<接ぎ木における不思議な現象>
接ぎ木作業の最中に時に、不思議なことが起こる。それは接ぎ木がかえって親木に影響を及ぼし、その枝葉を旺盛にし、その根を強くし、また果実を豊富にすることである。
例えば、バーバンクが日本の梨をバートレット梨に接ぎ木したことがある。そうすると、接ぎ木が成功して日本梨を結んだと同時に、親木もいつもの通りバートレット梨を結び、かつ著しく元気を増し加えた。時にはさまざまな変態を生ずることもあるが、特に不思議な現象は、フランスのプラムと西部アメリカに知れ渡っているケルセイ・プラムとを交配した場合に、親木となったケルセイ・プラムは全くその性質を変化したが、接ぎ木は全然開花しなかった。
この事実はダーウィンが起こり得ることとして数えていたけれども、未だそれを目撃するに至らなかったものである。親木となったケルセイ・プラムはまったくその性質を一変し、その種子からフランス・プラムが生ずる奇観を呈した。すなわち交配しなかった場所に、まさしく交配作用の結果が生じ、一方の生命が他の生命に侵入してこれを変化したのである。バーバンクの大量試験は、在来の学者が唱導してきた「後天形質はいっさい遺伝せず」という定説を覆して、「後天形質のみ遺伝する」と言うまったく反対の結論を導くことになったのである。
<遺伝とは>
「異なった種を交配すれば、六代間に生ずる変異や突然変異は、千代の間に自然に生ずる普通の変異よりも、更におおいなるものがある。
遺伝とは感応しやすい活力に満ちた生命力に対する、過去のすべての世代におけるすべての環境が与えたすべての結果の総合的な形質であって、それは生命力が単純な生命から向上努力していく際に示される記録ということも出来る。これはあいまいなものではなく、繰り返されることによって、決して磨耗しない刻印となったものである。
こうして、遺伝と言う観念はこれまで考えられたこととはかなり異なったものとなった。「すべての植物、動物、及び宇宙に存在する一切のものは、自然界において二種類の力の作用を受けている。
一つは本質的な固有の生命とその後天的なすべての習性であって、まとめると遺伝ということになる。もう一つは数多くの複雑な外界からの力、すなわち環境である。両者は一つの永遠なる力の、異なった表現に過ぎず、それらの相互作用を調整するのが、動植物を飼育する者の、唯一の目的であらねばならない。」
これまで自然の生命を深く研究した人は、その行動を説明解釈するために、さまざまに苦心して学説を発表した。しかもその多くは至って限られた実験に基づいてなされたものであった。バーバンクの極めて豊富な観察がこれと異なった結論に達したのはまたやむを得なかったのである。彼は、適者生存とか、自然淘汰の原則を無視したのではなく、むしろそれらを飛び越えて、自然の中に種や変種の存在するのは、その交配によるという大事実を把握するに至ったのである。
バーバンクは自分の見解を要約して次のように言っている。
「植物界の法則と、その中に潜んでいる原理についての私の考えは、いろいろな点で物質論者の学説と反対である。私は深く人間力以上の力を信ずる。今までの私の研究によれば、生命のない物質的宇宙が、色々な種類の力によって撹乱されているという観念から抜け出て、宇宙は絶対にすべて生命、心霊、思想、その他名前は何でもいいが、とにかくそのようなものから成立しているという信念に導かれた。いっさいの原子、分子、植物、動物、ないし惑星は、その組織されている単位の力の集合体が、いっそう強い力によって支持されているに過ぎない。そしてこれは、想像できないほどに満ち溢れているけれども、今しばらくの間は隠れて潜在しているのである。地上いっさいの生命は、言わばこの無限な力という大海原の岸辺にあるようなものである。宇宙は半分死んだものではなく、まったく生きているものである。」
<バーバンクの人種改良策>
<人間植物の改良>
植物及び動物の特徴やその遺伝には著しい類似が発見される。人間もまた、同様だが、もちろん、人間独特の精巧な有機体としての違いを考慮に入れて、しかも人間が他の生命体と異なるところは、自分の遺伝や環境を意識する点にあるから、ある程度はその経験に照らして、自らを処置して行くことが出来るということである。それは、進化の全過程において人間の位置に特殊性を与える。しかしそれによって、人間が遺伝の法則の支配を免れることはできない。すなわち、人間は意識的に環境を変化することが出来、また遺伝の知識を応用して淘汰を行なうことも出来るが、決して環境の影響の束縛や、祖先伝来の容赦ない制限から逃れることはできないのである。
