空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

夏目漱石 「それから」

2020-02-29 08:59:57 | 夏目漱石「それから」

「枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちている。代助は昨夜床の中で確かにこの花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それがゴムまりを天井裏から投げつけた程に響いた」

 

この最初の場面に出てくる椿の落ちる音というのは何か、この小説全体に響くテーマのようにも思える。そこには、いのちがある。いのちがなければ、そこに花の音が聞こえる筈がないからである。それから、椿の花の音というのは忙しくしている人にはまず聞こえない。

彼は寝床で聞いた。あたりが静かなせいもあるが、やはり、この花の落ちる音というのは何か意味深長である。

夏目漱石は禅の勉強もしたし、座禅という修行もしたと聞いている。

中国の大詩人 蘇軾は森の中の谷川の音が仏の説法だと悟ったという優れた漢詩を書いていることでも知られている。

禅の優れた僧の中には庭の掃除をしていて、石がどこかにぶつかり音をたてたその音で目覚めたという話が伝わっている。

蘇軾やこの優れた僧の話を意識して、漱石がこの場面を描いたかどうかは知らないが、小説全体を見ていくと、やはり、この椿の花の落ちる音はまさにこの小説の序曲という気がする。

このことをふまえて主人公の代助の行動や考えを見ると、面白いという気がする。

三十になるのに、無職、独身なのに、家政婦さんと書生をおいているというから、今の常識では考えにくいと思っていたら、代助は親からもらった大邸宅に住み、毎月の生活費をこの親父からもらっている。

このこと自体、今風に考えれば変である。

ところが、銀行に勤めるようになった親友の岡田から「何で、世の中に出ない」と言われると、代助は「そんな汚れた世の中にわざわざ出る必要はない。自分は、今、最高の文化を味わっているのだから、その方が良いでは」

こんな理屈も、今の日本には通用しないだろう。

しかし、最初の椿の花の音を聞いた、そこにいのちを感じている代助からすれば、親父や兄貴の経営する会社で金をかせぐなど、よごれたものに見えるのだろうか。

事実、この会社はある金銭上のトラブルにまきこまれていく。

 

しかし、親父にこれだけ世話になりながら、代助は親父を尊敬していない。父親は明治維新で人を切っている。

明治になってからも、親父の才覚で財をなしたのだろうが、代助はそこにも汚れたものを見ているのかもしれない。

 

親友の岡田には美千代という奥さんがいる。結婚する前は、岡田と代助と美千代とその兄【のちに死ぬ】は友達どおしだった。

岡田は代助のすすめ【?】もあって美千代と結婚して銀行員となり、しばらく  支店の方で仕事をしていたが、急に部下の金銭上のトラブルにまきこまれて、責任をとる形で銀行をやめ、東京にやってきて、仕事探しを始めた。そのとき、代助は色々、相談にのってやったこともあり、美千代とひんぱんに会い、岡田の家が借金で困っていることを知り、

自分は金がないのに、兄の嫁である親しくしている義理の姉に借金を申し込み、その金を美千代に渡し、岡田の窮状を救う。

やがて岡田は新聞記者になり、「経済部の主任記者となった」と言い、代助の兄の会社が大きな経済トラブルにまきこまれ、それを新聞に書いているが、代助に借金を返すまでは恩義があるから、代助の兄の会社のことは書かないと言われた代助は苦笑する。

 

椿の続きは至る所に見える。例えば

 

代助は一寸話を已めて、梅子の肩越しに、窓掛の間から、綺麗な空を透かす様に見ていた。

遠くに大きな樹が一本ある。薄茶色の芽を全体に吹いて、柔らかい梢の端が天につづく所は、糠雨でぼかされたかの如くに霞んでいる。

「好い気候になりましたね。どこかお花見にでもいきましょうか」

代助は三十まで独身でいたのは、岡田の妻、美千代のことが心のどこかにひっかかっていたのだろうか。

岡田が経済の苦境に陥り、妻の美千代が金を代助に借りに来て、兄嫁から都合してもらい貸したあとも、美千代が不幸になっていることを感じる、すると、昔、岡田と美千代とその兄と自分が仲良く友達づきあいをしていた頃を思い出し、自分も美千代が好きだったけれど、先に岡田から美千代が好きだと告白され、友人に譲るのが道だと思い、譲ったことを美千代に告白してしまう。

「今さら、ひどい」と美千代は言う。美千代は身体もこわしている。

一方で、代助の父は代助に自分の会社の関係で、知人の娘を嫁に勧める。代助はにえきらない言葉でお茶をにごす。

兄も妻もその嫁を推薦する。

 

