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(要約)後世への最大遺物(1)

2008年11月23日 02時47分25秒 | 後世への最大遺物

内村鑑三の肖像画/石河光哉画伯
『NPO法人今井館教友会転載承認済』
<はじめに>
 内村鑑三講演「後世への最大遺物」は明治二十七年七月に神奈川県箱根駅近くで開かれたキリスト教徒第六夏期学校において、そこに集まって来た学生たちに向けて語られたものです。その主張は今でも、人生をいかにして歩もうかと模索している青年たちにとって、大きな示唆に富んだものだと私は考えます。
 原文は残念ながら文語体の講演口調のため、繰り返しの多い冗長な文章となっています。
 もし内村先生が二十一世紀の現代に生きておられたら、若者たちに向かってどう語られただろうか、カーライルの言うように、霊感は日ごとに新しくされ、新しい言葉でもって書き直されなければならないのかも知れませんが、内村先生に示されたこの霊感を語り継ぐ人が現代にはいるでしょうか。
 物質主義、金銭至上主義のはびこる世にあって、真に生きるとはどういうことか、僭越とは思いますが、私は内村先生の叫びを現代に伝えたいと願い、敢えてこのような形で先生の講演を要約させていただきました。
 読者がこれを機会に、先生の講演の一端を知り、先生の志すところ、思いを受け止めて下さり、それぞれの人生において活かされることを願っています。
 当然のことながら、この要約文のすべての責任は私にあることをここに明記しておきます。
 最後に内村先生ご自身の改正版への序に、この書自体が「後世への最大遺物」となったことを記しておられますことは、まことに私の意を得たものと実感しています。
二○○八年十一月二十二日(土) 大山国男

<(内村先生の)改正版への序>
 この講演は、日清戦争のあった年、すなわち今より三十一年前、私がまだ三十三歳の壮年だったときに、海老名弾正先生司会のもと、箱根山上、芦ノ湖湖畔おいて行ったものです。その年は私の娘ルツ子が生まれた年です。その娘はすでに世を去り、またこの講演を本の形にして世に出した親友中村弥左衛門氏もついこのごろ世を去りました。その他この本が発表されて以来の世の変化は非常です。
 多くの人がこの書を読んで志を立てて成功したと聞きます。その内に私と同じようにキリスト信者になった者も少なくないとのことです。そして彼らの内のある者はすでにキリスト教を「卒業」して今は背教者となっている者、またはキリスト教の文筆家となって、その攻撃の鉾先を私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。そして私は幸いにして今日まで生きながらえて、この書に書いてあることに多く相違せずに自分の生涯を送って来たことを神に感謝します。この小著そのものが私の「後世への最大遺物」の一つとなったことを感謝します。まさに頼山陽の詩のごとく「天地無始終(てんちしじゅうなく)、人生有生死(じんせいせいしあり)」です。しかしいつかは死ぬべき人生において永遠の生命を発見する道があります。天地は滅びてもなお滅びないものを得る道があります。それを少しでも握ることができれば、それは成功であり、また私にとりましては大なる満足であります。
 私は今よりさらに三十年生きようとは思いません。しかし過去三十年間生き残ったこの書は今よりなお三十年、あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。
 私はこの小著をその最初の出版者である故中村弥左衛門氏に捧げます。彼の霊の天にあって安からんことを祈ります。
  大正十四年(一九二五年)二月二十四日

<後世への最大遺物>
 この夏期学校に来るついでに、私は東京に立ち寄りました。その時父が頼山陽の古い詩を持ち出して来ました。これは私が彼からもらって初めて読んだ山陽の詩です。冒頭に幼い時に私の心を励ましてくれた一篇の詩があります。
 「十有三春秋 逝者巳如水 天地無始終 人生有生死 安得類古人 千載列青史」
(じゅうゆうさんしゅんじゅう ゆくものはみずのごとし てんちしじゅうなく じんせいせいしあり いずくんぞこじんにるいして せんざいせいしにれっするをえん)
という、彼が十三歳の時に作った有名な詩です。
 私は子供の時から体が弱く、社会に打って出ようという志もなく、また特別なつてがあったわけでもありませんが、この詩のように「千載青史に列する(歴史に名を残す)人間になりたい」という願いを抱いていました。
