植物界の発明王;ルーサー・バーバンク
はじめに ルーサー・バーバンクという人は、我が国ではあまり知られていません。しかし、アメリカが生んだ偉人の一人として、バーバンクはトーマス・エジソンやヘンリー・フォードとともに、世界の人々が忘れてはならない人です。エジソンがさまざまな機械の発明者として、私たちの生活を便利で豊かにしたように、バーバンクは植物の世界における発明者として人類の生活に大きく貢献したのです。彼は一生の間に、何と三千種類以上の植物を改良し、数多くの新しい植物を作り出すことに成功しました。それはただ、人々の目を驚かせたばかりでなく、人間の生活を豊かにし、人類の幸福に大きく貢献したのでした。
地球上には未だに利用されていない砂漠や荒野がたくさんあります。バーバンクは植物の持っている可能性を最大限に引き出すまったく新しい方法を開発し、これまで世になかった<刺なしサボテン>や<西洋スモモ>など、どんなところでも育つ植物を作り上げました。
彼のやろうとした仕事は未だ始まったばかりです。私達は次の時代を担う者として、それを引継ぎ、完成させなければなりません。
そのために、彼の生涯をここで振り返って見ましょう。
バーバンクの幼年時代
アメリカ、マサチューセッツ州のボストンという大都会からそれほど遠くないところに、ランカスターという小さな、人目につかない、静かな町があります。
ルーサー・バーバンクは、一八四九年三月七日に、そこで生まれました。父親は、英国出身の教養ある人で、彼はこの父親から、たくさんの本を読むことを学びました。また、母親の先祖は、やはり英国のスコットランド生まれで、この母親からは、美しい自然を何よりも強く愛してやまない感性を受け継いだのでした。
彼は幼い時から、草花が人一倍好きでした。彼がまだ赤ん坊でゆりかごの中に横になっていた時のことです。お母さんやお姉さんたちがきれいな花を取って来て、彼の可愛いらしい手のひらに持たせてあげると、彼はその一本の花をいつまでもいつまでも優しく握っていて、決して取り落としもしなければ、押しつぶしもしなかったそうです。
ある日のことでした。一人の姉さんが、いつものように一本の花を折って来て、バーバンクの手に持たせてあげました。彼はこの花を大切に持っていましたが、やがて、花はしぼみ、花びらは落ちてしまいました。すると、彼は、幼い子供らしい熱心さで、この散った花びらをなんとか元のようにしようとして、一生懸命に工夫し始めたのです。
少し歩けるようになると、普通の子供なら小さい虫や動物を相手にするのですが、バーバンクは、いろいろの草をいじっては遊んでいました。
ある時、彼は一鉢のサボテンの花をもらいました。これはこの地方でカニサボテンという名前を付けられているもので、カニの足のような葉の先には、赤や桃色の花が咲くサボテンの一種です。
彼はこの一鉢のカニサボテンをとても大切にして、時には、この鉢植えを小さな腕に抱えて、部屋の中や庭を、よちよちと歩き回っていました。ある日のこと、いつものように、このカニサボテンの鉢を抱えて歩き回っていると、ふと何かに拍子に躓いて、地面に倒れてしまいした。大切に抱えていた鉢は壊れ、サボテンの茎は、ポキッと真ん中から折れてしまったのです。
その日一日中、彼は深い悲しみに沈んでいました。それはちょうど、そのくらいの年ごろの子供達が、自分の可愛がっていた小鳥や犬が死んだのを悲しんでいる時のようなありさまだったということです。
小学校時代、担任の先生はバーバンクが、非常に勉強熱心であることや、花や木に人一倍深い愛情を抱いていることに感心し、そして心を打たれました。
それで、彼が十二歳に達した頃には、その年頃の少年達が、とても追いつかないほどに、自然についてのいろいろな知識を身につけていたのです。彼は、科学や自然についての本で、手にすることのできたものはすべて、何べんも何べんも、くり返して読むことを習慣としていました。
もちろん、バーバンクは、ほかの友達がよろこぶ遊びに無関心でいたわけではありません。どの遊びにも仲間入りをして、熱心に遊んでいました。しかし、棒切れや、ボールや、木の鉄砲よりも、彼は本を読むことによって不思議な自然の世界に、強く引きつけられたのです。それは、ちょうど自然の美しさが詩人の心に訴えて引きつけるのと同じだったと言えるでしょう。
