野の百合を見ると、私は 道元とキリストの有名なことばを思い出してしまう。
二人の聖人のことばは、俗世間を超越している。つまり、二人とも世間の常識とはまるでかけ離れたことを言う。価値観がまるで違うという風にも言える。
道元の言葉は中々難しいので、分かりやすい所で、キリストの言葉をあげてみよう。
一番面白いのでは、金持ちは天国に入ることは難しいと、今の金銭至上主義を完璧に否定している。【あながたは神と富とに兼ね使えることは出来ない】と。
新約聖書の中で最も有名な文句では、こう書いてある。【 野のユリがどうして育っているか、考えて見るが良い。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモン王でさえ、この花の一つほどには着飾ってはいなかった。】
そして「狭き門より入れ」というキリストの教えがある。そこで、フランスの小説家アンドレ・ジィド【狭き門】というような有名な小説が生まれることになるのだろう。
道元の禅もかなり狭き門(厳しいという意味で)という感じがする。彼の書いた「正法眼蔵」は、星の王子さまがフランスの宝であると言われているように、日本人が書いたもので源氏物語と並んで誇るべき世界的遺産なのである。
何が書いてあるのか。お釈迦さまのお悟りになった不死の仏性とは何かということがあらゆる角度から詩のような美しい文体でつづられている。西欧の哲学のように論理の積み重ねで分厚い書物になり、それを全部読まないと彼の哲学が分からないというようにはなっていない。
現代風に言えば、道元は「仏性とは何か」という宗教哲学的なエッセーを短編小説風に書いているとも言える。それが沢山、集まっているのが「正法眼蔵」だから、西欧の哲学みたいに全部読まないと分からないという風にはなっていない。極端な言い方をすれば、重要なエッセーを数か所、分かれば【いや、一か所でも分かれば】、不死の仏性が分かる仕組みになっていると思われる。
もっとも道元の場合、只管打座【座禅】が修行に入って来るから、「正法眼蔵」だけ読んで、仏性が分かるか、疑問が残る。
そんなに世俗と違うことを言う二人の言葉など、聞かなくてもいいじゃないかという声も出て来るかもしれない。
しかし、我々人間の中に不死なるものがあると言われて、驚かない人がいるだろうか。
常識は「人は死ぬ」だからである。それでは スピリチュアリズムで言われている魂と同じなのかというと、それとも違う。もっともっと深いものである。その深い仏性が人間に備わっているというのである。私の意見では、聖書のことばにある「神は霊である」というその霊に近いと思う。あるいは聖霊と。
「人はパンのみにて生きるにあらず」とはキリストの言葉であるが、最近のキリスト教は大雑把な見方で恐縮だが、世俗と相当妥協していると思う。【もっともキリスト教といっても、色々あり、魅力的なものも多々あると思うが】
最初の「金持は天国に入れない」という厳しさは消えて、最近では、金持ちになることは神の恵みであるという風に変わっているようだ。どうもそういう現世の欲望を満足させるような宗教にはうさんくさい処があり、道元から見れば厳しく批判されることは間違いない。
異端のキリスト教の中に、仏教に近いものがある。例えばエックハルト
道元は当時最高の権力、鎌倉幕府から招待されたが、全く関心がないどころか、そうした権力を嫌悪しているような所がある。
道元は一般的に仏教の曹洞宗と言われているようであるが、もう一方の見方では、宗教ではないという方もおられる。道元は曹洞宗という言葉はあまり使わなかったと聞いている。
私に言わせれば、宇宙の真実のエキスである。それが仏性である。その意味で、ニーチェを超えている。だからこそ、ヨーロッパのカトリックもプロテスタントも道元の只管打座【座禅】を取り入れているのだと思う。
道元は空のいのちが鳥となり、海のいのちが魚となると言っている。つまり、空と鳥は切り離せない。海と魚は切り離せない。人間のいのちも同じだろう。周囲の大自然と切り離した自分などというものはない。
そこの所を、キリストは野の百合の美しさは神が装うたものだと言っているのだろう。
表現は随分違うが、言っていることのいのちの本質は同じことを言っている。
お釈迦さまの言葉を借りれば、縁起の法によって全ての現象があり、そこに不生不滅のいのち【仏性】が現われているということであろう。
それなのに、人間は「自我」に執着し、他者と対立する。文明とは、この対立を深め、またこの対立を取り去り、融和をはかっていくというたえまない努力の積み重ねであろう。
対立が行き過ぎれば、戦争となる。
平和がどれほど有りがたいか、これはいうまでもないことである。
宗教の本質があらわれている人物に、「良寛」がいる。今、彼のファンは日本中に沢山おり、「良寛教」と呼ぶほど、人気がある。しかし、当時は寺のない、ただの乞食坊主とみられ、生前は周囲の友人にその才能を認められていたに過ぎない。大衆的には子供と隠れ遊ぶ良寛さんとよばれてはいたが、その優れた和歌、優れた漢詩、優れた書、そして、彼の悟りの境地、世俗的な仏教界への批判、そういうものが正しく理解されてきて、今の金銭至上主義の世の中に疑問を持つ人に、良寛の真価が理解されはじめたのは最近のことなのである。
春を惜しむ
芳草せいせいとして春将に暮れんとし 【Housou Seiseitosite Haru Masani Kurentosi】
桃花乱点して水悠々たり【 Touka Ranten site Mizu Yuuyuutari 】
我も亦従来 忘機の者なるに【Ware mo Mata Juurai Bouki no Mono naruni 】
風光に悩乱せられて殊に未だ休せず【Fuukouni Nouranserarete Kotoni Imadakyusezu 】
【かぐわしい草花があたりに繁茂し 春はまさに過ぎ去ろうとしている。桃の花びらがひらひらと川面に散って 川の水はゆったりと流れる
私はもともと僧として俗念を忘れた人であるが この春の景色にはすっかり夢中になり 休むひまもないほどあちこち花を見に歩いていることだ 】
(良寛の漢詩 )( 松本市壽氏による )
道元や良寛は宗教という衣服を着ることをしなかったようにも思える。それが禅である。
宗教のエキスを飲んでいたとも思える。
宗教の衣服を着ると、世界的なレベルで見ると、宗教戦争がたえない。
これは本当に悲しむべきことである。幸い、仏教は大慈悲心のもとに、論争はあっても、争いを避ける努力をしてきたのではないか。
仏教の立場から、言えば、エキスは同じである。お釈迦さまの発見された不死の仏性である。
【参考】
新約聖書 マタイ伝
第五章
1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちはさいわいである。
彼らは慰められであろう。
柔和な人たちさいわいであろう。
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちはさいわいである
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちはさいわいである。
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちはさいわいである。
彼らは神を見るであろう。
平和をつくりだす人たちはさいわいである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
第七章 狭き門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い
第十九章 二十三節
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」