 ところが、ある時キリスト教に触れて、この願いがだいぶ薄れてしまい、世の中を厭う気持ちが起こって来て、このような願いは、肉欲から来る、不信者の異邦人的な考えで、キリスト教徒たる者は、持ってはならないと思うようになりました。
 確かに後々まで自分の名前をこの世の中に遺して、後世の人々に褒めてもらいたいなどというのは、ちょうど昔エジプトの王様が自分の名前が後の世に伝わるようにと願って、たくさんの奴隷を酷使して壮大なピラミッドを造成したり、日本では糸平という人が「自分のために特大の墓を建てよ、そしてその墓には『天下の糸平』と有名な人に書いてもらえ」と遺言して、その結果立派な花崗岩で伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っていたりしますが、これは決してキリスト教的な考えではないと思います。
 しかし、私は「千載青史に列するを得ん」という考えはそんなに悪い考えではなく、むしろキリスト者が持つべき考えではないかと思うのです。
 私にとってこの地上の人生は天に行く階段であって、ちょうど大学に入る前の予備校のようなものです。もし私たちの人生がわずか五十年で全てが消えてしまうと言うのなら、それは実にはかないものです。私は永遠の世界に私という人間を準備するためにこの世に中に生まれて来て、そこで流す涙も喜びも、すべての喜怒哀楽というものは、私の霊魂を徐々に作り上げ、ついに不滅の人間になって、もっと清い生涯を送るためにあるのだと確信しています。
 ただ、私がこの世の中を生き抜いて安らかに天国に行き、予備校を卒業して天国である、大学に入ってしまったならば、それで十分かと自分の心に問うてみると、その時、私の心に聖なる願いが起こって来ます。
 私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、我々を育ててくれた山や川、この楽しい社会、それらに私が何も遺さずには死んでしまいたくないとの願いです。
 私はこの地上に何かを遺して逝きたい。それによって後世の人に私を褒めたてて欲しいとか、名誉を遺したいというのでなく、ただ私がどれほどこの地球を愛し、どれほどこの世界を愛し、どれほど私の同胞を思っていたかという記念のものをこの世に置いて逝きたいのです。すなわち英語で言うMementoを遺したいのです。
 私はアメリカの大学を卒業した時、同志と共に卒業式の当日、一本の樹を校内に植えて来ました。これは私を四年間育ててくれた学校に、私の感謝のしるしを遺して置きたかったからです。中には同級生で、金のあった人は、音楽堂や図書館、あるいは運動場を寄贈した者もありました。
 お互い地上に生まれて来た以上は、この世の中にある間に少しなりともこの世の中を良くして行きたいと、私は思うのです。
 有名な天文学者のハーシェルが二十歳くらいの時に、友人に語って言いました。「我が愛する友よ、我々が死ぬ時には、我々が生まれた時より、世の中を少しなりとも良くして行こうではないか」と。実に美しい青年の願いではありませんか。ハーシェルの伝記を読むと、彼はこの世の中を非常に良くして行った人です。今まで知られなかった南半球の星を、植民地だったアフリカの喜望峰に行って描いて、すっかり天体図に載せました。それによって、今日の天文学者はどれだけ助けられたか、キリスト教伝播に直接、間接どれだけの助けになったか計り知れません。
 それで次に、何を我々が愛するこの地球に遺して去ろうかと言う問題です。
 その中でまず第一番に大切なものは「金」です。死ぬ時に遺産金として、自分の子供にばかりでなく、それを社会に遺して逝くということです。
 こういうことをキリスト信者に言いますと、金を残すなどというのは、実に賤しい考えだと反対します。
 私が明治十六年に初めて今の札幌農大を卒業して東京に出て来ました頃、東京ではキリスト教のリバイバルが起こっていました。私は実業教育を受けましたので、もちろんその頃は、億万の富を日本に残して、日本を救いたいという考えを持っていました。
 ところがそのことをあるリバイバルに熱心な牧師先生に話したところ、さんざんに叱られました。「金を遺したい?何と意気地のない!そんなものはどうにでもなるから、君は福音のために働き給え。」と言って戒められました。しかし私はその決心を変えませんでした。今でもそうです。金を遺すことを賤しめるような人はやはり金のことに卑しい人です。けちな人です。
