これは、今から35年ほど前に、あるチャネラーに語られた、歴史上モーゼとして知られる方からのものとされるメッセージです。元はインタビューですが、編集しております。神の概念や、神理、正法といったこと、サタンに対する対応、今なぜ霊界からそうした情報が降ろされているのか、などについて、明確に語られています。カッコ内は補注です。
(ここから)
我はモーゼである。
あなた方が、地上で正法流布の活動をされているというのは、私たち(霊界の指導者)が計画したことを、今あなた方が、この地上において実現して下さっているのです。
(かつて、中東の地において、)この地上に肉体をもってから、既に、三千有余年(の歳月が過ぎましたが、その間ずっと)、私は、天上界において、私の使命、私の仕事を務めております。
当時、私は、エジプトという地に生れました。今で言うエジプト、ナイルの畔です。
もう既に、あなたもご存知のことと思いますが、私は奴隷(どれい)の子として生れました。そして旧約(聖書)にあるように、箱舟に乗せて河を流されました。やがて拾われて王宮の中で少年時代を送りました。長ずるに従って、世の中の矛盾、王宮の中の優雅な生活、虐げられた人々の生活、このような世の中の矛盾に気がついていきました。
これは、恐らく釈尊も同じだったでありましょう。私もそうでした。私は、私が拾われた子であるという事を、十八歳の時に聞いたのです。そして、いま優雅な暮らしをしている私も、かつては、虐げられた、この人々と同じ者、この人々の間に生れた者、そして運よく拾われて、王宮の中で育てられた者であるという事、こういう事を知ったのです。
私は、自分で言うのも少し恐縮しますが、正義感の強い人間です。正しい事は、あくまで正しい、正しい事は、この世に実現されねばならない、というのが私の考えです。正しきもの(それは)神の義、これが、この世に実現されねばならない。これが私の考えの根本です。
そうであるならば、正しき義、神の義が、この世に現われているかどうかを見たならば、その時代には、片や王宮生活があり、片や虐げられた被占領民族の、奴隷としての生活がある。神は、このようなことを許しておかれるだろうか、許されるはずはない。私はそう思いました。時機が来たら、私は起たねばならない。必ず、彼らを救うために起たねばならない、と深い決意を固めました。しかし、それまでの間は、書物を読み、教養を身につけ、そして、文武両道と申しますか、武芸にも長(た)けました。そして私は、将来を期したのです。
やがて時機が到来すると、私は、被占領民族の皆さんに、次々と申しました。
『私も皆様と同じ人間です。同じ血が流れております。たまたま王宮に育ち、私は、このような人間となっているけれど、私は皆様の仲間であります。皆様方の解放を王に言いましょう。そして皆様方も、平和に幸福に暮らして頂きたい――』
私は、このように、次から次へと言って回り、私を支持する勢力が、次第に増えて行きました。そして王宮の中でも、私は自分の論を吐き、周りの者を敵に回してでも、議論をしました。しかし、私の意見は入れられませんでした。人間というものは、一旦、自分が得た利益、一旦、自分が得て奴隷にした者を、なかなか手放そうとはしないものです。
そして私は、彼ら奴隷たちに言いました。
『よし、この地を捨てよう。この地は王の地である。彼らには彼らの生き方があるであろう。彼らを滅ぼしてまで我らが倖せになる必要はない。我らは我らの地を造ろう。我らは我らの希望を持ち、我らは我らの希望の地を求めて旅をしよう。そして、この地上に我らのユートピアを築こう。ユートピアは必ず出来る。この地ではない。遥か先の地ではあるけれども、そこには、希望と、乳と蜜が流れる地がある。カナンの地がある――』
私は彼らにそう説きました。彼らは眼に見ぬカナンの地というものに憧れを持ちました。
私は、当時、相当の霊的な能力を持っておりました。その希望のカナンの地があるという事を、私は、霊的実感として知っておりました。けれども、彼らは必ずしもそれを信じません。しかし、私は指導者です。必ずカナンの地がある。我らの地がある。我らの地である天国がある。我らは、ユートピアを建設せんとして、いま一丸として行動を起こすべきである。そうして、私は彼らを糾合しました。
そして、私は、私の力を、私の意見を、私の言葉を信じさせるために、様々な霊的な能力を現わして見せました。王宮で見せたこともあります。彼らやがてイスラエルの民となる人々にも、私は様々な奇蹟を見せました。私の奇蹟の一つは、あなたもご存知かと思いますが、私の杖が一旦、私の手から放れると、龍となって天に昇って行くという奇蹟、そのような様々な奇蹟を行って見せました。
それは、霊的な意味における奇蹟ですけれども、彼らの眼に、ありありと見えたのです。また、私は未来を見ることも出来ました。聖霊たちと会話することも出来ました。恰度(ちょうど)このような形で、そして当時の、エホバといわれる神と対話できる者としての自由を持っておりました。
やがて私は、諸国に数十万人の奴隷を集めて、そして一大移動を開始し始めました。王の兵達は、私達を捨ててはおきません。彼らは、私達を追いかけて来ました。我々は抵抗はしませんでした。一路カナンを目指して旅を続けて行きました。そして、そこに紅海が現われます。ご存知の通りです。旧約聖書の中に書かれてある「紅海」です。
その時、私は神に祈りました。『天よ裂けよ!地よ裂けよ!そして、我らをカナンの地に行かせ給え。エホバの神よ、我を助け給え、我らを救い給え』そうして、私は天に祈り、地に祈り、神に祈りました。――その時です。紅海は真っ二つに割れたのです。紅海は割れました。海が二つに割れたのです。このような奇蹟は、未だ、かつてなかったことでした。
そして、海が割れた道を、我々は進んで行ったのです。そして、我々の後から王の軍勢が次々と追っかけて来たわけですが、その時に、その割れた海の水が、また元通り戻り、彼らを海の中へ吸い込んで行ったのです。我々の通った後を、海が次々と閉じて行ったのです。そして、我らは紅海を渡りました。紅海というのは、それ程、広い海路、水路ではありませんでした。けれども、そこの水が割れたという奇蹟が、現に起きたのです。
それは、後々のために、後々のイスラエル民族を作り、神の民を作り、後々の正法流布のために、神が、止むを得ず敷いた路線です。神はそのようなことを予定していたのです。そして、我らは「出エジプト」を果たしました。そして長途の旅に上り数十年に渡って、延々とカナンの地を目指して旅をして行ったのです。途中飢えに苦しんだ事もあります。途中、敵に攻められて苦しんだ事もあります。我らは一丸となって戦いました。
そして、私は、ある山の麓において啓示を受けたのです。エホバの啓示、ヤハウェの啓示です。私は『皆の者、下に待て』と言い、山に登りました。そして神に祈りました。神は私に啓示を与えられました。それが、あなた方ご存知のモーゼの「十戒」と言われるものです。神の言葉が、なんと、現象として、石の板、石板と言いますか、石の板です。この上に刻まれたわけです。<汝、殺すなかれ><汝、汝の両親を敬え><汝、汝の隣人の物を貪るなかれ>このような訓えを、次々と、神は、私に与えられたわけです。私は、それを持って帰りました。
しかし、人々は、私が見せた、そのようなものは信じません。彼らは、勝手勝手に、金の彫像の様な物を造って拝んでおりました。私は怒りました。あなた方は、このような事をしてはいけない、と、そのような彫像は叩き壊しました。そして、その時、石板もまた割れてしまいました。
私は再び山へ登りました。山へ登って神に祈りました。神は、また同じ様な啓示を、私に与えてくれました。
<我のみを神とせよ!我のみを神とせよ、汝らの父母を敬い、汝ら人を殺すことなかれ、他人の物を貪ることなかれ>
その様な訓え、十戒という訓えを、次々と、神はまた顕(あらわ)したのです。そうして私は、またそれを持って帰りました。そして、人々にこれが神から与えられた訓えである「十戒」である、これを守れと教えたわけです。
しかし、当時、私も誤りがありました。私は、神の声、だけを聴いたのではありません。あなた方が、このような形で、私共の言葉を聴いている以外に、サタンの声というものがあったでありましょう。私は、サタンの声をも、神の声として間違って聴いたこともあるのです。彼らは私に奨めました。『モーゼよ、神は、ただ祈りだけでは喜んでくれない。仔羊を屠りなさい。仔羊を殺して、その血を流して神に捧げたならば神は喜ぶであろう。お前はそうしなさい――』
そういう悪魔の囁きを聞いたのです。しかし考えてもみなさい。神は仔羊を喜ぶでしょうか、生贄を喜ぶでしょうか、血を流す仔羊の供物を喜ぶでしょうか。そうではないはずです。本来の神であるならば、生贄など欲しくないのです。神が欲しいのは私達の清い心、私達の正しい心、私達の義にかなった心であります。神は生贄の仔羊の血など欲しくはないのです。しかしながら、私は悪魔の声を神の声と聴き違え、生贅の仔羊を祭壇に祭り、そして祈るという様なことを、やってしまいました。
これが、私の創始した「モーゼの訓え」と言われているものの誤りの一つです。そういう事を始めたために、それ以降、生贄の仔羊という事が、かなり、巷間に流布されるようになって来たのです。
その後も、私達は旅を続けました。しかし私は、カナンの地までは行くことは出来ませんでした。私は、ある山の麓で亡くなりました。この地上の生活を終えました。私は、その時、もう百数十歳にもなっておりました。それが私の一生です。
私は、数十年に渡る長途の旅に出、イスラエル民族、イスラエル国家を創らんがために、彼らを糾合して、そして、何十年もの長途の旅につき、様々な現象を行い、神の「十戒」を頂き、そして「一神教」というものを初めて創り出しました。それが私の人生でした。
エホバというのは、必ずしも民族神ではありません。あなた方もご存知のように「正法」というのは、時代によって現われる地域を異にしております。東から西へ、西から東へと移って来ている、ということはご存知のはずです。当時は、エジプト、そして、イスラエルという地、この辺に正法の種が蒔かれ、育てられたのです。その時に、我々が神としていたものが、エホバであり、エホバは、必ずしも民族神ではありません。
例えば中国で正法が説かれると、そこにまた「エホバ」に当たる神が出て来るわけです。同じです。正法、という事を機縁として、神があったわけです。創造神ということはまた違って来ます。エホバは人格神です。人格神は、天地を創造した神とは別のものです。当時の私達は神は神であって、神にそれだけの違いがあるという事は分らなかったのです。