ドーナッツ事件
バーバンクは、また、どんなことにも、旺盛な研究心を持っていました。それについては、こんな話が伝わっています。ある日のことです。お母さんが、そのころの田舎の習慣に従って、油で揚げたお菓子をこしらえ始めました。いわゆるドーナッツです。台所の一方には油のたぎった鍋があり、一方にはパン粉をこねた柔らかいかたまりがあります。それを見ていた彼は、子供心にも、どうしてこの熱い油が、あのネバネバしたパン粉のかたまりを、たまらなくおいしい焦げ茶色のドーナッツにしてしまうのか、不思議でたまりませんでした。
しばらく考え込んでいた彼は、お母さんが向こうを向くが早いか、揚げ物なべに近寄って、いきなりなべのふたを取り、あっという間もなく、熱い油の中に指を突っ込んだのです。
お母さんが驚いて彼の手を押さえた時には、すでに遅く、その小さい手に大やけどをしていました。けれども、幼いバーバンクは、やけどの痛みを訴えるどころか、お母さんに向かってこう言ったのです。
「お母さん。ごめんなさい、ぼくはどうして油がドーナッツをこしらえるのか知りたかったのです。」
工場での生活
バーバンクは普通の学校を卒業すると、すぐランカスターの町の上級学校に入りました。町にはりっぱな図書館があったので、彼はそこによく通って好きな本を読みふけったのです。また、お父さんの書棚にはいろいろ有益な本があり、これがまた大変、彼の勉強に役立ったのでした。彼のお父さんと、その弟で牧師である叔父さんとはそのころよく知られていた哲学者のエマーソンと親しく交際していて、叔父さんには、バーバンクより年上の従兄がありましたが、この従兄が大変科学に興味を持っていたのです。
彼は冬の間だけ学校に通って、夏になると、ウォセスターという町の、ある木工所で働きました。その時、鋤を作る機械を改良したり、旋盤の能力を高めたりして、工場の主人からはたいへん喜ばれました。しかし、その樫の木を削る時に出る埃のために健康を損ねてしまいました。
それから一年ほどは医学の勉強に没頭したこともありましたが、それは父親の死によって中止され、最後に園芸家への道を歩み始めたのです。
彼はいろいろの科学者のことについても読みました。特に興味を感じたのは、生物学者として有名なダーウィンのことでした。ダーウィンの書いた『種の起源』という論文は、強く彼の注意を引きつけました。そこにすべての生命は下等なものから現在のような高等なものにまで進化して来ことについて書かれていました。ですから種というものは変わることのない固定したものではなく、環境の影響にしたがって変化するものだと言うのです。彼はそれを読んで以来、それを確かめることが、自分の使命だと考えるようになったと言っています。
父親から受けた物事を深く考える性質と母親から伝えられた自然への愛情とは、こうしてダーウィンの与えた霊感によってはげしく火花を散らしたのです。
<バーバンク・ポテト>の誕生
やがて、彼の一生のうちで、忘れることのできない<第一の記念日>がやって来ました。その日を境として、今まで働いていた工場を辞め、園芸家として世に立つ決心をしたのです。彼は種や苗木を作って売る仕事を、小さく始めました。
この仕事は小さいものでしたが、工場の仕事よりもはるかに彼に向いていましたし、また、その将来の夢にもまっすぐに結び付けられていたのです。
ある日のこと、彼は畑を見回っていて、ふと彼が種を蒔いて育てていた一群のジャガイモの中に、いろいろ変わった性質のものがあるのに気がつきました。そこでいっそう良く注意して、これらの変わった特徴のあるジャガイモを調べてみると、その中に花が咲いて種が実っているものが、ただひとつあるのを見つけたのです。
彼は、早速この変わったジャガイモについて、くわしく調べ始めました。たくさんあるこれらの変種の中で、ただひとつだけ花が咲いて実ったこの種は、もしこれを蒔けば、さらに一層変わったものがその中から出てくるにちがいないと彼は考えたのです。
彼は、この実を非常に大切にして、熟するのを待ちました。ところが、ある朝、畑の見回りに出てみると、この大切なジャガイモの実がなくなっているのを発見しました。それはちょっと形容できないほど彼を失望落胆させました。この研究を、思い切って諦めようとさえ思ったほどですが、念のために、その辺の地面を熱心に探して回ると、その探し求めていたジャガイモの実が、畑の一隅に転がっているのを見つけたのです。おそらくどこかの迷い犬が、畑の中を駆け抜けて行くときにこの実を落としたのでしょう。