 金の必要性はみなさんも十分に認めておいでなるでしょう。「金は宇宙に満ち満ちているものだから、いつでもできる」と言った人に向かって、フランクリンは「それなら今あつらえて見給え」と言ったそうです。なるほど金と言うものはいつでも得られると思いますけれども、実際金の要る時になってから、それを得るのは非常に難しいものです。ほんとうに神の助けを受けた人でなければその富を一箇所に集めることはできないということです。
 たとえば秋になると雁が空を飛んで来ます。それは誰が捕ってもよろしい。しかしその雁を捕まえるのは難しいことです。人間の手に雁が十羽なり、二十羽なり集っているならば、それに価値があります。すなわち、手の内の一羽のスズメは木の上にいる二羽のスズメよりも価値がある、と言うのはこのことです。
 そこで後世の人がこれを用いることができるように金を貯めて逝こうとする願いがみなさんの中にあるならば、私は心からそのことをその人に勧めたいと思います。
 どうか、キリスト信者の中にもどんどん金持ちの実業家が起こってもらいたい。そして我々の後ろ盾になって、我々の心を十分に理解して、金銭的にも我々を支えていただきたい。
 我々の今日の実際問題は、社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年問題であろうと、教育問題であろうと、とどのつまりはやはり金銭問題です。
 フィラデルフィアのジラードというフランスの商人が、アメリカに移住して建てた有名な孤児院があります。これは世界一の孤児院です。小学生くらいの子供たちがおよそ七百人ばかりいます。中学、大学くらいまでの孤児を加えますならば、多分千人以上でしょう。彼の伝記を読みますと、細君は早く死んでしまって、彼は「妻はなし、子供はなし、私には何の生きる目的もない、けれども世界一の孤児院を建てたい」と言って、ただそのひとつの目的を持って、金を貯めたのです。一生涯かかって貯めた金は、おおよそ二百万ドルばかりでした。それを持ってペンシルバニア州の人気のないところに地所を買った。死ぬ時に「この金で二つの孤児院を建てよ、一つは俺を育ててくれたところのニューオルリンズに、一つは俺の住んだところのフィラデルフィアに建てよ」と言いました。
 その孤児院は寄付金が足りないために、事業が差し支えるような孤児院ではありません。ジラードが生涯かかって貯めた金をことごとく投じて建てたもので、それが今日のペンシルバニア州において大量の石炭と鉄を産出する山になっています。その富は何千万ドルするか分かりません。ですから今はどれだけ事業を拡張しても良い、ただ、拡張する人がいないだけです。
 また有名な慈善家ピーポディーはどうやって彼の大いなる事業を成し遂げたかと申しますと、彼が初めて故郷のベルモントの山から一文無しで出て来た時には、ボストンに出て大金持ちになろうという大願を持っていました。それで旅館の主人に「私はボストンまで行かなければならない。しかし日が暮れてしまうので今夜泊めてもらえないか」と聞いたら、その主人が可愛そうだから泊めてやろうと言って喜んで引き受けてくれた。けれども、その時に彼は主人に「ただで泊まるのは嫌だ、何かさせてくれるならば泊まりたい」と言って、家を見渡したところ裏に薪がたくさん積んであった。それで「御厄介になる代わりに、裏の薪を割らして下さい」と言って、主人の承諾を得て、昼過ぎから夜までかかって、薪を挽き、これを割り、だいたいこのくらいで宿賃に足ると思うくらいまで働いて、その後に泊まったそうです。このピーポディーは一生を何のために費やしたかと言うと、何百万ドルと言う金を貯めて、ことに黒人の教育のために使った。
 今日アメリカの黒人がそれなりに社会的地位を獲得しておりますのも、それはピーポディーのような慈善家のお蔭だと言わなければなりません。私はアメリカ人は、金にはたいへん弱い、金権主義にだいぶ侵食された民族だと言うことも知っています。けれども、アメリカ人の中に金持ちがありまして、彼らが聖き目的を持って金を貯め、それを聖きことのために用いて来たことによって、今日のアメリカの隆盛をなしたと言うことだけは、私も分かって日本に帰って来ました。
 それでもし我々の中にも、こういう目的を持って金を貯める実業家が出て来ませんと、いくら起こっても国家の利益になりません。キリスト教信者が立ち上がって、自分のために儲けるのではなく、神の正しい道によって金を儲け、その富を国家のために使う実業家が今日起こることは、神学生の起こるよりも、私の望むところです。
