AVE MARIA _ Nataliya Gudziy ナターシャ・グジー
この映画の感想を言う前に、私の宗教に対する姿勢を述べておきたいと思う。
私の好きな優れた小説「復活」を書いたトルストイは「アリストテレスなどの哲学者よりも宇宙の真実をきちんと教えているのは多くの民衆の信じる世界に広がる大宗教である」というようなことを言っていたと記憶している。
パスカルも言うように、誰でも人は自分が自分として生まれ生きているというのは不思議であり、謎なのである。
これを解決するために、私は個人的には学生時代、スピノザ、サルトルなどの西洋の哲学者を文学と一緒に読んだのであるが、今はトルストイも一目置いていた仏教を勉強している。
キリスト教は少年時代に触れたので、今も時々新約聖書を見ることがあるが、仏教との類似性に驚くことは 「正法眼蔵」の翻訳家としても禅の大家としても著名な玉城康四郎氏の言う通りだと思う。
私の仏教の勉強法はこの玉城康四郎氏の「正法眼蔵」に始まるのであるが、今は空海、最澄、道元、法然、親鸞、日蓮、白隠、良寛と広がっている。
何故なら、現代二十世紀は宗教戦争をやめて、その共通点を見出し、より深い宗教的立場、「愛と大慈悲心」を共通の基盤として、宗教哲学を打ち立てるべきだと思うからだ。
【よく言われるが、頂上は同じなのだが、のぼる道のりが違っているから、違う宗教のように見えるだけのこと、それはキリスト教も同じ】
ただ、私の個人的性格から、道元や良寛の禅や空海のようなスケールの大きな人物に魅かれるということは、あるが、姿勢としては、上に上げた偉人を平等に勉強したいと思っている。【一人でも、難解なのにと思う方には、こう言おう。一人か二人の教えが分かれば、他の方は同じ仏教なのだから、相当理解しやすくなるということはありうるということである】
大切なのは、自分で、これが宇宙の真実だと思うときがくると思う。宗教の核心をつかむ時だ。イメージとしてはつかんできたと思っても、禅的に言えば
心身脱落しなければ本物はつかめないと考えている。
私のやっていることは、小説を書くことが中心なのだから、それで良いと思っている。
金銭至上主義の価値観の社会は行き詰っているのでは。福島の原発事故もコスト削減が優先された結果、被害を大きくしたのではなかったか。
さて、映画の話にもどろう。
キリストの生涯が映像化されている。
日本人の多くは十二月のクリスマスのお祝いぐらいにしか、キリストの名前を思い出すことがないのではあるまいか。しかし、欧米の文化を理解する上では、キリスト教をぬきにして語ることはできない。文学は勿論、経済に至るまで。そして、最近では、中国に数億人のキリスト教徒が生まれている。かって、太平天国の乱などというキリスト教徒の事件が歴史に大きく刻印されていることを思うと、何かしら不思議な気がする。そして、中東のイスラム国と欧米などのキリスト教国の対立。こうした風に俯瞰してみると、やはり、
世界を見る時にキリスト教の知識は必要と言わざるを得ない。
文学の上では、タイトルがキリストの言葉のものもある。ノーベル文学賞を取ったジイドの「狭き門」はキリストの「狭き門より入れ」からである。
ドストエフスキーでは、どん底のソーニャが新約聖書の「ラザロが復活した」場面を読む時は感動的である。
わざわざ、こんなことを書いたのは、この映像「奇跡の丘」がキリストに全く無関心な人が見たら、それほどの興味をひくか疑問に思ったからである。映像技術としては大変高い評価を受けているし、音楽も確かに素晴らしい、それでも物語の流れや白黒の場面場面は、大変地味な映像なのである。
理由の一つは新約聖書マタイ伝を忠実に描いて、余計なものを排除したことにもあると思う。
キリストは馬小屋で生まれたという。
このあたりのことも丁寧に映像化されている。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」
いわば、有名な処女懐胎である。
今の人はそれは西欧の神話だと言うかもしれないが、東洋にもこういう話はあるのである。
禅の初祖は達磨であることはご存知の人が多いと思われるが、四祖、五祖のあたりになると、どうでしょうか。ところが、道元の「正法眼蔵」の中に、五祖の生誕に「処女懐胎」と似たようなことが書かれているのです。四祖が通りかがりの優れた風貌の老人を見て「あなたに禅の奥義を伝授したいが、あなたはあまりに年をとりすぎている。生まれ変わってくるなら、私は待っていよう」と言う。そこで、老人は周氏の家のところに行って、宿をたのむと言った。そこの娘が両親に聞いている間に、老人はいなくなっていた。不思議なことに、娘は妊娠した。【 ? ―ここは伝説であるから、本によっていくつかの表現の違いがあるようです】 母親となった娘は驚いて、川に赤ん坊を捨ててしまったが、その子が死なずに、健気に逞しく生きようとするのを見て、育てようと思い、拾い上げる、そして、その赤ん坊がやがて七才になった時、四祖と出会い、「お前は何者だ」と質問される。
