①トーマスカーライル 衣服哲学第1巻
②トーマスカーライル 衣服哲学第2巻
③トーマスカーライル 衣服哲学第3巻
植物新種の創造家、 ルーサー・バーバンク・栗原基著よりの抜粋
序;(新渡戸稲造)
ルーサー・バーバンクは現代の文明人にはトーマス・エジソンやヘンリーフォードと共に忘るべからざる恩人である。彼は植物界の発明王とも称せられるべき人であって、その意味においては、電気界や自動車界に新機軸を出した人々と轡を並べて行くべき人だと思う。
ある人々は、文明とは自然の懐から離れて、都会の温室に栽培された植物のように考え、人為的技巧の支えなしには一日も存続することのない、特別な存在のように考えている。しかし、これは真の文明ではない。文明とは人類社会の発展途上における一形態であって、それが健全であり、また人類の福祉を増加するためには、いつも自然と離れることのない関係を結び、常に自然の理法に従うべきものである。自然の恩恵なしに真の文明は存在し得ない。単に機械文明の一面に頼って、そこに人生の安住の地を見出しえないことは明らかである。
ややもすれば皮相に陥り易い機械文明や都会文明よりも、一層人生の福祉を増進する文明生活にとってはルーサー・バーバンクの業績は、極めて深い関係がある。何故なら、彼は人類に最も親しく交渉のある植物生態の神秘を開き、その絶大な可能性を我々に教えてくれたからである。四季に咲き匂う草花は彼の手に触れて一層美観を添え、我々が口にする果実は彼独特の調味を加えて、いよいよ味覚をそそり、また成長が遅々として容易に人間の用に供されないだろうと思われていた樹木までも、一度彼が顧みれば、著しい成長の速度を加えるに至った。こうして人生の環境は、彼によってますます華やかとなり豊かになった。
次にバーバンクにおいて最も愉快に感ずることは、彼が一生の間に完成しただけの業績を採って見ても、人類の前途に一段と光明が投ぜられるに至ったことである。彼は野生の植物を栽培して、人生に一層有用なものとするために長い年月にわたって、辛抱強い実験を試みた。そして彼はこの経験から出発して次のように考えた。
「人間の道徳的生活や文学、芸術、科学などは、野蛮な貪欲や利己心や所有欲のためにいつもその発達を妨げられているが、これは未だに人間の精神生活が初歩の段階に属しているためである。ちょうどサボテンの刺を取ってやっても、始めのうちはいつの間にか元に戻って、再び刺が生えてくるようなものである。しかし、教育修養を十分に行なって、一方では環境が改良されるに至ればいつかはきっと人間のこれまでの野蛮性が衰えて、もっと清廉潔白にして正義仁愛が重んぜられることになり、もろもろの精神的美徳が十分にその機能を発揮するに至るだろう。そうして社会も国家も全世界も、次第に旧態を脱ぎ捨ててもっと我々の住み心地の良い場所となるであろう。」
バーバンクは、植物改良によって、人類の可能性を暗示し、そして人間社会の将来に一大光明を投じてくれた。もちろん彼の主張は、未だに人類に応用するには至らなかったが、ただ我々はこれによって将来の人類発展の前途が非常に多望であり、かつ光栄に満ち溢れていることを考えさせられ、少なからず元気づけられる感じがする。その功績は決してユートピアンの空想談の比ではない。彼の、詩のように美しい実験の中には、社会改革の原理が立派に示されておらないまでも、そこに一大教訓が展開されていることを認めるのである。そしてこれによって我々は必ずや将来、楽園回復のミレニアムを迎える時代に到着するだろうとの信念を抱くのである。
バーバンクの七七歳の人生は決して短くはないが、彼に言わしめれば、彼の事業はほんの緒に着いたばかりであった。それでも彼の手によって三千種を超える植物が改良され、数多くの新品種が作り出された。その多くはまったく人の意表に出るものばかりであって、彼以外にこれを試みることができる人は恐らく絶えてないであろう。その中、彼の代表的作品と見るべきものはサボテンの改良である。サボテンの原語「カクトス」の意味は刺と言うことであるくらいに、全身これ刺である植物が、彼の十数年間の苦心によってその刺を脱落し、転じて人類と生物の味方となるに至った事実には、極めて意味深長な暗示が含められている。そのことは彼がサボテンについて述べている一種の人生哲学において明らかに示されている。我々はこれによって、個人が無知と迷信と貪欲を捨てて、聡明と英知、慈悲心と愛他主義を採るように、社会は弱者の虐待と階級闘争から救われ、国家は武装解除をなして国際互助の平和を喜ぶ光栄ある時代を迎えるであろうことを教えられるのである。
・ ・・・以下略
<植物と人生>
・・・・しかし、事実、自然を離れ植物の存在を忘れて、純朴な人生があり得るだろうか。植物の生存を蹂躙して、人間に生き生きとした生活があるであろうか。人間が植物に感謝し、謙遜に、快活に、平凡な人生を美化して行く時にこそ、昔の預言者の幻に現れた健全な人間生活が、新しく芽を吹き出すであろう。
<バーバンクの講演の一節>
「果たして何人がよく、花の我々に与える向上浄化の感化力と道徳的価値とを測り知ることができるでしょう。その優にやさしき姿、その人の心を奪うばかりの色彩の濃淡と配合、その捉えがたい香り-これから洩れる無言の感化力は、それと心に思わぬまでも、いつとはなしに、我々に感染せられる。またその良き果実、種、および美しい花によって、地上はここに更新の春を迎え、人の心は卑しい破壊の斧を捨てて、いつしか尊い建設の力を養う。かくして人は同胞に供するに、弾丸と銃剣とにあらず、豊富な穀物、良き、甘き果実、より美しき花を与えんとする、幸多き日を迎えんために働くであろう。」
<バーバンクの警句>
「報酬を当てにして大事業を成し遂げた例はなかった。」
「私の生きているために不幸になった人は一人もないようにしたいものである。」
「無知は許されぬ唯一の罪悪である。」
「否と言われぬ人は滅多に然りと言う機会もない。」
「最大の幸福は人を幸福にすること、次に幸福なことは人に考えさすことである。」
また、彼は食膳に当たり、よく見える場所に、次のエマーソンの言葉を掲げて日夕これを吟唱した。
「その日その日が最善の日なりと心に記せ。・・・・人はその日その日が最後の裁判なりと信ずるまでは、真に徹底的にものを知ったとは言われない。・・・今日という日は王様の仮装した姿である。すべての良き立派な幸せな行為が、まさしく何らの変哲もない<今日>の集合から作られることを以って見れば、今日を卑しいと思う人は思慮なき人である。我々はよろしく欺かれることなく、王様の御幸に際し、その仮装を剥ぎ取ってやらねばならぬ。」
バーバンクは十三番目の子供であった。しかし多くは夭折して、結局彼とその後生まれた妹エマと、弟アルフレッドとが、主として両親の撫育を受けることになった。・・・バーバンクが興味を持って感じたことは、もし当時このような多産主義が実行されなかったら、彼もまた生まれなかったであろうし、彼が植物改良に採用した大量生産から淘汰する方法も、案出しなかったであろう。
もちろん、それ以上にもっと大切なことは、彼の母が人並み勝れた自然の愛好者であったことである。これが彼に伝わって彼の偉業をなす素質を作ったことを忘れることはできない。
バーバンクの生誕の地はニューイングランド州の粋を集めた景勝の地で、楡の大樹が鬱蒼として茂り、ナシュア河の水清く、林地に囲まれた美しい湖水がここかしこに藍碧を湛え、四季の花は野に山に咲き乱れていた。
ランカスターの彼の生家は周りを緑樹に囲まれた赤レンガの建物であって、そこはバーバンクの少年時代においては、地方の知識社会の中心のようであった。教会の牧師、学校の教師或いは講演に来た学者など、いつも頻繁にここに出入りし、種々の問題を論議した。
<父の家業;百姓からレンガ製造業へ>
バーバンクは機械好きで、小さな蒸気機関を作ってそれを小船に据えつけて推進させることができた。中学に入ったときに一番得意だったのは、自由画や図案だった。
木工所で働いていた時、彼は鋤の製造機械を改良した。また、旋盤も改良して生産能力を高めたが、その樫材から出るほこりのために、健康を損ね、以来木工業とは永久に別れを告げた。
また一年ほど医学の研究に没頭したが、父親の死によって計画は覆され、とうとう園芸家になった。
特に彼にこの決心を促したものに、ダーウィンの「動植物飼養論」がある。
そこには、一切の生命はすべて低級なものから進化したこと、したがって種なるものは固定不変のものでなく、環境の影響にしたがって変化するものだと言うことが書かれていた。しかし、何人も未だ容易に種の変化の範囲や、現存する生物の変化する可能性について、実際に考察を試みるには至っていなかった。
彼はこの書を読んで以来、植物が彼に向かって、その持っている生物変化の可能性を試し、その特徴を研究し、もってその成長発展の新標準を決定するように、挑戦して来ているような感に打たれた。父親から受けた哲学的素質と母親より伝えられた自然に対する愛情とは、ダーウィンの与えた霊感によって、著しく生気溌剌たるものとなったのである。
バーバンクはしかし、単に空想に陶酔する人ではなかった。早速ルーネンベルグの村里に十七エーカーの土地を買い求め、野菜の栽培や種苗の育種に従事し、その収穫を市場に出すことに着手した。・・・・
バーバンクがポテトの改良を思い立った一原因は、実はエマーソンの言葉に刺激されたとも言われている。
「都会は田舎によって補充される。伝えられるところによれば、一八〇五年において、欧州各国の正統の王者は悉く虚弱であった。もし山野からの補充がなかったら、都会はとうの昔に絶滅し、枯死し、姿を消してしまったであろう。今日の都市や宮廷は二日前都上りした田舎に過ぎない」
例えば、南米には蛇ポテトと称する半月形で乾しぶどうのようなものを産するが、このような原始的なポテトが、立派な味と香りのあるポテトを作り上げる材料として、必要欠くべからざる役目を務めることになった。
当時の果実に現れた一般の弱点は、一年或いは二年間くらいは継続して多くの結実を見るも、次の年にはほとんど結実しないという現象だった。・・・この原因の主なものとして、晩春の霜害、開花中の降雨などをはじめ、その他判然としない種々な障害があって、そのために果実産業が至って安心できない不確実な観を呈するのである。
そこで彼は、果樹を強靭にして、抵抗力あるものとなし、多少不利な境遇の下にあっても、良くこれに打ち勝ち、多産であり、かつ十分見込みの付くものにしようと決心した。その他害虫や病気にかからないだけの抵抗力を養成することに注意した。
そして外からの障害を受けやすい傾向のある種苗は容赦なくこれを切り捨て、そして残されたものを、比較的病害などにかからない種族の親木とした。またこれまで長く埋もれていた種々なる特徴を、再び発揮させるために、異種の植物を組み合わせて交配した。このために態々手で花粉を授ける試験を行い、年々幾千となくこれを実行し、異なった種属間の親和性の限界の及ぶ限り、これをどこまでも倦まずに実験してみた。
<最良種の選定>
植物の育種および淘汰によってその目的を全うするために必要なものは、彼独特の直感である。一万株、十万株、時には百万株の中から、最上なる唯一株を選定する特殊の技能である。肉眼以上の非凡な霊的直感が働いて最後の選抜試験を行なうのである。ある日、バーバンクの親友リーブがやって来た。彼は決してバーバンクの言葉を疑いはしなかったが、目の当たりにこれを見たいものだと申し込んだ。そこで園丁は例のとおり、多数の苗木を矢継ぎ早にバーバンクの眼前を通過させた。バーバンクは直ちにこれを上中下の三種に分けた。その苗木は、或いは接ぎ木に用いられ、あるいは芽接ぎとされた。数年の後、最後の試験の際、その結果を検査すると、案に違わず、どの木もことごとく、バーバンクの見込みどおりになったということである。
