先日の『インディペンデンス・デイ』の記事に出て来た、同名の映画の中では、自分の判断で、どんどん地球外生命体、他への対応を決断していくアメリカの大統領の姿がありました。
けれども、現実には、歴代のアメリカの大統領は、他の国の多くの元首と同じく、殆んど自分の判断で物事を決断できる人はいませんでした。みな、後ろの見えないところで指図をするカバールと言われるグループの意向に從わされて来たわけです。そういう意味でも、あの映画は、プロパガンダであったわけです。
さて、アメリカの大統領の中でも、伝記などでもよく読まれ、今もよく知られている方に、リンカーン大統領があります。私も子供の頃に読みました。
今から35年ほど前に、あるチャネラーに降ろされた、そのリンカーン大統領のメッセージをご紹介します。リンカーン大統領は、カバールに暗殺された数人のアメリカ大統領のうちの一人ですが、やはり、独自の判断で政治を行おうとした勇気と誠意ある人物だったようです。このメッセージにも、それが表れているように思います。
もとはインタビューですが、編集してあります。(カッコ)内は補足です。タイトルはこちらで付けました。
(ここから)
私は、いま自分が何を感じて、何を思っているかということ、あるいは、(現代の)世界に対し、政治に対し、私のやり残したことに対し、アメリカという国に対し、アメリカの(これから)後のことに対し、何らかの意見を述べることは出来るかと思います。
私の人生については、様々な伝記が出ていますので、いま私のロから繰り返すことは、出来たら避けたいと思います。おそらく、いまのあなた方にとって大切なことは、人間が社会生活を営んでいく上で、一番大切なものは何か、というようなことではないでしょうか。
この社会の中に、どの様に人間として生きていくべきか、ということを語ることが、あなた方にとって大切かも知れません。
まず、私は思うのですが、人間は、なぜ国というものを造るのでしょうか。私は、アメリカの大統領として僅か数年の間だけ生きましたが、その間、あなたもご存知のような奴隷解放とか、様々な演説とかが残ってるわけですけれども、どんなことを人生の基礎に置き考えていたか、何が人間にとって、何が国にとって大事であるかということ、何を考えたかということです。
当時、1800年代のアメリカにおいてですけれども、思ったのです。国というものは、国があって、その中に人間が居るものではない。(まず)人間があって、(その意思の結果として)国というものがあるのです。(当時)南軍とか、北軍とかいって争いましたけども、決して国のために争ってはいけないのであって、本来、人間は、人間のための国造りをしなければいけない。そう思ったのです。
そして、人間のための国造りとは、一体なんでしょうか。人間のための国造りとは、結局のところ、人間による国造りだということです。人間のための国造りは、人間による国造りであり、人間による国造りは、多くの人々による国造りでなければなりません。
即ち、我々が、国というものを与えられて、その中に単に生存しているのではなく、国というものは、我々が積極的に造り出していくもの、国が、造り出していくものであるならば、我々は国造りのために努力しなければなりません。
では、どのようにして国造りがなされるでありましょうか。
建国ということは、ほんの一時期のことです。国造りというものは、一回限りで終わるものでなくて、永遠に続けられねばならないのです。なぜならば、国の中に生きている人々は、新陳代謝し、古いものは去り、新しいものは生まれて来、そして、人は変わっても、国というものは続いていくのですから、これは永遠に、人々が、新しい国を、その時代、時代に作っていかねばならないということです。どのような国を作っていくか、それは人民の参加しかないと思います。
人民は、国造りに日々参加すること(が大事)だと思います。それは、人民によって、人民の参加が決められ、その結果、国が出来るというのが、正しいあり方だと思うのです。
それでは、人民による、とは如何なることでしょうか。もちろん、すぐれた人民による国造りがなされることは素晴らしいことです。けれども優れた人々とはどういう人々かということは、必ずしも明らかではないのです。
少なくとも、優れた人々によって国造りをしたい、という意図の背景には、素晴らしい国を造ったならば、より多くの人達が幸せに生きていくことが出来る、という希(ねが)いがあるのです。それならば、優れた少数による政治が、たとえ実現しなかったとしても、出来るだけの多くの人達が幸せを享受できるような国であれぱよいではないか。
優れた人々による政治がなされるのが基本であるけれども、それが効率の良いあり方であるけれども、効率を捨ててでも全ての人が参加できるような国であれば、それは素晴らしいものではないか、そういうことを考えたのです。
