天照大御神の、霊界からのメッセージ、ということで、続けさせて頂いております。ここでは、アマテラス様は、いわゆる高天ヶ原と呼ばれる領域について、詳しく語られています。高天ヶ原の実態とは、どういうものなのか、それが具体的に明かされることは殆んどありませんでした。非常に珍しい興味深い内容だと思います。
(ここから)
天照です。今日は、神々、高級霊、こうしたことについて、お話をして参りたいと思います。
日本では、古来より、八百万(やおよろず)の神々といって、たくさんの神が居られる、と言われています。これは、神近き人々、或いは、高級霊、と言われる(霊界に在住する)人々に対する、国民の、長い間の尊敬の念が、その様にさせたのだとも言えましょう。
神々と称されている方々も、その姿が、余りにも人間的である事から分かります様に、かつては、地上で肉体を持って生きた事のあった方々です。彼らの多くは、地上に在った時に、その偉大な霊能力ゆえに、神と称されていた方々です。そうした名が、後々に語り伝えられて、現在では、高天原(たかまがはら)に数々の神がいらっしゃる、という事になっています。
この、古事記等で有名な高天原ですが、これが、現にあるか否か、という事が、皆さんの、多くの方々の疑問に思われる事だと思いますが、高天原と言われる霊域は、現にあるのです。それは、主として、この日本という国の、立体的な話をするならば、上空にある霊域という事になりましょうが、そこに、数々の神が集まって居られるのです。
その情景を話すとするならば、やはり荘厳な金色(こんじき)に光る大地があり、そうして、その中に、ひときわ高い山があります。その山は、七色に光りながら、その頂上がどこまで繋がっているかが分かりません。
こうして、その山を中心にして、様々な色の美しい雲が棚引(たなび)いています。この山の事を、高天原中心山(たかまがはらちゅうしんざん)と申します。その高さは、地上的なる感覚で言うならば、一万メートルをも越えている様な高さではないか、と思います。その位の高い山です。
そうして、その麓(ふもと)には、古代の衣装をした神々が数多く住んで居られます。この麓に当たる部分が、あなた方がよく知っている言葉では、菩薩界(七次元領域)と言われる世界であろうか、と思います。日本の神域、霊域においても、数々の諸菩薩が居られる訳であって、ここでも、数百、或いは、数千に近い方々が、一緒に住んで居られます。その中には、もちろん、近、現代の日本に出られた神々も居られるために、非常に変わった身なりをしている方も居られますが、大多数の方は、やはり古代の神々の様な姿をして住んで居られます。
その多くの方々は、その高天原に、例えて言うならば、出雲大社であるとか、伊勢神宮であるとか、そうした神社、社(やしろ)という様なものを造って、そこを中心に生活しているのです。そして、彼らの大多数の人の仕事というものは、やはり、どの様にして人々を指導するか、また、日本という国を、どの様にして、今後、よい方向に指導して行くか、こうした事を、日々話し合い、考え合っているのです。
この、高天原にいる神々の内で、その半分以上の方々は、現に、地上に在る人々を指導しています。各人が、何人か受け持ちをしていて、地上に生きている、その、神の使命を帯びた方々を、何らかの形で指導しています。それは、宗教家であったり、学者であったり、財界人であったり、或いは、政治家であったりすることもあり、その職種は、多様に分かれておりますが、地上にある人々を導いて、この日本の国を、素晴らしいものとして造って行くためにやっているのです。
また、高天原の中には、地上にある外務省、外務局に当たる様な仕事もあって、この日本の国に、異国の神々が教えを説かんとして来られる時に、その許可を与えたり、その影響度の範囲を決めたりする仕事をしている方々も、現に居られます。
こうした高天原に、多くの神々が住み給うて居られますが、例えば、私は、どういう所に住んでいるか、というと、大抵の場合、この高天原中心山の八合目位の所に、大きな神殿を造って住んでいるのです。そうして、大抵の場合は、この山からは降りて参りませんが、月に一度は、山を下って麓に降り立ち、この高天原の諸神相集う席上で、お話をしているのです。こういう意味において、現在でも、私は、日本神道系の中の主宰神の一人として活躍をしているのです。
また、私は、高天原中心山の八合目に住んでいると言いましたが、この頂上に住んでおられると言われている方が、天之御中主之神です。この方が、高天原中心山の頂上に住んでおられると言われているのです。