このようにして長い試験の後、選に洩れた植物は、その種類の何たるを問わず、悉く耕作地から引き抜かれて積み重ねられる。そしてこれに点火すると、これまで丹精して育て上げた植物は、紅蓮の舌を巻いて天に沖し、やがて長き煙を残して消え失せてしまう。このような植物の梵祭が一年に十四、五回も行なわれる。これがすなわち、「一万ドルの篝火」と称せられる希代の壮観であった。
しかし、バーバンクは決してこれを壮観とのみは見なかったであろう。涙を揮って<馬蜀を斬る>以上の決断を要したであろう。人知れぬ悲壮の感に打たれたであろう。
前に述べたとおり、雑種の個々の実生は個々の異なった特性を有し、祖先の特性の特殊な結合を示すと同時に、自己独特の特性をも示す。それゆえいづれも存在の理由がないわけではない。実生の数が多ければそれだけ、理想的な特性を備えるものを得る可能性が高くなるわけであるが、そこに着目したところに、バーバンク独特の偉大性が存在する。
シャスター・デージーに行き着くまでには五十万株の試験を要し、種々のプラムは七百五十万株の実生を必要とした。しかもその内からわずかに五、六株か十株だけが選ばれ、他は悉く高価な焚き火になってしまった。何事にも改良進歩には大きな犠牲を必要とするのである。・・・・この一事をもって見ても、種苗栽培によって利潤を上げることは容易であっても、植物の創作に従事することの、いかに莫大な費用と、労力と時間とを要するかが分かるであろう。しかも多大の費用を掛けて出来上がった成果でも、バーバンクは少しもこれを独占することなく、極めて無造作に、至って安価に、人々に頒布するのであった。
<バーバンク・ポテト>
バーバンク・ポテトは一八七二年五月に、偶然種子の発見によって作られたものである。その後燎原の火の勢いで、太平洋沿岸はアラスカからメキシコまでに及び、内部地方にあっては、特にオレゴン州が盛んにこれを栽培した。以来五十年間に収穫された量を貨車に積めば優に地球の半周に達すると言われている。
この時代は開拓者の時代であり、ポテトは彼らに特に適した食料品であった。栽培にも収穫にも何の世話もなく、荒地を掘って植え付け、多少の耕作を施せば容易に成長するのである。成熟すれば、地中に貯蓄しておき、必要に応じてこれを取り出し、霜除けのためには穴に入れておけば良かった。料理は至って簡便である。
ポテトは七五パーセントの水分と二五パーセントの固形体からできているが、その固形体の主要分は、澱粉で、他に、たんぱく質および脂肪がある。澱粉は、洗濯、グルコーゼ製造、食用、繊維工業に用いられる。また、工業用のアルコール製造にも用いられる。
<刺なしサボテン>
バーバンクがサボテンについて深い興味を抱き始めたのは、幼少時代からのことであった。彼はこの刺に包まれているグロテスクな植物に対して、異様な愛着を捨てることができなかった。そして、もしこれを在来の環境から引き離し、十分面倒を見て育てたなら、きっと人類の障害物とならないで、広く人間や家畜にとって有益なものとなるだろうということを、いつも考えていた。
環境が習性を作ることは、自然環境の証明するところである。サボテンは自己防衛のために、無数の刺を生やして武装しなければならなかったのである。これは、猛獣の生息する荒野に生ずるサボテンには特に刺が多く、そのような外敵の近寄れない安全地帯にあるものは、刺の少ないことでも分かる。
この頑強な人類の敵を変じて友とするには、その性質を一変して、根底から改造しなければならない。幾万年間、文明と絶対に没交渉で、砂漠に住む最も劣等な野蛮人に等しい生活を営んできたものを全く変えることは、決して容易なことではない。であるから、これはむしろ無謀な計画であって、時間と労力の消耗以外、何ら得るところがないだろうと言うのが、たいていの人の考えであった。
しかし、問題が困難であればあるだけ、興味も深くなる。この野蛮な形態のサボテンにも取り上げるべき長所がある。すなわち、強靭であって、他に何物も成長しない場所においても成長し、炎熱燃える砂漠地帯でも、雨が滅多に降らない乾燥地でも、同じように成長する。
しかも、その葉状体や黄金色或いは深紅色の果実には、多量の美味なる滋養分が含まれている。だから山火事に焼かれて刺のなくなったサボテンなどは、水牛やカモシカが好んで食うのである。
時には刺のついたままのものを口にし、鮮血滴りながらも容易にこれを離そうとしない野獣が見受けられるとのことである。埃にうずもれた、乾き切った雑草以外に食物のない時に、多汁質なサボテンの葉状体が、どれ程うまそうなものであるかは、想像するに難くない。
如何なる土地をも選ばないサボテンは、熱砂の荒地から、もっと土壌風土の良い場所に移植すれば、著しく繁茂する。それはサボテンがより良き環境に生育することを欲していることを示す。
サボテンを改良するには、二つの障害を取り除かねばならない。一つは枝と葉と果実を覆っている無数の刺を除き去ること、もう一つは葉状体の繊維的骨格を構成している針状体を絶滅することである。この二つの厄介物がなくなれば、葉も、果実も面目を一新し、優に家畜などの食物となることができるのである。
バーバンクは十年間の苦心経営によって、ついにこの難事業を成就した。彼が容易に忘れることのできなかったことは、その改良試験中に、サボテンに触るごとに、小さな針状体が彼の手を突き刺すばかりでなく、着物の中に入り込み、からだ中を刺すのだった。バーバンクはこれまで二万五千種の植物の改良を試みたが、これほど苦しいものは前にも、後にもなかったと言っている。彼は何度も、心の底から、このような無謀な計画を試みなければ良かったと嘆息した。もう一度あんな痛々しいことをやれと言ったら、断然辞退したであろうとも言っている。しかし、これによって彼は植物界に一つの画期的事業を完成したのである。
彼はこのように食料となるサボテンを作るという、実際的な用途を忘れなかった。すなわち、サボテンがあれほど多くの刺を生じ、針のある葉状体を維持するために費やして来た精力を転換して、美しく豊富な果実を実らせたのである。それは、形はキウリに似て、色は黄金色や紅色などがあって、味は上々で、その香りはナシのようであり、メロンや、パイナップル、ある人はブラックベリーに似ていると言う。生でも食べられるし、調理して食べることもできる。また、ピックルにして、蓄えることもできる。葉状体もまた調理すれば独特の風味があり、生姜や瓜の皮などのようにして貯蔵することもできる。家畜の飼料にすれば、ムラサキウマゴヤシの滋養分の半分を含み、最良の牛肉、羊肉、豚肉を生産するのに適している。
彼の作った新しいサボテンの成長力は極めて迅速で、一株の実生が三年間に六百ポンドの食料を供給した。さらに実生からではなく、葉の切片を地に挿していくらでもそれは成長したのである。
<植物育種の大要>
バーバンクは植物育種の大要を次のように述べている。
「植物育種の根本原理は至って簡単である。しかしこれを実際に応用するには、人間の持っている知識の最高最大の努力を必要とする。そして如何なる人間の努力でも、これ以上に全人類の向上、発展、繁栄、福祉に資するものはない。植物育種とは植物固有の生命を、交配によって有用な方面に差し向けることである。すなわち一方においてはその生命力の新結合によって、また一方においては、環境の変化によって、新しい成果を作ることである。そしてこれは淘汰に対する一層広き地盤を備えることとなるのである。
「植物育種は未だ幼少時代に属する。その可能性や、根本原理などに精通する人は至って少ない。過去においては、これは単にすさまじい自然力を弄ぶのみであって、未だこれを充分に理解することがなかった。
蒸気や電気を取り扱うような正確さに近づくのは、まだまだ将来のことである。現代人は立派に蒸気や電気の貢献した功績を認めるに至ったけれども、植物生態に秘められた生命の指導を得たならば、その恵みは決して蒸気や電気の与える恩恵の比ではない。化学者や機械学者は、すでに自然力を制御することができたけれども、今や植物育種家は、植物の独創的な力を新しい方面に傾けつつある。この新知識はきわめて偉大なる効果を奏し、長く人類無尽蔵の遺産となるであろう。
「植物育種家は無限界に進入する探検者である。彼には金儲けする余裕がない。彼の頭脳は明晰、機敏にして、これまでの化石化した思想を放棄し、迅速に活動する思想を持ってこれに代え、そして矢継ぎ早に行動に転じなければならない。こうして驚くべき美と価値が、具体化した力の新表現によって生じ、我々の命令を待ち焦がれていた自然は、喜び勇んでその宝庫を開くであろう。これは一年や十年の計を立てるのではなく、実に未来永劫地上に生息するいっさいの人々の潤沢な遺産となるであろう。」
植物育種の勧め
彼はこの世に生を受けた者、少しでも世の中を美しくしたいと思う者は男女の別なく、植物育種の仕事を試みるように勧めている。はじめは慰み半分に、或いは健康増進の一助としてこれに従事しても、いつかは予期しない面白い結果を生み出すだろうと言っている。
バーバンクのように、数十年にわたってこの仕事に従事している人でも、植物がまったく意外な方面に向かって発展するのに驚いている。あたかも、永年の間、胚子となって眠っていた植物の精が、人の力に誘われて眼を覚ましたようなもので、そこに自然界の神秘が始めて啓示されるのである。
自然を相手にする人は常に正直でなければならない。真理の道を辿ってこそ、自然は契約の箱を開く。ここには、人間の作った論理学以上に高貴な法則が行なわれている。これは生命の法則である。植物の育種は実にこの原則を至って手短に教える捷径である。これについて、バーバンクは植物育種奨励のために次の五点を挙げている。
一、 予期することができない価値のある新しい草花及び野菜を創作する可能性のあること。
二、 仕事の魅力は極めて強く、これに従事する者に快感を与えるだけでなく、その生命を広くし深くする。
三、 産業的価値を有する草花や野菜を産出し得ること。
四、 健康者は健康を増進し、病弱者は健康を回復する点において、もっとも衛生的条件に適すること。
五、 心理に忠誠であることを第一要件とするために、植物の育種は正直の育種となること。
(つづく)
<接ぎ木における不思議な現象>
接ぎ木作業の最中に時に、不思議なことが起こる。それは接ぎ木がかえって親木に影響を及ぼし、その枝葉を旺盛にし、その根を強くし、また果実を豊富にすることである。
例えば、バーバンクが日本の梨をバートレット梨に接ぎ木したことがある。そうすると、接ぎ木が成功して日本梨を結んだと同時に、親木もいつもの通りバートレット梨を結び、かつ著しく元気を増し加えた。時にはさまざまな変態を生ずることもあるが、特に不思議な現象は、フランスのプラムと西部アメリカに知れ渡っているケルセイ・プラムとを交配した場合に、親木となったケルセイ・プラムは全くその性質を変化したが、接ぎ木は全然開花しなかった。
この事実はダーウィンが起こり得ることとして数えていたけれども、未だそれを目撃するに至らなかったものである。親木となったケルセイ・プラムはまったくその性質を一変し、その種子からフランス・プラムが生ずる奇観を呈した。すなわち交配しなかった場所に、まさしく交配作用の結果が生じ、一方の生命が他の生命に侵入してこれを変化したのである。バーバンクの大量試験は、在来の学者が唱導してきた「後天形質はいっさい遺伝せず」という定説を覆して、「後天形質のみ遺伝する」と言うまったく反対の結論を導くことになったのである。
<遺伝とは>
「異なった種を交配すれば、六代間に生ずる変異や突然変異は、千代の間に自然に生ずる普通の変異よりも、更におおいなるものがある。
遺伝とは感応しやすい活力に満ちた生命力に対する、過去のすべての世代におけるすべての環境が与えたすべての結果の総合的な形質であって、それは生命力が単純な生命から向上努力していく際に示される記録ということも出来る。これはあいまいなものではなく、繰り返されることによって、決して磨耗しない刻印となったものである。