しかし、代助の心の中に、人妻である岡田の妻、美千代が住んでいるのであるから、良い返事はしない。

そして、父と兄の会社がこんなに金銭を莫大に入れていられるのは何か経済犯罪に無関係でないことを感じているから、心の中では、二人に対して多少の軽蔑の気持ちを持っている。しかし、代助は三十になっても働かず、二人から金銭的な援助を受けているのだ。だから、二人の前に出ると、いつも態度は平伏し、従順であるように見える。

 

岡田が新聞記者になり、経済的によくなっても、美千代の様子を見て、代助は岡田に美千代をくれないかと言い、承諾させる。

しかし、美千代は具合が悪く、入院している。

岡田は代助に絶交を申込み、この内容を代助の父と兄に手紙で送りつける。

 

父と代助が話している所に、兄が手紙を持ってきて、「これは本当のことなのか」と非難する。本当のことだと言うと、父と兄は怒り狂い、父は「出ていけ」と言い、代助は深々と頭を下げて出ていく。

夏目漱石は単なる男女の葛藤を描いているだけでなく、当時の社会をかなりひややかに見ている。汚れている社会と代助に言わせている。漱石が言っているようになると、読者から岡田のように反論が出てくる。

 

代助のように頭はいいが、生活態度に少しだらしのない、夢見る青年に「世の中は汚い」と言わせている。のちの日本歴史の流れを見れば、漱石が見ている目は確かであったとも言える。反論も岡田に言わせている。

 

男女の関係は大変入り組んでいて、代助の決断によって、彼は暗い運命の方向に進むことになることで、この物語は終わっている。彼は落ちた椿を拾ったのである。そういう美意識が小説の中にあるのではないか。いくら美しくても造花の花のようなものを身につけたくなかったということもあるのかもしれない。

 

【久里山不識】

 

 


エッセイ - net中傷

2020-02-22 08:23:20 | 文化

 私は新聞を三つぐらい同じ日に読むことがあるのですが、新聞にはそれぞれ得意分野があるような気がする。読売は人情の機微に関することはよく書けていると思う。【東京新聞は社会の矛盾や、権力の分析や批判に優れていると感じています】
例えば、2020年1月6日朝刊では、デマ広げるnet中傷のような記事が書かれていて、現代社会の人間模様が赤裸々に書かれていたと思う。
インターネットが「煽り」の装置になっているという。
東京都内で働く男性は 17年の夏、突然ネット上の情報配信サイトにデマを流され、実名で掲載されたという新聞の情報には驚いた。
ネット上でデマ情報は拡散、SNSで匿名の中傷が増殖したという。ひどい話だと思い、考えさせられた。
さらに読売新聞のその記事の最後には「ネットでは批判の的にしたいと思われたら、誰でも攻撃の対象になってしまう。」と書かれていた。
私はそれから、時々、netの検索を使って、中傷とか集団ストーカーとか見るようにしている。今の日本にはそういうことをする人が少なからずいるのですね。

あおり運転とか子供の虐待とかいじめとかハラスメントとか、何かマナーも倫理も崩壊してしまったのかと思ったり、それはごく一部ではないかという思いに悩まされていて、そちらに気を取られていたら、このnet中傷の問題もそれに匹敵するものだということが分かってきました。
匿名だからということで、かなりの悪口を書く。中傷ですね。これは犯罪ですよ。私は学生の頃、法律を専攻したから、まずこれは法哲学的に言って、相当な犯罪です。井戸端会議や、バーで酒を飲んで悪口を言うのと違うのです。
Net中傷というのは、公の場に対する拡散を目的としているのでしょう、内容によっては、刑法の条文で言えば、名誉棄損罪、脅迫罪になることは間違いないです。

私はここで、日本人の倫理観がためされていると思いますよ。だって、悪口が拡散するというのは、その内容を吟味せずに、ただの噂のような形で公の場に広がるということが分かっているのに、何故、簡単にそれに同意してしまうのでしょう。
なぜ、そこで、話をストップできないのですしょうか。
まず中傷する人には人格に問題があります。
相当なコンプレックスの持ち主です。ですから、ジェラシーの罠にひっかかることもある。
ストレスのはけ口をどこかに向けようとして、カモを見つけて飛びかかることもあるでしょう。中傷のことを巧みに描いたシェイクスピアの「オセロウ」でも、ご覧になって中傷の悪質性を考える段階にきていると思いますよ。
それから、そういう悪口がnetにあった場合、そういう人の言うことに、同意してさらに拡散を広める人は教養の狭い人です。教養の高い人は悪口はいけないということをお釈迦さまがおっしゃったことを知っています。お釈迦さまの直接の言葉は知らなくても、日本の優れた伝統にあることを知っています。

