奥武蔵の風

66 高島十人衆と真田十勇士

 6月10日は時の記念日ですが、定職を離れてからは、時間の拘束からすっかり解放されました。

 今の私には、6月10日というと、6と10から「六文銭の真田十勇士」が、頭に浮かびます。物語の世界とはいえ、真田十勇士の活躍、実に痛快ですね。

 ということで、今日は、真田十勇士のモデルになったと考えられる、同じ信州に実在した「高島十人衆」について、記したいと思います。

 

 信濃の国の諏訪地域は、古代より諏訪神社(現・諏訪大社)の宗教秩序によって統治されてきた独自の文化圏でした。この宗教統治を一変させたのが、武田信玄による諏訪侵攻です。信玄は、諏訪神社の宗教秩序を武田の軍制下に組み込むと同時に、有力名主層を武士化して「諏訪五十騎」を編成しました。

 しかし、有力名主層は反発し、独自に小部隊を編成するようになります。その代表格が「高島十人衆(拾人衆)」です。信玄の子 勝頼の時代には、高島十人衆に安堵状が渡されるまでになりました。

 やがて、豊臣秀吉が天下を治めると、諏訪地域は日根野高吉の統治下に置かれることになります。日根野は、諏訪湖畔にあった高島村に、浮城(高島城)を構築することにし、高島十人衆を含む高島村の住民に特権を与えて、氏神である八剱神社(やつるぎ じんじゃ)をはじめとするすべての施設を、新開地の小和田村に移しました。

 やがて、時代は関ケ原の合戦を迎えます。この時、諏訪神社の神職の血を引く旧統治者であった諏訪頼水は、徳川との縁戚関係にあり、関東へ移封していました。また、日根野も徳川方へ態度を変えていましたが、有力家臣団であった高島十人衆は、万一に備えて豊臣方に味方し、諏訪高島藩の生き残りを図りました。

 (ちなみに真田藩は、真田昌幸と次男 信繁(幸村)が豊臣方につき、長男 信之が縁戚関係にあった徳川方につくことによって、生き残りを図りました。)

 合戦の結果は、徳川方の勝利に終わり、高島十人衆は「負けて逃げ帰った」という記述が、資料に残されています。ただし、歴史の記録はそこまでで、以降の資料はありません。当然ながら、当人たちはもちろん、諏訪高島藩としても、この事実は徳川幕府に知られないように、隠す必要があったからだ、と考えられます。

 一方、旧統治者の諏訪頼水は、徳川勢(秀頼)の上田城攻めに加わるなどの功績を認められて、関東から諏訪の地へ戻り、高島城の藩主となりました。同時に、合戦後、真田信繁(幸村)が高野山の九度山村へ蟄居(ちっきょ)したことにより空になった上田城の守備を、任されることになります。そして、諏訪高島藩は、明治維新まで、代々の諏訪氏が治めることになりました。

 高島十人衆については、後の小和田村に関する資料から、武士の身分を捨てて町人に身をやつしたことがうかがえます。小和田地区には、江戸時代(正徳4年)に「小和田太子講」と呼ばれる宮大工系の講が形成されましたが、明治期になって復活した姓から、メンバーの中に高島十人衆の末裔が多く含まれていることが認められます。

 (参考)

 真田十勇士: ①猿飛佐助 ②霧隠才蔵 ③三好清海入道 ④三好伊佐入道 ⑤穴山小助 ⑥由利鎌之助 ⑦筧 十蔵 ⑧海野六郎 ⑨根津甚八 ⑩望月六郎

 高島十人衆: ①小松又七郎 ②小松佐渡守 ③小松蔵人 ④小松筑後守 ⑤藤森民部丞 ⑥小松伯耆 ⑦藤森主計 ⑧小松与七郎 ⑨藤森孫右ェ門 ⑩藤森甚兵衛

 

 真田十勇士の物語の原点については諸説ありますが、個々の登場人物については別として、少なくとも「十勇士」の発想は、同時代の「高島十人衆」から得たのではないかと、私は考えています。

 

(写真上)© 真田幸村像と六文銭の旗。

(写真上)© 真田藩の居城 上田城 大手門

(写真上)© 上田城 隅櫓(すみやぐら)

(写真上)© 高島村から移転し、今も小和田地区に鎮座する八剱神社(諏訪市)

(写真上)© 同じく高島村から移転し、小和田地区に鎮座する教念寺(諏訪市)

(写真上)© 参考文献の一部

(写真上)© 同上

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