つという私の独断である。


それから、優れた有名な恋愛小説は、その恋愛に障害物があるのが普通である。障害物がないと、物語を続けることが難しくなる。


障害物を乗り越えていく強い愛に、人は感動するというわけである。


その点、ギャツビーはどうであろうか。


 


「グレート・ギャツビー」の場合は、話が複雑である。


富豪トムとデイズィーの夫婦関係は、トムがよそに女をつくることがよくあるので、よくない関係にある。


デイズイーがギャツビーと恋仲であった青春時代には、ギャツビーが陸軍中尉ではあったが、貧乏だった。大戦などで、ヨーロッパに行かねばならないギャツビーは、結婚することになるまで、「待ってくれ」と彼女に言う。しかし、そういうギャツビーの願いにもかかわらず、大富豪の息子トムは大金持ちのイメージでデイズーを誘惑して、結婚したという過去がある。


 


サラリーマンのニックは、デイズィーと親戚で、デイズィーの夫、富豪トムとは、大学時代の親友である。そして、トムはニックに、トムの恋人である自動車修理工ウイルンの妻マートルを紹介するというよりは、見せる。こんなことを普通するだろうかという疑問が残る。こういう所に、肉体は強健であるが、野蛮な一面を持つトムを描いているのだろうか。ウイルソンとマートルという夫婦がギャツビーの最後の悲劇に必要だから、つくった場面と、疑いたくなるような見方も出来る。


 


 


その点、ギャツビーの方がロマンティックとも言える。貧乏から、三十そこそこで、巨万の富を築く。アメリカンドリームの夢がギャツビーに託されているということで、実にアメリカらしい話だと思った。問題はギャツビーの仕事の内容である。


 


トムがギャツビーとの対決の場面で、そのギャツビーの仕事をあばいていく場面がある。それを知った、デイズイーは心が離れていてくような混乱に陥る。どうもギャツビーは法律すれすれのことをしているらしい。密造酒に手をそめたり、賭博師ウルフシェイムと手を組んだり、物語の中で具体的にはっきりした形で仕事の内容が示されていないで、ぼやかしてある。破廉恥なことではないが、ルールすれすれの仕事という所だろう。昔から、時代の急激な変わり目に、そのチャンスに巨万の富を築くものがいるが、第一次大戦後のアメリカにそういうチャンスがあったのかもしれない。


 


ただ、私の意見としては、こういう仕事をする人を英雄視するのは変だと思う。やはり、まじめに、ものを生産し、つくる、人にサービスするという普通の人がやっているような仕事に軍配をあげたい。金を横に動かして巨万の富を得るというようなことが奨励されると、社会は衰退すると思う。


 


こういうギャツビーだが、昔の恋人を取り戻したいという希望を持っている。さて、ギャツビーがニックを親友と思うようになるまでに、親しくなったのはデイズ―との関係を取り戻したいという思惑もあったのだろう。


 


事実、ニックは自分の家で、ギャツビーとデイズィーを引き合わせる。


 


 デイズィ―は結婚して小さな子供までいるのだが、ギャツビーは「何で待ってくれなかったのか」と彼女をせめる。デイズイーは色々弁解している内に、「金持ちの娘は結局、貧乏な男の所にお嫁にいけないのよ」と口ばしってしまう。


 


ギャツビーの愛は本物だったのだろう。しかし、幻を追いかけていたともいえないことはない。何故なら、女【デイズイー】は貧乏な男とは結婚できないという価値観を持ち、ギャツビーが死ぬと、ギャツビーの悲劇などなかったかのように、トムと一緒に逃げるように西部に行ってしまったではないか。


アメリカには建国当初、優れた価値観がいくつもあった。小説の中にも貧乏な中の人と人とのつながりを描いたオーヘンリーの「最後の一葉」「賢者の贈り物」のような優れたものもあった。


それが金銭だけの価値観が本流になっていくような予兆を感じさせる作品である。


 


やがて、結末の悲劇。


マートルがデイズィーの運転する車にひき逃げされて、妻を殺されたウイルソンが怒り、犯人をギャツビーと勘違いして、プールにいたギャツビーをピストルで殺してしまうということである。


【これは仮にという話だが、マートルが夫婦喧嘩で外に飛び出した時に、デイズィーの運転する車がそこに来なかったら、この悲劇はなかった。あまりに偶然すぎるということ。それから、運転がギャツビーからデイズィーに変わったことなど、トムに言いくるめられたウイルソンがギャツビーを犯人と思ったこと、創作の上での技巧を感じる】


 


こうした粗筋だけ言えば、当時アメリカの一世を風靡したような作品とも思われないかもしれない。しかし、小説を読んでいて思うのは、先ほども言った描写力、つまりその文章である。日本でも文章だけ読んでいて楽しくなるような作家がいる。例えば、芥川龍之介。志賀直哉、あるいは永井荷風。あるいは谷崎潤一郎。太宰治。他にもいると思うが、フィツジェラルドは ヘミングウェイのような簡潔な文章とも違い、フォークナーのような練りに練ったような文章とも違い、何か主人公のギャツビーそのもののように華麗な雰囲気を持った筆の運びである。


 


 


【例えばギャツビーの宮殿のような大邸宅の描写


 


海峡沿いの近道をよけて、ぼくたちはいったん道路まで出た。それから、大きな裏門の方から、中にはいった。うっとりするささやくような声で、デイズィ―は空を背景にそそりたつ中世風の影絵のような風景に感嘆した。それから、庭をほめ、輝くような黄水仙の香りや、泡のようなさんざしや李の香り、淡い金色のセイヨウスイカズラの香りに喜びの声を上げた。奇妙なことに、大理石の石段の所まで行っても、戸口を出入りするはなやかな衣装のゆらぎも見えず、梢に鳴く鳥の声のほかに物音一つ聞えなかった。


 Instead of taking the short cut along the Sound we went down the road and entered by big postern.  With enchanting murmurs Daisy admired this aspect or that of the feudal silhouette against the sky, admired the gardens, the sparkling odor of jonquils and the frothy odor of hawthorn and plum blossoms and the pale gold odor of kiss-me-at-the-gate.


It was strange to reach the marble steps and find no stir of bright dresses in and out the door, and hear no sound but bird voices in the trees.


 


postern     裏口   裏門   勝手口


cut  を切る  切り傷  切れ目 切り開いた通路   近道


sound  音  に聞こえる  のように思われる


    確かな  適切な


    海峡  入り江  小さな湾


silhouette  影  輪郭  シルエット


feudal    封建制の   封建時代の  封建的な


jonquil    キズイセン  淡黄色


frothy     泡立った  泡だらけの  浅薄な


froth     (ビールなどの)泡


  】


  


こうした流麗な文章表現で、風景や心理を描いていくので、場面場面全体が神秘な様相を帯びてくる。人生も町も自然もそして地球も、美しく、何とも言えない魅力を持っていることが文章から伝わって来るのである。それがフィツジェラルドの文章芸術である。


映画は迫力のある映像美を追求してはいるが、やはりこれは原作の文章芸術に追いついていくのが大変という印象がある。


 


 


 


【参考】


映画「華麗なるギャッビー」


 1974年度アカデミー賞 に輝く


監督 ジャック・クレイトン


原作 フィッツジェラルド


Cast  ギャツビー   ロバート・レッドフォード


   ディジー    ミア・ファロー


   ニック     サム・ウォーターストン


   トム      ブルース・ダーン


【ご紹介】


「銀河アンドロメダの猫の夢想」のタイトルを「永遠平和を願う猫の夢」と変えて、アマゾンから電子出版しました。kindle本です。久里山不識