そのお姿は、真(まこと)に神々(こうごう)しく、また年の頃は、七十歳ぐらいにも見えますが、白いあご髭(ひげ)、てかてかと赤銅色(しゃくどういろ)に光るお顔、そうして、体から発散する黄金色のオーラ、その白い衣装の、まばゆいこと、こうした、高齢とは思えぬほどの精力に満ち気力に満ちた方、そうして力強い言霊を発する方、この方が、天之御中主之神と言われる方です。
この方も、どこにお住まいかは、多くの方は存じ上げませんが、しかし、時折、神々を指導し、また、地上への直接の指導もされているようです。
これが、私達が住んでいる高天原の本当の姿です。
さて、神々とも呼ばれる、彼ら高級霊の本質は一体どこにあるのか、その点について説明をして行きたいと思うのです。
彼らは、生まれつきの神であるのか、或いは、神となった方々であるのか、それについて話をしてみたいと思うのです。これに関しては、二つの考え方があり、神は最初から神であり高級霊は最初から高級霊である、という考え方もありますし、或いは、転生輪廻(てんしょうりんね)の過程において、高級霊へと生長して行った、とする考え方もあるでしょう。
実際、高天原に住んで居られる諸神霊の出生(しゅっしょう)、その神となられた謂(いわ)れを考えてみますに、結局彼らは、やはり、その八割位の方は、当初より高級霊として存在していた方の様に思います。日本の国が造られるに際して、神々と称する方が集め寄せられた事は事実であり、彼らを中心勢力として、この日本の国を造って行ったという事実はあります。この意味において、神は、最初から神である、と言えましょう。
しかし、残りの二割程の人は、最初から神ではなかった方々も居られます。それは、この日本という国で、様々な時代に降りて行って大いなる仕事をしているうちに、神と並び称される様な偉大な心性、心というものを持つに至った方々が居られるからです。彼らは、まだ新参(しんざん)の者である故に、大変恐縮をしておりますが、ただ、その仕事が、大いなる評価を得た、という事に対しては、大変な自信を持っています。
神々の世界では、やはり、魂の古さという事が、一つの指標になります。同じく高天原に住んでいたとしても、太古より住んでいる方と、そうでない方とでは、やはり、その神としての格に違いがあります。この意味で、新しく神となられた方であっても、まだ、その人が高天原の住人として日が浅い事が、その容貌にも出ています。
それは、どことなく人間臭さが漂っている、という事です。地上に在っては、人間臭いということは、一つの喜ばれるべき特質とも言われているでしょうが、この高天原においては、人間臭さがあるという事は、大変恥ずかしい事とされています。いち早く、人間的属性を捨て去った者こそが、本当の神と称される様になって來るのです。
心の中に人間的なる属性が残っている方は、常に、その事に劣等感を抱いていることが多く、他の神々と接するに際しても、どうにかして、その人間臭さを見破られない様に、他の人に気付かれない様に、と、心を遣(つか)っている様です。
地上においては、成功という名のもとに、様々な事に手を伸ばし、社会的な地位や、名声や、金銭で、自ら得意満面となっていた者達は、この世界に来れば、そうした事をどれだけ思わなかったか、思わなかった様に見せたい、という気持ちで一杯になって行くのです。地上に在った時に、人々に羨(うらやま)しがられた様な職業に就いていた人が、どれほど、その事を隠そうとしているか、という事を、皆さんはご存知でしょうか。
例えば、政治家であっても、総理大臣となった様な人の中にも高級霊は居りますが、地上に居た時に、神の僕(しもべ)として生き切らずに、自分が日本で一番偉い、という様な思いで生きて来た人は、こちらに還ってから、その心境を隠す事で大変苦労しています。どうにかして、その古着を捨てたいと思っているのだけれども、如何(いかん)せん、地上時代のその名残りが拭(ぬぐ)い去れないで、苦しんでいることが多いのです。
歴代の政治家の中で、この菩薩界という所、高天原の神々に近い席を許された方として、まず、明治の時代においては、伊藤博文(いとうひろふみ)という方もいます。或いは、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)という方もいます。これ以外にも、大正期になりましょうか、原敬(はらたかし)という名前で言われている元首相も来ています。
昭和期になっては、高橋是清(たかはしこれきよ)、近衛文麿(このえふみまろ)らも、地上を去って後は、こちらでは、そうした神々と同じ待遇を受けて居ります。