エホバとされる人格神は、一体どういう方か、ということですが、これは、天上界での、一つの大きな秘密ですが、当時、エホバと言われていた方も、必ずしも、特定の方ではなかったのです。今あなたは、モーゼという私の名を知っております。キリストという名の方も、知っております。釈尊という名の方も知っております。そうであるなら、モーゼが語った言葉、あるいはキリストが語った言葉というふうに、区別して、あなた方は理解も出来ましょう。しかし当時は、それ程までには分らなかったのです。私共が、この様な形で神の代理人として語ったならば、それは、全て「エホバ」の言葉となっているのです。
(今の話の中で)エホバの神と言って語った者が、(のちに)イエス・キリストが、神の御名は、わが父、とおっしゃっていた(その神は)、その(旧約の時の)エホバの神に当たっているのでは、ないのですが、エホバ神、と(自ら)称せられるような一段高い神、あるいは、人と言ってもよろしい、霊人と言ってもよろしい、(その方は)天上界の最高責任者です。そういう方はおられました。イエスが父と言ったのは、その方でした。
地球霊団の最高責任者は、その時代時代によって交替するわけではありませんが、エホバとして指導された方が、いつもエル・ランティーであったわけではありません。
私は、旧約の時代のエジプト以前にも、地上に何度か生れております。しかし異った文明です。現代の文明の中には生れておりません。以前の文明、そのまた以前の文明の時に、生れております。それは、現在、地球上に、地上(陸地?)として、部分としては現われているかも知れないが、文明としては過去の文明です。
かつて、地球上に大陸としてありました、ムーとか、アトランティスとかいう、そういう時にも生れております。そういう地において、正法を説いたことはあります。「正法」はいつも一つです。
人類に進化というものがあるか、ないか、むずかしい問題であります。人類は、始めから悟った人類です。それが、現在、悟るために修行しております。これが、進歩かどうか、進化かどうか、非常に難しいところです。
この、いま地上界に出ている人類は、今から何千年、あるいは何万年前に地上に出ていた人類であることが多いのです。
それほどの転生をしながらも、なお正法に帰依することが出来ないということは、本人や指導者に責任があるわけではないです。様々な環境によって、全ての者が、様々な経験を積んでいるのです。
恐竜の時代には、恐竜の時代の正法があったでありましょうが、その時代に神を信じ、神に帰依するということと、現代のような科学文明の栄えた時代に、神を信じ、神に帰依するという事と、神に帰依するという事において同じであったとしても、環境が違います。環境が違う以上、学習が違います。
学ぶ事が違うのです。かつては、自然、天然、動物、このようなものが人間の敵でした。しかし、もう、そのようなものも敵ではなくなって来ております。現在は、人間の敵は、人間の造ったものです。公害であり、車であり、様々な騒音であり、色んな人間の造った物です。薬害であり、人間が造った物が人間を脅しております。こういう時代になっております。
この中で、神を信じ、神理を悟るということも、これも、また一つの人生体験ではありませんか。どちらが進んでいるとも言えません。素朴な時代に神を信ずるという事と、このような科学の進んだ時代に神を信ずるということと、難しさは違うかも知れません。やさしいテストで九〇点を取ることと、難しいテストで五〇点を取ることと、どちらの方が実力があるか、と言われても分からないのです。
文明という事においても、何が進んでおり、何が遅れているかということは、文明の一部分をとって言うならば簡単ですが、文明の全体をとったならば、分からないのです。現代より進んだ部分もあったでしょうが、現代が進んでいる面もあります。色々です。
アモンという方が、人類が、かつては、いわゆるアメーバから進化して来た、という説を否定して、人類は人類として別個の存在として、他の星から転移して来たと言われたのは正しいことです。
また、魂だけが他の星からの転移で、肉体は動物から段階的進化を遂げた、という説は、間違いです。人間は人間です。人間は、昔から人間なのです。「神」は、ご自分に似せた魂を持つ存在としての人間をお造りになったのです。神は、馬は馬、牛は牛として、チンパンジーはチンパンジーとしてお造りになったのです。
はっきり言っておかねばならないことは、時代が、どのように変わろうとも、環境がどのように変わろうとも、我らの教えは一つ、我らの教えは、心の教えであります。どのような環境の中にあっても、どのような文明の中にあっても、正しい心を持ちなさい。正しい心とは、神の心である。そのような教えを、我らは説いて来たのです。現代においても然りであります。我々の仕事は、この現象界を解明することではなくて、人間の心を解明することです。
心が全て――この心を、神の心と一つとする。これが「汝の心を、神の心と同じくせよ――」これが正法です。
サタンについてですが、あなたが、悪い念(おも)いを心に持った時に、サタンがあり、あなたが良い念いを持った時に、サタンはない。即ち、サタンと見える人達は、悪い心を心として生きているからサタンであるけれども、神の心を心として生きたならば、その瞬間、その刹那に、もはやサタンはないのです。
悪魔というのは、心の持ち方を誤っている者どもです。誤った心の持ち方をした人達が、我らの仕事を邪魔しようとしているのです。心清き人の、足を引っ張ることは出来るのです。邪魔をすることは出来るのです。私が言いたい事は、彼らは、悪魔として作られた者ではないのです。彼らが、この心を「是(よし)」とする心が、間違った心です。本来、出て来た神の心と違った心を旨として生きている、ということ。自らの心の状態が誤っているために、他の者を迷わしているということ、これが悪魔なのです―。
人間の心に、元々「無明」「罪」というものがあるわけではないのです。本来、そうあるべきところに違うものが置かれていることが罪です。神殿の中は、神に対して祈りをする所です。ところが、神殿の中で魚を売ったり果物を売ったりしたら、それは何かおかしいでしょう。魚を売ることは悪い事ではないのです。果物を売ることは悪い事ではないのです。しかし、神に祈る場所である神殿で魚を売り果物を売ることは、場所を間違えているということです。この、場所を間違えているという事が、罪であり、迷いなのです。それぞれは悪いものではないのです。時、処、場所を間違えているということ、これがいけないのです。
お分りですか。あなたがしている行為そのものは悪い事でなくても、やはり、場所、やり方を間違えれば、それが悪となります。本来悪があるわけではないのです。悪というものは、神殿の中で物を売っている様なものだと思って下さい。本来、神に対して祈るべき所で果物を売ったり魚を売ったりしたら、神殿の中の人は、慌てて出て来て追い出すでしょう。何をするんですか、と、そういうことなんです。悪いという事は、神殿の中で誤った事をやっていることなんです。
(人間が)知恵を持つという事はいいことです。人間は、本来、知恵を身に備えております。ただ使い方を間違っているからいけないのです。人間の体は本来神の聖霊を宿す所なのです。神の聖霊を宿す所である以上、人間の体は神殿なんです。私は、この喩(たと)えを言っているのです。人間の体は神の聖霊を満たすためにあるのです。即ち人間の体は神殿であります。
この神殿を穢すものを悪と言い、迷いと言い罪と言うのです。人間は神の神殿なのです。神のお働きの場、神は人間という形を通じて、自らの意志、自らの目的を実現されているのです。そういう目的を持ったものなのです。その目的を持ったものを、目的以外の方法に使ったら、これは誤りとなるでしょう。
そうです、人間は神の神殿です。神の神殿は神のことを聴き、神のために活動するためにあるのです。その中で魚を売ったり、果物を売ったりする人がいたら、これは追い出されてしまいます。これは間違っていると叱られます。それ自体は悪いことではないのですが間違っているのです。
人間が五官に囚われていてはいけない、欲望に振り回されてはいけないことは、神の神殿の中は、本来神聖であって、神と対話すべき場所であって、その中で商売をやっているようなものなのです。他のことをやっている、あるべきでないものが入っているから間違いなのです。
その本来あるべきでないものが入って来るという間違い自体は、神から与えられた誤りではありません。例えば、神殿には神殿の祭司がおります。彼らは人々に教えております。神殿は神聖な場所であり、ここは神に対して祈る場所です。
また時には立札も立てるでしょう。神殿の中では物を売ってはならない、買ってはならない、という立札を立てる人もあるでしょう。けれども、その立札を見ないで入ってくる人もいるのです。そして、その人は魚を売ることを業としております。そして神殿の中で魚を売ってしまう。ある人は、立札を見ても、その意味が分からずに入り込んでくる。あるいは、立札を見ないで入って来る人もいる。
あるいは、そのような神殿の中は神聖なところであって、そのような生業(なりわい)をする所ではない、と教えられて、素直に信ずる人もあれば、何を言っているのか、どこで商売してもいいではないか、人が集まる所で商売をすれば儲かるんだ、と、人の意見を無視して、敢えて神殿の中で商いをする人も出て来る。
これが悪であり、罪です。この時の祭司というのが、あなた方、光の使徒です。光の使徒は、時代時代に現われては人々を正しい道に善導するために、色んな方便を使って指導している。ところが、この指導に耳を傾けずに、勝手に神殿の中で商いをしてしまう人も出て来るのです。
時には立札も立っています。この立札が、仏教で言えばお経であり、キリスト教で言えば聖書です。聖書を読めば、こういう事はしてはいけない、こういうふうにするんだという事が書いてあるんですが、立札があっても見ても見ないふりをする人がいる。聖書があっても読まない人がいる。経典があっても経典を読まない人がいるということです。
しかし、彼らもまた人間であります。正しい人達です。場所さえわきまえれば、彼らは彼らとして、善良な市民として生活をしているのです。しかし、神殿の中で商いをやっているということ、これ自体が違っているのです。彼らは、彼らの生活があり、妻があり子があり、市民としての生活を持っているのですが、本来あるべきでない所に、何かをしようとしている所が誤っているのです。
過ちは知って犯すものと、知らずに犯すものがあるのですが、知らないで過ちを犯す方が過ちとしてはもっと大きいのです。知って過ちを犯すより、知らずに過ちを犯す者の方が過ちとしては大きいのです。
私の言うことが判らないのであれば、また譬(たとえ)を使って話しましょう。ある人は刑法を知っております。人を殺してはいけない。人を殺せば罰せられるということを知っております。人を殺してはいけないと知っていながらも人を殺してしまった。その人と、人を殺しても悪いかどうか全く知らないで人を殺す人、どちらが人類にとって危険であるかということを、よく考えてご覧になるといいのです。