 彼の紀伊国屋文左衛門のように、百万両貯めて百万両使って見ようなどという卑しい考えを持たないで、百万両貯めて、百万両を神のために使って見ようというような実業家が出て欲しいのです。その百万両を国のために、社会のために、遺して逝こうという願望は、実に聖なる願望だと思います。
 また、もしみなさんの中にそういう願望がありますならば、教育に従事する人たちは、「あなたの事業は卑しい事業だ」などと言って、その人を失望させないようにしてもらいたい。またそういう願いを持った人は、神がその人に命じたところの考えだと思って十分に自らそのことに励まれることを望みます。
 しかしながら、誰もが金を貯める能力を持っていない。これはやはり一つのGenius(天才)ではないかと私は思います。私は残念ながらこの天才を持っていません。
 私の今まで教えました生徒の中に、非常にこの才能を持っている者がいました。その人は北海道に一文無しで追い払われましたが、今は私に十倍する富を持っています。それで彼に「今に俺が貧乏になったら、君は俺を助けよ」と言っておきました。実に金儲けというものは、やはりほかの職業と同じように、ある人たちの天職です。誰でも金を儲けることができるかということについては、私は疑問です。
(つづく)

(要約)後世への最大遺物(2)

2008年11月23日 02時41分51秒 | 後世への最大遺物
 それで金儲けのことについては少しも考えてはいけない人が金を儲けようとしますと、その人は非常に穢く見えます。そればかりではなく遺し方が悪いと、ずいぶんと害を与えます。
 それで金を貯める能力を持った人ばかりでなく、金を使う能力を持った人が出て来なければなりません。彼の有名なグルードという人は、生きている間に二千万ドル貯めたのですが、そのために親友四人までを自殺に追い込み、たくさんの会社を倒産させました。ある人が言うには「グルードが千ドルとまとまった金を慈善のために出したことはない」そうです。
 彼は死ぬ時にその金をただ自分の子供に分け与えて死んだだけです。すなわち、グルードは金を貯めることを知って、金を使うことを知らなかった。それで金を遺物としようと思う人には、金を貯める能力とまたその金を使う能力がなくてはなりません。この二つの考えのない人、この二つの考えについて十分に弁えない人が 金を貯めるということは、はなはだ危険なことだと思います。
 さて、では私のように金を貯めることの下手な者、あるいは貯めてもそれを使う能力がない人は、後世への遺物として何を遺そうか?もし金を遺すことができないならば、何を残そうか?それで、金よりも良い遺物は何だろうかと考えて見ますと、事業です。事業とはすなわち金を使うことです。金は労働力を代表するものですから、労働力を使ってこれを事業に変え、事業を遺して逝くことができます。金を儲ける能力のない人でも事業家はたくさんいます。金持ちと事業家は二つの別もののように見えます。商売する人と金を貯める人とは人物が違うように見えます。大阪にいる人はたいそう金を使うことが上手ですが、京都にいる人は金を貯めることが上手です。東京の商人に聞いてみると、金を持っている人には商売はできない。金のない者が金を使って事業をするのだと言います。
 純粋に事業家の成功を考えて見ますと、決して金があったからだけではありません。バンダービルトは非常に金を作ることが上手でしたが、彼は他人の事業を助けただけです。有名なカリフォルニアのスタンフォードは、たいへん金を儲けることが上手でした。しかしながらそのスタンフォードに三人の友人がいました。その友人のことは面白い話ですが、時間がないからお話しませんけれど、金を儲けた人と、金を使う人と、色々います。
 そこで、どういう事業が一番誰にも分かりやすいかと言うと、土木事業です。一つの土木事業を遺すことは、実に我々にとっても楽しいことですし、また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います。
 今日も船に乗って、湖の向こうまで行きました。その南のほうに向かって水門があります。その水門というのは、山の裾をくぐっている一つの隊道です。その隊道を通って、この湖水の水が沼津のほうに流れて、二千石から三千石の田を灌漑していると聞きました。そして昨日ある友人から、その隊道を掘った人の話を聞きました。それは今から六百年も前と言うことですが、誰が掘ったかは良く分からない。ただこれだけの伝説が残っています。
