-ALKAN-

しどろもどろでも声は出るなり。

9年という長さ。

2020-03-12 04:44:01 | 日記

私は当時、まだ厨房で働いてましたね。

厨房にはどんぶりや皿が、うずたかく積まれているんですね。それを、オーダーが入るとメニューに従って、

調理場のテーブルに数だけ並べる。なんせ中華ですから、一人前ずつ作るって事もあまりなく、昼時なんか、何食分もいっぺんに入るんですね。そこで、大きな広東鍋を振って、いろいろ、まあ、適当に、可も不可もない料理を作ってはお客様に提供する。そしてお客様は、美味いとも不味いとも言わず、黙ってお会計をして出て行かれる。

 

 まあそんな毎日を過ごしていましたよ。ほとんど、料理には無感覚になってました。そして時計を見ては、「あぁ、さっきからまだ30分しか経ってない……」なんて思いながらため息をついてましたよ。

 

 不健全です。完全に人生の時間を無駄遣いしていたんです。仕事をしているから、正しい事をやっているなんて、私は今でも思っていません。生活に駆られて、生活費の捻出のために、仕方なしにやっている、それが仕事だと、そう思っています。

 

 そうして日常に飽き、何も期待せず、感謝もせず、ただ夕方までの時間を、あぁ、遅ぇなあ、時計君!! と恨みがましく柱時計を睨みつけながら、 いざ夕方になると、あんなに待ちわびた癖にさして喜びもせず、ただ砂を噛むような気分で帰路に就くんです。

 

 完全に悪いのは私ですね。無理に感謝しろ、感動しろ、期待しろ、なんて無体な事は言いません。

 ただ、その時間が、どれだけの偶然で、今自分の手元にあるのか、そしてその適当に作っている料理を食べに来る人の時間が、実際自分の時間とリンクするのに、どれだけの条件をこなしてきているのか? それは自覚してもしなくても、奇跡と呼ぶに等しい事ではないのか?

 やはり今でも考えるんです。もし今自分の手元から、この時間が奪われたら……。妻と息子、ネコが、突然奪われたら、そうなった可能性と、今ダラダラとパソコンを打っている可能性は、奇跡的確率からすれば、実は一緒だったんじゃないか?

 ダラダラとパソコンを打っているんじゃない。奇跡的に打っているんだ。それが妻と息子とネコが奪われる方にならなくて、本当に良かった。そうすれば、少しは嬉々として、駄文を打つこともできるんじゃないか?

 

 奇跡的な事に、建物が潰れるかと思うほど揺れたにもかかわらず、どんぶりも皿も、一枚も割れなかったんです。

 

 今もあの店はきっと、私がいた頃と同じように、毎日毎日、雛形通の作業を繰り返しているかもしれませんが、それだった立派な奇跡だと、今は、当然離れたからそう思えるんですが、思いますよ。

今年は式典も中止になって、少しずつ記憶から遠ざかっていくようで、悲しいですが、

 

 今年だからこそ、奇跡を実感できるんだと、私は思う事にします。

 

 

コメント
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