人を殺すことはいけないこと、悪いこと、罰が当たるんだけれど、それでも人を殺してしまった。それと、本来、人を殺すということに何らの抵抗を感じない人、悪いとも良いとも思っていない、殺したかったから殺したというだけの人、一体、どちらが人類にとって危険であり、神からどれだけ離れているか、ということを考えて頂きたい。
知らないで犯す罪の方が大きいのです。知らないということ自体が、更に大きな罪なのです。知って犯す罪は抵抗があり、良心の呵責が生まれて来るのです。止むを得ない事情も出て来るのです。知って犯す罪というものは、本人の善良なる心と、悪なる心とが天秤に掛けられ、悶えながら彼は悪をやってしまったということです。知らないで犯す罪というものは、それさえも知らずに犯すということです。
釈尊の時代にも、イエス様の時代にも、その他、預言者が現われる時には、いつもサタンが現われて、法を説く者に介入し、惑わしを行っていますが、我々の世界を全て知っているなら、彼らは地獄になど居ないのです。やはり違うのです。知らない所もあるのです。彼らは、光の喜び、天上の悦びというものを、もう忘れてしまって久しいのです。彼らは知りません。自らの世界、自らが生きている世界が真理だと思っているのです。
そして、あなた方は、彼らにとっては、彼らの世界を破壊せんとする悪魔なのです。彼らは自分たちの事を考えております。自分たちの権益を守り、地位を守り、安全を守るために抵抗しているのです。これを、知ってやっているか、知らないでやっているか、ということは非常に難しい事です。しかし、彼らも、本来は神の子である、ということには間違いないのです。
サタン達の横行ということに対する、天上界の考えはあります。例えば、日曜日の教会で教会の偉い人が説教しているとします。日曜日の教会です。色んな善男善女が、その説法を聴いております。そこヘドドドドと、例えば、無頼漢(やくざ)者が流れ込んで来る。さあ、あなたが教会の神父さんであったら、どうしますか。あなたが、有難いお話をして聖書の講義をし、二百人、三百人の、善い人がいて、その話を熱心に聴いている。そこに後ろの扉を開けて、やくざ風の男が入って来て、何言ってやがるんだい、という形で息まいているわけです。まさしくこの様な姿です。さあ、あなたは神父です。その時、あなたはどうされますか。
これが、神と悪魔、聖霊と悪魔との問題を解く一つの鍵です。これを、さあ、あなたは、どうされますか。
あなたは神父で、聖書を読み上げて人々に説教をしているだけの人です。そして、百人、二百人、三百人の人が、その話を聴いている。お子さんもいれば、おばさんもいれば、若い姐さんも、夫婦もいる。皆んな、あなたの話を聴いている。その時に、無法者が入って来たわけです。さあ、あなたはどうされるか。彼らは口々に言っております。何を言っているんだ、つまらんことを言うな、神なんかあるもんか、そんな聖書など読んだところで何の役にも立たないぞ、銭儲けなど出来ないぞ、もっと楽しい事が一杯あるじゃないか、と。彼らは、入って来て、口々にそう言って叫んでいるわけです。その時に、あなたは、どうされますか。
あなたは、一応自分の言葉で、あり得る限りの知恵で彼らを納得させようと努め、彼らにも本来神の心が宿っているという愛の思いで、その無法のあり方の非を説いてみるでしょう。ですから、私たちも、サタンというものが、現にあるにもかかわらず、彼らに対しては、強制的な手段はとっていないのです。彼らに対し、優しく話しかけ、正しい法を説くという事に専念しているのです。彼らは邪魔をしに来ています。しかし、私たちは強制力を発揮していません。
今のような場合に一つの方法があります。例えば、警官を呼んで彼らを強制的に引っ張って行く。あるいは、彼らの様な人間は生かしておく意味もないと袋叩きにしてしまう。色んな方法があります。あるいは、なすがままにさせておく、という方法もあります。しかし、あなたが教会の神父であるならば、まず、彼らの良心に語りかけることでありましょう。もし、彼らを悪なりとして、悪であるから皆もやっつけろと、もし壇上において言ったならば、周りの人たちは、それに従うかも知れません。しかしながら(その時)あなたの心も、また悪として悪魔の心になっているということは否めないのです。
その時に、我らが、悪魔を悪魔として認め、彼らが悪魔として活動し邪魔をしている事を認めながら、なおかつ彼らを赦し、彼らの存在を赦さんとしているということは、彼らの良心に働きかけているからなのです。
我々も、彼らと同じ様に、彼らを憎しとし彼らを抹殺せんとするならば、我らの心は、既に神の心ではないのです。我らの心は既に悪魔の心です。悪魔だけが悪魔を殺すことが出来るのです。分かって頂けますでしょうか、同じなのです。聖霊と悪魔のことを考える時には、そう考えて下さい。
聖霊は神父です。日曜日の説教をしている教会の中です。邪魔されたくないのは山々なのです。そういう時に、彼らはドアを開けて入って来るのです、ドカドカ土足で。そういう時に、どうするかということです。そういう時に、例えば警官を呼んで強制的に彼らを連れて行くことも出来るでしょうが、そういう事をしたならば、例えば、あなたの話を聴きに来ていた人達も、あなたの話は、聴きに来なくなるでしょう。多分そうなるでしょう。そうだと思います。
あなたが、彼らの良心に呼びかけ、彼らに話しかけ、彼らを教化せんとして努力するならば、彼らは、あなたに対して暴力を振るうかも知れません。けれども、あなたが彼らに暴力を振るわれようとも、彼らの善なる心、良心を信じて話しかけ、遂にあなたが怪我をさせられる事があったとしても、あなたの信徒たちは、あなたに対する尊敬の念を失わないでしょう。
しかし、あなたが強制力を使って彼らを排除したならば、一時的には説教は続いたとしても、やがて誰もあなたの話を聴かなくなるでしょう。イエスの例もそうなのです。イエスは、最後まで彼らに語りかけたのです。そのような無法者達、彼らは手荒く彼を鞭打ち殴り蹴りしたわけでありますが、しかし、イエスは抵抗せずに、最後まで神の国を信じ、神の言葉を述べ、彼らの良心に働きかけたはずです。
どちらが偉いかということを、あなたはよく考えてほしいのです。どちらが、神の御心に適うかという事を考えてほしいのです。すぐ(に)、悪魔はいけない、彼らを閉じ込めてしまう、彼らを抹殺してしまうという考えは、神聖な教会の中に、警官隊を導入して彼らを引っ張って行く、あるいは処刑してしまうということと同じ事です。
あなたが真の神父であり、真の神を信ずる人ならば、たとえ殴られようとも、蹴られようとも聴衆が迷惑がろうとも、彼らに一生懸命に語りかけるはずです。それが、真の姿ではありませんか。それが真の姿、それが真の慈悲ではありませんか。(それと)同じです。
ですから、私達が何千年にも渡って法を説いても悪魔がなくならないのはどうしてか、地獄がなくならないじゃないか、と言われる向きもあるかも知れません。それはそうです。一番効率の悪いやり方をやっているのです。それは、なくならないはずです。この譬をもって理解して頂きたいのです。
効率のいいのは、強制的に彼らをなくしてまう方がいいのです。けれども、そうではないのです。我々は、非常に遠回りな方法ですが、悪魔たちの良心に語りかけているのです。彼らの良心が目覚めるのを待って欲しいのです。これを分かって欲しいのです。永い時、我々も忍耐しているのです。
あなたは以前に、ある霊から話をお聴きになっておられるはずです。教え子が百点を採れないからといって、教えた先生が間違っていたと言えるか。教えた側は出来る限りのことを教えているが、三〇点の答案しか書けない人もいれば七〇点の答案を書ける人もいる。
彼らは、あなた方の言葉で言うなら、落第しているのです。先生の教えを理解していないのです。そういう時期、そういう地域、そういう人達になっているのです。決して、教えそのものから、現在の混乱を導き出されるものではないのです。寧ろ教えの不在です。
そういう時期に、彼の地に、光の天使がやがて現われて来ます。平和の前には混乱があるのです。統合の前には分裂があるのです。
私は語ったはずです。心です。我らの教えは、心です。心の中に王国を築けず、どうして地上に王国が築けようか。この地上の争いは心の中の争いの延長にしか過ぎないのです。
まず、人の心の中に、ユートピアを築かんとすることが先決なのです。争いは、心に根を発しているのです。争いを力によって制しようとしても、これは出来ないのです。根本を押さえることです。これが違っているのです。心の教えが不在なのです。
神の支配する、神一元の世界であるはずの地球上で、唯物論に基づく国家が、各所に形成され、現在では、それは世界を二分する程に膨脹して来たと言われましたが、これは(地上の人間の心の)迷い(の現れ)です。
近世に、マルクス、あるいはレーニンのような、思想家あるいは指導者が出現して来ましたが、これは迷いということではなく、彼らは、彼らの使命を十分に果たさなかったし、また、彼らが不充分に行ったことに対して、他の人は、更に誤解していたということなのです。
こういう人達は、今、こちらの世界では地獄にはおりません。マルクスも、また光の天使(で)そして、彼らの本質は唯物論にあったのではないのです。彼は、ユートピア建設のために出て来た光の天使なのです。
唯物論というものも、仏の説法に便法があるように、一つの便法なのです。一つの譬なのです。ただ、それが先走ってしまったところに謬(あやま)りがあるのです。彼の計画はユートピアの建設なのです。
ところが、時代が時代で、科学が進み物質万能の時代です。このような時代に霊のことを言ったところで、ユートピア建設は難しいのです。むしろ、物質万能、物質科学優先の時代なら、それはそれでいい。物質は物質と認めた中で、またユートピア建設の道があるのではないか、という方向で行ったのが、彼の考えです。唯物論というのは便法なのです。マルクス自身、物だけしかないなどとは思っていないのです。神を信ぜずして、なぜユートピアなど考えることがありましょうか。
ですから、(マルクスも、レーニンも)想い、志は良いのです。ただ、便法を真理だと信じたところは誤りなのです。比喩を、そのまま真理だと考えた所に誤りがあったのです。
それが教条となり、教条主義となって行ったのでしょう。マルクスの時代には、貧富の差も激しく、人の上に立つものと下に立つもの、差別するものと差別されるもの、搾取するものと搾取されるもの、このような階級分化が激しかったのです。
心の平和を説く以前に、環境自体の浄化を考えなければ、人々は神の世界に入って行けるような状態ではなかったのです。そのために彼は、物質の世界においても人間はある程度まで救われなければいけないという事、それを理論として説いたのです。それは過渡期の思想なのです。それが永遠の思想、真理だと思えば、そこが誤りです。