実際、人間社会の必然性として、個人が自由にその配偶者を選ぶことは制限されている。さらに後に子孫の両親となるものをあらかじめ選定することには、いっそう困難を感ずる。
最近まで、人間が自らの種族を科学的に繁殖しようとすることなど、もってのほかであると考えられていた。しかし、近来優生学と称する新しい学問が起こり、人間の遺伝法則が、正当に人類の繁栄のために応用されるべきとの思想が台頭した。
これによって、バーバンクが新植物の創作に従事して得た知識を、さらに人間という<植物>の改良進歩に応用することを考えることは決して不穏当なことではないと考えられるようになった。
<淘汰の大原則>
人間の家族においても、植物と同じような淘汰作用が、意識的にせよ、無意識的にせよ行なわれている。例えば、結婚相手を選定するときには、男女が互いに、相手の強壮、健康、美貌などを有するものを選定し、それと反対のものはなるべく避けようとする。これは、優生的と言って差し支えない原則によって決定されている。
しかし、社会の現状としては、親として不適当と思われる多数の者が、臆面もなく結婚生活を展開して、多数の子女を生産する。むしろ不適当な社会の分子がかえって最も多数の子女を生む。
これでは到底、代を重ねても人類が向上することはできない。植物の場合、人為的淘汰を捨てて、再び自然のままの条件を許せば、やがて野生状態に退化するのである。・・・・
文明社会における人間の状態は、植物が温室や、雑草のない庭園に植えられているのと似通っている。そのため、人間社会においても、その雑草とおぼしき者を抜き取り、反社会的な成員が繁殖しないようにすることは原則である。
歴史的には、優勢淘汰の原則がかなり厳格に実行されて来た。虚弱者が意識的に除去されなくとも、生活が楽でなかったので、異常で、虚弱な幼児は病気の犠牲となり、気力や知恵のない成人は疫病に襲われ、飢餓に見舞われ、或いは敵となる人間に攻撃されて、ひとたまりもなく倒れてしまった。
その結果が現代の人類である。しかし、近来の衛生思想の普及や病気予防の施設によって環境が改善され、特に児童の環境が著しく改善されたために、生存の難しい幼児が生き延びることになった。したがって将来、人間の淘汰と言う問題は、倫理的な問題をも含めて、切実に研究される必要があるであろう。
しかしこの問題は複雑である。なぜなら、優良な子孫を残そうとする人々は、極力それを制限し、それに反してあまり望ましからぬ人々が、無造作に多数の子女を生むからである。これはあたかも庭園において、優良な品種を制限し、劣等な品種を無制限に繁殖させるのと同じである。これでは決して植物の改良を期することはできない。
では、どのような方法を講ずるべきか、手段はあるのか。これを実行するにおいては容易にまとまった意見がなく、ここでは原則だけを述べた。
人間社会を見ると、多少バーバンクの農事試験場にも比較できるものに、各国の移民を網羅している米国がある。米国民は過去十代に渡って、絶えず雑婚と淘汰の手段により、向上発展の道を辿り、概ね文明国の市民たる素養を作り、修養を積みつつあると言うことができる。もちろん、異常な者もあり、庭園の雑草に等しい者も多くなりつつあるのは事実であるが、それでも、文明社会の機構は穏健に出来上がりつつあると見ることができる。
ところが、最近最も憂えなければならない傾向が著しくなって来た。すなわち、これまで農村の健全な状態のもとに育てられた人々が、こぞって都上りし、比較的不健全で異常な生活に移るようになったことである。この傾向は年々ますます盛んになり、今後容易に衰える様相もない。
都会では子供達は、不健全な環境に育ち、薄暗い空気の悪い住宅に住んでいて、とうてい田舎の、日光に照らされ、新鮮な空気を呼吸し、小鳥の歌を聞いて育つのとは天地の差がある。
このことが、道徳的に、体の発達に、精神の修養にどれほどの支障をきたすか分からない。植物で言えば、これは庭園のような地味も良く、灌漑された、充分雑草を抜き取った土地から、それを、痩せて、乾燥した、雑草の繁茂する、日光の当たらない場所に移植するようなものである。そのような植物が立派に成長することは、とうてい不可能なのである。
<環境の力>
人間においても、代々立派な遺伝を重ねても、その子孫が、特に幼少時代に、正常な環境に恵まれなかったら、退行萎縮するのは免れない。子供達に絶対必要なものは、新鮮な空気と日光のある戸外生活である。彼らは山野に跳ね回り、自然と接触しなければならない。セメントづくめの都会生活は、田舎の緑草や樹木の代わりをすることはできない。そのような悲しむべき場所に成人した者は、とうてい親の時代に勝るなにものも生み出すことは出来ない。