こうして、遺伝と言う観念はこれまで考えられたこととはかなり異なったものとなった。「すべての植物、動物、及び宇宙に存在する一切のものは、自然界において二種類の力の作用を受けている。
一つは本質的な固有の生命とその後天的なすべての習性であって、まとめると遺伝ということになる。もう一つは数多くの複雑な外界からの力、すなわち環境である。両者は一つの永遠なる力の、異なった表現に過ぎず、それらの相互作用を調整するのが、動植物を飼育する者の、唯一の目的であらねばならない。」
これまで自然の生命を深く研究した人は、その行動を説明解釈するために、さまざまに苦心して学説を発表した。しかもその多くは至って限られた実験に基づいてなされたものであった。バーバンクの極めて豊富な観察がこれと異なった結論に達したのはまたやむを得なかったのである。彼は、適者生存とか、自然淘汰の原則を無視したのではなく、むしろそれらを飛び越えて、自然の中に種や変種の存在するのは、その交配によるという大事実を把握するに至ったのである。
バーバンクは自分の見解を要約して次のように言っている。
「植物界の法則と、その中に潜んでいる原理についての私の考えは、いろいろな点で物質論者の学説と反対である。私は深く人間力以上の力を信ずる。今までの私の研究によれば、生命のない物質的宇宙が、色々な種類の力によって撹乱されているという観念から抜け出て、宇宙は絶対にすべて生命、心霊、思想、その他名前は何でもいいが、とにかくそのようなものから成立しているという信念に導かれた。いっさいの原子、分子、植物、動物、ないし惑星は、その組織されている単位の力の集合体が、いっそう強い力によって支持されているに過ぎない。そしてこれは、想像できないほどに満ち溢れているけれども、今しばらくの間は隠れて潜在しているのである。地上いっさいの生命は、言わばこの無限な力という大海原の岸辺にあるようなものである。宇宙は半分死んだものではなく、まったく生きているものである。」
<バーバンクの人種改良策>
<人間植物の改良>
植物及び動物の特徴やその遺伝には著しい類似が発見される。人間もまた、同様だが、もちろん、人間独特の精巧な有機体としての違いを考慮に入れて、しかも人間が他の生命体と異なるところは、自分の遺伝や環境を意識する点にあるから、ある程度はその経験に照らして、自らを処置して行くことが出来るということである。それは、進化の全過程において人間の位置に特殊性を与える。しかしそれによって、人間が遺伝の法則の支配を免れることはできない。すなわち、人間は意識的に環境を変化することが出来、また遺伝の知識を応用して淘汰を行なうことも出来るが、決して環境の影響の束縛や、祖先伝来の容赦ない制限から逃れることはできないのである。
実際、人間社会の必然性として、個人が自由にその配偶者を選ぶことは制限されている。さらに後に子孫の両親となるものをあらかじめ選定することには、いっそう困難を感ずる。
最近まで、人間が自らの種族を科学的に繁殖しようとすることなど、もってのほかであると考えられていた。しかし、近来優生学と称する新しい学問が起こり、人間の遺伝法則が、正当に人類の繁栄のために応用されるべきとの思想が台頭した。
これによって、バーバンクが新植物の創作に従事して得た知識を、さらに人間という<植物>の改良進歩に応用することを考えることは決して不穏当なことではないと考えられるようになった。
<淘汰の大原則>
人間の家族においても、植物と同じような淘汰作用が、意識的にせよ、無意識的にせよ行なわれている。例えば、結婚相手を選定するときには、男女が互いに、相手の強壮、健康、美貌などを有するものを選定し、それと反対のものはなるべく避けようとする。これは、優生的と言って差し支えない原則によって決定されている。
しかし、社会の現状としては、親として不適当と思われる多数の者が、臆面もなく結婚生活を展開して、多数の子女を生産する。むしろ不適当な社会の分子がかえって最も多数の子女を生む。
これでは到底、代を重ねても人類が向上することはできない。植物の場合、人為的淘汰を捨てて、再び自然のままの条件を許せば、やがて野生状態に退化するのである。・・・・
文明社会における人間の状態は、植物が温室や、雑草のない庭園に植えられているのと似通っている。そのため、人間社会においても、その雑草とおぼしき者を抜き取り、反社会的な成員が繁殖しないようにすることは原則である。
歴史的には、優勢淘汰の原則がかなり厳格に実行されて来た。虚弱者が意識的に除去されなくとも、生活が楽でなかったので、異常で、虚弱な幼児は病気の犠牲となり、気力や知恵のない成人は疫病に襲われ、飢餓に見舞われ、或いは敵となる人間に攻撃されて、ひとたまりもなく倒れてしまった。
その結果が現代の人類である。しかし、近来の衛生思想の普及や病気予防の施設によって環境が改善され、特に児童の環境が著しく改善されたために、生存の難しい幼児が生き延びることになった。したがって将来、人間の淘汰と言う問題は、倫理的な問題をも含めて、切実に研究される必要があるであろう。
しかしこの問題は複雑である。なぜなら、優良な子孫を残そうとする人々は、極力それを制限し、それに反してあまり望ましからぬ人々が、無造作に多数の子女を生むからである。これはあたかも庭園において、優良な品種を制限し、劣等な品種を無制限に繁殖させるのと同じである。これでは決して植物の改良を期することはできない。
では、どのような方法を講ずるべきか、手段はあるのか。これを実行するにおいては容易にまとまった意見がなく、ここでは原則だけを述べた。
人間社会を見ると、多少バーバンクの農事試験場にも比較できるものに、各国の移民を網羅している米国がある。米国民は過去十代に渡って、絶えず雑婚と淘汰の手段により、向上発展の道を辿り、概ね文明国の市民たる素養を作り、修養を積みつつあると言うことができる。もちろん、異常な者もあり、庭園の雑草に等しい者も多くなりつつあるのは事実であるが、それでも、文明社会の機構は穏健に出来上がりつつあると見ることができる。
ところが、最近最も憂えなければならない傾向が著しくなって来た。すなわち、これまで農村の健全な状態のもとに育てられた人々が、こぞって都上りし、比較的不健全で異常な生活に移るようになったことである。この傾向は年々ますます盛んになり、今後容易に衰える様相もない。
都会では子供達は、不健全な環境に育ち、薄暗い空気の悪い住宅に住んでいて、とうてい田舎の、日光に照らされ、新鮮な空気を呼吸し、小鳥の歌を聞いて育つのとは天地の差がある。
このことが、道徳的に、体の発達に、精神の修養にどれほどの支障をきたすか分からない。植物で言えば、これは庭園のような地味も良く、灌漑された、充分雑草を抜き取った土地から、それを、痩せて、乾燥した、雑草の繁茂する、日光の当たらない場所に移植するようなものである。そのような植物が立派に成長することは、とうてい不可能なのである。
<環境の力>
人間においても、代々立派な遺伝を重ねても、その子孫が、特に幼少時代に、正常な環境に恵まれなかったら、退行萎縮するのは免れない。子供達に絶対必要なものは、新鮮な空気と日光のある戸外生活である。彼らは山野に跳ね回り、自然と接触しなければならない。セメントづくめの都会生活は、田舎の緑草や樹木の代わりをすることはできない。そのような悲しむべき場所に成人した者は、とうてい親の時代に勝るなにものも生み出すことは出来ない。
<実生の教育>
深く根底を据えた(固定した)根本的な性質すら、実生の植物や人間の幼少時代に、強い環境的影響を与えれば、大いに変化するものである。
「三つ子の魂百まで」とは心理学者の初歩の者でも、知り切った真実である。シェイクスピアは生まれながらにして該博な知識を有し、豊富な単語を諳んじた訳ではない。適当な環境に置かれて、受容力のある頭脳を働かしたからこそ、大成するに至ったのである。仮に彼を南洋の孤島に生まれしめ、野蛮人の間に置いたならば、恐らく彼は一生、英語のアルファベットも覚えず、何らの文字も知らずに過ごしたであろう。
もうひとつ、極端な例を挙げれば子供時代に、不慮の災いに遭い、盲目となり、聾唖となった子供の場合である。このような場合は、生まれつきの不具者とそれほど違わずに、その精神状態も停止する者が多い。かのヘレン・ケラーなどは異例中の異例であって、教育という環境の所産による無限の努力によって、視覚と聴覚の代わりとなるべき感覚を発展せしめ、その精神を立て直したのである。
過去の歴史を見渡すと、文明は主としていつも異なった人種の特徴を配合して生まれたことが分かる。言うまでもなく、十七世紀初頭に米国に渡来した植民者が、すでに当時から種々の血統の雑交をなし、その後続々と欧州各国から居住民が殺到した。彼らはほとんど文明人の全体を代表していると言っても良い。
人種の血統がこのように多く混交した結果が、非凡の才物を生ずるに至ったことは、疑う余地がなく、いつでも、異なった型を交配して格段の成果をあげている植物栽培家には特に肯定されるべき事実であろう。
それと同時に、留意すべきは、雑種交配には自ずから制限があり、あまり一定の限度を越すと、かえって劣等のものを生ずることもあることである。しかし、ちょうど親和力の最大限にある人種を配すれば、その子孫は二代目のちには、予想もつかないほどの変わった結果を生み出すものである。
・ ・・・
これら異人種間の新しい血統の配合から来る結果には、確かに注目すべきものがある。例えばラテン民族の特色となっている、音楽や芸術を愛する性格を米国人のやや冷静にして実際的な気質に混ぜたならば、どうなるであろうか。また、東洋の日本人や中国人と、西洋人とを、適当に組み合わせた場合も、すぐれた結果が得られるかも知れない。
しかし、一方において米国には一年間に百三十万人の移民が入国し、そのうち東南ヨーロッパから来る者の三五パーセントが、全く読み書きも出来ない教養のない者であることを聞けば、寒心を覚えずにはおれない。植物の交配においては、外からの新品種を取り寄せてこれを在来種と交配する際には必ず、そのうちの最良なものを選ぶのである。・・・・
<淘汰の鉄則>
過去の民族の衰退の歴史を辿れば、人間も自然の生命法則に支配されており、正しい育種によらなければ、いくら教育を施しても、文明は早晩ついに崩壊して消滅せざるを得ない。植物においても、雑草の伸びるにまかせておけば、必ず破滅し絶滅する。最良なものはやがて雑草の繁茂によって取り除かれてしまうのである。
ヒューマニズム的な陳腐な言論に欺かれてはならない。もし、事実を捨てて、そのような寓話を信ずるならば、我々は次第に破滅の淵に近づくよりほかにない。これは古今東西変わることのない真実である。
限りない経験を紙に書き記すことは簡単ではない。例えば、失敗として打ち捨てた千の実験の中から、その中だけに含まれている二、三の真理を探し求めることは極めて難しい。
であるから、もし、我々が誰かの経験から利益を得ようと願うならば、その人の知っていることだけではなく、その人の信ずることも、その軽重において批判配列し、さらにその成し遂げた事実、数字、公式、信念、学説、目的、及び希望などを一つにしてこれを調和一致させるものとしなければならないのではないだろうか。
<進化・変異及び性の根本意義>
<性の問題>
繁殖は<性>なしにできるが、<性>なしに進化や発展は出来ない。
性と生殖は一様にみなすべきではないが、その働きがあればこそ、愛の美しい天地が開け、愛の花が咲いてこそ、人生が美しくなり、個性が発揮される。我々が異性を慕うのは生の自然である。
人の子キリストはカナの婚礼の式において水をぶどう酒に変えて、これを祝福された。・・・
生命は自己表現であり、環境に対する挑戦である。自然界には種々の生命形態があるが、そのあるものは運動し、さらに進歩したものは情緒を持っている。それらは活動し、思想を形成する。