後の五祖になる七才の子供は「仏性です」と言ったそうです。
「占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使がヨセフの夢に現われて言った。
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデ王が、この子を探し出して殺そうとしている」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。
映像では、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させる場面が映っている。
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で 宣べ伝え 『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」
天の国。つまり、天国であろう。
最近の日本人は亡くなられた方に対して「どうぞ天国で安らかに眠って下さい」というように、「天国」という言葉を使うことが多いようである。
日本は仏教の長い歴史があるのだから、「浄土」とか、「極楽浄土」とかそういう言葉が使われるのかと思うと、あまりそういう所はみかけない。「天界」というのがあるが、これは浄土の手前の所で、まだ輪廻の段階だから、いつ滑り落ちるかもしれないという話である。
私は仏教の本を読んでいて、浄土は沢山あるもので、阿弥陀仏がつくった極楽浄土はそのうちの一つということであると理解しているので、キリスト教の天国も浄土の一つと考えてみると、仏教もキリスト教もそれほど違った宗教とは思えないのである。
「イエスはヨハネから洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。」
これを禅の悟りと対比される方がおられるのを聞いた記憶がある。悟りはよく主客未分の世界と、禅でいうことを聞く。我々は日常、主観と客観を分けて、主観の認識能力を使って、客体を見て、分析して概念を組み立てている。
その二つに分かれている世界の境界を取っ払ってしまうと、一元の世界になるというのであろう。これが主客未分の世界で、悟りへの第一歩なのであろう。キリストに神の聖霊が舞い降りるというのは、この禅の初歩的な悟りをさらに奥に進めたものという解釈も成り立つと考えている。
そして、キリストは 四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑するものが来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。
イエスはお答えになった。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。
「心の貧しい人々は幸いである。
天の国はその人たちのものである。
心の清い人々は幸いである。
その人たちは神を見る
平和を実現する人々は幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる」
ここのイエス・キリストの言葉は山上の垂訓として有名な所である。
映画では、山の下で聞いている筈の観客が見えず、イエス・キリストの独演場のようである。
流麗で,詩と音楽が一緒になって流れるように響くイタリア語の言葉。
人類へのメッセージともいうべき宝石のような言葉の数数が少し早口に、
途切れることなく、ある厳しさを持って語られていく。
「心の貧しい人」は、今の日本ではあまり良い意味には使われない。言っている中身がまるで違うのである。
禅で言う「無心」に近いと考えるべきであろう。空っぽの心、これは何もないのだから、貧しいとも言える。そういう無心の方が神が見えるということだと思われる。
現代人は沢山の知識で一杯である。生きていくために必要な知識。真理の指標となるような聖なる知識。科学の知識。そういう良い知識だけなら良いが、どうでも良いくだらない知識もあふれている。
そういう色々な知識で一杯の心には、神聖なるものは近づかないと思われる。やはり、キリストの言われる「空っぽ」の心、無心の心になる時、聖なる神仏が感じられるのではないだろうか。