有名な<バーバンク・ポテト>は、このように、ふとした偶然で発見され、その種を蒔いた中から作り出されたのです。この新しい品種を作り出したバーバンクは、すべての人々に広く行き渡らせたいという気持ちから、この貴重な品種を、わずか一五〇ドルでこの地方の栽培家であるグレゴリーという人にゆずり渡してやりました。
当時、世界のジャガイモの品質が悪くなって来て、飢饉が近いという不吉な噂が飛び交っていました。しかし、彼の作り出したこの新しいジャガイモは、みごとにそれを吹き飛ばしてしまったのです。
そればかりではなく、この<バーバンク・ポテト>は非常にたくさんの芋のできる性質を持っていました。 また、この時代は開拓の時代で、ポテトは開拓者達に特に重宝がられた食料品でした。栽培にも収穫にもそれほど手間もかからず、荒れた土地を掘って植え付け、少しそれを耕せば、簡単に育てられるのです。大きくなれば、土の中に保存して置き、必要に応じてこれを取り出し、霜が降れば穴に入れておけば良かったのです。
調理もすこぶる簡単で、また工業としてはその澱粉からはアルコールも取り出せるというものでした。
カリフォルニアに移住
それからしばらくして、バーバンクはひどい日射病にかかってしまいました。そこで、彼は、再びこのような日射病にかかる恐れのない気候や風土のところで、自分が戸外生活をするのに適したところをいろいろと探しまわりました。そして、ついにカリフォルニア州に向かったのです。その時、彼が持って行ったものは、わずかな小づかい銭と、自分が作り出した新しいジャガイモの品種の種芋十個とだけでした。
彼は一八七五年に、一年中春のように気候のいいカリフォルニア州に到着しました。その時、彼は二五歳、体は痩せていましたが、健康で、人よりも優れた生活力と忍耐力の持ち主だったことはまちがいありません。
バーバンクは、将来自分が園芸家として立って行くのに、都合の良い仕事はないかと思って探しました。ところがなかなかそれが見つかりません。彼は毎日、毎日仕事を探しまわり、ありとあらゆる臨時の仕事をやってみましたが、たいていの仕事は、バーバンクの身体では、辛抱の続かないものだったのでした。
そのうちに、国境の方の、ある町に、新しい建築の仕事があることを耳にしました。さっそくバーバンクは、その仕事に申し込んで、屋根をふく手斧を一丁持っていれば、その仕事に雇ってもらえるかも知れないと考えて、残り少ない自分の持ち金をおおかた使って、それを買い込みました。ところが翌朝になってみると、この望みをかけた仕事も、もう他人が雇われてしまっていたことがわかったなどと言うこともありました。
がっかりした彼は、結局どんなに安い賃金でもいいから、確実な仕事をというので、とうとう鶏小屋の掃除をする賃仕事を見つけ出しました。これは実に不衛生な仕事でした。
熱病に冒される
彼には、夜になっても寝る場所がありませんでした。もらう賃金が安いので、ちゃんとした宿屋に泊まることができなかったのです。何ヶ月もの長い間、夜になると働いていた鶏小屋の中に入って寝ていました。時々、仕事にあぶれた時などは、まったくの一文無しになることもありました。そんな時、彼は、村の食肉市場へ行って、犬のために取って置く屑の骨をもらい、その屑骨についている僅かに食べられるところを取って、やっと飢えをしのいだこともありました。
やがて彼は、願いの通り、ある小さい農園で、賃金はお話にならないほど安いものでしたが、決まった仕事に雇われることになりました。しかしやはり今までのように、自分の部屋を借りることはできないので、いつも蒸気の熱でむれている温室の上の空き部屋で、夜は寝なければなりませんでした。そこはがらんとして湿った不衛生なところで、夜も昼もバーバンクの着物は乾いていたことがなかったのです。
いつも太陽に曝されているのと、栄養不足とで、もともとそんなに弱い身体ではなかったのですが、彼の健康状態は大変悪くなりました。そこへ持ってきて、はげしい農園の仕事が重なり、とうとうバーバンクは熱病で倒れてしまいました。