以来、物質文明は、急速に進歩し、現代、機械文明は、著しい進展を見せていますが、(それが人類の幸福に結び付くかと言えば、これは、単に)そういうふうにな(るであ)ろうということであって、本質的には、どうということではないのです。
環境がどのように変わるかという事は、一つの素材の変換にしか過ぎないのです。どのような変換があってもよいのです。例え、この時代に、あなたの身の周りを恐竜が徘徊していたとしても、あなたは、また神の心を、神の教えを説かねばならないのです。同じなのです。あなたが、例えロボッ卜に囲まれようとも、同じです。
(我々の教えには)神の義があり、神の愛があり、神の慈悲があるわけです。慈悲を説いたのは釈迦です。愛を説いたのはキリストです。義を説いたのは私です。
現世には、この神の御意(みこころ)のうち、やはり愛も必要、義も必要、慈悲も必要ではないでしょうか。かつて我々は、我々が信じた一神、エホバであり、ヤハウェを、争いの神、妬み、嫉妬の神、というふうに言われたことがあり、それが神学上の問題になっております。それは「義」ということと絡(から)むのです。正しきものは実現されなければいけないのです。
「義」とは、神の「神理」であります。神理は実現されなければいけない。神理が実現されるためには、神理でないもの、非神理は影をひそめなければならない。これを、強さを持って実践するのが義であります。義とは、神の国実現のための力であります。
「愛」とは、神の国を造り上げていくための鎹(かすがい)です。粘土であり、セメントです。「義」とは、神の国を造るための土地ならし、土台造りです。「愛」は、神の家を造るための材料と材料、木と木、石と石をくっつけるための、釘であり鎹であり、粘土でありセメントであります。これが愛です。
今日は、義が失われた時代です。そういう意味で、今の宗教には、義というものがあまりありません。これも一つ、考え直すべき点ではないでしょうか。これが行き過ぎると、宗教戦争になるかも知れません。他宗の排撃になるかも知れません。しかし、本来神の「理(ことわり)」は強くなければならないのです。そういう意味では、旧勢力が強い時代には、義ということが強調されなけれぱならないこともあるのです。
今、新しい「十戒」、新たな神の指針、それに沿った新たな人間の行動原理が必要な時代となって来ました。「十戒」は、私が「十戒」を表わしてより千年の間、人々の行動指針となったのです。
また今後、このような価値の乱れた時代においては、人々の行動指針となるものが必要となって来るでしょう。それは、単に霊を信ずるとか、お互いに仲良くする、というようなものだけではなくて、神の意図に沿った、人間の行動指針というものを打ち出して行き、それが、今後の人類の、文明、文化の発達して行く基礎となり方向付けになって行かねばならないでしょう。
それらを、いま一時に全て(を)私は語りませんが、やがて、あなた方に、啓示という形で教えて行くこともあろうし、あなた方ご自身で気付いて行くこともあろうし、いずれにしても、あなた方がやるべきことは、今後の人類、後に来る人々に対する贈り物を出して行かねばならぬということです。
二千年、三千年先の事まで考えなさい。今、現時点で、どうであるという事ではなくて、二千年、三千年先の人に対するメッセージを残さねばならぬということです。その折りにモーゼという名が、まだ、あるかどうかは定かではありません。イエス・キリストも伝説の、神話の人になっているかも知れません。現在は、まだ、実在の人と信じていますが、千年、三千年先にはモーゼも神話、イエスもまた神話の人となっているかも知れません。
その時に、あなた方が、実在の人間として残した教えというものが、残らねばならぬということです。
結局のところ、人間は、なぜ輪廻転生をするのか、という、この法則の説明と、そのような法則が明らかになったならば、如何にして生きねばならないのか、と言うことを説く、その事に尽きるのです。それ以上のものではないのです。この世界は、神が創られたものであり、神のご計画は、人間を、現象界から天国へと輪廻転生させるということ、そしてその中で、どのように生きて行かなければならないのか、という事を悟らせる事、これに尽きているのです。
これ以上のものではないのです。非常に簡単なものです。これを、後の世の人々に、明瞭な形で、彼らの行動指針となるような形で、残して行きなさい――。
この輪廻転生があるということが、神の大いなる慈悲であるということを、はっきりと説き示さねばならぬということです。
(我々の居る霊天上界についてですが、)天上界というものは、地球は丸いのですから、上といっても横といっても、所詮同じことなのですが、比喩としては、やはり高い所から、いわば下を見ているという形になります。
天上界(の霊域に)は、六次元、七次元、八次元とあり、私がいる霊域は九次元です。六次元、七次元の方は、九次元の世界へは行く事は出来ません。上方の方は下方へ来ることは可能です。宇宙界といわれる九次元の霊域にいるのは数名です。
七大天使といわれる方々は、私たちの近くにおります。八次元の霊域には、如来の方は四、五百名おります。次が七次元の菩薩界、そして、菩薩界と如来界との間に、仏教でいう<梵天>というか、梵天の境地があります。七次元と、八次元の境であります。「天台智覬」といわれる方も、この梵天の霊域におります。八次元といえば八次元、七次元といえば七次元、この中間の域に達している霊であります。
(どの霊域に誰がいるというようなことに関して、ご興味がお有りなのは分かります。)ただ、私たちが心配していることは、差別知でもって霊的世界を理解してもらっては困るために、あまり(そうしたことは)言いたくはないのです。人間に、そのような階級があり、段階があるという発想は、一歩誤れば、非常に危険なものとなるのです。人間の魂は平等だ、という考えも大切であります。
例えば、いま段階という形で捉えました、ある人よりも、ある人が偉いとか下であるとかいう考え方も一つありますが、こういう考え方も出来るのです。人間の魂というものは、各人、神の子であり一箇の球体であって、この球体には大きな違いはないのです。各人、同じ球体なのです。同じ球なのです。その意味において各人の魂は平等なのです。しかしながら、永年の転生輪廻の過程における修行の度合によって、同じ大きさの球であるにも関わらず、ある球体は非常な輝きを持っており、ある球体は鈍い輝きを持っており、ある球体は全く光を発していない、このように、平等であるけれども光の度合が違う、ということがある。その光の度合を譬えて言うならば、如来界、菩薩界、という様なことで言っているのであって、それは魂として違うのだ、という様なことではないのです。
魂が違う、段階が違う、という考えは、一歩間違えば、大変な間違った思想になってしまうのです。各人の魂は、神から分かれたものであり、本来、神と同一なものです。一個の同じ大きさの球であるということ、しかし転生輪廻の過程によって輝きが違うのだし、輝きの違いによって、如来だ、菩薩だ、あるいは神界だという様な区別をしているだけであって、しっかりと磨けば、如来の光が、菩薩の光が出て来るのだと、この様に、差別心と平等心とを融合した立場をとって頂きたい。これを間違うと、あなた方も、大変な増長慢となってしまうのです。
別の比喩で言うなら、球としては同じであるが、ある部分が発達している球と、違う部分が発達している球とがあって、たまたま、私達は、神の使命を担う部分で球が発達しているだけであって、他の部分が発達していない。ところが、その部分が発達している者もある。そういう意味で人間は平等なのです。仕事が違う、という考え方も一つ、光の違いがある、という比喩も一つ、そのようにお考えになって下さい。
本質的に、人間には貴賤もないし、七次元より八次元が偉い、というような事でもないのです。そのような思想は、一歩誤れば、大変な間違いとなるので、私は、敢えてこう言っておくのです。
例えて言うならば、高さの違いはあるのだけれども、それは球体の面として考えると、例えば神を北極とするならば、北極の近くにある面と、そうではない所が発達している面とがあるわけであって、仕事の違い、というふうにも取れるし、光の度合が違う、とも取れるはずです。
光の度合が違うのであるならば、いま、光輝燦然と輝いている者も、やがて曇ってしまうこともあり得るし、いま曇っている者も、また光ることが出来るのです。こういう事なのです。
私は言っておきますが、あなた方の使命は、今の時期に、本当の「神理」を残す、ということです。分る人は分るし、分らない人は分らないでしょうが、しかし、千年、二千年と伝えていく必要があるということです。
我々は、いつの時代でも、こうして出て来るわけではないのです。我々が出て来る時代は決まって激動期、あるいは人類の転換期です。そういう意味で、我々がこの様な形で、人を介して語るということは、滅多にない事ですので、その時点で、最高度の教えを残しておく必要があるのです。
私が、いま語っている事を、素直に信じることが出来る人が、いま、生きている人間の中で、一体、幾人いるでしょうか。私自身も、それは定かに知り得ません。しかしながら、どうしても残さねばならないということです。
あなた方は、もっと強くありなさい。あなたの先人達の苦労辛酸を想い起こして、もっと強く生きなさい。怠惰になっていないかどうか、ということをよく考えなさい。環境が楽であれば楽であるほど、一層励まなければならない、ということです。環境との戦い、という事に、先人たちがどれだけ苦労したかということを想い起こしてご覧なさい。あなた方は、まだまだ楽な環境にあります。楽な環境にあるからこそ、先人達が登れなかった所まで、登ってみせなければならないのです。
強くあって欲しい。神を信ずる正しい人は、強くあって欲しい。自分の弱い所を見つけたならば反省し、もっともっと強くあっていて欲しい。私が言えることは、そんな抽象的なことに過ぎません。
私は、あなた方に、具体的に何をどうせよとは申しません。強くあって欲しい、不動の心を持って欲しい。人にこう言われるんじゃないか、というような、そのような小さな事に負けてしまうあなた方であって欲しくない。強くあって欲しい。
あえて、身の周りに争いを起こす必要はないけれども、しかし、強くあって欲しい。強さです。今のあなたの中に強さがありますか。正法を流布するには、熱意と強さが、共に必要なのです。
私は(地上の人生では)力強い生涯を送ったと思っております。それは、正しい者は強く生きねばならない、正しいとは、神の義です。「義」神の義に適った者は、強くあらねばならない、そういう考えです。あなた方が正しいと信ずるなら、その信念の強さはあなた方の生き方の、勇ましさになって来なければいけません――。
