空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

大自然

2023-05-16 21:05:49 | 文化





蘇軾【そしょく】という詩人と白楽天という詩人をふと思い出した。
蘇軾は大詩人であり、山に入り、滝の音を聞いて悟ったという。白楽天も大詩人と評価され、当時のエリートでもあった。その白楽天が仏教の奥義を優れた禅僧にたずねた所、その禅僧は「悪いことをしないで、良いことをすることだと」答えたそうだ。それで、白楽天は「そんなことなら、三才の子供でも言える」と言ったという。この白楽天の話を道元はとりあげ、「白楽天は仏法」について何もわかっていないとこき下ろした。
そんな話を聞き、詩を書くのに優れていることと、
禅で悟りの世界を直感することは別次元のことだと言えることが分かるではないか。この話は現代にも応用が利く。
どんな優秀な専門家でも、その道に詳しくても、禅の悟りの世界には無知ということはありうる。悟りの世界。つまり、科学とは違った霊的世界というのは特別の修行を積んだ人しか分からない。

その修行を最高度に積んだ禅僧に道元がいる。その道元の「正法眼蔵」は欧米でも高く評価されているという。
私は三十年以上前から、道元の本を沢山買い、読んできた。そこで、理解したことを私の想像力で補い、それがどんな世界かイメージしてみようと思う。それを肯定するか、否定するかは、読者の自由である。

大自然そのものは仏の説法なのではあるまいかと思う。全てがそうだと思われる。街を行きかう空の雲も春の風の訪れも、満開の桜の花も、チューリップもすみれの花も、薔薇の花も小鳥のさえずりも、全てが仏の説法。
仏が我々に顔を見せているのである。しかし、残念ながら、我々はそれに気がつかない。この場合、仏とは何か。本来、言葉で指し示すことが出来ない。
形もない。色もない。目に見えない。しかし、我々を生かしている究極の不生不滅の大きないのちの力とでも形容したらよいだろうか。宇宙生命とよんでも良いかもしれない。純粋生命とよんでも良い。神とよんでもいい。ただ、「一なる生命」と呼ぶ人もいるかもしれない。
西洋医学は、その仏が生命エネルギーとなり、物質化した人間の形の部分を扱い、生命がどのようにして、形となり、六十兆の細胞がどのような連携をして、独りの人間をつくりあげているかを探求している。
しかし、科学は人体を動かしている目に見えない「一なる生命」そのものを扱うことは出来ない。何故なら、それは神仏で、目に見えない、つまり、計器にひっかからない、科学の網にひっかからない、「一なる生命」そのものであるからであろうかと思われる。
こういう実験からも明らかでないだろうか。 最近の科学の報道によると、何千ものES細胞を、培養液の中で培養させていき、それなりの器官になるように誘導すると、自然に細胞どおしが連絡しあって、その器官になっていく、つまり、細胞は自然に自己組織化するというのである。

色を見る、音を聴く、つまり、風景を見る、音楽を聴く、これは「一なる生命」そのものなのではないだろうか。つまり、空即是色。空とは「一なる生命」。つまり、全世界は一個の生命。全世界は一個の明珠。
それが色(しき)となる。森羅万象の世界が現象するのである。

そもそも、主観と客観が分かれた時に、物質世界が現われ、我々人間は科学をすることができる。
主観と客観が一致した所、つまり、主客未分の世界、つまり「一なる生命」の世界は分析を得意とする科学では分からない。何故なら、科学は主観と客観が分離して、物質世界となった現象を探求する学問であるから。