<実生の教育>
深く根底を据えた(固定した)根本的な性質すら、実生の植物や人間の幼少時代に、強い環境的影響を与えれば、大いに変化するものである。
「三つ子の魂百まで」とは心理学者の初歩の者でも、知り切った真実である。シェイクスピアは生まれながらにして該博な知識を有し、豊富な単語を諳んじた訳ではない。適当な環境に置かれて、受容力のある頭脳を働かしたからこそ、大成するに至ったのである。仮に彼を南洋の孤島に生まれしめ、野蛮人の間に置いたならば、恐らく彼は一生、英語のアルファベットも覚えず、何らの文字も知らずに過ごしたであろう。
もうひとつ、極端な例を挙げれば子供時代に、不慮の災いに遭い、盲目となり、聾唖となった子供の場合である。このような場合は、生まれつきの不具者とそれほど違わずに、その精神状態も停止する者が多い。かのヘレン・ケラーなどは異例中の異例であって、教育という環境の所産による無限の努力によって、視覚と聴覚の代わりとなるべき感覚を発展せしめ、その精神を立て直したのである。
過去の歴史を見渡すと、文明は主としていつも異なった人種の特徴を配合して生まれたことが分かる。言うまでもなく、十七世紀初頭に米国に渡来した植民者が、すでに当時から種々の血統の雑交をなし、その後続々と欧州各国から居住民が殺到した。彼らはほとんど文明人の全体を代表していると言っても良い。
人種の血統がこのように多く混交した結果が、非凡の才物を生ずるに至ったことは、疑う余地がなく、いつでも、異なった型を交配して格段の成果をあげている植物栽培家には特に肯定されるべき事実であろう。
それと同時に、留意すべきは、雑種交配には自ずから制限があり、あまり一定の限度を越すと、かえって劣等のものを生ずることもあることである。しかし、ちょうど親和力の最大限にある人種を配すれば、その子孫は二代目のちには、予想もつかないほどの変わった結果を生み出すものである。
・ ・・・
これら異人種間の新しい血統の配合から来る結果には、確かに注目すべきものがある。例えばラテン民族の特色となっている、音楽や芸術を愛する性格を米国人のやや冷静にして実際的な気質に混ぜたならば、どうなるであろうか。また、東洋の日本人や中国人と、西洋人とを、適当に組み合わせた場合も、すぐれた結果が得られるかも知れない。
しかし、一方において米国には一年間に百三十万人の移民が入国し、そのうち東南ヨーロッパから来る者の三五パーセントが、全く読み書きも出来ない教養のない者であることを聞けば、寒心を覚えずにはおれない。植物の交配においては、外からの新品種を取り寄せてこれを在来種と交配する際には必ず、そのうちの最良なものを選ぶのである。・・・・
<淘汰の鉄則>
過去の民族の衰退の歴史を辿れば、人間も自然の生命法則に支配されており、正しい育種によらなければ、いくら教育を施しても、文明は早晩ついに崩壊して消滅せざるを得ない。植物においても、雑草の伸びるにまかせておけば、必ず破滅し絶滅する。最良なものはやがて雑草の繁茂によって取り除かれてしまうのである。
ヒューマニズム的な陳腐な言論に欺かれてはならない。もし、事実を捨てて、そのような寓話を信ずるならば、我々は次第に破滅の淵に近づくよりほかにない。これは古今東西変わることのない真実である。
限りない経験を紙に書き記すことは簡単ではない。例えば、失敗として打ち捨てた千の実験の中から、その中だけに含まれている二、三の真理を探し求めることは極めて難しい。
であるから、もし、我々が誰かの経験から利益を得ようと願うならば、その人の知っていることだけではなく、その人の信ずることも、その軽重において批判配列し、さらにその成し遂げた事実、数字、公式、信念、学説、目的、及び希望などを一つにしてこれを調和一致させるものとしなければならないのではないだろうか。
<進化・変異及び性の根本意義>
<性の問題>
繁殖は<性>なしにできるが、<性>なしに進化や発展は出来ない。
性と生殖は一様にみなすべきではないが、その働きがあればこそ、愛の美しい天地が開け、愛の花が咲いてこそ、人生が美しくなり、個性が発揮される。我々が異性を慕うのは生の自然である。
人の子キリストはカナの婚礼の式において水をぶどう酒に変えて、これを祝福された。・・・
生命は自己表現であり、環境に対する挑戦である。自然界には種々の生命形態があるが、そのあるものは運動し、さらに進歩したものは情緒を持っている。それらは活動し、思想を形成する。