(ここから)
我はモーゼである。
あなた方が、地上で正法流布の活動をされているというのは、私たち(霊界の指導者)が計画したことを、今あなた方が、この地上において実現して下さっているのです。
(かつて、中東の地において、)この地上に肉体をもってから、既に、三千有余年(の歳月が過ぎましたが、その間ずっと)、私は、天上界において、私の使命、私の仕事を務めております。
当時、私は、エジプトという地に生れました。今で言うエジプト、ナイルの畔です。
もう既に、あなたもご存知のことと思いますが、私は奴隷(どれい)の子として生れました。そして旧約(聖書)にあるように、箱舟に乗せて河を流されました。やがて拾われて王宮の中で少年時代を送りました。長ずるに従って、世の中の矛盾、王宮の中の優雅な生活、虐げられた人々の生活、このような世の中の矛盾に気がついていきました。
これは、恐らく釈尊も同じだったでありましょう。私もそうでした。私は、私が拾われた子であるという事を、十八歳の時に聞いたのです。そして、いま優雅な暮らしをしている私も、かつては、虐げられた、この人々と同じ者、この人々の間に生れた者、そして運よく拾われて、王宮の中で育てられた者であるという事、こういう事を知ったのです。
私は、自分で言うのも少し恐縮しますが、正義感の強い人間です。正しい事は、あくまで正しい、正しい事は、この世に実現されねばならない、というのが私の考えです。正しきもの(それは)神の義、これが、この世に実現されねばならない。これが私の考えの根本です。
そうであるならば、正しき義、神の義が、この世に現われているかどうかを見たならば、その時代には、片や王宮生活があり、片や虐げられた被占領民族の、奴隷としての生活がある。神は、このようなことを許しておかれるだろうか、許されるはずはない。私はそう思いました。時機が来たら、私は起たねばならない。必ず、彼らを救うために起たねばならない、と深い決意を固めました。しかし、それまでの間は、書物を読み、教養を身につけ、そして、文武両道と申しますか、武芸にも長(た)けました。そして私は、将来を期したのです。
やがて時機が到来すると、私は、被占領民族の皆さんに、次々と申しました。
『私も皆様と同じ人間です。同じ血が流れております。たまたま王宮に育ち、私は、このような人間となっているけれど、私は皆様の仲間であります。皆様方の解放を王に言いましょう。そして皆様方も、平和に幸福に暮らして頂きたい――』
私は、このように、次から次へと言って回り、私を支持する勢力が、次第に増えて行きました。そして王宮の中でも、私は自分の論を吐き、周りの者を敵に回してでも、議論をしました。しかし、私の意見は入れられませんでした。人間というものは、一旦、自分が得た利益、一旦、自分が得て奴隷にした者を、なかなか手放そうとはしないものです。
そして私は、彼ら奴隷たちに言いました。
『よし、この地を捨てよう。この地は王の地である。彼らには彼らの生き方があるであろう。彼らを滅ぼしてまで我らが倖せになる必要はない。我らは我らの地を造ろう。我らは我らの希望を持ち、我らは我らの希望の地を求めて旅をしよう。そして、この地上に我らのユートピアを築こう。ユートピアは必ず出来る。この地ではない。遥か先の地ではあるけれども、そこには、希望と、乳と蜜が流れる地がある。カナンの地がある――』
私は彼らにそう説きました。彼らは眼に見ぬカナンの地というものに憧れを持ちました。
私は、当時、相当の霊的な能力を持っておりました。その希望のカナンの地があるという事を、私は、霊的実感として知っておりました。けれども、彼らは必ずしもそれを信じません。しかし、私は指導者です。必ずカナンの地がある。我らの地がある。我らの地である天国がある。我らは、ユートピアを建設せんとして、いま一丸として行動を起こすべきである。そうして、私は彼らを糾合しました。
そして、私は、私の力を、私の意見を、私の言葉を信じさせるために、様々な霊的な能力を現わして見せました。王宮で見せたこともあります。彼らやがてイスラエルの民となる人々にも、私は様々な奇蹟を見せました。私の奇蹟の一つは、あなたもご存知かと思いますが、私の杖が一旦、私の手から放れると、龍となって天に昇って行くという奇蹟、そのような様々な奇蹟を行って見せました。
それは、霊的な意味における奇蹟ですけれども、彼らの眼に、ありありと見えたのです。また、私は未来を見ることも出来ました。聖霊たちと会話することも出来ました。恰度(ちょうど)このような形で、そして当時の、エホバといわれる神と対話できる者としての自由を持っておりました。
やがて私は、諸国に数十万人の奴隷を集めて、そして一大移動を開始し始めました。王の兵達は、私達を捨ててはおきません。彼らは、私達を追いかけて来ました。我々は抵抗はしませんでした。一路カナンを目指して旅を続けて行きました。そして、そこに紅海が現われます。ご存知の通りです。旧約聖書の中に書かれてある「紅海」です。
その時、私は神に祈りました。『天よ裂けよ!地よ裂けよ!そして、我らをカナンの地に行かせ給え。エホバの神よ、我を助け給え、我らを救い給え』そうして、私は天に祈り、地に祈り、神に祈りました。――その時です。紅海は真っ二つに割れたのです。紅海は割れました。海が二つに割れたのです。このような奇蹟は、未だ、かつてなかったことでした。
そして、海が割れた道を、我々は進んで行ったのです。そして、我々の後から王の軍勢が次々と追っかけて来たわけですが、その時に、その割れた海の水が、また元通り戻り、彼らを海の中へ吸い込んで行ったのです。我々の通った後を、海が次々と閉じて行ったのです。そして、我らは紅海を渡りました。紅海というのは、それ程、広い海路、水路ではありませんでした。けれども、そこの水が割れたという奇蹟が、現に起きたのです。
それは、後々のために、後々のイスラエル民族を作り、神の民を作り、後々の正法流布のために、神が、止むを得ず敷いた路線です。神はそのようなことを予定していたのです。そして、我らは「出エジプト」を果たしました。そして長途の旅に上り数十年に渡って、延々とカナンの地を目指して旅をして行ったのです。途中飢えに苦しんだ事もあります。途中、敵に攻められて苦しんだ事もあります。我らは一丸となって戦いました。
そして、私は、ある山の麓において啓示を受けたのです。エホバの啓示、ヤハウェの啓示です。私は『皆の者、下に待て』と言い、山に登りました。そして神に祈りました。神は私に啓示を与えられました。それが、あなた方ご存知のモーゼの「十戒」と言われるものです。神の言葉が、なんと、現象として、石の板、石板と言いますか、石の板です。この上に刻まれたわけです。<汝、殺すなかれ><汝、汝の両親を敬え><汝、汝の隣人の物を貪るなかれ>このような訓えを、次々と、神は、私に与えられたわけです。私は、それを持って帰りました。
しかし、人々は、私が見せた、そのようなものは信じません。彼らは、勝手勝手に、金の彫像の様な物を造って拝んでおりました。私は怒りました。あなた方は、このような事をしてはいけない、と、そのような彫像は叩き壊しました。そして、その時、石板もまた割れてしまいました。
私は再び山へ登りました。山へ登って神に祈りました。神は、また同じ様な啓示を、私に与えてくれました。
<我のみを神とせよ!我のみを神とせよ、汝らの父母を敬い、汝ら人を殺すことなかれ、他人の物を貪ることなかれ>
その様な訓え、十戒という訓えを、次々と、神はまた顕(あらわ)したのです。そうして私は、またそれを持って帰りました。そして、人々にこれが神から与えられた訓えである「十戒」である、これを守れと教えたわけです。
しかし、当時、私も誤りがありました。私は、神の声、だけを聴いたのではありません。あなた方が、このような形で、私共の言葉を聴いている以外に、サタンの声というものがあったでありましょう。私は、サタンの声をも、神の声として間違って聴いたこともあるのです。彼らは私に奨めました。『モーゼよ、神は、ただ祈りだけでは喜んでくれない。仔羊を屠りなさい。仔羊を殺して、その血を流して神に捧げたならば神は喜ぶであろう。お前はそうしなさい――』
そういう悪魔の囁きを聞いたのです。しかし考えてもみなさい。神は仔羊を喜ぶでしょうか、生贄を喜ぶでしょうか、血を流す仔羊の供物を喜ぶでしょうか。そうではないはずです。本来の神であるならば、生贄など欲しくないのです。神が欲しいのは私達の清い心、私達の正しい心、私達の義にかなった心であります。神は生贄の仔羊の血など欲しくはないのです。しかしながら、私は悪魔の声を神の声と聴き違え、生贅の仔羊を祭壇に祭り、そして祈るという様なことを、やってしまいました。
これが、私の創始した「モーゼの訓え」と言われているものの誤りの一つです。そういう事を始めたために、それ以降、生贄の仔羊という事が、かなり、巷間に流布されるようになって来たのです。
その後も、私達は旅を続けました。しかし私は、カナンの地までは行くことは出来ませんでした。私は、ある山の麓で亡くなりました。この地上の生活を終えました。私は、その時、もう百数十歳にもなっておりました。それが私の一生です。
私は、数十年に渡る長途の旅に出、イスラエル民族、イスラエル国家を創らんがために、彼らを糾合して、そして、何十年もの長途の旅につき、様々な現象を行い、神の「十戒」を頂き、そして「一神教」というものを初めて創り出しました。それが私の人生でした。
エホバというのは、必ずしも民族神ではありません。あなた方もご存知のように「正法」というのは、時代によって現われる地域を異にしております。東から西へ、西から東へと移って来ている、ということはご存知のはずです。当時は、エジプト、そして、イスラエルという地、この辺に正法の種が蒔かれ、育てられたのです。その時に、我々が神としていたものが、エホバであり、エホバは、必ずしも民族神ではありません。
例えば中国で正法が説かれると、そこにまた「エホバ」に当たる神が出て来るわけです。同じです。正法、という事を機縁として、神があったわけです。創造神ということはまた違って来ます。エホバは人格神です。人格神は、天地を創造した神とは別のものです。当時の私達は神は神であって、神にそれだけの違いがあるという事は分らなかったのです。
エホバとされる人格神は、一体どういう方か、ということですが、これは、天上界での、一つの大きな秘密ですが、当時、エホバと言われていた方も、必ずしも、特定の方ではなかったのです。今あなたは、モーゼという私の名を知っております。キリストという名の方も、知っております。釈尊という名の方も知っております。そうであるなら、モーゼが語った言葉、あるいはキリストが語った言葉というふうに、区別して、あなた方は理解も出来ましょう。しかし当時は、それ程までには分らなかったのです。私共が、この様な形で神の代理人として語ったならば、それは、全て「エホバ」の言葉となっているのです。