「一なるこの生命」の世界つまり、不生不滅の生命は自我の忘却を目指す瞑想か、座禅による主客未分の世界に入らなければ直観できないのであろうかと思われる。
「一なるこの生命」とは「空」とも言われる。 「空」は座禅という「行」が行われなければ、直感されないのではないかと思われる、人間にこの宇宙の神秘は開示されないのではないか。
「行」は座禅だけとは限らない。宮沢賢治のように法華経を読むことを「行」とした人もいるし、良寛のように道元の本を読み、それなりの悟りの境地を開き、そこに漢詩を創作することを「行」とした人もいるのです。「空」を直感するにはこの様に「行」が必要なのです。長い人生と、善と慈悲に至る道程が「行」になることもあるでしょう。
「空」は永遠に創造する生命そのものなのです。だから、「空」そのものは物質的に存在するものではないのですから、あるとかないとか言えるものではありません。「空」は華の中に自らの命を表現するのです。華が「空」なのです。「空」は生命そのものですから、華として咲くのです。これが東洋の到達した真理ではないでしょうか。この様に、森羅万象の華を咲かせます。これを空華というのだと思います。さらに言えば、「空」そのものは 人間そのもの{身体と心の両方を含めて}にあらわれているのだと思います。だからこそ、キリストは「私は復活であり、命である」と言ったのではないでしょうか。復活とは永遠のいのちを約束したことです。クリスマスがきたら、キリストとは釈迦のように真理に目覚めた人と思うのも、それなりに正しいように思われます。

盧(ろ)を結んで人境(じんきょう)に在り、而(しか)も車馬の喧(かまびす)しき無し
君に問う何ぞ 能くしかると、心遠ければ地も自(おの)ずから編なり
菊を採る東りの下、悠然として南山を見る
山気 日夕(にっせき)に佳し 飛鳥 相いともに還(かえ)る
この中に真意(しんい)あり 弁ぜん欲してすでに言を忘る
【東側の垣根に咲く菊の花を手折り、ゆったりと見上げると遥かに廬山の姿が目に入る。山に漂う気は夕方がすばらしい、鳥が連れだってねぐらに帰っていく。ここに天地万物の真実があるのだ、だが、それを説明しようとした時もう言葉を忘れてしまっていた。】【陶淵明      ―半ば以降の訳は下定雅弘氏の訳を少しお借りしました】


* 久里山不識の現代詩
 琥珀色の麦茶の湖面に
 突然 幻の様に 町が現れる
そして、祭りの太鼓や笛の音、それに賑やかな人々の声がしばらく続く
そして、再び静寂が訪れ、
いつの間に 町が消えている
そして又、幻のごとくに赤と黄色い薔薇の花が咲く
 花瓶の小さな口から、かすみの様な霧が現れ、
深い霧は薔薇を包む

霧が晴れると、薔薇は南国の街角に変化する
そこには人々の笑い、泣き ざわめく音が
森の梢のささやきの様に聞こえる
 私は故郷に帰ってきた人のように
この町の部屋で呆然と時計の音を聞く
音は波のごとく、カチッといって消え、又 カチッという 
そういう風に音が聞こえる時は静寂そのものだ。
 その時の世界は 何かをほしがっている時の自分とは
違う静かな不思議な世界だ。
テーブルの上のあらゆる物は様々な色をなして、
まるで沈黙している生物のようだ。
 窓の外で、カラスが鳴く

全てが変化し、色彩に富み、音に満ちて、森羅万象をなしているのに、
私の感じるのは一つの音、一つの色、一つの大きな無だ。
それは一つの生き物に違いない。
 その生き物が星となり、惑星となり、山となり、川となり、私となる。
テーブルには猫がいる。
 猫がにゃあっという
「色即是空、空即是色」と私の耳に聞こえる
 幻聴だろうか
夢なのか、この世界は。
私は生きている。
だから、星も山も川も町も何もかも生きている
               
                          
              坐禅と虚空
    今ここで座禅をしている時というのは今の科学時代に生きる人にとって無味乾燥なものにうつるということは充分 考えられる。しかし はたしてそうであろうか。
我々人間が外界を見て行動する時、外界というのは様々な物質が存在している三次元の空間という認識がある様な感じがある。それがニュートンのいう絶対空間という風に整理されてしまつたあとでは、人の感覚はそうした絶対空間という様な観念にしぱられて身動きできなくなってしまったようである。二十一世紀になっても人はニュートン的な感覚を手放そうとしないというのが真相ではなかろうか。
そうした感覚で座禅を見ると、まさに座禅はせいぜい健康法として良いという程度のものに思われてしまう。しかし、もしそうであるならば禅宗の歴史の中で優れた僧が座禅によって悟ったというのは何かの錯覚だったと言われてもしかたあるまい。
しかし、真相は我々の日常の感覚の方が自然を正しく把握していないのである。その卑近な例は大地は動くことはないという日常の感覚に反して、地球は太陽のまわりを一年かけてめぐり、一日の中では自転しているというのは今では小学生でも知っている事実である。 【原子も素粒子も絶えず動いているようですから、止まっているものなどないということになります 】
とすると、昔の優れた禅僧は座禅によって、我々現代人の感覚以上の何かを感じ取っていたということは充分 考えられる。最近、私が思うには人間が座っているその空間に対する洞察が禅僧の場合はことのほか深いのではないかということだ。