一般に生命の単位は、単細胞に始まるとされている。それらは鉱物の結晶体に似ているが、重力、熱、光などの自然力に積極的にあるいは消極的に感応し、一定の選択力を持っている。これらアメーバなどの単細胞は十分な環境に恵まれれば成長し、しかも自ら環境に適応するために変化して行く。すなわち、ここに遺伝と、環境が合理的に調和する必要があり、その遺伝は後天的と言わざるを得ない。
きのこなどの菌類は光の影響を受けないが、たいていの植物はことごとく光の影響を受ける。すなわちその葉によって光合成を行なう。そして動物は植物にその生存を依存しているのである。
生命は常に変化し、瞬時も止むことはない。そして、実際上生命は組織体となって存在し、千変万化の植物、動物となって今日地上に生存している。細胞の一つ一つは、植物においては、種子、木皮、木質、葉などとなり、動物においては、血液、肝臓、脳髄、骨格、筋肉などとなって特殊化し、時間的生命を生きている。
これは人間社会においても同様である。個人は特殊化されて相互に依存しあい、適応している。
聖書に「もし一家の中で、争えばその家は立ち行かない」とあるが、すべてにおいてもしその単位を構成するものが、互いに協調しなければ破滅するのは当然である。人類の戦争は過去幾世紀にわたって建てられた多くの貴重なるものを、地上から破壊しつつあるのである。
<性の根本意義>
イギリスのドンカスタ博士は言う。「植物においては<性>が存在しているにもかかわらず、接ぎ木によって増えていく場合には、全く種子の必要がない。そしてそのような繁殖が退化をもたらすこともない。では、<性>は何のために存在しているのだろうか」と。
バーバンクは言う。<性>は確かに生存に必要な属性ではない。しかし、新種の誕生には甚だ必要な属性であることは明らかである。なぜなら、個体はそれぞれの境遇において経験を重ねるが、それらが結合することによって、両者の経験は遺伝を通して、あるものは潜在し、あるものは顕在して子孫に伝わって行き、これらの結合が繰り返されることによって、いよいよその種はより環境に適応し、かつ自然淘汰によって種の利益となる特性を発揮し、新しい結合体に進化するのである。
原始的な生命は、いわゆる細胞分裂によって繁殖する。そしてもっと高等な植物や動物でも、ある程度はこの再生の能力を持っている。
しかし生命の歴史を辿ってみると、やがて、松柏科の植物が発生し、風によって花粉が運ばれ、他の個体との交配が可能となった。さらに昆虫を媒体として、花粉が運ばれ、昆虫はその報酬として甘い蜜を得、これによって大多数の一年生の植物、樹木、潅木、草木が発生した。風媒花には色や香りや蜜の分泌もないが、虫媒花は昆虫を誘引するためにこれらのうち最低一つの機能は備えているものである。さらに個々の種は一定の昆虫の来訪に適し、他は妨げるように構築されている。
ここに、自然界に<性>による遺伝を通して、無限の複雑な結合体の発生が可能となったのである。
しかしながら、もしリンゴや、とうもろこし、メロンなどの種子を漫然と播いたならどんな結果になるだろうか。暫くすれば、価値のない雑種となり、何らの特性なく、どんな目的にも適しないものとなってしまうだろう。
個体を良き環境に置くことも大事であるが、さらに重要で有効なことは、代々最上の個体を選択することである。これによってすべての動植物、及び人類が根本的に改良されるのである。
<晩婚>
バーバンクは六十七歳の時に、エリザベス・ウォータース嬢と結婚した。彼は言う。「真心ある父、善良なる母、また才気ある妹はいづれも変わらぬ一生のインスピレーションの源泉であったが、妻と共に手を携えて歩み始めてからは、人生に新しい意義を見出した。全く心が一つとなり、仲良しの友達のように共に踊り、遊び、働くのであった。若い婦人がどんなにインスピレーションの源となり、力となり、励みとなったかは、私の生涯においても、証明された。私の傑作の多くは、彼女の発意、勧告、注意、助力によって完成された。」
彼女は結婚以前から長くそのタイピストとして身辺に侍し親しくその事業に参加し、相談相手となり、多くの報告書の編纂の手伝いをして、いつもなくてはならない役割を務めていたらしい。
<妹から見たバーバンク>
「彼はひたすら真理の探求者として、他を顧みる暇はなかったので、何らの信条に捉われず、何らの宗派に属せず、称号や徴章を帯びず、ただ品性の封印を着けるのみであった。偏見に陥らざると共に、常に自己欺瞞を避け、学説、ドグマ、偏見を捨てて、どこまでも自己に頼り、自己の天職の神聖なるを信じた。彼の最も好むところは、栽培中の植物の間に歩みを運び、海のほとりや山間の泉を訪ずれることである。何故なら、彼の心は牧場に溢れる喜びと、小川のせせらぎを愛し、日常の事物の中に人の知らない美を見出すことを楽しんだからである。・・・・
「彼の驚くべき植物の征服には、なんら秘密はない。ただ直感、精励、熟練、忍耐あるのみであった。彼の手と眼と、頭脳こそが、自然の法則を解釈して、これを指導するために用いた唯一の道具であった。彼は一切の金銭上の報酬を期待せず、専心理想に向かって精進した。ここに、「人物はその事業に勝る」との言葉をバーバンクにも適用することが出来る。
<永遠の青春>
バーバンクは笑って言った。「人々は私がどうして、いつまでもこんなに若いのかと不思議がっている。私はほとんど七七歳にならんとしている。それでも、門を飛び越えたり、徒歩競争をやったり、シャンデリアを蹴るくらいのことは何でもない。これは心身ともに歳取らないからだ。私の精神は未だ若い。私の精神は決して成人しない。これからもかくあって欲しいものだ。私は今でも、八歳の児童の時と同様にほじくり屋だ。」
その通り、彼は新築の家や、店の窓、新しい洗濯機、溝堀機械、珍奇な植物、及び作業中の大工などを見かければ、必ず足を停めてこれを見なければ承知しなかった。そして、いつも「これは何か、これはどうするのか。」と尋ねるのがお決まりであった。
この飽かず詮索して止まなかった研究心こそは、彼をして植物界に一新機軸を出さしめるに至った根底である。また、彼をして永遠に若からしめた秘訣であった。
彼は何時も現在自分の知っていることは、これから知ろうと欲するものの端緒に過ぎないと言っていた。それゆえに、彼の判断は何時も穏健であり思想に余裕があった。彼は不完全な材料だけをもって、軽々しく結論を下すことを控えた。
彼は言う。「今のところ、我々の今日あるのは、遺伝と環境の所以である。しかし、これが終局ではない。これはほんの発端かも知れない。終局はどうなるか分からない。最後のことは誰も知らない。」
<最後の一戦>
バーバンクは自然界に接触し、科学を深く研究するにつれて、頑迷固陋と迷信にはほとほと嫌気がさしていた。南部のある州で一学校教師が、ダーウィンの進化論を講義したために「異端」として訴えられた時、バーバンクは猛然と起って、沈黙すべき場合でないとして、ついにとある教会の教壇から獅子吼した。その争いの渦中に入って、彼はみるみる健康を損ない、衰弱し病気になってしまった。それは再び立つことが出来ない病であった。
若き時代に、頑迷固陋な環境に育った民衆を一気に聡明な者に改良しようと試みることは、植物育種の経験に照らしても、至難の業である。生来頑健でなかった彼の体力は、老齢に加えてこの重荷に耐え得ず、刃折れ、矢尽きた感があった。バーバンクは真理に殉じたのではなく、呪うべき固陋な虚偽の犠牲となったのである。
<バーバンクの宗教観>
彼は一宗一派の信仰箇条を認めなかった。彼は天国地獄の存在も、輪廻も、復活も信じなかった。ただ彼の信じたことはひとつある。それは<感化の不朽>ということであった。彼の言葉を持ってすれば、これが「永遠の生命」である。彼は來世に対しては何の関心も抱かず、すべて未知のものに対して心惹かれることはなかった。彼にとっては、人生がすでに驚異、美観、歓喜に満ち溢れており、そこでの仕事が手一杯だったのである。一日の天国は一日にて充分であったと言える。
しかし、彼は<感化>が人類、世界、万事を通じてあらゆる生命を通じて行なわれる永遠不朽な力であることを確信していた。彼の信ずるところによれば、悪人の発散する感化は、まさしくその人の報酬であり、刑罰であった。清浄無垢な善人から発露する感化はすべてに行き渡り、永遠に継続するのである。したがって、彼は歴史に現れた崇高なる偉業に学び、誠実な動機を持って、高き理想に忠実に生きることが、人生の義務であることを確信し、さらに、地上に天国を創造するためには愛が必要であることを肯定した。心を尽くし、精神を尽くして、終生彼はこの信仰に生きた。彼の死に顔は平和で満ち足りており、優雅高潔そのものの相であり、まさに眠れる子供のようであった。
<永眠安息の木陰>
今や彼はその庭先にあって、生前幾度となくそこに憩いの場所を見出し、その葉の香りゆかしき西洋杉の木陰で永遠の眠りに就いている。そこは彼が人類のために革命的な価値ある業績を、はかり知れぬほどに上げた土地である。
(完)
植物界の発明王;ルーサー・バーバンク
はじめに ルーサー・バーバンクという人は、我が国ではあまり知られていません。しかし、アメリカが生んだ偉人の一人として、バーバンクはトーマス・エジソンやヘンリー・フォードとともに、世界の人々が忘れてはならない人です。エジソンがさまざまな機械の発明者として、私たちの生活を便利で豊かにしたように、バーバンクは植物の世界における発明者として人類の生活に大きく貢献したのです。彼は一生の間に、何と三千種類以上の植物を改良し、数多くの新しい植物を作り出すことに成功しました。それはただ、人々の目を驚かせたばかりでなく、人間の生活を豊かにし、人類の幸福に大きく貢献したのでした。
地球上には未だに利用されていない砂漠や荒野がたくさんあります。バーバンクは植物の持っている可能性を最大限に引き出すまったく新しい方法を開発し、これまで世になかった<刺なしサボテン>や<西洋スモモ>など、どんなところでも育つ植物を作り上げました。
彼のやろうとした仕事は未だ始まったばかりです。私達は次の時代を担う者として、それを引継ぎ、完成させなければなりません。
そのために、彼の生涯をここで振り返って見ましょう。
バーバンクの幼年時代
アメリカ、マサチューセッツ州のボストンという大都会からそれほど遠くないところに、ランカスターという小さな、人目につかない、静かな町があります。
ルーサー・バーバンクは、一八四九年三月七日に、そこで生まれました。父親は、英国出身の教養ある人で、彼はこの父親から、たくさんの本を読むことを学びました。また、母親の先祖は、やはり英国のスコットランド生まれで、この母親からは、美しい自然を何よりも強く愛してやまない感性を受け継いだのでした。
彼は幼い時から、草花が人一倍好きでした。彼がまだ赤ん坊でゆりかごの中に横になっていた時のことです。お母さんやお姉さんたちがきれいな花を取って来て、彼の可愛いらしい手のひらに持たせてあげると、彼はその一本の花をいつまでもいつまでも優しく握っていて、決して取り落としもしなければ、押しつぶしもしなかったそうです。
ある日のことでした。一人の姉さんが、いつものように一本の花を折って来て、バーバンクの手に持たせてあげました。彼はこの花を大切に持っていましたが、やがて、花はしぼみ、花びらは落ちてしまいました。すると、彼は、幼い子供らしい熱心さで、この散った花びらをなんとか元のようにしようとして、一生懸命に工夫し始めたのです。
少し歩けるようになると、普通の子供なら小さい虫や動物を相手にするのですが、バーバンクは、いろいろの草をいじっては遊んでいました。
ある時、彼は一鉢のサボテンの花をもらいました。これはこの地方でカニサボテンという名前を付けられているもので、カニの足のような葉の先には、赤や桃色の花が咲くサボテンの一種です。