一般に生命の単位は、単細胞に始まるとされている。それらは鉱物の結晶体に似ているが、重力、熱、光などの自然力に積極的にあるいは消極的に感応し、一定の選択力を持っている。これらアメーバなどの単細胞は十分な環境に恵まれれば成長し、しかも自ら環境に適応するために変化して行く。すなわち、ここに遺伝と、環境が合理的に調和する必要があり、その遺伝は後天的と言わざるを得ない。
きのこなどの菌類は光の影響を受けないが、たいていの植物はことごとく光の影響を受ける。すなわちその葉によって光合成を行なう。そして動物は植物にその生存を依存しているのである。
生命は常に変化し、瞬時も止むことはない。そして、実際上生命は組織体となって存在し、千変万化の植物、動物となって今日地上に生存している。細胞の一つ一つは、植物においては、種子、木皮、木質、葉などとなり、動物においては、血液、肝臓、脳髄、骨格、筋肉などとなって特殊化し、時間的生命を生きている。
これは人間社会においても同様である。個人は特殊化されて相互に依存しあい、適応している。
聖書に「もし一家の中で、争えばその家は立ち行かない」とあるが、すべてにおいてもしその単位を構成するものが、互いに協調しなければ破滅するのは当然である。人類の戦争は過去幾世紀にわたって建てられた多くの貴重なるものを、地上から破壊しつつあるのである。
<性の根本意義>
イギリスのドンカスタ博士は言う。「植物においては<性>が存在しているにもかかわらず、接ぎ木によって増えていく場合には、全く種子の必要がない。そしてそのような繁殖が退化をもたらすこともない。では、<性>は何のために存在しているのだろうか」と。
バーバンクは言う。<性>は確かに生存に必要な属性ではない。しかし、新種の誕生には甚だ必要な属性であることは明らかである。なぜなら、個体はそれぞれの境遇において経験を重ねるが、それらが結合することによって、両者の経験は遺伝を通して、あるものは潜在し、あるものは顕在して子孫に伝わって行き、これらの結合が繰り返されることによって、いよいよその種はより環境に適応し、かつ自然淘汰によって種の利益となる特性を発揮し、新しい結合体に進化するのである。
原始的な生命は、いわゆる細胞分裂によって繁殖する。そしてもっと高等な植物や動物でも、ある程度はこの再生の能力を持っている。
しかし生命の歴史を辿ってみると、やがて、松柏科の植物が発生し、風によって花粉が運ばれ、他の個体との交配が可能となった。さらに昆虫を媒体として、花粉が運ばれ、昆虫はその報酬として甘い蜜を得、これによって大多数の一年生の植物、樹木、潅木、草木が発生した。風媒花には色や香りや蜜の分泌もないが、虫媒花は昆虫を誘引するためにこれらのうち最低一つの機能は備えているものである。さらに個々の種は一定の昆虫の来訪に適し、他は妨げるように構築されている。
ここに、自然界に<性>による遺伝を通して、無限の複雑な結合体の発生が可能となったのである。
しかしながら、もしリンゴや、とうもろこし、メロンなどの種子を漫然と播いたならどんな結果になるだろうか。暫くすれば、価値のない雑種となり、何らの特性なく、どんな目的にも適しないものとなってしまうだろう。
個体を良き環境に置くことも大事であるが、さらに重要で有効なことは、代々最上の個体を選択することである。これによってすべての動植物、及び人類が根本的に改良されるのである。
<晩婚>
バーバンクは六十七歳の時に、エリザベス・ウォータース嬢と結婚した。彼は言う。「真心ある父、善良なる母、また才気ある妹はいづれも変わらぬ一生のインスピレーションの源泉であったが、妻と共に手を携えて歩み始めてからは、人生に新しい意義を見出した。全く心が一つとなり、仲良しの友達のように共に踊り、遊び、働くのであった。若い婦人がどんなにインスピレーションの源となり、力となり、励みとなったかは、私の生涯においても、証明された。私の傑作の多くは、彼女の発意、勧告、注意、助力によって完成された。」
彼女は結婚以前から長くそのタイピストとして身辺に侍し親しくその事業に参加し、相談相手となり、多くの報告書の編纂の手伝いをして、いつもなくてはならない役割を務めていたらしい。
<妹から見たバーバンク>
「彼はひたすら真理の探求者として、他を顧みる暇はなかったので、何らの信条に捉われず、何らの宗派に属せず、称号や徴章を帯びず、ただ品性の封印を着けるのみであった。偏見に陥らざると共に、常に自己欺瞞を避け、学説、ドグマ、偏見を捨てて、どこまでも自己に頼り、自己の天職の神聖なるを信じた。彼の最も好むところは、栽培中の植物の間に歩みを運び、海のほとりや山間の泉を訪ずれることである。何故なら、彼の心は牧場に溢れる喜びと、小川のせせらぎを愛し、日常の事物の中に人の知らない美を見出すことを楽しんだからである。・・・・
