空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

カラマーゾフの兄弟

2019-05-17 14:21:27 | カラマーゾフの兄弟


  主人公アリョーシャの父カラマーゾフは経済力はあったが、女にひどくだらしない男である。兄弟は二人いる。母は違うが、長兄のドミートリ―。母の同じ次兄のイワン。親父は一代で財産家になった人物だが、女にだらしないだけでなく、金銭面でも人間関係でも全てに不誠実な男である。


最初の妻も次の妻も既に死んでいるが、この小説では、息子のドミートリ―と女を奪い合うという性的にふしだらな所がクローズアップされるし、それが物語をクライマックスに導く。そんな男でも、「神はいるのか」と息子のイワンやアリョーシャに問う。そういう時代であり、土地柄なのだろう。イワンは秀才で通した男。「神はいないと答える」


アリーシャは修行僧の見習いで、皆に好かれる誠実な青年でまだ十八才。「神はいる」と父に答える。なにしろ、アリーシャの心服しているゾシマ長老というのがまるで浄土真宗のような語り口で宗教を説く語り口は迫力がある。


「全ての人は全ての人に罪がある。人々はもっぱらお互い同士の羨望と、色欲と、尊大さのためにだけ生きている」


 


このゾシマ長老が死ぬ際に、奇跡が起きると多くの人が期待していた。アリョーシャもその一人だった。


しかし、奇跡は起こらず、長老の遺体は匂いを周囲に放ったのだ。


現代ではこんなことは当たり前のこととして受け止められるだろうが、なにしろ百五十年前のことであるかんら、それほどゾシマ長老が崇拝されていたということだろう。


もちろん、このあたりの描写で、信仰する人々の中での不気味な対立が表面化されていたことも注意すべきだろう。


アリョーシャもショックを受けた一人だが、それで神への信仰が崩れたということはなかったが、グルーシェンカの所に行って微妙な立場に立つ。


 


グルーシェンカこそ、魅力のある若い女ではあったが、一方で悪の存在を心に抱えている。しかし、彼女の魅力はこの自分の悪を自覚していたことであろう、アリョーシャのような純粋な男を誘惑しようという気持ちを持ちながらも、それは抑え、彼を賛美する。


ところが、この女はアリョーシャの兄ドミートリ―と父カラマーゾフが自分の結婚相手として、夢中になっているというのだから、驚く。


ドミートリ―は金はないが、陸軍大尉で腕力に優れている。カラマーゾフは初老であるが莫大な財産を持っているというわけである。


 


 もう一人上流の若い女にカテリーナが登場するが、この女の父はドミートリ―の上司であったが、ドミートリ―に言い寄られても、鼻にも引っかけなかった。ところが、父が金銭の問題で破局に追い詰められた時に、ドミートリ―は当時かなりの金額を持っていて、さっさと彼女の父を援助したのだ。カテリーナはそれを恩義に感じ、ドミートリ―と結婚しようとするが、ドミートリ―の方が


カテリーナから去り、グルーシェンカに夢中になって、三千ルーブルの金があれば、グルーシェンカを自分のものに出来ると思いこむ。カテリーナは知的なイワンに心惹かれる面もあったのだ。


 


しかし、ドミートリ―はこの時、金が一銭もなく、ピストルを担保に十ルーブルの金をつくり、上流婦人のホフラコフ夫人に三千ルーブルを借りに行く。


この時の二人のやりとりはまるで漫画である。


夫人は彼を歓迎し、金鉱を掘り当てる人材が来たと言い、それが出来れば、三千ルーブルどころか莫大な金が入り、婦人問題で色々な役割を担いあなたは国家的な人材なると持ち上げる。


 


 ドミートリ―は直ぐにも夫人から三千ルーブルを貸してもらいたいし、夫人がそんな金はすぐにも手に入れることのように言うものだから、最初は感激するのだが、夫人の頭は金鉱と婦人問題のことで頭が一杯で、それが解決すれば、ドミートリ―には素晴らしい令嬢が来ると言う、要するに現金はないというのだから、貸せない。ドミートリ―は外に飛び出し、男泣きする。三千ルーブルが手に入らなければ、身の破滅とすら考える。【カテリーナのことも頭にある】