【これはね、ネット中傷とは話題が飛ぶのですが、原発の事故のあとの時の話ですが、
原子力村の人達が本などで、非難されていましたが、私も何冊か読みましたけれど、物凄く沢山のそういう本を出していた有名国立大学の先生がこう言っていましたよ。
「あなた方にも責任がある」と。】

これと同じことが言える。中傷や悪口に同意して拡散するのを和の精神とはきちがえて、いる人も増えているということです。「それは違うのでは」とか「そんなことは言わない方がいいのでは」とか、それが出来ないなら、沈黙するとかすることが出来なくなっているのではないでしょうか。

私が前から言っているように、金銭至上主義社会からくる、倫理の崩壊が一部の人から、、広がりを示している。若い一部の人にまで広がり、それが、学校現場でいじめの道具になっているという報道を見るとがっかりしてしまう。

そういう人は「今は人類の危機」ということが分かっていない。SNSは良く使えば、
人類は良い方向に行くチャンスをつかむことがあるかもしれないということが分かっていない。匿名をいいことに、人の中傷や悪口を言うような人は、昔なら卑怯な奴といわれ、
倫理的に最も愚かな人ということになる。何故なら、netを使って、人類を良い方向に向けようと思っている人も沢山いらしゃる、それを邪魔しよとするのですから。
そういうことが教育されていない。
まともな古典のような本を読んでいる人なら、そういうことをしない。

ハラスメントも同じ。


昨年にはある大手の自動車会社の若い社員が上司のパワーハラスメントによって自殺したと報道された。有名な電気会社でも、似たようなことがあった。

そして相模原市で起きた障碍者殺傷事件の裁判が始まっている。

日本には誠実な人、良い人、立派な人が沢山いるが、報道を見ていると、まるでインフルエンザのように、悪の菌がばらまかれ、子供まで危険にさらされていると報道されている。
子供への虐待もひどい。動物ですら子供を守る。
しかし、科学が発達するのは良いことだが、むやみやたらに、子供に与えるという風潮も問題ではないでしょうか。SNSが子供に良いかどうかという議論もないまま、売れればよいという風潮。
どういう使われ方をされるかで、科学技術はプラスにもなれば、マイナスにもなることは常識です。

科学技術が良い方面に使われば、それは素晴らしい。戦争に使われればどうなる。核兵器がその恐ろしい例でしょう。

これからは、AIロボットが出てくる。この使い方も今から議論しておく必要があるのではないでしょうか。


下記の詩を思い出して下さい。

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せと教えしや
人を殺して死ねよとて
二四まで育てしや

           【多数の言うことが正しいとは限らない良い例。公害でも原発でも、最初はそうでした】
与謝野晶子はこの詩のために、非国民と言われた。しかし、今は大詩人という評価である。
この詩を、今理解できる人はSNSを使って、中傷などしないと思う。
詩だけではない、この詩に匹敵する世界文学、この詩に匹敵する音楽、そういう芸術を理解する人は中傷などしないと思う。
最初の読売新聞にあるようなnet中傷が広まると、  netを使って良い方向に、人類の文化の向上のために使おうとする人達の邪魔をすることになる、そういうことにならないように、netを使おうではありませんか。
基本的にはこういう文明病を克服するには、古来 優れた人の言葉を参考にするのが一番いいと思う。
新約聖書にある「愛」それに、法華経に書いてある「大慈悲心」を日本の社会に広げていきましょうよ。

一年ぐらい前に起きた優秀な若い女性社員の痛ましい自殺を思い出します。世間で一流と評価されていて、給与もよく、外見からはいい所に入ったと思われるような所だったが、事実はひどい労働時間、その上パワハラということで、彼女は自殺した。

どうも、こういう情報を聞いていると、日本では、労働が過酷な所がかなりあると思わざるを得ません。

SNS,ネットでの中傷というのがはびこるのは、上記のような環境と無関係とは思えません。
そういう厳しい競争と優れた文化をなくしてしまつている中にいる組織人はストレスを抱えることになり、余裕がなくなり、外にはけ口を求め、匿名をいいことに、他人を中傷するという構造が見えてきます。
優れた文化を持ち、余裕のある人は良い言葉を使います。汚い言葉を使う人がいたら、私の言う言葉の正義のボランティア精神を持つ人はその人を暖かい気持ちで見てあげ、時には注意し、時にはそのストレスを和らげることを皆と話し合うことが必要かと思いますね。
こうした事は社会の病気、つまり維摩菩薩の言う「衆生病む、故に我、病む」という風にとらえた方が良い。
ネットの中も、道元の言う愛語の精神で行きましょうよ。それが世界平和にもつながると思いますよ。