私のイメージが真実に近いということがもしあるとすれば、人は座禅をすることにより、あのニュートン的な空間感覚から脱出して、深い深い空間それも自己の心身と一体になった神秘の空間の中に足を踏み入れているのではないか。 それがいのちに満ちた虚空ではないか。
単純化して言えば我々の生きる世界は物質の世界と永遠のいのちの霊的世界があつて、その二つの世界はコインの裏表の様に一つになっているとも思えるし、二つの世界は浸透しあって見分けがつかないようになっているとも言える。それなのに現代人の傾向として、物質の世界しか、認めず、常に物を対象化し、分析し、数学的なモデルをつくり、それが実験と符号した時に世界の真相を科学的に理解したとして、それ以外の世界は幻想とみる。
しかし、人が座禅をして、もう一つの永遠の生命の世界【虚空といういのちの世界 】に触れた時に、禅をやる人なら、不死の仏性を悟ったというのかもしれない。
欧米人なら、もしかしたら井戸のそばで女と話しているキリストの様に「この井戸の水を飲む者は又 すぐに渇くが、されどわが水を飲む者はとこしえに渇くことなし」とつぶやくのかもしれない。
深く考えると、キリストの言うことと、仏教の教えは似通っている所が沢山ある。 
西洋の人が東洋の思想に興味を持つのもそのためがあるかもしれない。
量子力学の天才ボーアが易経に興味を持ち、電子の振る舞いを現わした方程式を書いた天才シュレーディンガーがインド哲学に興味を持ったことは有名な話である。
私のささやかな経験でも、真言宗の高野山に行って、僧房に泊まった翌日、金剛峰寺 のすぐ近くに座っていたら、白人の若い男女が来て、「金剛峰寺」はどこにあるのか」と聞かれた。
私が指さすと、彼らは狂喜したように、足早にそこの玄関に入っていたのは印象的でした。                               


【久里山不識】
1 上の文章は以前に書いた文章の中でも、今も強調したいものを拾って、少し直し、まとめたものです。
2 後期高齢者になると、健康法として、よく散歩が良いということが言われます。
それで、散歩はよくします。昔、柔道で鍛えた足が、今の私を助けてくれます。
二時間ぐらいの散歩の途中にはたいてい、ベンチがあります。そこで、休みます。
その日の体調によって、長く休むこともあり、短く休むこともあり、という具合です。花に出会うと、嬉しいものです。
ブログでも、今までも、何回か休んでおりますが、こうやって散歩のように休み休みやるのが長続きするような気がします。
しばらく休みますので、今後ともよろしくお願いします。





武器よさらば 【エッセイ】

2023-05-06 14:05:47 | 文化




この間のショートショートは舞台がイタリアが多かったですね。
若い頃、ヨーロッパ旅行に行ったことはありますが、出発点はローマでしたね。
バチカンは見る芸術品が圧倒的に多いだけでなく、ミケランジェロを始めとする深みのあるものが多く、時差ボケで二日間で見るには無理があったようです。
ホテルの一室を二人で借りたのですが、列車を取材に来た記者の方と一緒になり、大変良い方だったので、夜、二人で散歩しました。
二人とも外国の夜は慣れていないので、一緒が良かったのでしょう。バーで一緒にアルコールを入れ、ローマを楽しみましたけれど、何と言っても、短い時間でしたからね。
次のフローレンスとヴェニスへの旅が楽しみでした。しかし、それからは一人旅ですから、英語に自信があるわけでないし、イタリア語はまるで知らないのですから、大変です。若さで乗り切るしかありませんでした。