 


その間にも、グルーシェンカが親父の所に行ったのではないかという疑いが生じる。


 


ドミートリ―は親父の屋敷に行くが、スメルジャコフは病気かも知れぬから、と思い、堀を越え、庭に入った。


 


このスメルジャコフというのが、この物語では重要な人物である。この屋敷の使用人に育てられたのだが、使用人の実の息子ではなく、捨てられていたのを拾われるようにして育てられたのだ、料理の才能があり、カラマーゾフ家でコックとして働いていたが、彼はてんかんの持病があった。【ドストエフスキーという大作家のてんかん発作も有名である】


 


ドミートリ―は庭から見える屋敷の中に親父のそわそわした姿を認め、グルーシェンカがいるのかいないのか観察していた。


 


 丁度、その頃使用人の老人のグリゴーリィが目をさまし、スメルジャコフがてんかんでぶっ倒れて、寝込んでいることもあり、屋敷の中のことが心配になり、パトロールすると、走り抜ける男がいる。男が堀を飛び越えようとするとする所を、グリゴーリィは必死になって、ドミートリ―の足をつかむ。しかし、腕力のはるかに優れたドミートリ―に彼のポケットに持っていた杵を振り下ろされてか、大けがをして庭に血だらけになって倒れてしまう。あとで分かることだが、彼は怪我ですんだ。


 


カラマーゾフは屋敷の中で死んでいた。


誰しもドミートリ―が犯人と思うし、ドミートリ―がグルーシェンカと陽気なパーティーをやっている所を捜査当局がドミートリ―を拘束する。


しかし、犯人は別人なのだ。それが犯人の口からイワンが聞くことになるのだが、このあたりがミステリー小説のようだと言われ所だと思われるが、これ以後はあえて書かない。犯人を知って、読んでは面白さが半減するからである。


ただ、この小説は単にミステリー小説というにはあまりにも心理描写が克明で、


神がいるのかいないのかという宗教哲学的な大きなテーマが全編を貫いているので、世界の大文学の一つとされるのだと思われる。


  


さて、このアリョーシャというカラマーゾフ家の三男はこの物語の主人公であり魅力ある人物ということになっていると、言っているが、イワンのように哲学があるわけではない、ドミートリ―のように腕力と情熱の塊みたいな男でもない。ゾシマ長老を尊敬する青年僧つまり見習い僧に過ぎない。小説の中でも、それ程会話や、激しい動きをしているようには思えない。


この小説の主人公にした程、何が魅力なのか、読んで考えて欲しいとドストエフスキイは最初に言っている。


体格はロシア人としては普通であろう、外見も人が接した印象も穏健である、ニ十才になろうとする青年として、グルーシェンカは彼を信頼し、相談相手とする、誘惑する気持ちもあったようだが、アリョーシャのもつ人格の何かがそうさせない。


アリョーシャが坊さんの卵だからだろうか。それもあるかも、知れない。


彼のことを知るエピソードを紹介しておこう。


 


 コーリャという少年がいる。この少年は母子家庭の一人っ子で甘やかされて育ち、才能も並外れてあったせいか、母親を愛していたが、いうことは聞かない乱暴なことを平気でする子供に成長した。あるとき、彼の先輩との会話で、列車の下に寝そべって、列車の通りすぎるのをやり過ごす豪胆さを持っていることを吹聴すると、先輩連中が嘲笑ったので、実行してしまう。これは町中に有名になり、乱暴の子だから、両親からあの子と付き合うなと、命令される子供も続出するが、そのなかの子で内緒でコーリャが行くイリューシャの家の話。