(今の話の中で)エホバの神と言って語った者が、(のちに)イエス・キリストが、神の御名は、わが父、とおっしゃっていた(その神は)、その(旧約の時の)エホバの神に当たっているのでは、ないのですが、エホバ神、と(自ら)称せられるような一段高い神、あるいは、人と言ってもよろしい、霊人と言ってもよろしい、(その方は)天上界の最高責任者です。そういう方はおられました。イエスが父と言ったのは、その方でした。
地球霊団の最高責任者は、その時代時代によって交替するわけではありませんが、エホバとして指導された方が、いつもエル・ランティーであったわけではありません。
私は、旧約の時代のエジプト以前にも、地上に何度か生れております。しかし異った文明です。現代の文明の中には生れておりません。以前の文明、そのまた以前の文明の時に、生れております。それは、現在、地球上に、地上(陸地?)として、部分としては現われているかも知れないが、文明としては過去の文明です。
かつて、地球上に大陸としてありました、ムーとか、アトランティスとかいう、そういう時にも生れております。そういう地において、正法を説いたことはあります。「正法」はいつも一つです。
人類に進化というものがあるか、ないか、むずかしい問題であります。人類は、始めから悟った人類です。それが、現在、悟るために修行しております。これが、進歩かどうか、進化かどうか、非常に難しいところです。
この、いま地上界に出ている人類は、今から何千年、あるいは何万年前に地上に出ていた人類であることが多いのです。
それほどの転生をしながらも、なお正法に帰依することが出来ないということは、本人や指導者に責任があるわけではないです。様々な環境によって、全ての者が、様々な経験を積んでいるのです。
恐竜の時代には、恐竜の時代の正法があったでありましょうが、その時代に神を信じ、神に帰依するということと、現代のような科学文明の栄えた時代に、神を信じ、神に帰依するという事と、神に帰依するという事において同じであったとしても、環境が違います。環境が違う以上、学習が違います。
学ぶ事が違うのです。かつては、自然、天然、動物、このようなものが人間の敵でした。しかし、もう、そのようなものも敵ではなくなって来ております。現在は、人間の敵は、人間の造ったものです。公害であり、車であり、様々な騒音であり、色んな人間の造った物です。薬害であり、人間が造った物が人間を脅しております。こういう時代になっております。
この中で、神を信じ、神理を悟るということも、これも、また一つの人生体験ではありませんか。どちらが進んでいるとも言えません。素朴な時代に神を信ずるという事と、このような科学の進んだ時代に神を信ずるということと、難しさは違うかも知れません。やさしいテストで九〇点を取ることと、難しいテストで五〇点を取ることと、どちらの方が実力があるか、と言われても分からないのです。
文明という事においても、何が進んでおり、何が遅れているかということは、文明の一部分をとって言うならば簡単ですが、文明の全体をとったならば、分からないのです。現代より進んだ部分もあったでしょうが、現代が進んでいる面もあります。色々です。
アモンという方が、人類が、かつては、いわゆるアメーバから進化して来た、という説を否定して、人類は人類として別個の存在として、他の星から転移して来たと言われたのは正しいことです。
また、魂だけが他の星からの転移で、肉体は動物から段階的進化を遂げた、という説は、間違いです。人間は人間です。人間は、昔から人間なのです。「神」は、ご自分に似せた魂を持つ存在としての人間をお造りになったのです。神は、馬は馬、牛は牛として、チンパンジーはチンパンジーとしてお造りになったのです。
はっきり言っておかねばならないことは、時代が、どのように変わろうとも、環境がどのように変わろうとも、我らの教えは一つ、我らの教えは、心の教えであります。どのような環境の中にあっても、どのような文明の中にあっても、正しい心を持ちなさい。正しい心とは、神の心である。そのような教えを、我らは説いて来たのです。現代においても然りであります。我々の仕事は、この現象界を解明することではなくて、人間の心を解明することです。
心が全て――この心を、神の心と一つとする。これが「汝の心を、神の心と同じくせよ――」これが正法です。
サタンについてですが、あなたが、悪い念(おも)いを心に持った時に、サタンがあり、あなたが良い念いを持った時に、サタンはない。即ち、サタンと見える人達は、悪い心を心として生きているからサタンであるけれども、神の心を心として生きたならば、その瞬間、その刹那に、もはやサタンはないのです。
悪魔というのは、心の持ち方を誤っている者どもです。誤った心の持ち方をした人達が、我らの仕事を邪魔しようとしているのです。心清き人の、足を引っ張ることは出来るのです。邪魔をすることは出来るのです。私が言いたい事は、彼らは、悪魔として作られた者ではないのです。彼らが、この心を「是(よし)」とする心が、間違った心です。本来、出て来た神の心と違った心を旨として生きている、ということ。自らの心の状態が誤っているために、他の者を迷わしているということ、これが悪魔なのです―。
人間の心に、元々「無明」「罪」というものがあるわけではないのです。本来、そうあるべきところに違うものが置かれていることが罪です。神殿の中は、神に対して祈りをする所です。ところが、神殿の中で魚を売ったり果物を売ったりしたら、それは何かおかしいでしょう。魚を売ることは悪い事ではないのです。果物を売ることは悪い事ではないのです。しかし、神に祈る場所である神殿で魚を売り果物を売ることは、場所を間違えているということです。この、場所を間違えているという事が、罪であり、迷いなのです。それぞれは悪いものではないのです。時、処、場所を間違えているということ、これがいけないのです。
お分りですか。あなたがしている行為そのものは悪い事でなくても、やはり、場所、やり方を間違えれば、それが悪となります。本来悪があるわけではないのです。悪というものは、神殿の中で物を売っている様なものだと思って下さい。本来、神に対して祈るべき所で果物を売ったり魚を売ったりしたら、神殿の中の人は、慌てて出て来て追い出すでしょう。何をするんですか、と、そういうことなんです。悪いという事は、神殿の中で誤った事をやっていることなんです。
(人間が)知恵を持つという事はいいことです。人間は、本来、知恵を身に備えております。ただ使い方を間違っているからいけないのです。人間の体は本来神の聖霊を宿す所なのです。神の聖霊を宿す所である以上、人間の体は神殿なんです。私は、この喩(たと)えを言っているのです。人間の体は神の聖霊を満たすためにあるのです。即ち人間の体は神殿であります。
この神殿を穢すものを悪と言い、迷いと言い罪と言うのです。人間は神の神殿なのです。神のお働きの場、神は人間という形を通じて、自らの意志、自らの目的を実現されているのです。そういう目的を持ったものなのです。その目的を持ったものを、目的以外の方法に使ったら、これは誤りとなるでしょう。
そうです、人間は神の神殿です。神の神殿は神のことを聴き、神のために活動するためにあるのです。その中で魚を売ったり、果物を売ったりする人がいたら、これは追い出されてしまいます。これは間違っていると叱られます。それ自体は悪いことではないのですが間違っているのです。
人間が五官に囚われていてはいけない、欲望に振り回されてはいけないことは、神の神殿の中は、本来神聖であって、神と対話すべき場所であって、その中で商売をやっているようなものなのです。他のことをやっている、あるべきでないものが入っているから間違いなのです。
その本来あるべきでないものが入って来るという間違い自体は、神から与えられた誤りではありません。例えば、神殿には神殿の祭司がおります。彼らは人々に教えております。神殿は神聖な場所であり、ここは神に対して祈る場所です。
また時には立札も立てるでしょう。神殿の中では物を売ってはならない、買ってはならない、という立札を立てる人もあるでしょう。けれども、その立札を見ないで入ってくる人もいるのです。そして、その人は魚を売ることを業としております。そして神殿の中で魚を売ってしまう。ある人は、立札を見ても、その意味が分からずに入り込んでくる。あるいは、立札を見ないで入って来る人もいる。
あるいは、そのような神殿の中は神聖なところであって、そのような生業(なりわい)をする所ではない、と教えられて、素直に信ずる人もあれば、何を言っているのか、どこで商売してもいいではないか、人が集まる所で商売をすれば儲かるんだ、と、人の意見を無視して、敢えて神殿の中で商いをする人も出て来る。
これが悪であり、罪です。この時の祭司というのが、あなた方、光の使徒です。光の使徒は、時代時代に現われては人々を正しい道に善導するために、色んな方便を使って指導している。ところが、この指導に耳を傾けずに、勝手に神殿の中で商いをしてしまう人も出て来るのです。
時には立札も立っています。この立札が、仏教で言えばお経であり、キリスト教で言えば聖書です。聖書を読めば、こういう事はしてはいけない、こういうふうにするんだという事が書いてあるんですが、立札があっても見ても見ないふりをする人がいる。聖書があっても読まない人がいる。経典があっても経典を読まない人がいるということです。
しかし、彼らもまた人間であります。正しい人達です。場所さえわきまえれば、彼らは彼らとして、善良な市民として生活をしているのです。しかし、神殿の中で商いをやっているということ、これ自体が違っているのです。彼らは、彼らの生活があり、妻があり子があり、市民としての生活を持っているのですが、本来あるべきでない所に、何かをしようとしている所が誤っているのです。
過ちは知って犯すものと、知らずに犯すものがあるのですが、知らないで過ちを犯す方が過ちとしてはもっと大きいのです。知って過ちを犯すより、知らずに過ちを犯す者の方が過ちとしては大きいのです。
私の言うことが判らないのであれば、また譬(たとえ)を使って話しましょう。ある人は刑法を知っております。人を殺してはいけない。人を殺せば罰せられるということを知っております。人を殺してはいけないと知っていながらも人を殺してしまった。その人と、人を殺しても悪いかどうか全く知らないで人を殺す人、どちらが人類にとって危険であるかということを、よく考えてご覧になるといいのです。