 箱根の近くに百姓の兄弟がいて、互いに語り合って言った。「我々はこのありがたい国に生まれて来て、何か後世に遺して行かなければならない。何か我々にできることをやろうではないか」。兄は言った。「我々のような貧乏人には大事業を遺して逝くことはできない」。すると弟が言った。「この山をくり抜いて湖水の水を取り、水田を興してやれば、それは後世への大なる遺物になるではないか」。兄は「それは非常に面白い考えだ。ではお前は上のほうから掘れ、俺は下のほうから掘ろう。一生涯かかってもこの穴を掘ろうじゃないか」と言って二人して掘り始めた。どういうふうにやったかと言いますと、その頃は測量器械もないから、山の上にしるしを立てて、両方から掘って行ったようです。毎年毎年掘って行って、何十年か後に、下のほうから掘って来た者が、湖水のほうから掘って行った者の一メートル上に行き着いたけれども、御承知の通り水は高い方から低いほうに流れますから滝のように下に向かって流れ落ちて行った。
 この二人の兄弟は生涯かかって、誰も人が見ていない時に、後世に事業を遺そうという奇特な心から、この大事業を成し遂げました。これは、今日に至っても我々を励ます所業ではありませんか。それによって、今の五ヵ村が、湖水の流れるところですから、旱魃になったことは一度もなく、頼朝の時代(千五百年)から今日に至るまで年々米を収穫して来ました。
 もし私が何もできないならば、私はこの兄弟に真似たいと思います。そのころは火薬もダイナマイトもなかった時代でしたから、あの隊道を掘るのは実に大変なことだったろうと思います。しかしそのことを成し遂げることができたこの兄弟は実に幸せな人間だったと思います。
 大阪の天保山を切り開いて彼の安治川を作った人は日本のために、非常な功績を残した人だと思います。安治川があるために、大阪の木津川の流れを北の方に取りまして、水を速くして、それによって水害を取り除いてしまったばかりでなく、深い港を造成して九州、四国から来る船をことごとくあそこに繋ぐことができるようになったのです。また秀吉の時代に切り開かれた吉野川は、以前は大阪の裏を流れていて、水害でもって人々を悩ましたのですが、堺と住吉の間に開鑿することによって大和川の水害がなくなり、そのおかげで何十ヵ村という村が大阪の後ろに生まれました。これは非常に大きな事業です。
 それから有名な越後の阿賀野川を切り開いたことも実に偉大な事業です。今、新発田の十万石は日本におけるたぶん富の中心だろうと言われています。
 これらの大事業を考えてみます時に、私の心の中には、もし金を後世に遺すことができないならば、私は事業を遺したいという考えが起こって来ます。
 また土木事業ばかりでなく、その他の事業でも、もし我々が心をこめて成そうとする時には、ちょうど金に利息がつくようにだんだん大きくなって、終わりには非常に大きな事業となります。
 このことを考えます時に、私はいつも有名なダビッド・リビングストンのことを思い出さずにはいられません。それで諸君の中で英語のできる方にはスコットランドの教授、ブレーキという人の書いた「Life and Letters of David Livingstone」という本を読まれることをお勧めします。
 私にとって聖書のほかに、私の生涯に大きな刺激を与えた本は二つあります。一つはカーライルの「クロムウェル伝」です。そのことについては後でお話します。それから次にこのブレーキ氏の書いた「ダビッド・リビングストン」という本です。
 それで、ダビッド・リビングストンの生涯はどういうものだったかというと、私は彼を宗教家、あるいは宣教師と見るよりもむしろ大事業家として尊敬せざるを得ません。もし私は金を貯めることができないならば、あるいはまた土木事業を起こすことができないならば、ダビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。
 この人はスコットランドの機屋の子でして若い時から公共事業に関心がありました。彼はどこかに事業を起こしてみたいという願いを持って、始めは中国を目指していましたが、英国の伝道会社がその必要はないと言って許さなかったので、ついにアフリカに入って三十七年間自分の生涯をアフリカのために差し出し、初めのうちは主に伝道をしていましたけれども、アフリカを永遠に救うには伝道よりも、まずアフリカの内地を探検してその地理を明らかにし、これに貿易を開いて勢力を与えなければならない、そうすれば伝道は商売の結果として必ず進んで行くに違いないと考えて、伝道を止めて探険家になったのです。彼はアフリカを三度縦横に横切り、解らなかった湖の場所や、河の方向も定められました。それによって種々の大事業も起こりました。