彼はこの一鉢のカニサボテンをとても大切にして、時には、この鉢植えを小さな腕に抱えて、部屋の中や庭を、よちよちと歩き回っていました。ある日のこと、いつものように、このカニサボテンの鉢を抱えて歩き回っていると、ふと何かに拍子に躓いて、地面に倒れてしまいした。大切に抱えていた鉢は壊れ、サボテンの茎は、ポキッと真ん中から折れてしまったのです。
その日一日中、彼は深い悲しみに沈んでいました。それはちょうど、そのくらいの年ごろの子供達が、自分の可愛がっていた小鳥や犬が死んだのを悲しんでいる時のようなありさまだったということです。
小学校時代、担任の先生はバーバンクが、非常に勉強熱心であることや、花や木に人一倍深い愛情を抱いていることに感心し、そして心を打たれました。
それで、彼が十二歳に達した頃には、その年頃の少年達が、とても追いつかないほどに、自然についてのいろいろな知識を身につけていたのです。彼は、科学や自然についての本で、手にすることのできたものはすべて、何べんも何べんも、くり返して読むことを習慣としていました。
もちろん、バーバンクは、ほかの友達がよろこぶ遊びに無関心でいたわけではありません。どの遊びにも仲間入りをして、熱心に遊んでいました。しかし、棒切れや、ボールや、木の鉄砲よりも、彼は本を読むことによって不思議な自然の世界に、強く引きつけられたのです。それは、ちょうど自然の美しさが詩人の心に訴えて引きつけるのと同じだったと言えるでしょう。
ドーナッツ事件
バーバンクは、また、どんなことにも、旺盛な研究心を持っていました。それについては、こんな話が伝わっています。ある日のことです。お母さんが、そのころの田舎の習慣に従って、油で揚げたお菓子をこしらえ始めました。いわゆるドーナッツです。台所の一方には油のたぎった鍋があり、一方にはパン粉をこねた柔らかいかたまりがあります。それを見ていた彼は、子供心にも、どうしてこの熱い油が、あのネバネバしたパン粉のかたまりを、たまらなくおいしい焦げ茶色のドーナッツにしてしまうのか、不思議でたまりませんでした。
しばらく考え込んでいた彼は、お母さんが向こうを向くが早いか、揚げ物なべに近寄って、いきなりなべのふたを取り、あっという間もなく、熱い油の中に指を突っ込んだのです。
お母さんが驚いて彼の手を押さえた時には、すでに遅く、その小さい手に大やけどをしていました。けれども、幼いバーバンクは、やけどの痛みを訴えるどころか、お母さんに向かってこう言ったのです。
「お母さん。ごめんなさい、ぼくはどうして油がドーナッツをこしらえるのか知りたかったのです。」
工場での生活
バーバンクは普通の学校を卒業すると、すぐランカスターの町の上級学校に入りました。町にはりっぱな図書館があったので、彼はそこによく通って好きな本を読みふけったのです。また、お父さんの書棚にはいろいろ有益な本があり、これがまた大変、彼の勉強に役立ったのでした。彼のお父さんと、その弟で牧師である叔父さんとはそのころよく知られていた哲学者のエマーソンと親しく交際していて、叔父さんには、バーバンクより年上の従兄がありましたが、この従兄が大変科学に興味を持っていたのです。
彼は冬の間だけ学校に通って、夏になると、ウォセスターという町の、ある木工所で働きました。その時、鋤を作る機械を改良したり、旋盤の能力を高めたりして、工場の主人からはたいへん喜ばれました。しかし、その樫の木を削る時に出る埃のために健康を損ねてしまいました。
それから一年ほどは医学の勉強に没頭したこともありましたが、それは父親の死によって中止され、最後に園芸家への道を歩み始めたのです。
彼はいろいろの科学者のことについても読みました。特に興味を感じたのは、生物学者として有名なダーウィンのことでした。ダーウィンの書いた『種の起源』という論文は、強く彼の注意を引きつけました。そこにすべての生命は下等なものから現在のような高等なものにまで進化して来ことについて書かれていました。ですから種というものは変わることのない固定したものではなく、環境の影響にしたがって変化するものだと言うのです。彼はそれを読んで以来、それを確かめることが、自分の使命だと考えるようになったと言っています。
父親から受けた物事を深く考える性質と母親から伝えられた自然への愛情とは、こうしてダーウィンの与えた霊感によってはげしく火花を散らしたのです。
<バーバンク・ポテト>の誕生
やがて、彼の一生のうちで、忘れることのできない<第一の記念日>がやって来ました。その日を境として、今まで働いていた工場を辞め、園芸家として世に立つ決心をしたのです。彼は種や苗木を作って売る仕事を、小さく始めました。
この仕事は小さいものでしたが、工場の仕事よりもはるかに彼に向いていましたし、また、その将来の夢にもまっすぐに結び付けられていたのです。
ある日のこと、彼は畑を見回っていて、ふと彼が種を蒔いて育てていた一群のジャガイモの中に、いろいろ変わった性質のものがあるのに気がつきました。そこでいっそう良く注意して、これらの変わった特徴のあるジャガイモを調べてみると、その中に花が咲いて種が実っているものが、ただひとつあるのを見つけたのです。
彼は、早速この変わったジャガイモについて、くわしく調べ始めました。たくさんあるこれらの変種の中で、ただひとつだけ花が咲いて実ったこの種は、もしこれを蒔けば、さらに一層変わったものがその中から出てくるにちがいないと彼は考えたのです。
彼は、この実を非常に大切にして、熟するのを待ちました。ところが、ある朝、畑の見回りに出てみると、この大切なジャガイモの実がなくなっているのを発見しました。それはちょっと形容できないほど彼を失望落胆させました。この研究を、思い切って諦めようとさえ思ったほどですが、念のために、その辺の地面を熱心に探して回ると、その探し求めていたジャガイモの実が、畑の一隅に転がっているのを見つけたのです。おそらくどこかの迷い犬が、畑の中を駆け抜けて行くときにこの実を落としたのでしょう。
有名な<バーバンク・ポテト>は、このように、ふとした偶然で発見され、その種を蒔いた中から作り出されたのです。この新しい品種を作り出したバーバンクは、すべての人々に広く行き渡らせたいという気持ちから、この貴重な品種を、わずか一五〇ドルでこの地方の栽培家であるグレゴリーという人にゆずり渡してやりました。
当時、世界のジャガイモの品質が悪くなって来て、飢饉が近いという不吉な噂が飛び交っていました。しかし、彼の作り出したこの新しいジャガイモは、みごとにそれを吹き飛ばしてしまったのです。
そればかりではなく、この<バーバンク・ポテト>は非常にたくさんの芋のできる性質を持っていました。 また、この時代は開拓の時代で、ポテトは開拓者達に特に重宝がられた食料品でした。栽培にも収穫にもそれほど手間もかからず、荒れた土地を掘って植え付け、少しそれを耕せば、簡単に育てられるのです。大きくなれば、土の中に保存して置き、必要に応じてこれを取り出し、霜が降れば穴に入れておけば良かったのです。
調理もすこぶる簡単で、また工業としてはその澱粉からはアルコールも取り出せるというものでした。
カリフォルニアに移住
それからしばらくして、バーバンクはひどい日射病にかかってしまいました。そこで、彼は、再びこのような日射病にかかる恐れのない気候や風土のところで、自分が戸外生活をするのに適したところをいろいろと探しまわりました。そして、ついにカリフォルニア州に向かったのです。その時、彼が持って行ったものは、わずかな小づかい銭と、自分が作り出した新しいジャガイモの品種の種芋十個とだけでした。
彼は一八七五年に、一年中春のように気候のいいカリフォルニア州に到着しました。その時、彼は二五歳、体は痩せていましたが、健康で、人よりも優れた生活力と忍耐力の持ち主だったことはまちがいありません。
バーバンクは、将来自分が園芸家として立って行くのに、都合の良い仕事はないかと思って探しました。ところがなかなかそれが見つかりません。彼は毎日、毎日仕事を探しまわり、ありとあらゆる臨時の仕事をやってみましたが、たいていの仕事は、バーバンクの身体では、辛抱の続かないものだったのでした。
そのうちに、国境の方の、ある町に、新しい建築の仕事があることを耳にしました。さっそくバーバンクは、その仕事に申し込んで、屋根をふく手斧を一丁持っていれば、その仕事に雇ってもらえるかも知れないと考えて、残り少ない自分の持ち金をおおかた使って、それを買い込みました。ところが翌朝になってみると、この望みをかけた仕事も、もう他人が雇われてしまっていたことがわかったなどと言うこともありました。
がっかりした彼は、結局どんなに安い賃金でもいいから、確実な仕事をというので、とうとう鶏小屋の掃除をする賃仕事を見つけ出しました。これは実に不衛生な仕事でした。
熱病に冒される
彼には、夜になっても寝る場所がありませんでした。もらう賃金が安いので、ちゃんとした宿屋に泊まることができなかったのです。何ヶ月もの長い間、夜になると働いていた鶏小屋の中に入って寝ていました。時々、仕事にあぶれた時などは、まったくの一文無しになることもありました。そんな時、彼は、村の食肉市場へ行って、犬のために取って置く屑の骨をもらい、その屑骨についている僅かに食べられるところを取って、やっと飢えをしのいだこともありました。
やがて彼は、願いの通り、ある小さい農園で、賃金はお話にならないほど安いものでしたが、決まった仕事に雇われることになりました。しかしやはり今までのように、自分の部屋を借りることはできないので、いつも蒸気の熱でむれている温室の上の空き部屋で、夜は寝なければなりませんでした。そこはがらんとして湿った不衛生なところで、夜も昼もバーバンクの着物は乾いていたことがなかったのです。
いつも太陽に曝されているのと、栄養不足とで、もともとそんなに弱い身体ではなかったのですが、彼の健康状態は大変悪くなりました。そこへ持ってきて、はげしい農園の仕事が重なり、とうとうバーバンクは熱病で倒れてしまいました。
その近所に一人の親切な婦人がいて、ある日のこと、彼が危険な状態で寝ているのを見かねて、その婦人の家で飼っている乳牛からしぼった牛乳の余りを毎日少しずつ飲ませてあげました。この牛乳のおかげで、彼は生死の境にあった命を取り戻すことができたのです。
もしこの婦人がいなかったならば、世界は永久にこの未来の一大植物改良家を失ったかもしれません。これこそ、誰も知らない土地においてバーバンクがはじめて味わった、忘れられない人の情けでした。病床からやっと起き上がれるようになると、もうバーバンクは、青ざめた顔をしながらも、やせた身体に鞭打って賃仕事を探し求めました。
やがて、彼にもだんだんと運がめぐって来ました。次から次へといろいろの賃仕事を続けて行くうちに、少しずつ、お金もたまってくるようになり、身体のほうも丈夫になって来たのです。そうして、彼は生まれて初めて、銀行に少しばかりの預金をするようになり、やがてわずかばかりの面積の土地を得て、そこに始めて自分の農園を開き、その経営に全力を注ぎはじめました。
思いがけない注文を引き受ける
ある日のこと、バーバンクの農園に、思いがけない注文が飛び込んできました。その注文というのは、ある大きな、スモモだけの果樹園を作りたいという人から来たものです。その注文によると、二万本のスモモの苗木を、なるべく早く揃えてもらいたいと言うのです。
普通の栽培法に頼っていると、このスモモの苗木を作るのに、二年半から三年の時間がかかります。ところがこの注文は、できるだけ早く二万本の苗木全部を揃えて、できればその年の内にスモモの果樹園を始めたいということでした。しかしそれには、その数の苗木を九ヶ月間に仕立て上げなければ間に合わないのです。