乗った列車が満員電車で、真中へんに立って吊革につかまっていたのですが、小用に行きたくなりましてね。周囲の人に聞いたのですよ、この電車にトイレがあるのかと、勿論イタリア語が出来ませんので、何か言ったと思いますよ。どうもあるらしいということで、移動を開始したのですが、この移動が大変で、それよりも、小さな駅に止まったので、飛び降りてしまいました。
トランクとミノルタのカメラと三脚持って、田舎の広広した駅の構内に飛ぶようにして行き、用をすますと、地獄から天国に行った人のようなうきうきした気分で、駅の前のカフェーの椅子に座り、コーヒーを飲み、写真を撮っていたら、十名ぐらいの若者が集まってきましてね、一人初老の人がまじっていましたけれど、私のカメラに興味を持つのです。
身振り手振りの会話はしましたけれど、日本のカメラの素晴らしさに感心し、譲ってくれるとありがたいといわれたようですけれど、これは旅に必要だと言って断りました。そのあとは、フローレンス行きの電車に飛び乗ったという印象でした。
フローレンスでも、ヴェニスでも、これと似たいくつかのエピソードを交えながら、芸術品を楽しんんだわけですが、そのあとはスイスへいきました。電車では、北イタリアの風景が見えました。
【 映画「武器よさらば」にも、北イタリアの描写があったと思います。】
美しい景色を車窓から楽しんだと思います。なにしろ、若い頃の旅なので、記憶も遠いものとなっていますので、細かいことは忘れてしまいました。
列車の中では、若い夫婦に声をかけられ、旦那は英語が駄目なので、奥さんと長いこと、話したことを覚えています。【今は英語はすっかり忘れてしまいましたけれど、】
それから、スイスに入り、フランスのグルノーブル、リヨンと行ったわけですけど、ヘミングウエイの「武器よさらば」の最後は船で湖をボートで、イタリアからスイスに逃げる所が大変な冒険で、素晴らしい描写でしたね。映画も良かったと思いますよ。以前、掲載した感想文で、恐縮ですけど、
下に書いておきました。

【小説の魅力はなんと言っても文章である。北イタリアの風景の緻密な描写は素晴らしい。だから、主人公の中尉フレディック・ヘンリーとイギリス人キャサリン・バークレイの恋愛はその風景の中に綺麗におさまってしまう。
そこへ行くと、映画は二人の話がクローズアップされているせいか、何かメロドラマ風になってしまっている。
ロミオとジュリエットは素晴らしいが、メロドラマ風というのは、小説のようなしっかりした反戦映画を期待している私を少しがっかりさせる。それでも、映画では、中盤のドイツ軍に攻撃されたイタリア軍の敗退と民衆が逃げる様子は沢山の人間が戦争の悲劇にまきまれていく様子が映像化されていて、迫力がある。

さて、「武器よさらば」は、反戦の文学である。第一次大戦を扱っている。「西部戦線異状なし」ではドイツ側から描いた戦争の悲劇であるが、「武器よさらば」はイタリア側から見た戦争である。最初はイタリアとオーストリアの戦いの描写がある。

イタリア軍に占領された戦場の町が美しかったというのは、私は不思議に思うのだが、ヘミングウェイの筆によると、町も、主人公の住む家も綺麗ということである。背後には川が流れている。背後の山々はまだ敵の手中にある。オーストリア軍は戦争が終わったあとには、またこの町に帰ってくる気持ちがあるらしい。そのために、彼らはこの町を本格的に大砲で破壊することを避けているようだった。

こういう合間に、ヘンリーは病院の看護師の女に手を出し、キスまでしてしまう。もっとも、こう平凡に書いたのでは、文豪の素晴らしさは消えてしまうので、そんなことがあったというにとどめる。この場面は出会いから、キャサリンが美人ということで、ヘンリーは楽しんでいるだけで、戦争の合間の一幅の休憩という感じで、この恋愛の最初の幕が開けられようとしている。