そこにはアリョーシャもいる。イリューシャが瀕死の病人なので、コーリャの仲間は既にずっと早くから見舞いにきている。イリューシャが病気になったのは自分の飼っていた犬にいたずらで物を飲ませて、その犬がいなくなってしまったという罪の意識からくる心の病だった。イリューシャの父親は退役大尉だったが、アリョーシャの兄ドミートリ―に公の場で侮辱されたといういきさつがあり、イリューシャが通りがかりのアリョーシャに石を投げたという過去がある。アリョーシャが気になってイリューシャの家を訪ねた時にはイリューシャは病気だった。コーリャはいなくなった犬を偶然拾い、回復させ、見舞いに仲間より日にちがずっと遅れて、行ったのだが、ここでは、青年アリョーシャと少年コーリャの会話は見ものである。まだ、十四才に日にちがあるこの少年の大人びた話、誰かからしいれた社会主義の話、それに対して、世間的には大人とみなされていたアリョーシャは沈黙と時々言うたしなめる言葉と、少年コーリャの生意気な言葉を紳士の話のように聞く。


ここでも、アリョーシャは積極的に自分の話はしない。


アリョーシャの兄のドミートリ―と女にだらしのない父の間を行き来するグルーシェンカという魅力はあるが、男にだらしない女の相談相手になった時のやりと似ている。それはいけないとか、違うとか結論めいた意見ははっきり言うが、言葉かずは少ないから、アリョーシャの内面は分かりにくい。


それに対して兄のドミートリ―やイワンの考えは明瞭である。


 


特にイワンは哲学者である。


この大小説のヒントはあのイワンのつくった戯曲に集約されているともいえる。


キリストと大審問官


大審問官はその町の宗教的な権威である。


しかし、こういう話は新約聖書にあるのではないか。つまり、パリ才人とキリストとの対決。新約聖書ではキリストはおおいに真理について話をし、当時の権威であり、知識人であるパリ才人を批判をする。


しかし、ドストエフスキーの戯曲では、大審問官がキリストを一方的に批判する。何で、今頃【ヨーロッパの中世】に出てきたのか。


お前は千年前に全て喋ってしまい、あとは我らに託したのではないのか。


今頃出てきても、迷惑きわまりない。


このキリストと大審問官の話は映画ではカットされている。映画と小説の共通点は「神がいるかいないか」という点である。


 


 私個人としては日本人であるから、天地創造の神【God】がいるのかいないのかという問いはたてない。そういう習慣がない。それよりも、わたしの肉体が滅びても、滅びない不死の仏性があるという仏教にひかれる。それで、その不生不滅の仏性とは何かということが一番の関心事になり、道元の「正法眼蔵」を三十年前から読み始めた。


こちこちの唯物論の方はそんなものはないとおっしゃるかもしれないが、科学の最先端を行くと思われる東大医学部で座禅を医学的に研究した方もおられ、その本を私も拝読したことがある。それから、インド哲学科の玉木幸四郎先生のような翻訳とは違う場所で、つまり東大医学部の研究室で「正法眼蔵」を翻訳している本も出ているのである。


ただ、仏性は顕微鏡や数学で見つけるものではない。座禅して、心身脱落して悟るものなのだろう。言葉では表現できないものを道元は後世に伝えようとして、あのような分厚いものを書いたのであろう。


 


ただ、ドストエフスキーが追及した神はキリスト教会の神というよりは、やはり、東洋の仏性の方に近いという感じを持つ。小説「カラマーゾフの兄弟」の


舞台がロシアだから、神がいるかいないかという風に伝統に足をおいた形で言うのだろう。


                         久里山不識


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映画「戦場でワルツを」

2019-05-11 13:00:53 | 戦場でワルツを


 


 最初の二十六匹の犬が獰猛な姿で町を駆け巡る映像を見て、私はダンテの地獄篇をふと思い出した。この映画にも、二十数年前のパレスチナ人虐殺という地獄の様子が出てくる。その記憶が途切れたイスラエルの映画監督アリ・フオルマンがその地獄の様子を徐々に思い出すという設定である。レバノン内戦で、アリ・フオルマンが難民キャンプでのパレスチナ人虐殺の現場近くにいて加担したような状況があった筈なのに、その記憶がすっかりないのだ。