「彼の驚くべき植物の征服には、なんら秘密はない。ただ直感、精励、熟練、忍耐あるのみであった。彼の手と眼と、頭脳こそが、自然の法則を解釈して、これを指導するために用いた唯一の道具であった。彼は一切の金銭上の報酬を期待せず、専心理想に向かって精進した。ここに、「人物はその事業に勝る」との言葉をバーバンクにも適用することが出来る。
<永遠の青春>
バーバンクは笑って言った。「人々は私がどうして、いつまでもこんなに若いのかと不思議がっている。私はほとんど七七歳にならんとしている。それでも、門を飛び越えたり、徒歩競争をやったり、シャンデリアを蹴るくらいのことは何でもない。これは心身ともに歳取らないからだ。私の精神は未だ若い。私の精神は決して成人しない。これからもかくあって欲しいものだ。私は今でも、八歳の児童の時と同様にほじくり屋だ。」
その通り、彼は新築の家や、店の窓、新しい洗濯機、溝堀機械、珍奇な植物、及び作業中の大工などを見かければ、必ず足を停めてこれを見なければ承知しなかった。そして、いつも「これは何か、これはどうするのか。」と尋ねるのがお決まりであった。
この飽かず詮索して止まなかった研究心こそは、彼をして植物界に一新機軸を出さしめるに至った根底である。また、彼をして永遠に若からしめた秘訣であった。
彼は何時も現在自分の知っていることは、これから知ろうと欲するものの端緒に過ぎないと言っていた。それゆえに、彼の判断は何時も穏健であり思想に余裕があった。彼は不完全な材料だけをもって、軽々しく結論を下すことを控えた。
彼は言う。「今のところ、我々の今日あるのは、遺伝と環境の所以である。しかし、これが終局ではない。これはほんの発端かも知れない。終局はどうなるか分からない。最後のことは誰も知らない。」
<最後の一戦>
バーバンクは自然界に接触し、科学を深く研究するにつれて、頑迷固陋と迷信にはほとほと嫌気がさしていた。南部のある州で一学校教師が、ダーウィンの進化論を講義したために「異端」として訴えられた時、バーバンクは猛然と起って、沈黙すべき場合でないとして、ついにとある教会の教壇から獅子吼した。その争いの渦中に入って、彼はみるみる健康を損ない、衰弱し病気になってしまった。それは再び立つことが出来ない病であった。
若き時代に、頑迷固陋な環境に育った民衆を一気に聡明な者に改良しようと試みることは、植物育種の経験に照らしても、至難の業である。生来頑健でなかった彼の体力は、老齢に加えてこの重荷に耐え得ず、刃折れ、矢尽きた感があった。バーバンクは真理に殉じたのではなく、呪うべき固陋な虚偽の犠牲となったのである。
<バーバンクの宗教観>
彼は一宗一派の信仰箇条を認めなかった。彼は天国地獄の存在も、輪廻も、復活も信じなかった。ただ彼の信じたことはひとつある。それは<感化の不朽>ということであった。彼の言葉を持ってすれば、これが「永遠の生命」である。彼は來世に対しては何の関心も抱かず、すべて未知のものに対して心惹かれることはなかった。彼にとっては、人生がすでに驚異、美観、歓喜に満ち溢れており、そこでの仕事が手一杯だったのである。一日の天国は一日にて充分であったと言える。
しかし、彼は<感化>が人類、世界、万事を通じてあらゆる生命を通じて行なわれる永遠不朽な力であることを確信していた。彼の信ずるところによれば、悪人の発散する感化は、まさしくその人の報酬であり、刑罰であった。清浄無垢な善人から発露する感化はすべてに行き渡り、永遠に継続するのである。したがって、彼は歴史に現れた崇高なる偉業に学び、誠実な動機を持って、高き理想に忠実に生きることが、人生の義務であることを確信し、さらに、地上に天国を創造するためには愛が必要であることを肯定した。心を尽くし、精神を尽くして、終生彼はこの信仰に生きた。彼の死に顔は平和で満ち足りており、優雅高潔そのものの相であり、まさに眠れる子供のようであった。
<永眠安息の木陰>
今や彼はその庭先にあって、生前幾度となくそこに憩いの場所を見出し、その葉の香りゆかしき西洋杉の木陰で永遠の眠りに就いている。そこは彼が人類のために革命的な価値ある業績を、はかり知れぬほどに上げた土地である。
(完)
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