そして、前線に行く。
ところが、ヘンリーは前線に出てしばらくして直ぐに、迫撃砲で足に大けがをしてしまう。
そして、ヘンリー中尉は、前線からミラノにある病院に送り返される。ここで、ヘンリーと看護師キャサリンは再会し、あれほど彼女と恋に陥るまいと思っていたし、ほかの女性との恋も望んでいなかったのに、彼は、キャサリンを恋してしまい、ミラノの病院の一室のベットに横たわることになってしまうのだ。手術は成功だった。
新聞によると、戦争はまだまだ続きそうな状況である。西部戦線では、まだどちらの側も相手を叩いていない。最初はみんな直ぐ終わると思っていた戦争。

たった四年間で、若者が二百万人死ぬ戦争とは最初、誰も考えていなかったが、結果としてそうなっていく様子が小説にも映画にも描写されている。愚かな戦争である。知恵を誇る人間の歴史にこのような戦争があったとは、不可解と思わざるを得ない。この愚かさを小説も映画も見事に描写している。

やがて、前線に戻るヘンリー中尉。
「さようなら」
ヘンリーは雨の中に踏み出すと、馬車が走りだした。馬車、いいね。これは町がまだ自然の色を残したロマンチシズムにあふれた面影を感じさせる。そこへ行くと、今はどうでしょうか。高速道路が風景をぶちこわしていたり、京都のように寺や美しい庭園の多い所でも、主要な道の多くでこのロマンチシズムは消えてしまっている。残念なことである。


それはともかく、二人の別れである。キャサリンが身を乗り出し、その顔を灯火が照らす。彼女は微笑して、手をふる。
こうして、ヘンリーは再び、前線に戻るのだが、すさまじい戦闘のあと、退却がはじまった。ドイツ軍とオーストリア軍が北方の戦線を突破し、山岳地帯の渓谷を下って、進撃しているらしい。ドイツ軍は中尉の言葉を借りると、ぞっとするほど強いようだ。

この退却も大変なものだ。しまいに、乗っている車の車輪は空転するばかりで、前に進めなくなる。「命令だ。小枝を切ってこい」と軍曹に命令するヘンリー中尉。しかし、軍曹二人は逃げていく。ヘンリーは拳銃を引き抜き、口数の多かったほうの軍曹に狙いを定めて、引き金を引いた。

この場面は映画にはない。私の好きな主人公、ヘンリー中尉は命令に違反したということで、一人の兵士を射殺しているのだ。戦争とはそういうものなのだろう。恐ろしいことだ。

夜明け前に、ヘンリー中尉の一行は川の岸辺に着き、増水している川沿いに進んで、あらゆる車両や人馬が渡っている橋までたどり着く。
そこで奇妙で恐ろしい事件に遭遇する。
みんな年齢が若く、救国のヒーローを気どっている憲兵が待ち構えているのだ。第二軍は川の対岸で再編成され、その一環として、彼らは原隊を離脱した少佐以上の階級の将校たちを銃殺しているのだ。彼らは同時にイタリア軍の軍服を着たドイツ軍のゲリラたちを即決裁判で処分している。

映画では、一応、年配の大佐を始め、裁判官らしい年令の将校が裁判席に座り、ヘンリーの親友の軍医リナルディ少佐に銃殺の判決を下し、ヘンリーもイタリア語になまりがあるということで、疑われる。危機一髪で、ヘンリーは即決裁判の場所をけちらし、逃げ、川に飛び込むのである。小説では、川に飛び込み、銃弾を避けるために、川の中をもぐっていく描写を細かく描いている。
この場面は小説でも映画でも、ヘンリーにとってまさに危機一髪、銃を持った何人もの憲兵がいる中を逃げるには、余程の運動能力と体力と運がなければ無理だろうと思われる。ともかく、ヘンリーは逃げ切る。

やがて、列車にたどりつく。飛び乗り、貨車の床に、ヘンリーは野砲と並んで横たわる。早朝、まだほの暗いミラノの駅に汽車がゆっくりと侵入したとき、彼は飛び降りた。線路を渡り、コーヒーを飲みにカフェーに入ってみる。