その近所に一人の親切な婦人がいて、ある日のこと、彼が危険な状態で寝ているのを見かねて、その婦人の家で飼っている乳牛からしぼった牛乳の余りを毎日少しずつ飲ませてあげました。この牛乳のおかげで、彼は生死の境にあった命を取り戻すことができたのです。
もしこの婦人がいなかったならば、世界は永久にこの未来の一大植物改良家を失ったかもしれません。これこそ、誰も知らない土地においてバーバンクがはじめて味わった、忘れられない人の情けでした。病床からやっと起き上がれるようになると、もうバーバンクは、青ざめた顔をしながらも、やせた身体に鞭打って賃仕事を探し求めました。
やがて、彼にもだんだんと運がめぐって来ました。次から次へといろいろの賃仕事を続けて行くうちに、少しずつ、お金もたまってくるようになり、身体のほうも丈夫になって来たのです。そうして、彼は生まれて初めて、銀行に少しばかりの預金をするようになり、やがてわずかばかりの面積の土地を得て、そこに始めて自分の農園を開き、その経営に全力を注ぎはじめました。
思いがけない注文を引き受ける
ある日のこと、バーバンクの農園に、思いがけない注文が飛び込んできました。その注文というのは、ある大きな、スモモだけの果樹園を作りたいという人から来たものです。その注文によると、二万本のスモモの苗木を、なるべく早く揃えてもらいたいと言うのです。
普通の栽培法に頼っていると、このスモモの苗木を作るのに、二年半から三年の時間がかかります。ところがこの注文は、できるだけ早く二万本の苗木全部を揃えて、できればその年の内にスモモの果樹園を始めたいということでした。しかしそれには、その数の苗木を九ヶ月間に仕立て上げなければ間に合わないのです。
彼は思い切ってこの注文を引き受けることにしました。そこで大胆な計画を立て、大急ぎで、そのあたり一帯の町や村々から、少年達や人夫達をかり集めました。もう時季もおくれていましたが、彼の計画を実現するのに必要な、その頃になってもまだ利用できるただひとつの樹で、ハタンキョウがありました。そこで、彼は、雇い入れた人達を指導して、いっせいにたくさんのハタンキョウの種を播きました。ハタンキョウの実生は、非常に早く成長する性質を持っています。彼はその性質をちゃんと計画の中に取り入れていたのです。
間もなく、ハタンキョウの実生は、元気な若木に成長し、いつでも芽接ぎができる状態になりました。一方では二万本のよいスモモの芽が用意されました。そして、適当な時を見計らって、この用意された二万本のスモモの芽は、元気のいいハタンキョウの若木に芽接ぎされ、若木は元気よく伸びて行きました。九ヶ月たつと、二万本のスモモの苗木が、りっぱに出来上がったのです。注文した果樹業者は大喜びでした。
この二万本の苗木で作られたスモモの果樹園は、今日、カリフォルニア州はもちろんのこと、アメリカ中で一番立派な果樹園のひとつになっています。
彼は育種の仕事の上で、堅い方針を持っていました。それはどんな苗木でも、その種類が持っている性質で、当然示されなければならないものがまだ十分に現れていないものは、決して外へ出さないということでした。
そこで、バーバンクの名前は、<確実で正直>というのと同じに世間では通用しました。どんな種や苗木でも、彼の農園から来たものならば大丈夫だということになったのです。
しかし、彼にもだんだんと運がめぐって来ました。次から次へといろいろの賃仕事を続けて行くうちに、少しずつ、お金もたまってくるようになり、身体のほうも丈夫になって来たのです。そうして、彼は生まれて初めて、銀行に少しばかりの預金をするようになり、やがてわずかばかりの面積の土地を得て、そこに始めて自分の農園を開きました。
彼は、この農園の経営に全力を注ぎました。しかし、その心の深いところでは、さらにもうひとつ高いところにある目的を見上げていました。つまり、彼は単に植物を育てる園芸家に満足せず、もう一歩進んで、植物を改良し、今までにない優れたものを新しく作り出すことを、自分に与えられた天職と信じていたのです。
けちん坊爺さんとの出会い
農園の仕事が、広げられて行くに従って、資金が、もう少し必要になって来ました。彼は、必要な資金を借りようと、あちこちへ交渉しましたが、いずれも成功しませんでした。彼がきわめて質素ななりをしており、態度も遠慮がちだったので、商売人の目から見ると、問題にされなかったのです。