彼は思い切ってこの注文を引き受けることにしました。そこで大胆な計画を立て、大急ぎで、そのあたり一帯の町や村々から、少年達や人夫達をかり集めました。もう時季もおくれていましたが、彼の計画を実現するのに必要な、その頃になってもまだ利用できるただひとつの樹で、ハタンキョウがありました。そこで、彼は、雇い入れた人達を指導して、いっせいにたくさんのハタンキョウの種を播きました。ハタンキョウの実生は、非常に早く成長する性質を持っています。彼はその性質をちゃんと計画の中に取り入れていたのです。
間もなく、ハタンキョウの実生は、元気な若木に成長し、いつでも芽接ぎができる状態になりました。一方では二万本のよいスモモの芽が用意されました。そして、適当な時を見計らって、この用意された二万本のスモモの芽は、元気のいいハタンキョウの若木に芽接ぎされ、若木は元気よく伸びて行きました。九ヶ月たつと、二万本のスモモの苗木が、りっぱに出来上がったのです。注文した果樹業者は大喜びでした。
この二万本の苗木で作られたスモモの果樹園は、今日、カリフォルニア州はもちろんのこと、アメリカ中で一番立派な果樹園のひとつになっています。
彼は育種の仕事の上で、堅い方針を持っていました。それはどんな苗木でも、その種類が持っている性質で、当然示されなければならないものがまだ十分に現れていないものは、決して外へ出さないということでした。
そこで、バーバンクの名前は、<確実で正直>というのと同じに世間では通用しました。どんな種や苗木でも、彼の農園から来たものならば大丈夫だということになったのです。
しかし、彼にもだんだんと運がめぐって来ました。次から次へといろいろの賃仕事を続けて行くうちに、少しずつ、お金もたまってくるようになり、身体のほうも丈夫になって来たのです。そうして、彼は生まれて初めて、銀行に少しばかりの預金をするようになり、やがてわずかばかりの面積の土地を得て、そこに始めて自分の農園を開きました。
彼は、この農園の経営に全力を注ぎました。しかし、その心の深いところでは、さらにもうひとつ高いところにある目的を見上げていました。つまり、彼は単に植物を育てる園芸家に満足せず、もう一歩進んで、植物を改良し、今までにない優れたものを新しく作り出すことを、自分に与えられた天職と信じていたのです。
けちん坊爺さんとの出会い
農園の仕事が、広げられて行くに従って、資金が、もう少し必要になって来ました。彼は、必要な資金を借りようと、あちこちへ交渉しましたが、いずれも成功しませんでした。彼がきわめて質素ななりをしており、態度も遠慮がちだったので、商売人の目から見ると、問題にされなかったのです。
ある日のこと、彼が、もう、金を借りることをすっかり諦めていると、埃っぽい道を向こうの方から、人つなぎの馬を引いて来る者があります。その人つなぎの馬が彼のそばへ来ると、これを曳いている一人の老人の姿が目にとまりました。そのに住んでいる老人で、「哀れなけちん坊の爺さん」という名前で通っている人でした。
このけちん坊の老人が、通りがかりにバーバンクに呼びかけました。
「おい、君、どうしているんだ。いい若い者が。君はいつも仕事に精を出しているね。しかし、君のように働けば、もう少し楽になっているんだがなあ。君は金が要るようなことはないのかい。」
このけちん坊で有名な老人から、こんな言葉をかけられたので、彼は驚いて不思議に感じながらも、
「いいやおじいさん、今ぼくはお金が少し要り用なんだよ。ほんとうのところ、今日百ドルのお金があると、相当な仕事になるんだがなあ」と言いました。
すると、そのけちん坊の老人が、懐から古ぼけた財布を出して、その中から二百ドルのお金をつかみだすと、それをびっくりしている彼の手に渡しました。
馬を曳いて行きながら、老人は
「いいよ、いいよ、借り証文なんか、何にも要らないよ。君が払えるようになった時でいいんだから」
とにこにこしながら言いました。
新しい目覚め
こうして、時が経つにしたがって彼の農園は繁盛して行きましたが、それとは逆に彼の心はますます不満を感じてくるのでした。彼はいろいろな植物の新しい品種を作り出す困難な問題について、もっともっと専門的に研究を行ない、実験をしなければならないことを、はっきりと感じていたのです。彼は商売を捨ててこの問題の解決に当たらなければならないと思いました。
彼は生まれつき無口だったので、この決心については、誰にも話しませんでした。したがって誰も、彼のこの決心がはっきりと形となって人々の目の前にあらわれるまでは、彼が新しく、何をやろうとしているのか、少しも気がつかなかったのです。
彼は植物学に関する実際的な本や、植物の改良についての本などを、機会のあるたびに少しずつ読みました。しかし、これらの本は、植物の名前を調べたり、その説明や技術的な方法を学ぶほかは、彼にとってはたいした助けにはならなかったのです。結局、彼は、自分自身が自然と直接ぶつかって、その秘密を学び取るよりほかに方法がないということを知ったのです。
第二の記念日
やがてバーバンクの一生のうちで、<二番目に記念しなければならない日>が来ました。それは彼が、今までやってきた農園の経営をやめて、植物の品種改良だけに、すべての力を注ごうと、はっきり決意した日です。
植物の品種改良というのは、普通に植物を栽培したり、種や苗木を作ったりするだけではなく、それぞれの植物が持っている、いろいろの性質を組み合わせて、今までになかったような新しい色や形や優れた性質を持つ植物を作り出す仕事です。
彼のこの決心を聞き知った親戚の者や友達は、早速彼のところへかけ、それぞれ口を極めて彼のやり方を非難し、ぜひ思い返すようにと勧めました。
一年に何万ドルもの収入のある現在の立派な商売を捨てて、末は破産するに決まっている、夢みたいな新しい仕事を始めるなどという馬鹿げた話はない、と言って人々はやかましく非難するのでした。
しかし、人々の罵る言葉や冷たい笑い、まことしやかな忠告などは、どれもこれも、彼の堅い決心の前には、何の効き目もありませんでした。
一八九三年のある日のこと、農園の仕事は中止され、彼は、今までの農園商売よりも、もっともっと重要で、大きな仕事に向かって、突き進んで行ったのです。
そうしてその後、だんだんと、彼の名前と仕事とが、広くアメリカ中は言うまでもなく、全世界から認められるような、驚くべき新しい植物が、発表されて行きました。
アメリカで名高いカーネギー財団は、彼の仕事の尊い任務を認めて、これを援助することになり、彼も、またこの申し出を快く受け入れました。彼の研究は、サンタ・ローザとセバスト・ポールの二ヶ所の農場を中心にして、あらゆる花や果物や野菜、または建築用や工業用の樹木、あるいは薬用や香料の植物など、たくさんの植物の、実験や研究が彼の指導のもとに、行なわれたのです。
つづく
<刺のないサボテン>
さて、これから、バーバンクの名を世界的なものにした、驚くべき仕事の数々を、お話していくのですが、まず初めに、有名な<刺のないサボテン>の話から進めて行きましょう。
彼は前に述べたように、子供の時からサボテンには大変興味を持っていました。そして、もしこのサボテンをそれまでの環境から引き離し、十分に面倒を見て育てたなら、きっと広く人間や家畜にとって役に立つ植物になるだろうということをいつも考えていました。
サボテンには実にたくさんの種類があって小さいのは五、六センチの高さのものから、大きいのになると一、二メートルから三メートル以上の高さになるものまであります。また丸いのや細長いものや、平べったい扇のような形のものなど、まったく驚くばかりに、いろいろの種類があるのです。
アメリカには、このサボテンが雑草のように野にいっぱい生えているところが方々にあります。小さな植木鉢に植えられたオモチャのようなサボテンしか知らない人達にとっては、熱帯の国々の荒れた広い土地に、それこそぎっしりと足の踏み場もないほど、森のように大小無数のサボテンが刺にくるまって一面に生えている壮大なありさまは、ちょっと想像できないでしょう。環境によって植物が影響を受けることは、自然のそうした姿を見ればわかりますが、猛獣の生息する荒野において、サボテンは自己防衛のために、無数の刺を生やして武装しなければならなかったのです。
これらの野生のサボテンは、まるで砂漠の毒蛇や毒虫のように、のどの渇いた動物が水分をたくさん含んだサボテンの分厚い葉を慕って来るのを、恐ろしい刺を持って待ち構えているのです。
この頑強な、人間と家畜の敵であるサボテンを改良して役に立つものとするには、その性質を一変して、根底から改造しなければなりません。何万年もの間、文明とは全く触れ合いのなかった、砂漠に住む最も劣等な野蛮人のような生活を営んできたものを、全く変えることは、決して簡単なことではありません。
しかし、バーバンクは、このようなサボテンにも、確かに取り上げてよい、長所があると思いました。まず、第一に強靭であって丈夫なことです。焼けつくように熱く、雨が少しも降らない砂漠地帯でも、どんどん育ちます。また、肥えて肉の分厚い葉や茎や、赤い色や黄色い色をした実には、たくさんの栄養分が含まれています。彼は、これを役に立つものとするには、その持っている二つの悪い性質を取り除いてしまう必要があると思いました。それはサボテンの葉や枝や実には無数に生えている刺と、葉や枝を作り上げている丈夫な糸のような質の繊維にあります。前のものは、とうてい口にすることはできないものですが、後のものは、食べることは食べられても、普通の胃袋では絶対に消化できない性質のものです。
しかし、山火事で焼かれて刺のなくなったサボテンなどは、水牛やカモシカが好んで食べていることがあります。時には刺のついたままのものを口にし、血をしたたらせながらもこれを離そうとしない野獣が見受けられるとのことです。埃に埋もれた、乾き切った雑草以外に食物のない砂漠で、汁の多いサボテンの葉状体が、どれほど食欲をそそることでしょう。
したがって、この二つの厄介な性質を、取り除いてしまうと、後はその実を大きくすることや、その肉の分厚い葉を、人間の食料としてはもちろんのこと、牛や馬や豚など家畜の餌料としても良いようなものに改良することです。
この仕事がうまく行けば、人間の食糧問題、一般動物たちの飼料の問題についても大きな力となるばかりでなく、また世界の至るところに広い面積を占めている、荒れ果てた砂地を有効に利用することができると、彼は考えました。
そこで、この難しい仕事に使う材料として、どの種類のサボテンを取り上げたらよいかと、バーバンクはいろいろ思いめぐらしました。学者が調べたところによると、サボテンの種類というものは、大きく分けると、約二十ぐらいあります。そのうちで、アメリカ合衆国にあるものは、わずか五種です。サボテンというものは非常に変化しやすいものですから、この五つの種類から変化したもので人々に栽培されている品種は、アメリカだけで約一千種にものぼると言われています。
バーバンクがまずアメリカ合衆国の中に野生している五つの種類のうちで、自分の計画している<刺のないサボテン>を作りだす材料として取り上げたのはウチワサボテン(学名はオプンチアといいます)と言う種類でした。この種類のサボテンは、どれも平べったくて、分厚いうちわのような葉を持っていて、初めはメキシコや南アメリカの暑い地方から増え広がって来たものです。このウチワサボテンが、野に生えているのを見ますと、あるものは赤い色、あるものは紫、またあるものは黄色い色など、色とりどりの花が咲いていて、非常に人の目に付くきれいなものです。