人を殺すことはいけないこと、悪いこと、罰が当たるんだけれど、それでも人を殺してしまった。それと、本来、人を殺すということに何らの抵抗を感じない人、悪いとも良いとも思っていない、殺したかったから殺したというだけの人、一体、どちらが人類にとって危険であり、神からどれだけ離れているか、ということを考えて頂きたい。
知らないで犯す罪の方が大きいのです。知らないということ自体が、更に大きな罪なのです。知って犯す罪は抵抗があり、良心の呵責が生まれて来るのです。止むを得ない事情も出て来るのです。知って犯す罪というものは、本人の善良なる心と、悪なる心とが天秤に掛けられ、悶えながら彼は悪をやってしまったということです。知らないで犯す罪というものは、それさえも知らずに犯すということです。
釈尊の時代にも、イエス様の時代にも、その他、預言者が現われる時には、いつもサタンが現われて、法を説く者に介入し、惑わしを行っていますが、我々の世界を全て知っているなら、彼らは地獄になど居ないのです。やはり違うのです。知らない所もあるのです。彼らは、光の喜び、天上の悦びというものを、もう忘れてしまって久しいのです。彼らは知りません。自らの世界、自らが生きている世界が真理だと思っているのです。
そして、あなた方は、彼らにとっては、彼らの世界を破壊せんとする悪魔なのです。彼らは自分たちの事を考えております。自分たちの権益を守り、地位を守り、安全を守るために抵抗しているのです。これを、知ってやっているか、知らないでやっているか、ということは非常に難しい事です。しかし、彼らも、本来は神の子である、ということには間違いないのです。
サタン達の横行ということに対する、天上界の考えはあります。例えば、日曜日の教会で教会の偉い人が説教しているとします。日曜日の教会です。色んな善男善女が、その説法を聴いております。そこヘドドドドと、例えば、無頼漢(やくざ)者が流れ込んで来る。さあ、あなたが教会の神父さんであったら、どうしますか。あなたが、有難いお話をして聖書の講義をし、二百人、三百人の、善い人がいて、その話を熱心に聴いている。そこに後ろの扉を開けて、やくざ風の男が入って来て、何言ってやがるんだい、という形で息まいているわけです。まさしくこの様な姿です。さあ、あなたは神父です。その時、あなたはどうされますか。
これが、神と悪魔、聖霊と悪魔との問題を解く一つの鍵です。これを、さあ、あなたは、どうされますか。
あなたは神父で、聖書を読み上げて人々に説教をしているだけの人です。そして、百人、二百人、三百人の人が、その話を聴いている。お子さんもいれば、おばさんもいれば、若い姐さんも、夫婦もいる。皆んな、あなたの話を聴いている。その時に、無法者が入って来たわけです。さあ、あなたはどうされるか。彼らは口々に言っております。何を言っているんだ、つまらんことを言うな、神なんかあるもんか、そんな聖書など読んだところで何の役にも立たないぞ、銭儲けなど出来ないぞ、もっと楽しい事が一杯あるじゃないか、と。彼らは、入って来て、口々にそう言って叫んでいるわけです。その時に、あなたは、どうされますか。
あなたは、一応自分の言葉で、あり得る限りの知恵で彼らを納得させようと努め、彼らにも本来神の心が宿っているという愛の思いで、その無法のあり方の非を説いてみるでしょう。ですから、私たちも、サタンというものが、現にあるにもかかわらず、彼らに対しては、強制的な手段はとっていないのです。彼らに対し、優しく話しかけ、正しい法を説くという事に専念しているのです。彼らは邪魔をしに来ています。しかし、私たちは強制力を発揮していません。
今のような場合に一つの方法があります。例えば、警官を呼んで彼らを強制的に引っ張って行く。あるいは、彼らの様な人間は生かしておく意味もないと袋叩きにしてしまう。色んな方法があります。あるいは、なすがままにさせておく、という方法もあります。しかし、あなたが教会の神父であるならば、まず、彼らの良心に語りかけることでありましょう。もし、彼らを悪なりとして、悪であるから皆もやっつけろと、もし壇上において言ったならば、周りの人たちは、それに従うかも知れません。しかしながら(その時)あなたの心も、また悪として悪魔の心になっているということは否めないのです。
その時に、我らが、悪魔を悪魔として認め、彼らが悪魔として活動し邪魔をしている事を認めながら、なおかつ彼らを赦し、彼らの存在を赦さんとしているということは、彼らの良心に働きかけているからなのです。
我々も、彼らと同じ様に、彼らを憎しとし彼らを抹殺せんとするならば、我らの心は、既に神の心ではないのです。我らの心は既に悪魔の心です。悪魔だけが悪魔を殺すことが出来るのです。分かって頂けますでしょうか、同じなのです。聖霊と悪魔のことを考える時には、そう考えて下さい。
聖霊は神父です。日曜日の説教をしている教会の中です。邪魔されたくないのは山々なのです。そういう時に、彼らはドアを開けて入って来るのです、ドカドカ土足で。そういう時に、どうするかということです。そういう時に、例えば警官を呼んで強制的に彼らを連れて行くことも出来るでしょうが、そういう事をしたならば、例えば、あなたの話を聴きに来ていた人達も、あなたの話は、聴きに来なくなるでしょう。多分そうなるでしょう。そうだと思います。
あなたが、彼らの良心に呼びかけ、彼らに話しかけ、彼らを教化せんとして努力するならば、彼らは、あなたに対して暴力を振るうかも知れません。けれども、あなたが彼らに暴力を振るわれようとも、彼らの善なる心、良心を信じて話しかけ、遂にあなたが怪我をさせられる事があったとしても、あなたの信徒たちは、あなたに対する尊敬の念を失わないでしょう。
しかし、あなたが強制力を使って彼らを排除したならば、一時的には説教は続いたとしても、やがて誰もあなたの話を聴かなくなるでしょう。イエスの例もそうなのです。イエスは、最後まで彼らに語りかけたのです。そのような無法者達、彼らは手荒く彼を鞭打ち殴り蹴りしたわけでありますが、しかし、イエスは抵抗せずに、最後まで神の国を信じ、神の言葉を述べ、彼らの良心に働きかけたはずです。
どちらが偉いかということを、あなたはよく考えてほしいのです。どちらが、神の御心に適うかという事を考えてほしいのです。すぐ(に)、悪魔はいけない、彼らを閉じ込めてしまう、彼らを抹殺してしまうという考えは、神聖な教会の中に、警官隊を導入して彼らを引っ張って行く、あるいは処刑してしまうということと同じ事です。
あなたが真の神父であり、真の神を信ずる人ならば、たとえ殴られようとも、蹴られようとも聴衆が迷惑がろうとも、彼らに一生懸命に語りかけるはずです。それが、真の姿ではありませんか。それが真の姿、それが真の慈悲ではありませんか。(それと)同じです。
ですから、私達が何千年にも渡って法を説いても悪魔がなくならないのはどうしてか、地獄がなくならないじゃないか、と言われる向きもあるかも知れません。それはそうです。一番効率の悪いやり方をやっているのです。それは、なくならないはずです。この譬をもって理解して頂きたいのです。
効率のいいのは、強制的に彼らをなくしてまう方がいいのです。けれども、そうではないのです。我々は、非常に遠回りな方法ですが、悪魔たちの良心に語りかけているのです。彼らの良心が目覚めるのを待って欲しいのです。これを分かって欲しいのです。永い時、我々も忍耐しているのです。
あなたは以前に、ある霊から話をお聴きになっておられるはずです。教え子が百点を採れないからといって、教えた先生が間違っていたと言えるか。教えた側は出来る限りのことを教えているが、三〇点の答案しか書けない人もいれば七〇点の答案を書ける人もいる。
彼らは、あなた方の言葉で言うなら、落第しているのです。先生の教えを理解していないのです。そういう時期、そういう地域、そういう人達になっているのです。決して、教えそのものから、現在の混乱を導き出されるものではないのです。寧ろ教えの不在です。
そういう時期に、彼の地に、光の天使がやがて現われて来ます。平和の前には混乱があるのです。統合の前には分裂があるのです。
私は語ったはずです。心です。我らの教えは、心です。心の中に王国を築けず、どうして地上に王国が築けようか。この地上の争いは心の中の争いの延長にしか過ぎないのです。
まず、人の心の中に、ユートピアを築かんとすることが先決なのです。争いは、心に根を発しているのです。争いを力によって制しようとしても、これは出来ないのです。根本を押さえることです。これが違っているのです。心の教えが不在なのです。
神の支配する、神一元の世界であるはずの地球上で、唯物論に基づく国家が、各所に形成され、現在では、それは世界を二分する程に膨脹して来たと言われましたが、これは(地上の人間の心の)迷い(の現れ)です。
近世に、マルクス、あるいはレーニンのような、思想家あるいは指導者が出現して来ましたが、これは迷いということではなく、彼らは、彼らの使命を十分に果たさなかったし、また、彼らが不充分に行ったことに対して、他の人は、更に誤解していたということなのです。
こういう人達は、今、こちらの世界では地獄にはおりません。マルクスも、また光の天使(で)そして、彼らの本質は唯物論にあったのではないのです。彼は、ユートピア建設のために出て来た光の天使なのです。
唯物論というものも、仏の説法に便法があるように、一つの便法なのです。一つの譬なのです。ただ、それが先走ってしまったところに謬(あやま)りがあるのです。彼の計画はユートピアの建設なのです。
ところが、時代が時代で、科学が進み物質万能の時代です。このような時代に霊のことを言ったところで、ユートピア建設は難しいのです。むしろ、物質万能、物質科学優先の時代なら、それはそれでいい。物質は物質と認めた中で、またユートピア建設の道があるのではないか、という方向で行ったのが、彼の考えです。唯物論というのは便法なのです。マルクス自身、物だけしかないなどとは思っていないのです。神を信ぜずして、なぜユートピアなど考えることがありましょうか。
ですから、(マルクスも、レーニンも)想い、志は良いのです。ただ、便法を真理だと信じたところは誤りなのです。比喩を、そのまま真理だと考えた所に誤りがあったのです。
それが教条となり、教条主義となって行ったのでしょう。マルクスの時代には、貧富の差も激しく、人の上に立つものと下に立つもの、差別するものと差別されるもの、搾取するものと搾取されるもの、このような階級分化が激しかったのです。
心の平和を説く以前に、環境自体の浄化を考えなければ、人々は神の世界に入って行けるような状態ではなかったのです。そのために彼は、物質の世界においても人間はある程度まで救われなければいけないという事、それを理論として説いたのです。それは過渡期の思想なのです。それが永遠の思想、真理だと思えば、そこが誤りです。