それから、道元について言えば、道元は幕府に象徴される権力を嫌ったとされる。
そして、人生そのものを真理発見の場として、只管打座の修行を一番大切なこととした。この点も世間的成功よりも信仰を重視するキリストと似ている。
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」
ファリサイ派については色々言うことはある。
当時のユダヤ教徒の間で、宗教者のエリートだった人の考えではないか。
どんな時代、どんな国でも、こういった一群の人達がその国を支配しているということはよくあることではなかろうか。
例えば、キリスト教で言えば、免罪符を出して、庶民から金をまきあげていた教会、ガリレオに対しては自説を引っくり返させ「それでも地球は回ると」言わしめた権力を持つ教会。
江戸時代、身分の高い者が言うことには下の者は反論できなかったこと、それでも、上の者が立派な人の場合は救われるが、愚劣な人が高い所にいると、下の者は救われない。最近では、優秀な原子力村の人達が反対派の人達の有益な意見に耳を傾けなかったことで、悲しい怖ろしい福島の原発の事故を大きくしてしまったこと。
ファリサイ派は当時のユダヤ教徒としての風俗習慣を守るように強く主張するそれが神を信仰する者の道だと。
それに対して、イエス・キリストは革命的なことを言う。本当に神を信じる人は 富と神、両方に使えることは出来ないから、富は捨て、神に従えと言う。
こういう教えの中から、資本主義が生まれてきたのは不思議だが、その研究で有名なのには、マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」がある。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが 思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」
ここは、新約聖書の中でも最も有名な文章の一つではある。大自然の運行は自然そのものの法則で動いていく。鳥が飛び、野の食物が太陽の光と水のおかげで美しい花を咲かすのも、人間のような労働とは違って、自然そのままで、動いている。ニュートンもライプニッツも「全能の神」の力と信じていた。
映像における、キリストのファリサイ派の人々に対する批判は凄まじい。もちろん、マタイ伝の中に書かれていることだが、映像では何か少し強調している気がする。
もしそうだとすれば、監督はそこに現代人が汲み取る何かを示そうとしたとも考えられる。少なくとも現代の牧師が信徒に説教をたれる時のような穏やかなものでなく、凄まじい。
それ故にこそ、キリストの予言のごとく、キリストが捕えられ、侮辱され、十字架につけられて殺され、三日後に復活するということになるのではないか。
最後の復活の場面は、数秒しか映写していない。神話としての復活なのか、幻としての復活なのか、監督は現代に多い唯物論者というから、民衆の言い伝えとしては、確実に復活はあるということなのであろうか。
仏教では、浄土に行くということは仏になるということと同じように考えられている。復活も浄土に行って仏になると考えると、それほどの差はないように思える。
そして、神を見る者は、幼子のごとく素直でなければならないと説く。
神を愛し、信じることを説く。信仰の重要性。
まるで現代と反対ではないか。競争。競争で勝ったものは勝ち組。負けた者は負け組。そして格差。金銭至上主義。
キリストの言葉はどこにも入りようのないことではないか。
キリストの言葉に取ってかわったのは、科学。
我々の文明が発達するためには、キリストは十字架で死なねばならなかったのだろうか。
この宗教から離れたガリレオ以来、全能の神の代わりに、科学は 今や「超ひも理論」に至って、素粒子も無限に小さな紐の振動とか、これが神のごとき数式の理論で、宇宙の全ての説明がつくような勢いで天才たちがこの仮説にいどんでいるという。
しかし、もう二十年近くも立つのに、実験によって、その正当性が証明されていない。それでも、天才たちは数学の魅力によって、挑戦していく。
ちょうど、孫悟空の如意棒のごときものではないか。
それから、数々のキリストの奇跡。
パン五つと魚二匹しかないので、それを増やす奇跡を起こし、五千人の胃袋を満足させた。あるいは、湖の上を歩くキリストの姿。そして復活
科学の目から見れば、こうしたキリストの奇跡は神話に過ぎないのだろうか。
それとも、この宇宙は数学の網にひっかからない奇跡をいくつも持っているのだろうか、そんなことをこの「奇跡の丘」という映画は真剣に考えさせてくれる。
1964年 製作 監督はピエル・パオロ・パゾリーニ