【久里山不識 】
コロナウイルスの国難に関しては、既に医師、それぞれの専門家の方がその危機について語られています。医学に素人で、高齢者の私にはただ早く収束することを願い、多くの人々のご努力に感謝するのみです。ご病気になった方の一日も早いご快復と、亡くなった方のご冥福をお祈りします。

 

コルトナの朝〜辻井伸行 Nobuyuki Tsujii〜A morning in Cortona


春のいのち

2020-02-17 10:23:07 | 文化

おお、寒いのに、フリージアが咲いている

街角にはまばらに雪がちらついているのに

おお 黄色いフリージアがさっそうと空に伸びている

もう梅も咲いているかもしれない

や、まだかな、それにしても、もうすぐだ。

小鳥の鳴き声には春のかおりがある。

小川のせせらぎは澄んで、温かい光が射している

柳の木には、緑の芽、桜の木には花のつぼみ

 

春が来たら、何をしよう

あの香り豊かなおいしい空気を吸ったら、何をしよう

まず、生きる喜びを感じるだろう

きっと、その時にはピアノ・ソナタが鳴るに違いない

自然の声に耳を傾け

永遠の輪廻の歯車に、畏敬の念をおぼえ

 

われは年をとって、親しい人はこの世から消え去った

しかし彼らのゆく所を私は知っている

私は彼らの声と顔をおぼえている。

今、ここの浄土にはきっと酒屋があるに違いない

もしかしたら、素敵なカフェーがあるかもしれない

そこで、再び、彼らと飲み、談笑しよう

 

霊の衣はきっとフリージアのようだろう

 

 

【久里山不識】

新型コロナウイルスの集団感染が起きて、広がる心配がされていますが、多くの人の努力により、早く収まることを願うばかりです。そういう願いをこめて、春の喜びが来ることを見詰めてみました。

 

川井郁子星に願いを


雪の中の梅

2020-02-14 16:04:43 | 文化

町の外を見てごらん

白い粉雪が風に舞ってちらついている

寂しい孤独の部屋から見てごらん

雪の踊りを

白い衣装を着て、舞台一面を雪の妖精達が

楽しそうに

雪の白い刺繍をあむ

どんな模様ができるやら

下界は真白な銀世界

 

町の外を見てごらん

広い灰色の空間の中でまるで夢のように美しく乱舞する雪の姿

ぶっきらぼうに立った裸の銀杏並木

コートに傘をさした人々の行きかい

ひっそりとした白い屋根

白い粉雪がそれらすべての頭上から降りすべてを白一色に変える

ふと雪の描く刺繍が

なつかしき やさしきピンクの姿の梅となる

 

町の外を見てごらん

あたたかい降りつもる雪の童話に耳を傾けてごらん

遠い思い出がまるで、復活の日の朝のように

なにもかも喜びに満ちて僕の胸にせまるだろう

雪の妖精達が寒い荒涼とした僕の心に

あたたかい暖炉を送るだろう

町の外を見てごらん

なにもかも下界は 真白な銀世界

 

遠い思い出は雪の降る銀世界の浄土

スキー靴をつけて、満月と星の下の斜面を滑っていく

その先に春の梅が待っているとでもいうように

ピンク色の笑顔で待つ君に憧れて白い斜面を滑っていく

 

ああ、消え去った あの恋にも似た憧れのときめきは

ああ、消え去った あの深い自然の美しいためいきが

今は。ああ今ここには。

梅を求めるあの魂のときめきの歌はどこに行ったのか

雪のまじった優しいそよ風はどこに行ったのか

【久里山不識】

久しぶりに詩らしいものを書いてみました。小説は自費出版三冊、アマゾンに長編二冊そして、ブログにと書いてきたのはいいのですが、最近、これだけの分量を書くと、年のせいもあるのでしょうけど、目が疲れるようになりました。それで、以前から、短いもので読者に読まれるものは何かと思っていたのです。そうすると、やはり、詩とかエッセイになりますね。映画の感想は結構書いたと、思うのですが、最近は映画を見るのも目が疲れる。そうすると、詩を書くか、昔、社会科学や哲学を少しかじったので、エッセイ風に書くしかないと思うようになりました。