それに、気付いたのは、レバノン内戦の二十数年後、監督の友人がパレスチナ・ゲリラの捜索の最中に、犬二十六匹を殺したのだが、夢にその殺した犬が出てきて、困っているという話を聞いてからだった。


 


この映画全体の印象はアニメーションであることもあるが、何か、幻想的な印象がつきまとうが、不思議なリアル感がある。実際の我々の人生もこのようなものかもしれない。映画には、それを見る者がいる。「私」だ。この映像も「私」も時間に支配されている。


しかし、ふと、「時間に支配されない」者がこの映像を見ているという瞬間があるような気がする。これは「エゴ」としての「私」でない、「普遍的な」私である。


 


この「私」は、ちょうどダンテの「神曲」で言えば、「地獄」「煉獄」「天国」を旅する詩人のようなものかもしれない。


 


 映画監督アリ・フオルマンは記憶が途絶えていることで、戦友を訪ね、友人の中にある二十年前の戦闘の状況の記憶を聞く。それぞれの友人の記憶にあるものは、ダンテの「神曲」のさまざまな地獄のように恐ろしいものだ。


つまり、地上の現代の地獄という感じがする。兵器が発達して、地獄の様相も変化していくのではないか。この映画では、機関銃とか戦車とか、ロケット砲とかいうものが強い殺傷力を持ち簡単に扱えるようになって、人間を狂わせていく様子がよく描かれている。


 


地獄とは昔の人が考えたように、遠くにあるものではない。この現代の地球にあるのであることをこの映画を見て、痛切に感ずる。風景として見える地獄、内面の葛藤としてある心理的な地獄。色々な地獄が現代にも展開しているのだと、思う。もちろん、そうでない所にいる人も多いだろう。もしかしたら、煉獄も天界もあるのかもしれない。しかし、良い所にいる人も、一歩、誤ると大変である。


交通事故、災害。恐ろしい病気。そして死。今も世界のあちこちで戦争がある。


 


最初に、主人公のアリ・フオルマンが 朝の六時半に訪ねたのは友人のオーリー・シヴァンだった。彼に二十年前の記憶のことを言うと、面白い実験があると、彼は言う。子供の頃の写真を見せる。九枚は本物で、偽物は一枚であると、その偽物の遊園地にも行ったことがあるという風に言う人が多いという。つまり、記憶は自分でつくりあげることがあると言われる。本当のことを知りたいならば、オランダにいる戦友のカルミの所に行ってみろと言われる。


 


アリ・フオルマンがオランダのカルミを訪ねた時は、真冬で雪が積もっていた。一面に白い雪景色の田舎で、そこに十エーカーの広い土地を持ち優雅に暮らすカルミ。カルミの二十年前の記憶は他の兵士と一緒にタグボートに乗って、たまたま居眠りした時に、女とセックスの初体験した夢を見たと語り、岸につくと、恐怖から無茶苦茶に機関銃をうちまくる様子を聞かされる。


朝になると、目の前に乗用車があり、そこに家族の死体があったとカルミは言うが、ベイルートでの虐殺の記憶はないという。


アリ・フオルマンはアムステルダムまで、帰る途中のタクシーの中で、戦車にのっていたことを思い出す。そこから、やはり無茶苦茶に機関銃をうちまくる。上官から、死体を片付けてこいと言われ、ついでに、「どこか適当な所に投げ捨てろ」と言われる。命令のまま、行き、血に染まった死体を初めて見て、ショックをうける。


しばらくすると、ヘリコプターのいる味方の陣地に着くと、そこは死体と怪我人であふれていた。何の実感もないまま、死体を置いて、再び野営地に戻る。


 


その次にアリ・フオルマンが訪ねた第二の戦友は頭のはげた男だった。監督は戦車の話をして、君の所属していたイスラエル国防軍の部隊はそこになかったかと聞く。男は話をする。