 しかしリビングストンの事業はそれで終わりませんでした。それがスタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題について、リビングストンの事業が原因となっていないものは何一つありません。コンゴ自由国、すなわち、欧米九ヵ国が同盟して、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に建てるに至ったのも、やはりリビングストンから始まったと言わなければなりません。
 それから今日の英国、またアメリカ合衆国は偉大な国だと言われますが、それは何から始まったかと考えてみると、少し偏向するかも知れませんが、その理由はイギリスにピューリタンという党派が起こったからだと私は考えます。そしてピューリタン(清教徒)が大事業を遺しつつあるのは、その中に偉大な人物がいたからです。
 オリバー・クロムウェルという人物です。彼の政権はわずか五年で、その事業は彼の死と共にまったく終わってしまったように見えますけれども、そうではありません。彼の事業は今日のイギリスを作りつつあります。それだけではない、英国がクロムウェルの理想を達成するのはまだずっと未来のことだろうと思います。彼は後世に英国を、アメリカ合衆国を遺したのです。アングロサクソン民族がオーストラリアを従え、南アメリカに権力を得て南北アメリカを支配するようになったのも彼の遺した偉業と言わなければなりません。

<第二回>
 昨晩は後世へ我々が遺して逝くべきものについて、まず第一に金のことを話し、次に事業のお話をしました。事業をするには神から賜る天才がいるばかりでなく、また社会的地位も必要です。我々は時々、あの人は才能があるのに、なぜ何にもしないでいるのかと言ってその人を責めますけれども、それは酷だと思います。人は地位を得ますとずいぶんつまらない者でも大事業をするものです。ですから、事業を以って人を評することはできません。
 それで私は事業の才能もなし、地位も友だちも社会の賛成もなかったならば、世の中に何も遺すことはできないかというと、まだ残っているものがあると思います。何かと言うと、著述をすることと、学生を教えると言うことです。
 それでこの二つのことをこれから論じたいと思います。まずその第一、著述をすることについてですが、すなわち思想そのものだけを遺して行くには本を書くことによる以外にありません。書物は我々が心に常に抱いている思想を後世に伝える道具です。
 偉大なる思想は、時には今の世の中でただちに実行することができないこともあります。だから、種だけを播いて逝こう、「我々は恨みを抱いて、地下に降らんとすれども、汝ら我が後に来る人々よ、折あらば我が思想を実行せよ」と後世へ言い残すのが書物です。
 二千年前のユダヤの漁夫や世に知られない人々が「新約聖書」という書物を書きました。そうしてその小さい本がついに全世界を改めました。また頼山陽という人は勤皇論を書いた人ですが、彼は日本を復活させるには日本を一つにしなければならない、それには徳川の封建政治をやめて、皇室を尊び王朝の時代に戻さなければならないと言う大思想を持っていました。しかしながら山陽は彼の生きている間にはとてもこのことができないことを知っていました。それで自分の志を「日本外史」に書き残しました。そして特別に王室を保護するように書くのではなく、源平以来の皇室以外の歴史を勤皇の精神を持って書き遺しました。
 今日の王政復古を来たらせた原動力は何だったかと言えば、多くの歴史家が言うとおり、山陽の「日本外史」がその一つでした。彼はその思想を遺して日本を復活させたのです。彼の骨は洛陽東山に葬られていますが、彼のAmbition(願望)は「日本外史」を通して、新しい日本を誕生させたのです。
 イギリスに今から二百年前、痩せこけて背の低い病気がちな一人の学者がいました。いつも貧乏で裏だなのようなところに住んでいました。そのころ、十七世紀中ごろというのは、ヨーロッパでは国家主義が全盛でした。イタリア、イギリス、フランス、ドイツ、みな国家的精神を養わなければならないと言って、社会は挙げて国家と言う全体主義に全思想を傾けていた時です。
 しかし彼は人とは違った一つの大思想を持っていました。個人は国家よりも大切だと言う思想です。この人はジョン・ロックで、その書いた本は「Human Understanding」です。