詩ですが、三十才くらいまで、欧米や日本の詩を読み、自分でも書いたのですが、三十才の頃、詩を書くのはやめ、小説だけにしました。詩を手軽に発表する場所がなかったことが原因だと思います。

その点、今は恵まれています。しかし、長いブランクと年令のせいで詩なんか書けないのではと思っていました。でも、やってみるしかない、駄目ならエッセイ。そういうことで、しばらく試行錯誤が続くと思います。

体調も胃など色々、悪くなっています。一つ一つは重症にはなりませんが、年令がかさんでくると、総合的に体調が悪く、昔、柔道二段の頃は、六十六キロぐらいあったのが、今は五十キロぐらいまで落ち込んでいます。そういうわけで、のんびりやるしかない、時には休憩するということになりますので、よろしくお願いします。

小説「危機と大慈悲心」はどうだったでしょうか。読んでいただきありがとうございました。

 

小さな空(武満 徹)


エッセイーアダモ Adamo「雪が降る 」の思い出と私の解釈

2020-02-04 09:00:40 | エッセイーアダモAdamo「雪が降る」

エッセイ

この歌は私が二十代の時に、勤め先のそばに下宿していた時に、近所のレストランでよく流していた歌でその頃のことは記憶が鮮明である。ともかく若くて独身だったから、あの歌はよく胸に響いたものである。そのアパートには五年ぐらいしかいなかったから、必然の結果として、それ以来、この曲は聞かなくなった。

それが、最近ユーチューブで、アダモのこの曲を発見して、感動したものである。若い時に胸に来たあの曲は、やはり凄い名曲だったという思いが感動を呼び起こした。

しかし、中身を受け取る、歌詞の解釈は相当違っているのである。

若い時は、孤独な青年が恋人によびかけるせつない男女の思いが詰まっていると思ったのであろうと思う。しかし、今の解釈は仏教の「法華経」の解釈が入ってくる。

禅の勉強は三十ぐらいから、始めた。私の出た東京都立大学法学部は東大と並ぶ法律の一流の教授が多かったが、その頃、学界で強い力を持つていたマルクス主義の影響力が大きかった。マルクス主義は唯物論である。神だの仏だのという言葉は博物館入りのものだったのである。だから、「法華経」なんか友人の間で話題にもならなかった。おまけに、私の死んだ父が内村鑑三のキリスト教を崇拝していたから、子供の頃はキリスト教の話ばかり、聞かされていた。そのおかげで、私は三十ぐらいまで、「法華経」にふれることのない無宗教で生きていた。

ところが、三十くらいから、禅を勉強し、家のベッドの上で座禅するようになった。それから、道元の「正法眼蔵」を読むようになり、良寛の素晴らしさを知るようになった。ところが、道元と良寛が法華経を尊重していたのである。おまけに、「銀河鉄道の夜」の作者が法華経信者だった。それで、いつ頃だったか、「法華経」を読むようになった。

無宗教で唯物論を支持し、科学こそ真理を明らかにすると思い、そういう本を読みあさっていた私が何で禅をやるように、なったのかは色々あるのだが、今は長くなるので触れない。

法華経の中で一番有名な所は「如来寿量品」であると思われる。

この中で、「お釈迦様は死んだことになっているが、それはそうでない。仮にお隠れになったので、仏様の生命は永遠である。なぜお隠れになるのか、それは人々にお釈迦様への恋慕の情を引き起こすためである。」

ここまで書けばお分かりになると思うが、「恋慕の情」があの、アダモの「あなた」に呼びかける心に隠れている。こんな解釈が出てくるのは私が高齢者になったせいもあるかもしれないが、歌をどう聞くかは人それぞれで、自由で楽しめばば良いのだが、私はこの法華経の「仏への恋慕の情」というのがこのアダモの歌の奥にあるという解釈が気に入っている、だから、深い感動が来るのだと勝手に解釈している。

下記にその有名な場面を書いて起きます。

仏様の言葉です「我れ常にここ住すれども、もろもろの神通力をもって 顛倒の衆生をして 近しといえどもしかも見ざらしむ

衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し、ことごとくみな恋慕を懐いて  渇仰の心を生ず」

 

禅では、自分の心にある目で、独自の解釈を打ち出すことが尊ばれる伝統があるようです。それで、私のアダモの独自の解釈を披露したわけです。下記のユ―チューブのアダモを聞いてみて下さい。

 

アダモ Adamo/雪が降る Yuki Ga Furu (Tombe La Neige) ― 日本語盤 (1969年)