戦車の上で、写真を撮ったり何か遠足をするような気分でレバノンに進んでいた。


「レバノンよ、おはよう。心安らかに目覚めておくれ」という歌を流しながら。あたりは綺麗な風景だった。【レバノンはイスラエルの隣の国】


木々に囲まれたのどかな田園風景である。戦車に乗っていると安心だった。人気のない町の中を戦車に乗って、乗用車をつぶして巨大なロボットのように進む。たが、戦車が海岸に到着した時、突然、指揮官が動かなくなった。下におろすと、首から血が流れて、死んでいる。しばらく呆然としていると、爆発がおこり、戦車から逃げ出す。


武器も持たず、海をめがけて逃げ出す。戦車にいた連中はみな爆死する。


岩陰に隠れ、振り返ってみると、敵のいる建物が見えた。残っている味方の何台かの戦車にいる指揮官の顔が見えた。どういうわけか、味方が撤退しはじめた。その時、味方から、見捨てられたと思った。自分が死んだら、母さんがどう思うだろうと思った。岩陰から、振り返ると、敵がタバコを吸ったりして、くつろいでいる。こちらが全滅したと思っているのだろう。暗くなるまで、待った。暗くなり、星が出た。海まではっていき、そこから、泳ぎ始めた。しばらく陸の敵から離れようと泳ぎ、そのあと、南に向きを変えた。海は穏やかで、波は静か。安らかな気持ちで泳ぐことが出来た。


それでも、体力が消耗して、おぼれるのではないかという不安。敵に見つかって、撃ち殺されやしないかという恐怖。そういう気持ちを持ちながら、静かで穏やかな海を泳ぐ。


時に、爆音が響きわたる。しばらくして、遠くに灯りが見える。イスラエル兵がいる所に違いないと思って、泳ぐ。体力が限界に達し、手足が動かない。疲れ切って、海の流れに身をまかせた。そして、最後の力をふりしぼり、海岸につく。ヘブライ語が聞こえる。


 


 それから、映画監督アリ・フオルマンは拳法をやる戦友フレンケルの話を聞く。


フレンケルは当時の生活を話す。


その最初の方で、歌がうたわれる


  今日 ベイルートを爆撃した。


  毎日、爆弾を落としている


  殺されても、文句は言えない。


  毎日、爆弾を落としている


  引き金に指をかける


  敵を地獄に送る


  市民も時々 巻き添えにする


 


この歌だけでも凄い場面が想像されますね。街が地獄と化している様子。


人間はかって、第二次大戦を経験して反省している筈なのに、またこの地上で地獄をつくりだしているという気持ちのする歌です。


ベイルートはレバノンの首都です。(レバノンはイスラエルの隣の国 )


朝の食事をして、日差しの入る果樹園の中にフレンケル達は 機関銃を持って入る。


果樹園の中で、ロケット砲を持った少年に出会う。少年はロケット砲で戦車を砲撃する。


十二才から十五才ぐらいに見える。


フレンケル達は果樹園の樹木の中を這いながら、少年の方に向けて機関銃をぶっ放す


 


アリ・フオルマンは「僕はそこにいたか」と聞く


フレンケルは「俺たちは訓練キャンプの時から、ずっと一緒だった」


 


急に場面が変わって、女の心理学者はそういう場面の記憶がなくなることを、かい離という現象だと説明する。実際に経験したことを切り離してしまう心理現象だという。


彼女は、あるカメラマンの話をする。実際におこる戦争をカメラをとおしてみていたカメラマンが、何かの拍子にカメラがこわれ、そのとたんに現実の恐ろしさを見る恐怖におそわれた。