 この本がフランスに渡って、ルソーが読み、モンテスキューが読み、ミラボーが読みました。そうしてその思想がフランス全国に行き渡って、ついに一七九〇年フランスの大革命が起きて、フランスの二千八百万の国民を動かしました。やがて十九世紀の初めにはヨーロッパ中が動き出しました。それから合衆国が生まれました。またフランス共和国が生まれました。ハンガリーの改革もあり、イタリアの独立もありました。これらはすべてジョン・ロックの思想から影響を受けているのです。彼は実に今日のヨーロッパを支配する人となったと言えます。
 それで、もし我々が事業を遺すことができなければ、思想を遺して将来において、事業をなすことができると私は思います。
 ところでここで、みなさんに注意しておかなければならないことがあります。我々の中で誰でも筆を取って雑誌か何かに批評でも載せれば、それで文学者だと思う人がいます。「文学」と言うものは怠け書生の一つのおもちゃであって、誰にでもできる気楽なもののように考えられています。その生涯はどんなものだろうと思っているかと言うと、赤く塗ってある御堂の中に美しい女が机の前に座っていて、向こうから月が上がって来るのを、筆をかざして眺めているというような風景です。これは何かと言うと、紫式部が源氏の間で本をしたためている姿です。これが日本流の文学者です。
 しかし、文学がこんなものならば、後世への遺物ではなく、却って後世への害物だと私は思います。なるほど、源氏物語は美しい言葉を日本に伝えたかも知れません。しかし、「源氏物語」が日本人の士気を鼓舞するために何をしたでしょうか。何もしないばかりでなく、我々を女のような意気地なしにしたのです。あの様な文学は我々の中から根こそぎ絶やしてしまいたい。
 文学はそんなものではありません。文学は我々がこの世界で戦争する時の道具です。今日戦争することができないから、未来において戦争しようと言うのが、文学です。それですから、文学者が机の前に立ちます時には、ルーテルがウォルムスの会議に、パウロがアグリッパ王の前に立った時と同じであり、クロムウェルが剣を抜いてダンバーの戦場に臨んだ時と同じことです。
 この社会、この国を更に良くしよう、敵である悪魔を平らげようとの目的を持って文学で戦争するのです。ルーテルが部屋で書き物をしていた時、悪魔が出て来たので、インクスタンドを取って悪魔にぶっつけたという話がありますが、これがほんとうの文学だと思います。
 有名なウォルフ将軍 がケベックの町を取るときに、グレイのエレジーを口ずさみながら語った言葉があります。「このケベックを取るよりも、我はむしろこのエレジーを書かん」と。
 このエレジーは過激な文章ではありません。しかしイギリス人の心を、ウォルフ将軍のような心をどれだけ慰め励ましたか知れません。
 このトーマス・グレイという人は有名な文学者で博学、多才な人でした。しかし、彼が何を遺したかというと、たぶん二百か三百ページくらいの本で、しかもその中のエレジーと言う、たった三百行の詩のほかに目立ったものは何もありません。彼の四十八年の生涯はエレジーを書いて終わってしまったのです。
 しかしたぶん英語が話されているかぎり、彼のエレジーは忘れられないでしょう。なぜなら、この詩ほど多くの人を、ことに多くの貧しい人を慰め、世に容れられない人たちを慰め、志を抱いていながらそれを世の中に発表することのできない者たちを慰めたものはありません。彼はこのこのことによって実は大事業を行った人だと思います。
 また有名な説教者ヘンリー・ビーチャー が言った言葉に「私は六、七十年の私の生涯を送るよりも、むしろチャールス・ウェスレーの書いた「Jesus Lover of my soul」の賛美歌を作ったほうが良い」と申しました。彼がウェスレーの熱烈な崇拝者であったにしても、この歌の中に、どれだけの真情、どれだけの趣き、どれだけの希望があるのかを見ます時、あるいはビーチャーの言ったことはほんとうかも知れません。
 このようにもし我々に思想があって、それをただちに実行できないならば、それを書物として後世に遺すことは大事業ではないかと思います。
 こう申しますと、諸君の中にはまたこういう人があるでしょう。すなわち、文学者は特別の才能を持った人で「我々には本を書くなどということはとてもできない、これまで筆を執ったこともないし学問もない。源氏物語を見ても、とてもこういう流暢な文は書けない、山陽の文を見てとてもこういうものは書けないと思って、自分は文学者になることはできないと失望する人がいます。