その後、彼は馬車に乗り込んで、友人シモンズの住所を御者に伝えた。シモンズは、このミラノで声楽を学んでいる男だった。彼の家を訪問すると、ヘンリーは友人として大歓迎を受け、こう言われた。

「君が欲しい服があれば みんなあげるよ。だから、服は買う必要がない。君の服装を見れば、立派な男だと思うように、いくらでも服装を整えてあげるよ」
さすが、芸術家である。それにいい友達だね。今の日本はどうだろう。絆が叫ばれているのは良いことだが、絆がなくなっていく裏返しのような感じもする。こういう人間関係を日本に復活させたいものだと私は切に思う。それはともかく、声楽家はイタリア軍の監視のある町で、脱走兵ということで、追われるヘンリーを友人として助けるのだ。

それから、戦争ぎらいになったヘンリーは、ホテルで、事実上の妻である恋人キャサリンと会う。その後、彼女と一緒に、嵐の中、湖をボートで漕いで、スイスに逃げるのだ。距離は三十キロ以上はある。キャサリンはおなかに、赤ちゃんがいるのに、むしろ彼女の強い意志のもとに、逃げる。
風を顔に受けながら、暗闇の中を漕いでいく。彼は一晩中 漕ぎつづけた。


このようにして、スイス領に入る。これで赤ちゃんを無事に産めば、この物語はハピーエンドになる筈だったが、ラストは私の期待に反して、おかしなことになってしまう。スイスは二人を歓迎してくれ、その点では申し分なかった筈なのに。

このラストシーンは書かないで、興味を持った読者がご自分で確認した方が良いと思うので、あえて書かない。人生は不条理なものだ。それだけ言っておきたいと私は思う。

何故、「武器よさらば」に感動するのか。戦争の悲惨さの中で、愛があるからではないか。この娑婆世界は仏教の教える所によると、無明におおわれ、真理に目覚めていない衆生が多く住んでいる。つまり忍土である。その中で、一条の光を見た時に、人は感動する。

その光とは「愛」である。恋愛の愛はエロスで、欲望の延長線にあるから無明におおわれているのだが、まれに、一瞬の間、そこにキリストの愛のような光がさすことがあるのではないかと私は考える。それは肉親の愛でも、猫と人間の間の愛でも同じことである。
そういう愛を神であると思うこともできるのではないか。
何故なら、そこに不生不滅のいのちの発見があるからである。仏教的に言えば、無明の娑婆世界に浄土の発見がある。
人生はこの娑婆世界で、この不生不滅のいのちの発見をすることに意味があるのではないかと、ふと思うことがある。】




【コメント】
詩を書くのも、小説を書くのも、絵を描くのも創作という点では 同じです。
  公園で、絵を描いている人の邪魔をする人はいません。
しかし、私の場合、小説を書いているだけなのに、中傷する人がいるのに困ることがあります。人を困らすには中傷以外にも、嫌がらせというのがあります。
おそらく、憲法九条を守るを看板にしているからでしょうね。
民主主義の基本を知らない人が結構います。【私は学生の時、一流の法哲学の講義を聞くことがよくありましたので、よく分かります】
ボランチア活動、助け合う精神、SDGsの精神など、良い動きをする人も増加する一方、ジェラシーで、得意の「出る杭は打たれる」という合唱に加わって、その人が困るのを見て、喜ぶ卑しい価値観が少しずつ広がっているような気がします。SNSのいじめなどもそうでしょう。
どうでしょう。皆さん。道元や空海そして親鸞を勉強してみませんか。そうすれば、世界情勢を武力だけで、解決しようなんていうのは 愚かであることが分かります。
話し合いです。文化の交流も必要です。そのために、憲法九条が必要なのではないでしょうか。
国を守るために、武力を強くするという人の意見も分かりますし、尊重します。
でも、それで軍拡という風にいくとすると、始めたら、第一次大戦のように、最初は小さな武力衝突で、すぐ終わると思っていたのが、西部戦線だけで、二百万の若者が死に、戦争をやめられなくなり、大戦へと発展していったことを我々人類は学習したのに、又大きな戦争を始めてしまうということになりませんか。
ウクライナ戦争でも、はたして人類は歴史を学習したのかと疑問になります。
悲劇的で、やめられない戦争をしないための話し合いの方法を政治家だけでなく、皆が考えることが大切なのではないでしょうか。   
そのためにも、憲法九条は必要なのではないでしょうか。