地獄を見たということだろう。


アラビヤ馬が大量に殺されているのを見たのだ。何の罪もない馬が虐殺されねばならないのかと、カメラマンは思った。


映画監督アリ・フオルマンは友人に、戦地で一緒だった仲間と会って、なくした記憶がよみがえったよと語る。


アリ・フオルマンの親父の話もする。親父は自分が経験した戦争の話をして、アリ・フオルマンをなぐさめてくれたのだ。


第二次世界大戦の時。ロシアの兵士は一年間に、休暇があるのはたった四十八時間だという話。


兵士を乗せて、列車が駅に着き、プラットホームで妻や恋人にキスして、直ぐに列車に戻る。再び、前線に戻る。過酷だろうと、友人に言うアリ・フオルマン。


 


そして、アリ・フオルマンはベイルートの自分の記憶にある話をする。爆音がすごかったよと言い、そして、郊外にある金ぴかの別荘に、アリ・フオルマンは若い兵士として入る。勿論、ここは戦場である。堕落した将校が敵の赤いルセデスがこちらに向かっているので、先手をうって爆破しろという命令を言う。夜、機関銃を持って、ルセデスを待機していると、電話が入る。


真夜中、味方のレバノンのキリスト教徒、バシール大統領が殺されたという知らせを将校が言う。


そして、今からベイルートの町に入ると将校は命令する。


アリ・フオルマンはヘリでベイルートの国際空港に到着する。最初は、海外旅行に行くみたいに、わくわくしている若いアリ・フオルマンだったが、人気のないターミナルに入り、免税店の宝石などが略奪されていたり、エールフランスの旅客機が爆破されていたりしたのを見て、しだいに自分の置かれている状況に気づく。


そして、市街地に向った。片側に海、片側にビル。 ホテルから狙撃兵に狙われる。


そんな地獄の中、ロンドンのテレビ特派員ロン・ベン・シャイはやたらシューシューという多数のロケット砲の爆発する前を悠々と歩いていた。カメラマンはへっぴり腰だった。壁がくだけちる音。


そして、住民たちがアパートのバルコニーから映画を見るみたいに見ている。


敵はあらゆる方向から撃ってくる。


フランケルは突撃銃を使っていたが、横にいた味方の兵から機関銃を横取りして、弾丸が頭上に飛び交う中、十字路に飛び出した。


映像では、ショパンの音楽が鳴る。


まるでワルツを踊るみたいにぐるぐる回りながら、四方八方に機関銃をうちまくる。


 


要するに、こういう世界は一種の地獄だな。ダンテの神曲は現代から見ると、ファンタスティックで幻想的だが、ここの地獄はリアル感がある。人間は天国も煉獄も地獄もこの地上につくる奇妙な生き物なのではないかという気がしてくる。


 


 オランダだろうか、お花畑で、監督がカルミと話をしている。同じ地上なのに、ここは天国とはいわないまでも、それに近い美しい所である。


 アリ・フオルマンは「だんだん、記憶がよみがえってきた」「信じがたい事実だ」と言う。


色々思い出したが、それでも虐殺のことだけは思い出せないという。


「海岸で君(カルミ)と一緒だった。パレスチナ人が沢山こちらにやって来る」


どうやら行き詰まったようだ。その場にいたカルミはそこにいなかったようだという。


しかし、カルミは言う。


キリスト教徒のファランヘ党は現場に行き、処刑場でパレスチナ人を処刑していた。


しかし、カルミは虐殺のことは記憶がないという。 


 


やがて虐殺の少し前のことは今だに夢に見ると、アリ・フオルマンは友人のオーリー・シヴァンに語る。


戦友の誰も、あの虐殺のことは誰もおぼえていないとアリ・フオルマンは友人に語る。


夢の中で、海というのは恐怖の象徴だと語るオーリー・シヴァン。


両親のアウシュヴィッツのキャンプでの出来事が、アリ・フオルマンの若い時の経験と重なっている。ともかく、その場にいた戦友を見つけ、聞くことだとオーリー・シヴァンは忠告する。


 


戦友のドロール・ハラジと会い、彼から話を聞く。小高い丘に、みすぼらしいキャンプの集落が見られた。そこで、見張っていると、ファランヘ党の民兵がイスラエル兵の軍服を着て、やってきた。司令に呼ばれ、ファランヘ党の説明を聞かされた。言葉は英語だった。これから、キャンプ場に入り、連中を一掃するから、後ろから援護射撃してほしいと頼まれる。