さらに彼は、この種類のサボテンを広く探し求めました。地中海の海岸のあるところには、このウチワサボテンに属する種類で、その地方の人々にその実が大変喜ばれている種類のあり、その地方の人たちはこのサボテンの実のことを、<インドのイチジク>と言う名前で呼んでいました。それから、寒いアラスカのような土地でも、平気で育つものが、同じウチワサボテンの中にあると言う報告も来ました。これらをはじめ、ほかの種類からも、いろいろのよい性質をすべて自分の実験に取り入れることに決め、たくさんの種類の種を、まず自分の手許に集めました。集められた何万というおびただしい数の種は、特別に設けられた蒔き床にまかれました。芽生えたサボテンの小さな苗は、二千本から一万本ずつにまとめられて苗床にていねいに植えつけられました。その無数のサボテン苗が、大きく成長して花が咲くようになると、花粉の交配を大仕掛けに行なって、たくさんの雑種のサボテンを作り、それを、五、六年の間、毎年続けて行ないました。
サボテンという植物は、自分の持っている性質を、なかなか離さない強情な植物です。ですから、何年も続けて、雑種のサボテンを、数え切れないほどたくさん作りました。しかし、少しもよい方へ改良されて行くきざしを見せませんでした。サボテンの苗を植えた広い実験畑を見回っても、大部分のものは、相変わらず荒々しい刺をつけており、葉や枝をこしらえている質は、丈夫な糸を編み合わせたようなもので、昔ながらの、手のつけられないものでした。バーバンクが容易に忘れることの出来なかったことは、その改良試験中に、サボテンに触るごとに、小さな針が彼の手を突き刺すばかりでなく、着物の中に入り込み、体中を刺すのでした。
しかし、これによって彼は十年間という長い苦心の末に、<刺のないサボテン>という画期的植物を作り上げたのです。
また彼はこのように食料となるサボテンを作るという、実際的な用途を忘れませんでした。サボテンがあれほど多くの刺を生じ、針のある葉を維持するために費やして来た精力を別の方向に向けて、美しく豊かな実を実らせたのです。
サンタ・ローザにある彼の家の庭には、およそ高さが二メートル半ぐらいもある大きなサボテンが元気よく成長しています。これが世界を驚かせた<バーバンクの食べられる刺なしサボテン>です。
その葉は長さが三十センチから四十センチ、幅が二センチから三十センチぐらい、扇のように平べったくて厚さは三センチぐらいです。また大きな実をたくさんつけていて、葉にも実にも枝にも、刺というものは少しもなく、まったくふき取ったようにきれいです。
この刺なしサボテンの実は肥えたキウリのような形をしていて、長さは十二センチぐらい、直径が七センチ半ぐらいあります。その実の肉の色は美しい黄色や紅色をしています。食べてみると、ある人は、モモの味がすると言い、また、メロンの味がすると言う人もあり、パインアップルの味がするという人、イチゴの味がすると言う人など、さまざまです。ただ、誰にも共通することは、今までに食べたことのないような特別なおいしい味がするということでした。この刺なしサボテンの実は、生で食べても良いし、料理に使っても良く、貯蔵用にも適していました。また、家畜用の餌としても、大変栄養価に富んでいて、よい牛肉や豚肉、または羊肉を得るには、どうしてもなくてはならぬものとされています。
さらにこの新しい刺なしサボテンは、雨の降らない熱帯地方ばかりでなく、零下何十度という寒いところでも、平気で育つ丈夫な性質を持っています。また、その成長力が、びっくりするほど、盛んなことも注目すべきです。種からまいて三年目までに、一株のこの刺なしサボテンは、約六百ポンドの食料を、供給してくれるのです。この食べられる刺なしサボテンのおかげで、地球の上の至るところ、熱帯でも寒帯でも、広大な面積を占めている、荒れ果てた土地が、今後は、無尽蔵の食料供給地として、利用されることになったのです。
<シャスター・デージー>
次に、真っ白い一重の、大輪の菊のような美しい花がたくさんに咲く、シャスター・デージーのことをお話しましょう。この花は、今では、どこの国でも作られていて、人々から愛され、親しみ深いものとなっています。しかし、この白色の美しい一重の、大輪のキクの花が、実はバーバンクが苦心して、作り出したものだということを知る人はあまりいません。 英国の、野生のキクの中に、白い一重の花が咲くものがありました。その花は小さくて数も少ないのですが、可愛らしい草です。また日本にも、これに似て一重の白い花の咲く野生のキクがいくつかあり、その中でコハマギクと言う、純白で一重の花が咲く、非常に丈夫な種類がありました。これは日本の、北のほうの海岸に近いところに生えているものです。また、ドイツにもよい野生のキクがありました。それから、アメリカの、野生のキクの中に、丈の高くない性質の丈夫な種類がありました。これは白い一重の花が咲くのですが、花の色がうすよごれたような白で、とうてい日本のコハマギクの、澄み切った白い色とは比べものになりません。また、英国の野に生えている一重の白いキクの花ほどの大きさもないのです。
しかし、この四つの、野性のキクの種類から、それぞれのよい性質を取って、新しいキクを作り上げたら、さぞかし素晴らしいものができるにちがいないと、バーバンクは考えました。そこで彼は、まずアメリカに野生している一重の白い花の咲くキクの種類を集めました。汽車に乗ってちょっと旅に出たある時、ふと窓から外を眺めていると、とある草原に野生のキクで、きれいな白い一重の花が、ひとかたまりになって咲いているのが目に止まりました。彼は、さっそく次の駅で汽車を降りて、改めて切符を買いなおし、走りすぎる汽車の窓から見た野性のキクの咲いているところに近い駅まで戻って、そこから歩いて目的の場所へ行き、一番良いと思われるのを採集したこともあったそうです。
このようにして、彼は四つの国から自分が良いと思った野生のキクを集めました。彼の計画では、花の茎は細くて六十センチぐらいの長さがあり、すっきりとしたものですが、針金の線のように強いものであること、花は一重ですが今までのキクのどれよりも大きいこと、花びらは雪のように純白であることなどでした。
そこで世界のいろいろな地方から集められたたくさんのキクの種は、ていねいに播かれ、やがて芽が出て花が咲くようになると、花粉の交配が行なわれ、それぞれの種類の特徴が、抜き出されてだんだん一つのものにまとめられていく努力が続けられました。そうして、やや彼の望みに近い性質を持ったキクが、はじめて現れました。この花から取れた種は、わずかに六粒か七粒に過ぎませんでした。この貴重な種を、細心の注意をはらって播きつけ、この種から出てきた花の中で、もっとも自分の気に入ったものから種を取りました。そうして今度は約五十粒の種が取れました。こうやって、この新しい系統の種をふやしていくと、やがて何万、何十万と言うおびただしい数の種が取れるようになったのです。
彼はサンタ・ローザの農場に、このキクの広い実験畑を作りました。約三メートル四方の四角な仕切りを無数に作って、その一つ一つに何十万というこの新しい系統のキクの種を播いたのです。この実生の苗が、小鳥や虫、または地ねずみやモグラの害を受けないように、あるいは病気にかからないように、絶えず注意することが必要でした。一匹の地ねずみや、あるいはひと群れの小鳥にわずかな時間襲われたために、何年間も続けた苦心が、いっぺんに水の泡になってしまったこともあるのです。これらの実生の苗が、植え替えができるような大きさになると、今度はセバスト・ポールの農場に、新しくこのキクのために広い試験畑を作って、そこへ移し植えました。さらにこの新しい系統の、十数万のキクの苗について、彼は厳重な淘汰を行ないました。これらのキクの白い花が咲いている六ヶ月の間は、注意深い検査と管理を続けねばなりませんでした。
一週に二回、彼は、どんなに小さな変化でも絶対に見逃すまいと、鋭い観察の目を、試験畑の隅から隅まで光らせるのでした。そうして、たくさんの苗の中に、その葉、茎、花びら、大きさ、丈夫さなどで、親木の持っていた特長を少しでも現したものがあると、すべて記録されました。また少しでも、彼の計画した理想に近い性質を持った苗は、すぐ別の場所に移されて、特別な管理を受けました。このような努力が、八年間も続けられたのです。
実験の途中、ある苗には、一重の花の直径が二十センチ以上もあろうという、驚くような大きな花が咲きました。この花こそ、一番の優秀な花として当然残されるものと誰もが考えました。しかし、彼は、これを残しませんでした。なぜなら、このような大きな花は、気候や風土あるいは取り扱い方が、その苗のために、非常によい条件の下だったから立派にできたのであって、普通の条件の下で、なんらの特別な取り扱い方をしなかったとすると、おそらくそのような結果にはならなかったかもしれないのです。
したがってどんな気候、風土、または取り扱い方を受けても、平均の取れた立派な花が咲く性質を持った種類を作り出すのを目的とするバーバンクは、このような特別な例は認めなかったのです。
やがて苦心に苦心をかさねた末、彼は、望みどおりのものを得ることができました。この新しい一重のキクは、北の寒冷地から南の熱帯地方に至るまで、どこででも、立派に育ちます。カシワの木が枯れないようなところなら、どこでも戸外で、誰にでも作れるのです。性質は多年性で,株分けで年々増えていき、花もたくさんに咲くようになります。植えて二年目には、もう二百から五百ぐらいの大きい白い一重の花が咲きます。この花は、普通の気候のところでは、数ヶ月間も咲いています。カリフォルニアのような暖かいところでは、一年のうち六ヶ月間も、この花が絶えません。特別によい取り扱いを与えると、一年中花が咲きます。切花としても、生き生きとして三週間以上も、しおれずに部屋を飾っています。この新しい花の、特に興味ある点は、その親となった種類が持っていた悪いところを、すべて捨ててしまったことです。 この花はじつにめずらしく澄み切った真っ白な大きい一重のキクの花で、中心は輝いた黄色です。花を支えている茎は、細くてすらりとした感じのよいもの出が、大変に丈夫です。花だけでなく、その葉も美しく整っていて、花とよく調和しています。また茎の性質が、きわめて頑丈で、病気や害虫に対しても強い抵抗力を持っています。
バーバンクは、はじめて実験畑にこの花が咲いているのを見たときから、この新しく作り出された花に、何かふさわしい名前をつけたいものだと思っていました。カリフォルニアの青空のかなたに、高く連なっているシェラの山脈が望まれます。とりわけ一年中、真っ白な雪をいただいて空にそびえているのは、シャスターの峰です。彼はいつもこのシャスターの雪の峰に、深い尊敬の心持ちを抱いていました。いつも清い真っ白な雪をいただいているこの山の名こそ、自分の作り出したこの新しい植物につける一番ふさわしい名前だと、彼は思いました。シャスター・デージーと言う名前が、ここに生まれたのです。デージーというのは野菊と言う意味です。
<匂いをつくりだす>
バーバンクは、また花の匂いを作り出すことに成功しました。
ダリヤの花は、我々にもよく親しまれている花ですが、この植物は、ちょっと不愉快な匂いがします。彼は、このダリヤの嫌な匂いを取りのぞくばかりでなく、さらにこの花によい匂いを与えようとして、二五年という長い間このための研究を続け、努力しました。
ある年のこと、彼は、ダリヤの実験畑をぶらぶらしていると、ふとその特有の不愉快な匂いの少しもしない花があるのに気がつきました。しかも、その花の辺りには、何とも言えない、かすかなよい匂いが、漂っているのです。彼はこれを残して、厳格な淘汰を何年も繰り返した結果、タイザンボクの花の匂いを、そっくり持っている珍しいダリヤの花があらわれたのです。
しかし、これで安心というわけには行きませんでした。このよい匂いのするダリヤの性質が、完全に固定するまでには、何年も試験してみなければならないからです。固定するというのは、ある新しい植物の持っている性質が、いつその種を播いても、ちゃんとその植物の性質を現していて、昔の悪い性質に変わったり、また親の性質に戻ったりしないようになることです。また、その新しい種類が固定したことが確かめられた後も、この新品種を世の中に送り出すまでに、彼は慎重な検査をして、相当に時間がかかりました。しかし、ついにバーバンクの目的は遂げられたのです。