くどいですが、日本の武力を強くして、日本を守るというのも自然な日本人の気持ちだと理解します。特に北朝鮮の状態があのような状態で、それがテレビを通じてお茶の間に入ってくるのですから。
ここで、国論が二分されますけど、互いに非難しあうのは意味がないことです。皆、心配なのです。平和を願う気持ちは同じです。
国会で、充分議論して結論を出すべきです。そのためにも、ネットなどでも一般の市民が声を上げるべきです。
脱原発の時も、そうでしたけれど、互いが互いの意見をもう少し聞き、尊重していれば、大地震のあとの福島の原発事故はもう少し、小さいものに出来たのではないかと、想像します。

これからは、SDGsに「核兵器を廃棄しよう」を加えることも大切だと思います。
私の小説「森に風鈴は鳴る」は平和産業をつくるがテーマになっていて、民間企業がそんな政治的なことに口出しするなんて、非常識と思った方がおられたら、SDGsの内容が温暖化阻止とか貧困阻止とか今までの企業の常識とは違うことを言っておりますよね。
もう利潤追求だけでは、企業そのものもやっていけない時代が来たのです。
私が学生時代に学んだ法哲学の理念では、公害反対運動の中からだと思いますが、企業の社会的責任ということが言われるようになったことを覚えています。
水俣病なんかが一番有名ですね。会社の工場が水銀を海に流したために、多くの人が被害にあったのです。私の長編小説では、IC工場のトリクロロエチレンが地下水を汚すということが問題になっていた時に小説を書いたので、地下水で有名な所を見学に行って現地の人の声を聴いたこともあります。そのあとに、脱原発を書くようになったのです。
こうしたことは地球温暖化などを含めて、国連で問題になり、その延長線上にSDGsの取り組みが始まり、今や日本のマスコミにも登場するようになって来ているわけですから、SDGsの延長線上に「核兵器をなくそう」を入れるのは自然の成り行きです。
ただ、今、ロシアとウクライナが戦争をやっていますね。これを早く停戦に持ち込まないと、この「核兵器をなくそう」のテーマは現実的ではないですね。まず、停戦。それから、軍縮というのが世界の声になる必要があると思うのですが、そしてSDGsに「核兵器をなくそう」を入れようということでしょうか。

それから、日本は中国ともっと話し会い、文化交流を進めないと、いけないと思いますね。
道元や空海を勉強すれば、あるいは漢詩や平安文学を見れば、中国と文化土壌が同じではありませんか。その中国と、武力で対峙するというのはおかしな話です。

マルクス主義というのは学生時代に哲学をかじった人ならば、分かると思いますが、【私の学生時代には、マルクスを勉強しないのは、大学生とは言えないという人が周囲にいたぐらい、マルクスの影響力があった時代です、今はソ連の崩壊で、まるで違ってきているようですが 】  人類の理想国家を夢見た思想を集めて、つくられたものなんだと思います。だから、世界中に影響したのではないでしょうか。ただその通りに、つまり哲学通りに人間は動かないというのが分かってきましたが。
【極端な例では、ソ連の例のように、看板と中身がまるで違ったということがあるから、そう楽観視してはいけませんが、】
中国が軍拡をして、我々日本人が不安なのですから、もう徹底して話し合うしかないと思います。中国が戦争をして、人類危うしの方向にもっていく筈がないと信じたいです。

あるとすれば、日本を含めた西側諸国の接触の仕方にも問題があるという反省が必要なのではないでしょうか。
憲法九条を持ち、文化外交で、話し合いが始終、なされる必要が中国にはあると思います。
互いの不信感を取り去る必要があるのです。
まさに、今やこういう風に良い方向に前を進めないと、人類危うしだと思います


【久里山不識】
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