翌朝、ファランヘ党は多数の民間人(女・子供・老人)を連れ出して、空に銃を発射して、威嚇射撃していた。


 


あるファランヘ党の兵隊が老人を連れて、ビルに入り、


上のビルにいたイスラエル兵が「おい、何があったのか」と聞く。


その男は老人をひざまずかせ、殺したと言う。


 


もう異状は感じていた。何が起きたのか知っているのは部下だった。


異変に気づいて、「奴らは民間人を撃っている」と言う。


「壁に沿って、民間人を並べさせ、銃で撃っている」


どうやら、イスラエル軍はこの虐殺を黙認していたようだ。


本部の司令室は高いビルの屋上にあった。よく見えた筈である。


 


君は(アリ・フオルマン)はそこの部隊で何をしていたのだと聞く友人のオーリー・シヴァン。


屋根の上で、照明弾を空にうって、殺戮の手助けをしていたということになるというアリ・フオルマン。


 


奴らの殺戮に加担したことに変わりない。十九才にしてそういう罪をしょってしまったと考えているのだろうと言われるアリ・フオルマン。自分の行為、照明弾をうつということがナチと変わりない行為であったと悔やむアリ・フオルマン。


ああ、ワルシャワのゲットーでユダヤ人の子供が両手をあげているようなことが、ここでも起きてしまったのだ。パレスチナ人の子供、その両親が両手をあげている。


 


ちょうど、そこへ本部のイスラエルの将官が車でやってきて、「攻撃をやめなさい。今すぐに。


家に帰りなさい。これは命令だ」と


 


ファランヘ党は通りに出、パレスチナ人はキャンプに戻っていた。


キャンプ場はがれきだらけ。


 


  


ロンドンの特派員はあの日、「ファランヘ党が恐ろしい虐殺をしたらしい」と、ある顔見知りの大佐から聞いた。


「キャンプで何が起こったか、知っているか」「自分で見たわけではないが、どうやら虐殺があったらしい」


夜遅く、特派員はイスラエルの国防相にも電話して、虐殺のことを話したのだが、わざわざ知らせてくれてありがとうと言われただけだ。


 


キャンプの中に入ると、がれきで一杯だった。そのがれきの中に、小さな手を見た。


自分の子供と同じ年頃の女の子の死体だった


 


キャンプの家の中庭に、女と男の遺体があふれていた。路地には、死体の山があった。若い男の死体だった。


キャンプの中の町を女たちが泣きながら、行進している。


 


そして、急にアニメーションではなく、現地を映した実写となる。本物の映像を見せるのはここが初めて。


女たちは泣き、嘆いている


がれきの中に本物の死体がたくさんころがっている。無残である。まさに地獄としかいいようがない。


 


天国編(ダンテの「神曲」―谷口江里也 訳より引用 )


「全ての形が仮のものにすぎないことを、主が創られたものは いわば原素とでも言うべき命であり それが天空を司るエナジー 原動力によって形を得る。そしてそれらはその同じ力によって他の形へと変化する、花は枯れても消え失せる訳ではないのだ。 種となり地に落ちて光を受けて花咲くように。 死もそして生もまた、光によって鏡に映る姿のように、一つの照り返しであり また実体でもあることを


ああ、ベアトリーチェ、 あなたは今、 輝く光そのものだ。」


 


 


 道元には、「生死はみ仏の命なり」という言葉がある。


 


ダンテの描く「神曲」の地獄や源信の描く「往生要集」の地獄を信じるか信じないかは個人の自由だが、この現代に地獄に似た世界や天国に似た世界を作り出しているのは人間そのものであるという気がする。少なくとも、我々は地獄をつくらないように、科学と理性


と優れた価値観の力で天国に近い世界をつくりだすように努力すべきなのあろうという風に、この映画を見たあと、ふと思う。


 


 


 


 


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