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天照です。今日は、神々、高級霊、こうしたことについて、お話をして参りたいと思います。
日本では、古来より、八百万(やおよろず)の神々といって、たくさんの神が居られる、と言われています。これは、神近き人々、或いは、高級霊、と言われる(霊界に在住する)人々に対する、国民の、長い間の尊敬の念が、その様にさせたのだとも言えましょう。
神々と称されている方々も、その姿が、余りにも人間的である事から分かります様に、かつては、地上で肉体を持って生きた事のあった方々です。彼らの多くは、地上に在った時に、その偉大な霊能力ゆえに、神と称されていた方々です。そうした名が、後々に語り伝えられて、現在では、高天原(たかまがはら)に数々の神がいらっしゃる、という事になっています。
この、古事記等で有名な高天原ですが、これが、現にあるか否か、という事が、皆さんの、多くの方々の疑問に思われる事だと思いますが、高天原と言われる霊域は、現にあるのです。それは、主として、この日本という国の、立体的な話をするならば、上空にある霊域という事になりましょうが、そこに、数々の神が集まって居られるのです。
その情景を話すとするならば、やはり荘厳な金色(こんじき)に光る大地があり、そうして、その中に、ひときわ高い山があります。その山は、七色に光りながら、その頂上がどこまで繋がっているかが分かりません。
こうして、その山を中心にして、様々な色の美しい雲が棚引(たなび)いています。この山の事を、高天原中心山(たかまがはらちゅうしんざん)と申します。その高さは、地上的なる感覚で言うならば、一万メートルをも越えている様な高さではないか、と思います。その位の高い山です。
そうして、その麓(ふもと)には、古代の衣装をした神々が数多く住んで居られます。この麓に当たる部分が、あなた方がよく知っている言葉では、菩薩界(七次元領域)と言われる世界であろうか、と思います。日本の神域、霊域においても、数々の諸菩薩が居られる訳であって、ここでも、数百、或いは、数千に近い方々が、一緒に住んで居られます。その中には、もちろん、近、現代の日本に出られた神々も居られるために、非常に変わった身なりをしている方も居られますが、大多数の方は、やはり古代の神々の様な姿をして住んで居られます。
その多くの方々は、その高天原に、例えて言うならば、出雲大社であるとか、伊勢神宮であるとか、そうした神社、社(やしろ)という様なものを造って、そこを中心に生活しているのです。そして、彼らの大多数の人の仕事というものは、やはり、どの様にして人々を指導するか、また、日本という国を、どの様にして、今後、よい方向に指導して行くか、こうした事を、日々話し合い、考え合っているのです。
この、高天原にいる神々の内で、その半分以上の方々は、現に、地上に在る人々を指導しています。各人が、何人か受け持ちをしていて、地上に生きている、その、神の使命を帯びた方々を、何らかの形で指導しています。それは、宗教家であったり、学者であったり、財界人であったり、或いは、政治家であったりすることもあり、その職種は、多様に分かれておりますが、地上にある人々を導いて、この日本の国を、素晴らしいものとして造って行くためにやっているのです。
また、高天原の中には、地上にある外務省、外務局に当たる様な仕事もあって、この日本の国に、異国の神々が教えを説かんとして来られる時に、その許可を与えたり、その影響度の範囲を決めたりする仕事をしている方々も、現に居られます。
こうした高天原に、多くの神々が住み給うて居られますが、例えば、私は、どういう所に住んでいるか、というと、大抵の場合、この高天原中心山の八合目位の所に、大きな神殿を造って住んでいるのです。そうして、大抵の場合は、この山からは降りて参りませんが、月に一度は、山を下って麓に降り立ち、この高天原の諸神相集う席上で、お話をしているのです。こういう意味において、現在でも、私は、日本神道系の中の主宰神の一人として活躍をしているのです。
また、私は、高天原中心山の八合目に住んでいると言いましたが、この頂上に住んでおられると言われている方が、天之御中主之神です。この方が、高天原中心山の頂上に住んでおられると言われているのです。