それから、ヨーロッパのブルガリアという国の山の中に、バラの花をたくさんに作っているところがあります。そこでは、何千エーカーという広い広い畑一面に、赤い花のバラを植えていて、その花から毎年何千ポンドという大量のバラ油を採っています。花ざかりになると、その山のいたるところバラの花のよい匂いがします。このバラ油は、高価な香料として英国や米国やフランスなどに毎年輸出されるのです。彼は、この点に目を付けて、苦心の末、非常に強い匂いのするバラを新しく作り出しました。アメリカには、香料を作る材料になる植物が各地にたくさんあります。彼はこれらの点を、アメリカの実業界の人達に、機会のあるごとに詳しく話しをして、アメリカを世界第一の花の香料を作り出す国にするように奨めました。
<スモモと西洋スモモ(プルーン)>
次にバーバンクが、果物の改良につくした功績について、お話しようと思います。とりわけ、大きな努力をして、世界中に広がったのは、スモモと西洋スモモです。 彼の作り出した果物の樹の特徴は、成長が早いこと、早く実を結ぶこと、早く熟すること、果実の大きいこと、果実に糖分が多いこと、丈夫であること、果実の色つやがよいことなどです。 また、彼の作り出した西洋スモモの一種類で、特別に素晴らしくたくさんの果実のなる種類があります。それが、いかに多産であるかということを示す面白い話をお話しましょう。この西洋スモモが熟して来る頃になると、その皮を向く人が、たくさん雇われて働くのですが、この種類に限っては、まだ果実が青いころに仕事に取りかからなければ、全部の果実の皮をむき終えないうちに、熟し過ぎてしまうのです。実際この西洋スモモの一本の木からは二万二千個の果実が取れ、まだ木の上には小さい未熟のものが無数についているというほどです。また彼の作った西洋スモモの中には、丈夫で、頑健なことは天下第一で、およそこの西洋スモモが育たぬところは絶対にない、というものもあります。
この珍しい西洋スモモをバーバンクが作り出したのには、次のような話があります。
ある時、野生のスモモの中で、アメリカの海岸地方に生えている、小さくて色つやがわるく、苦い味のする果実の種類が送られて来ました。この貧弱な西洋スモモは、料理にでも使わなければ食べられないようなものでした。しかし、この野生の西洋スモモは、素晴らしく丈夫で、どんな土地でもりっぱに育ち、砂地であろうが、粘土質であろうが、塩分を含んだ土地であろうが、何の影響も受けません。その上雨のほとんど降らない熱い気候の土地でも、零下二、三十度で凍る寒い土地でも、平気で、おおよそ木や草が生えない悪い地味のところでも、どんどん成長するのです。
この野生種の西洋スモモの果実は、小さいサクランボウぐらいの大きさで、種が大きく、その上を薄くて苦い味のある肉が包んでいます。彼は、これを取り上げて、交配と淘汰を何年も、何年も繰り返した末に、りっぱな新しい西洋スモモの一品種を作り上げました。その果実の大きさも野生のときの五、六倍になり、濃くて美しい藤紫色をしており、白の点々が入っています。また丈夫で、どんなところでも育つのです。
<種のない西洋スモモ>
さらに、バーバンクの名をいっそう有名にした<種のない西洋スモモ>のことをお話しましょう。約二百年ほど前から、フランスでは<種なしスモモ>と呼ばれて作られた小さいスモモがありました。この小さいスモモには、まだ種らしいものが少し残っていたのですが、彼は、これを土台として、これにいろいろのスモモの種類をかけあわせた結果、やがて、果実も大きくなり、色つやもよく、味も良い、その上に種がきれいになくなっている新しい西洋スモモができあがったのです。この<種なし西洋スモモ>に、疑問を抱いたヨーロッパやアメリカの植物学者たちは、ある日、セバスト・ポールの実験園を調査にやってきました。そしてこの樹のそばに立った学者の一人が、自分の持っていたナイフを差し出して、そのスモモの一つを取り、半分に断ち割って中を見せてもらいたいと言いました。願いどおり、樹からもぎ取られた西洋スモモは、半分に割られました。種は完全に消えてありません。今までの学者たちの疑いは、たちまち今度は賞賛と感嘆の声に変わったのでした。(つづく)
樹木の改良;(パラドックスとローヤル)
果物や花や野菜、あるいは雑草、そのほかいろいろの草にとどまらず、バーバンクは大きな樹木の改良にも、長い間の努力を続けました。 これまで、大きい樹木の改良には、何世代という長い時間がかかるものと考えられていました。樹木の成長は遅いので、ある樹木と樹木の交配を行なって、それによって得た種子を播い
てその樹木を育てたとしても、その結果を見るまでに、その研究者は死んでしまうだろうと誰でも考えます。
しかし、彼は、この考え方が誤っていることを、事実を持って答えました。サンタ・ローザにある彼の家の前に一列に並んでいる樹が、その答えです。その樹は、丈が高く、しかもよく横に広がって、堂々とした姿をしています。この樹は、彼が交配し淘汰を行なって作り出したもので、種を蒔いてから、まだ十二年にもなっていないのです。
彼は、早くから樹木の改良のことを研究し始めていましたが、とりわけクルミの改良には目を付けていました。そして、英国のクルミと、カリフォルニアに普通に見られるクロクルミとを取り上げました。このクルミの樹は、よい木目を持っており、堅くて、非常に質が緻密です。また絹のような光沢があり、磨き上げると素晴らしくなります。一ヵ年の間に、三センチ以上も幹の厚みが増えますが、材木となった場合、その年輪はなかなか面白い味を出します。このクルミ材は、家具の製造や、部屋の内部の仕上げ材料、または装飾的な仕上げをする場合などに、なくてはならない材木です。また燃料としても,火力が強くて、持ちがよく、割りやすいという特徴もあります。
この新しいクルミの樹は、古い種類のクルミが三十年間に成長した分量の六倍を十四年の間に成長したのです。彼はこれに『パラドックス』という名前をつけました。さらに、北部地方の寒さに強いクルミの樹として、カリフォルニア原産のクロクルミと、ニューイングランド地方のクロクルミとを、掛け合わせて、これに<ローヤル>という名前をつけました。この<ローヤル>クルミは、小さい苗木を植えてから十二年目になると、もう素晴らしい成長を遂げ、辺りにあるたいていの樹をぐんぐん追い抜いて高くそびえるのです。
このクルミは果実を、たくさんにつけ、よい匂いを持っています。さらに、その葉は、指先でこするか、つぶすかすると、リンゴのような匂いがします。
このように、バーバンクが驚くような価値を持った樹を新しく作り出した秘訣は、いったい何処にあったのでしょうか。
人間植物の改良
バーバンクは、いろいろの植物が持っている良い特長を取り上げて、これらのよい性質を組み合わせて、理想的な新しい植物を作り出すことを、一生の仕事としました。彼は、世間で言うような学者ではありません。もちろん、普通の園芸家や農業家でもありません。
アメリカで有名なスタンフォード大学の初代総長であり、教育学者のジョルダン博士は、「バーバンクは生まれつきの科学者であるが、まず何よりも最もすぐれた芸術家である」と言っています。
彼は、宇宙には大いなる意志が働いていることを感じ、地上一切の生命はその意思によって生かされているという信念を持っていました。
植物の改良を一生の仕事とした彼には、また一方において、人間を植物と同じように改良しようという夢があったのです。彼は、この問題について、「人間植物の教育」という本を書いています。
人間が自分たちの種族を科学的に繁殖させることを考えるのは、道徳的に正しくないと言う人もありますが、一般の動物や植物に適用される遺伝の法則が、人間にも応用されるのは一面において当然です。人類も徐々に進化を続けて来て、現在に至ったことはまちがいないのです。したがって、彼が新しい植物を作り出す仕事をしているうちに得た知識を、一歩進んで人間の改良に応用することができるのではと考えることは、決して不穏当なことではないのではないでしょうか。
その考え方について、かいつまんでお話しましょう。植物を改良するときに、一番必要な原則は、交配と淘汰ということです。淘汰というのは、前にもお話したように、一番良いものを一つ残して、他のものはすべて捨ててしまうことです。そこで、ある一つの植物の中で、できるだけ良い種類を選びます。次にこれと同じ種類または異なった種類の植物を選んで、その交配の相手とします。そうして、何べんも何べんも繰り返して淘汰を行ないます。
植物の場合、雑草の伸びるに任せておくと、必ず、遅かれ早かれその植物は絶滅してしまいます。どんなによい性質をもった植物でも、雑草が繁茂すればそのためにその植物の成長は妨げられてしまうのです。これは明らかな現実です。
人間の家庭でも、これと同じような淘汰作用が、初めから考えてか、あるいはまた、気づかれもせずに、行なわれているのです。もちろん、人間の世界では、社会の生活が複雑なので、この淘汰作用が、改良された子孫を作り出す、という確かな目的で行なわれるものばかりとは言えません。
実生である子供に、一番必要なものは、新鮮な空気と日光と戸外の生活です。そして次に必要なのは教育です。また、植物の改良と同じように、新しい子孫を生み出ために、是非ともなくてならないのは、優良種の採用です。バーバンクが新しい植物を作り出し、また、古い植物に驚くべき改良を行なって成功した大きな理由は、世界の各国から苦心して集めた、いろいろな植物の良い性質を取り上げたからでした。
昔からの歴史を調べてみても、大きな文化や文明は、いつも、違った人種の特徴が組み合わされて生まれた事がわかります。
しかし、この雑種の交配ということにも、一定の限度が合って、これを越すと、かえって悪い結果となるものもあります。あまり性質の違った植物を交配しようとすると、何の結果も見られないどころか、かえって劣等なものが生ずることもあるのです。
いずれにしろ、違った人種の新しい組み合わせから生ずる結果は、非常に興味あるものです。たとえば、ラテン民族(フランス人やスペイン人)の特徴となっている音楽や絵画や文学などの芸術を好む性質と、アメリカ人の落ち着いて実務的な性質とを混血させたならば、スモモやモモやナシに、バラのよい匂いをつけたような、素晴らしい新しい人種が出来上がるかもしれません。
また、東洋の日本人や中国人と、西洋の人達との、よい性質を適当に組み合わせた場合も、すぐれた結果が得られるかもしれません。
歴史を見渡すと、いろいろの民族が起こったり、また、滅んだりしています。人間も自然の一部であり、これを改良しようとすれば、懸命な淘汰と正しい交配とが、どうしても必要なのではないでしょうか。それがなくては、いくら教育を施しても、人間社会の文明や文化というものは、いつか崩れてしまうことでしょう。
しかし、人為的にこれを実行することはおおいに問題があります。ここに、現在のアメリカに注目してみる必要があります。アメリカは全世界から移民を受け入れ、過去十代以上にわたって絶えず雑婚と淘汰により、文明国として向上発展して来ました。もちろん、その中には異常な者もあり、雑草に等しい者も多くなりつつあるのは事実です。しかし、地球規模の大いなる実験園としてそれが機能しつつあることはまちがいのない事実だと思われます。
おわりに
バーバンクは、新しい植物を作り出す仕事で、アメリカのためばかりでなく、全世界の人々、いや全人類のために、その一生をささげた人です。
彼は一九二六年四月十一日、たくさんの素晴らしい仕事を残して、七七歳でこの世を去りました。その遺骸は彼がこよなく愛した西洋杉の木陰に葬られています。
今後未来永劫にわたって、ルーサー・バーバンクの名は、刺のないサボテンや、シャスター・デージーなどを始め、数多くのすぐれた植物を通して、世界の人々に永く刻まれて行くことでしょう。
(完)