ある日のこと、彼が、もう、金を借りることをすっかり諦めていると、埃っぽい道を向こうの方から、人つなぎの馬を引いて来る者があります。その人つなぎの馬が彼のそばへ来ると、これを曳いている一人の老人の姿が目にとまりました。そのに住んでいる老人で、「哀れなけちん坊の爺さん」という名前で通っている人でした。
このけちん坊の老人が、通りがかりにバーバンクに呼びかけました。
「おい、君、どうしているんだ。いい若い者が。君はいつも仕事に精を出しているね。しかし、君のように働けば、もう少し楽になっているんだがなあ。君は金が要るようなことはないのかい。」
このけちん坊で有名な老人から、こんな言葉をかけられたので、彼は驚いて不思議に感じながらも、
「いいやおじいさん、今ぼくはお金が少し要り用なんだよ。ほんとうのところ、今日百ドルのお金があると、相当な仕事になるんだがなあ」と言いました。
すると、そのけちん坊の老人が、懐から古ぼけた財布を出して、その中から二百ドルのお金をつかみだすと、それをびっくりしている彼の手に渡しました。
馬を曳いて行きながら、老人は
「いいよ、いいよ、借り証文なんか、何にも要らないよ。君が払えるようになった時でいいんだから」
とにこにこしながら言いました。
新しい目覚め
こうして、時が経つにしたがって彼の農園は繁盛して行きましたが、それとは逆に彼の心はますます不満を感じてくるのでした。彼はいろいろな植物の新しい品種を作り出す困難な問題について、もっともっと専門的に研究を行ない、実験をしなければならないことを、はっきりと感じていたのです。彼は商売を捨ててこの問題の解決に当たらなければならないと思いました。
彼は生まれつき無口だったので、この決心については、誰にも話しませんでした。したがって誰も、彼のこの決心がはっきりと形となって人々の目の前にあらわれるまでは、彼が新しく、何をやろうとしているのか、少しも気がつかなかったのです。
彼は植物学に関する実際的な本や、植物の改良についての本などを、機会のあるたびに少しずつ読みました。しかし、これらの本は、植物の名前を調べたり、その説明や技術的な方法を学ぶほかは、彼にとってはたいした助けにはならなかったのです。結局、彼は、自分自身が自然と直接ぶつかって、その秘密を学び取るよりほかに方法がないということを知ったのです。
第二の記念日
やがてバーバンクの一生のうちで、<二番目に記念しなければならない日>が来ました。それは彼が、今までやってきた農園の経営をやめて、植物の品種改良だけに、すべての力を注ごうと、はっきり決意した日です。
植物の品種改良というのは、普通に植物を栽培したり、種や苗木を作ったりするだけではなく、それぞれの植物が持っている、いろいろの性質を組み合わせて、今までになかったような新しい色や形や優れた性質を持つ植物を作り出す仕事です。
彼のこの決心を聞き知った親戚の者や友達は、早速彼のところへかけ、それぞれ口を極めて彼のやり方を非難し、ぜひ思い返すようにと勧めました。
一年に何万ドルもの収入のある現在の立派な商売を捨てて、末は破産するに決まっている、夢みたいな新しい仕事を始めるなどという馬鹿げた話はない、と言って人々はやかましく非難するのでした。
しかし、人々の罵る言葉や冷たい笑い、まことしやかな忠告などは、どれもこれも、彼の堅い決心の前には、何の効き目もありませんでした。
一八九三年のある日のこと、農園の仕事は中止され、彼は、今までの農園商売よりも、もっともっと重要で、大きな仕事に向かって、突き進んで行ったのです。
そうしてその後、だんだんと、彼の名前と仕事とが、広くアメリカ中は言うまでもなく、全世界から認められるような、驚くべき新しい植物が、発表されて行きました。
アメリカで名高いカーネギー財団は、彼の仕事の尊い任務を認めて、これを援助することになり、彼も、またこの申し出を快く受け入れました。彼の研究は、サンタ・ローザとセバスト・ポールの二ヶ所の農場を中心にして、あらゆる花や果物や野菜、または建築用や工業用の樹木、あるいは薬用や香料の植物など、たくさんの植物の、実験や研究が彼の指導のもとに、行なわれたのです。
つづく