そのお姿は、真(まこと)に神々(こうごう)しく、また年の頃は、七十歳ぐらいにも見えますが、白いあご髭(ひげ)、てかてかと赤銅色(しゃくどういろ)に光るお顔、そうして、体から発散する黄金色のオーラ、その白い衣装の、まばゆいこと、こうした、高齢とは思えぬほどの精力に満ち気力に満ちた方、そうして力強い言霊を発する方、この方が、天之御中主之神と言われる方です。
この方も、どこにお住まいかは、多くの方は存じ上げませんが、しかし、時折、神々を指導し、また、地上への直接の指導もされているようです。
これが、私達が住んでいる高天原の本当の姿です。
さて、神々とも呼ばれる、彼ら高級霊の本質は一体どこにあるのか、その点について説明をして行きたいと思うのです。
彼らは、生まれつきの神であるのか、或いは、神となった方々であるのか、それについて話をしてみたいと思うのです。これに関しては、二つの考え方があり、神は最初から神であり高級霊は最初から高級霊である、という考え方もありますし、或いは、転生輪廻(てんしょうりんね)の過程において、高級霊へと生長して行った、とする考え方もあるでしょう。
実際、高天原に住んで居られる諸神霊の出生(しゅっしょう)、その神となられた謂(いわ)れを考えてみますに、結局彼らは、やはり、その八割位の方は、当初より高級霊として存在していた方の様に思います。日本の国が造られるに際して、神々と称する方が集め寄せられた事は事実であり、彼らを中心勢力として、この日本の国を造って行ったという事実はあります。この意味において、神は、最初から神である、と言えましょう。
しかし、残りの二割程の人は、最初から神ではなかった方々も居られます。それは、この日本という国で、様々な時代に降りて行って大いなる仕事をしているうちに、神と並び称される様な偉大な心性、心というものを持つに至った方々が居られるからです。彼らは、まだ新参(しんざん)の者である故に、大変恐縮をしておりますが、ただ、その仕事が、大いなる評価を得た、という事に対しては、大変な自信を持っています。
神々の世界では、やはり、魂の古さという事が、一つの指標になります。同じく高天原に住んでいたとしても、太古より住んでいる方と、そうでない方とでは、やはり、その神としての格に違いがあります。この意味で、新しく神となられた方であっても、まだ、その人が高天原の住人として日が浅い事が、その容貌にも出ています。
それは、どことなく人間臭さが漂っている、という事です。地上に在っては、人間臭いということは、一つの喜ばれるべき特質とも言われているでしょうが、この高天原においては、人間臭さがあるという事は、大変恥ずかしい事とされています。いち早く、人間的属性を捨て去った者こそが、本当の神と称される様になって來るのです。
心の中に人間的なる属性が残っている方は、常に、その事に劣等感を抱いていることが多く、他の神々と接するに際しても、どうにかして、その人間臭さを見破られない様に、他の人に気付かれない様に、と、心を遣(つか)っている様です。
地上においては、成功という名のもとに、様々な事に手を伸ばし、社会的な地位や、名声や、金銭で、自ら得意満面となっていた者達は、この世界に来れば、そうした事をどれだけ思わなかったか、思わなかった様に見せたい、という気持ちで一杯になって行くのです。地上に在った時に、人々に羨(うらやま)しがられた様な職業に就いていた人が、どれほど、その事を隠そうとしているか、という事を、皆さんはご存知でしょうか。
例えば、政治家であっても、総理大臣となった様な人の中にも高級霊は居りますが、地上に居た時に、神の僕(しもべ)として生き切らずに、自分が日本で一番偉い、という様な思いで生きて来た人は、こちらに還ってから、その心境を隠す事で大変苦労しています。どうにかして、その古着を捨てたいと思っているのだけれども、如何(いかん)せん、地上時代のその名残りが拭(ぬぐ)い去れないで、苦しんでいることが多いのです。
歴代の政治家の中で、この菩薩界という所、高天原の神々に近い席を許された方として、まず、明治の時代においては、伊藤博文(いとうひろふみ)という方もいます。或いは、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)という方もいます。これ以外にも、大正期になりましょうか、原敬(はらたかし)という名前で言われている元首相も来ています。
昭和期になっては、高橋是清(たかはしこれきよ)、近衛文麿(このえふみまろ)らも、地上を去って後は、こちらでは、そうした神々と同じ待遇を受けて居ります。
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