以来、物質文明は、急速に進歩し、現代、機械文明は、著しい進展を見せていますが、(それが人類の幸福に結び付くかと言えば、これは、単に)そういうふうにな(るであ)ろうということであって、本質的には、どうということではないのです。
環境がどのように変わるかという事は、一つの素材の変換にしか過ぎないのです。どのような変換があってもよいのです。例え、この時代に、あなたの身の周りを恐竜が徘徊していたとしても、あなたは、また神の心を、神の教えを説かねばならないのです。同じなのです。あなたが、例えロボッ卜に囲まれようとも、同じです。
(我々の教えには)神の義があり、神の愛があり、神の慈悲があるわけです。慈悲を説いたのは釈迦です。愛を説いたのはキリストです。義を説いたのは私です。
現世には、この神の御意(みこころ)のうち、やはり愛も必要、義も必要、慈悲も必要ではないでしょうか。かつて我々は、我々が信じた一神、エホバであり、ヤハウェを、争いの神、妬み、嫉妬の神、というふうに言われたことがあり、それが神学上の問題になっております。それは「義」ということと絡(から)むのです。正しきものは実現されなければいけないのです。
「義」とは、神の「神理」であります。神理は実現されなければいけない。神理が実現されるためには、神理でないもの、非神理は影をひそめなければならない。これを、強さを持って実践するのが義であります。義とは、神の国実現のための力であります。
「愛」とは、神の国を造り上げていくための鎹(かすがい)です。粘土であり、セメントです。「義」とは、神の国を造るための土地ならし、土台造りです。「愛」は、神の家を造るための材料と材料、木と木、石と石をくっつけるための、釘であり鎹であり、粘土でありセメントであります。これが愛です。
今日は、義が失われた時代です。そういう意味で、今の宗教には、義というものがあまりありません。これも一つ、考え直すべき点ではないでしょうか。これが行き過ぎると、宗教戦争になるかも知れません。他宗の排撃になるかも知れません。しかし、本来神の「理(ことわり)」は強くなければならないのです。そういう意味では、旧勢力が強い時代には、義ということが強調されなけれぱならないこともあるのです。
今、新しい「十戒」、新たな神の指針、それに沿った新たな人間の行動原理が必要な時代となって来ました。「十戒」は、私が「十戒」を表わしてより千年の間、人々の行動指針となったのです。
また今後、このような価値の乱れた時代においては、人々の行動指針となるものが必要となって来るでしょう。それは、単に霊を信ずるとか、お互いに仲良くする、というようなものだけではなくて、神の意図に沿った、人間の行動指針というものを打ち出して行き、それが、今後の人類の、文明、文化の発達して行く基礎となり方向付けになって行かねばならないでしょう。
それらを、いま一時に全て(を)私は語りませんが、やがて、あなた方に、啓示という形で教えて行くこともあろうし、あなた方ご自身で気付いて行くこともあろうし、いずれにしても、あなた方がやるべきことは、今後の人類、後に来る人々に対する贈り物を出して行かねばならぬということです。
二千年、三千年先の事まで考えなさい。今、現時点で、どうであるという事ではなくて、二千年、三千年先の人に対するメッセージを残さねばならぬということです。その折りにモーゼという名が、まだ、あるかどうかは定かではありません。イエス・キリストも伝説の、神話の人になっているかも知れません。現在は、まだ、実在の人と信じていますが、千年、三千年先にはモーゼも神話、イエスもまた神話の人となっているかも知れません。
その時に、あなた方が、実在の人間として残した教えというものが、残らねばならぬということです。
結局のところ、人間は、なぜ輪廻転生をするのか、という、この法則の説明と、そのような法則が明らかになったならば、如何にして生きねばならないのか、と言うことを説く、その事に尽きるのです。それ以上のものではないのです。この世界は、神が創られたものであり、神のご計画は、人間を、現象界から天国へと輪廻転生させるということ、そしてその中で、どのように生きて行かなければならないのか、という事を悟らせる事、これに尽きているのです。
これ以上のものではないのです。非常に簡単なものです。これを、後の世の人々に、明瞭な形で、彼らの行動指針となるような形で、残して行きなさい――。
この輪廻転生があるということが、神の大いなる慈悲であるということを、はっきりと説き示さねばならぬということです。
(我々の居る霊天上界についてですが、)天上界というものは、地球は丸いのですから、上といっても横といっても、所詮同じことなのですが、比喩としては、やはり高い所から、いわば下を見ているという形になります。
天上界(の霊域に)は、六次元、七次元、八次元とあり、私がいる霊域は九次元です。六次元、七次元の方は、九次元の世界へは行く事は出来ません。上方の方は下方へ来ることは可能です。宇宙界といわれる九次元の霊域にいるのは数名です。
七大天使といわれる方々は、私たちの近くにおります。八次元の霊域には、如来の方は四、五百名おります。次が七次元の菩薩界、そして、菩薩界と如来界との間に、仏教でいう<梵天>というか、梵天の境地があります。七次元と、八次元の境であります。「天台智覬」といわれる方も、この梵天の霊域におります。八次元といえば八次元、七次元といえば七次元、この中間の域に達している霊であります。
(どの霊域に誰がいるというようなことに関して、ご興味がお有りなのは分かります。)ただ、私たちが心配していることは、差別知でもって霊的世界を理解してもらっては困るために、あまり(そうしたことは)言いたくはないのです。人間に、そのような階級があり、段階があるという発想は、一歩誤れば、非常に危険なものとなるのです。人間の魂は平等だ、という考えも大切であります。
例えば、いま段階という形で捉えました、ある人よりも、ある人が偉いとか下であるとかいう考え方も一つありますが、こういう考え方も出来るのです。人間の魂というものは、各人、神の子であり一箇の球体であって、この球体には大きな違いはないのです。各人、同じ球体なのです。同じ球なのです。その意味において各人の魂は平等なのです。しかしながら、永年の転生輪廻の過程における修行の度合によって、同じ大きさの球であるにも関わらず、ある球体は非常な輝きを持っており、ある球体は鈍い輝きを持っており、ある球体は全く光を発していない、このように、平等であるけれども光の度合が違う、ということがある。その光の度合を譬えて言うならば、如来界、菩薩界、という様なことで言っているのであって、それは魂として違うのだ、という様なことではないのです。
魂が違う、段階が違う、という考えは、一歩間違えば、大変な間違った思想になってしまうのです。各人の魂は、神から分かれたものであり、本来、神と同一なものです。一個の同じ大きさの球であるということ、しかし転生輪廻の過程によって輝きが違うのだし、輝きの違いによって、如来だ、菩薩だ、あるいは神界だという様な区別をしているだけであって、しっかりと磨けば、如来の光が、菩薩の光が出て来るのだと、この様に、差別心と平等心とを融合した立場をとって頂きたい。これを間違うと、あなた方も、大変な増長慢となってしまうのです。
別の比喩で言うなら、球としては同じであるが、ある部分が発達している球と、違う部分が発達している球とがあって、たまたま、私達は、神の使命を担う部分で球が発達しているだけであって、他の部分が発達していない。ところが、その部分が発達している者もある。そういう意味で人間は平等なのです。仕事が違う、という考え方も一つ、光の違いがある、という比喩も一つ、そのようにお考えになって下さい。
本質的に、人間には貴賤もないし、七次元より八次元が偉い、というような事でもないのです。そのような思想は、一歩誤れば、大変な間違いとなるので、私は、敢えてこう言っておくのです。
例えて言うならば、高さの違いはあるのだけれども、それは球体の面として考えると、例えば神を北極とするならば、北極の近くにある面と、そうではない所が発達している面とがあるわけであって、仕事の違い、というふうにも取れるし、光の度合が違う、とも取れるはずです。
光の度合が違うのであるならば、いま、光輝燦然と輝いている者も、やがて曇ってしまうこともあり得るし、いま曇っている者も、また光ることが出来るのです。こういう事なのです。
私は言っておきますが、あなた方の使命は、今の時期に、本当の「神理」を残す、ということです。分る人は分るし、分らない人は分らないでしょうが、しかし、千年、二千年と伝えていく必要があるということです。
我々は、いつの時代でも、こうして出て来るわけではないのです。我々が出て来る時代は決まって激動期、あるいは人類の転換期です。そういう意味で、我々がこの様な形で、人を介して語るということは、滅多にない事ですので、その時点で、最高度の教えを残しておく必要があるのです。
私が、いま語っている事を、素直に信じることが出来る人が、いま、生きている人間の中で、一体、幾人いるでしょうか。私自身も、それは定かに知り得ません。しかしながら、どうしても残さねばならないということです。
あなた方は、もっと強くありなさい。あなたの先人達の苦労辛酸を想い起こして、もっと強く生きなさい。怠惰になっていないかどうか、ということをよく考えなさい。環境が楽であれば楽であるほど、一層励まなければならない、ということです。環境との戦い、という事に、先人たちがどれだけ苦労したかということを想い起こしてご覧なさい。あなた方は、まだまだ楽な環境にあります。楽な環境にあるからこそ、先人達が登れなかった所まで、登ってみせなければならないのです。
強くあって欲しい。神を信ずる正しい人は、強くあって欲しい。自分の弱い所を見つけたならば反省し、もっともっと強くあっていて欲しい。私が言えることは、そんな抽象的なことに過ぎません。
私は、あなた方に、具体的に何をどうせよとは申しません。強くあって欲しい、不動の心を持って欲しい。人にこう言われるんじゃないか、というような、そのような小さな事に負けてしまうあなた方であって欲しくない。強くあって欲しい。
あえて、身の周りに争いを起こす必要はないけれども、しかし、強くあって欲しい。強さです。今のあなたの中に強さがありますか。正法を流布するには、熱意と強さが、共に必要なのです。
私は(地上の人生では)力強い生涯を送ったと思っております。それは、正しい者は強く生きねばならない、正しいとは、神の義です。「義」神の義に適った者は、強くあらねばならない、そういう考えです。あなた方が正しいと信ずるなら、その信念の強さはあなた方の生き方の、勇ましさになって来なければいけません――。
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