 その失望はどこから来たかと言いますと、文学についての柔弱な考えから起こったのです。すなわち「源氏物語」的な文学思想から起こったのです。しかし、文学と言うものはそんなものではありません。
 ジョン・バンヤン という人はちっとも学問のない人でした。もしあの人が読んだ本があるならば、バイブルとジョージ・フォックス の書いた「Book of Martyrs」(殉教者についての本)という二冊でした。
 後のほうの本ですが、今ではこのような本を読む忍耐力のある人はいません。私は札幌にいたころそれを読んだことがありますが、十頁くらい読むと後は読む気がしなくなる本です。特にクエーカーの書いた本ですから、間違いだらけです。しかしバンヤンは初めから終わりまでこの本を読みました。そして彼は言いました。  「私はプラトンの本も、またアリストテレスの本も読んだことはない。ただイエス・キリストの恵みにあずかった憐れな罪人だから、自分の思うまま、そのままを書こう」と言って「Pilgrims Progress」(天路歴程)という有名な本を書きました。
 それでイギリス文学の批評家の中で第一番というフランス人テーヌという人が、バンヤンのこの書を評して何と言ったかというと、「たぶん純粋と言う点から英語を論じた時にはこれに勝る文章はあるまい、これはまったく外からの混じりけのない、もっとも純粋な英語だろう。」と言っています。
 このように、かくも有名な本は何かと言うと、無学な人が書いた本です。それでもし我々にジョン・バンヤンの心がけ、すなわち我々が他人から聞いた、つまらない説を伝えるのではなく、自分の作りあげた学説を伝えるのでなく、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということだけを書くならば、世間の人はどれだけ喜んでこれを読むか知れません。
 現代の人が読むだけでなく、後世の人もきっと喜んで読むでしょう。バンヤンはほんとうに「真面目な宗教家」です。心の実験を真面目に表したものが英国第一等の文学です。
 もし我々の中に文学者になりたいと思う気持ちを持つ人がありますなら、バンヤンのような心がけを持たなくてはなりません。彼のような心がけ持ったならば文学者になれない人はいないと思います。
 この前、「基督教青年」という雑誌を出している丹波さんが私のところへ来まして、それをどう考えますかと聞かれたので、実につまらない雑誌だと答えました。どうしてかと言いますと、それは、青年が学者の真似をして、つまらない議論をあちこちから引き抜いて来て、のりでくっつけたような論文を出すからです。もし青年が心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切に遺しておきましょうと申しました。
 私は誰かの名論卓説を聞きたいのではありません。私は、女からは女の言うようなことを、男からは男の言うようなことを聞きたい。青年からは青年の、老人からは老人の思っている通りのことを聞きたいのです。それが文学だと思います。
 ただ我々の心のままをすなおに表してみて下さい。そうすれば、いくら文法が間違っていても、世の中の人は読んでくれます。それこそが我々が後世に遺すものです。
 私の家には高知から来た一人の女中がいます。非常に面白い女中で、いろいろの世話をしてくれますが、ある時はほとんど私の母のように世話をやいてくれます。その女が手紙を書くのをそばで見ていますと、非常に変わった手紙です。仮名で、土佐言葉のまま、長い手紙を書きます。実に読むのに骨が折れる。しかしながら私はいつでもそれを見て喜びます。
 文学とは、我々の心情に訴えるものです。我々が文学者になれないのは、筆を取ることができないからではなく、漢文が書けないからでもありません。我々の心に鬱勃とした思想がこもっていて、我々が心のままに、ジョン・バンヤンのように綴ることができるならば、それが最高の文学です。
 こうしてもし我々が今の世の中に事業として遺すことができなければ、我々は書物を以って我々の考えを後世に遺して逝くことができます。
 しかしこう申しますと、またこういう問題が出て来ます。我々は金を貯めることができず、また事業をすることもできないならば、みんなが文学者になったら良いのでしょうか?文学者が増えると言うことは、ただ印刷所と製紙会社を喜ばすだけで、あまり社会に益とならないかも知れません。
(つづく)