選ばれた人だけの国、国を動かす政治ではなくて、全ての人々が動かす国であって、政治であってほしい、そう思ったのです。私の奴隷解放運動も、一つには、そういう思いがあります。国というものが先ずあって、国の政治があり、国の機構があって、その下に人民が居るのであれば、人民は様々な統制の下に生きても、やむを得ないかも知れない。けれども、政治というものは、本来、人民が寄り集まって始めたものであります。
そうであるならば、人民のための政冶であります。人民のための政冶であり、人民のための国であるならば、なぜ人民が不幸な統制のままに生きていることが許されるのであろうか、そのようなことが許されていいわけはないのです。ですから、当時の奴隷解放ということも、場合によっては、アメリカという国を二つに分けてしまう、国が分裂するような危機の中にあって、私は判断を迫られたわけです。
私の判断の基礎にあったものは、奴隷を解放するかしないか、という様なことで国が二つになるか一つになるか、という様なことではなく、国というものは、そもそも、ないのだ。人民が作り上げたものが国であって、国そのものは実体はないのである。そういう発想があったのです。
少なくとも、(国とされるものの中に)住人で居る人達が、みな幸せに、最大限の人達が幸せになれるような国でなければ(意味がありません)。そうであれば、北とか南とか、国が分かれるとか分かれないとか、そういったことは問題ではないはずなのです。奴隷ということは一つの象徴であります。必ずしも奴隷だけではありません。アメリカという国土には、自由な民主主義の国を造らねばなりません。そこには、何の階級もない国、すばらしい国、人々によって作られた国、こんな国を造りたいと思いました。
あなた方、日本でも、国創りのために降りた指導霊が居るように、私も、また、アメリカという国の国造りのために降りた指導霊の一人なのです。で、アメリカという国を、どのような国にするかということを、一生懸命考えた人間なのです。あなた方は、先ほど、日本の国創りのための神々(神霊)の言葉を聴いておられました。私は、いま、それを霊的に見ることが出来たのですが、アメリカという国は、比較的新しい国ですが、これも何百年も、千年も、二千年も経てば、そういう日本の国創りの神々のように、おそらく私のような人間も、そうしたように、アメリカの神々のような扱いを、おそらく受けるようになると思います。
話が外れましたが、要するに、人民のための国造りが大事であるということです。
それでは、人民そのものは、一体何のために生きて、どのような目的をもって生きていけばよいのでしょうか。人民がこの世に生きているということは、何らかの価値を求めて生きているということです。人間が人間であるということ、人間が動物でないということ、それは、どこに区別があるでしょうか。
人間と動物を区別するもの、それは一つです。人間は価値を求めて行動する動物だということです。普通の動物は価値を求めません。生存を求めるだけです。人間は価値です。何らかの価値、言葉を換えて言うならば、何でしょうか、意義と申しますか、人生の意義、人生の価値、値打ち、何らかのサムシング(Something)を生み出すことが大切なわけです。
何かを、サムシング(価値あるもの)を生み出す、人間として生きている何十年間の人生において『サムシング』を生み出していること、これが人間に課せられた使命ではないでしょうか。このサムシングは、人によって違います。けれども、少なくとも、人間は社会的動物である以上、社会的な行為の中において、政治的な事象の中において、その『サムシング』を実現しなければいけないのではないでしょうか。
哲学的に、宗教学的に、様々な価値を生み出すことも可能です。けれども、人間は、社会的生活を強いられている存在であります。そうであるならば、この社会生活の中において、サムシンダを実現する必要があるのです。何か、です。何かを実現する必要があるのです。
それは些細なことでも良いのです。で、そのサムシングとは何であるか、私は、それを国造りのためにやらねばならぬ、それは、一個の人間として、社会的存在としての一個の人間としては、十分に有意義なことだと思うのです。国を造るということは、非常に重要なこと(サムシング)だと私は思うのです。ですから、何らかの意味において、政治の過程に参加するということ、これが人間に与えられた価値実現の一つではないでしょうか。
では、そのような機会を、すべての人に保証する必要があるのではないでしょうか。そのために様々な政治制度を、選挙制度を、デモクラシーというものは、生み出して来たのではないでしょうか。
(あなたが言われた)デモクラシーが、マンネリ化して、かえって人間を堕落させ、社会風潮としては、義務を忘れた権利の主張、責任を忘れた自由への耽溺となり、一部で社会秩序を乱しているのではないか、その自由主義が過剰な意識となってきたのではないか、ということについてですが、その問題は、永遠に、あなた方、および人類の課題であるのですが、本来ならば、優れた指導者が「国民(くにたみ)」を治めるということが、大切なことなのです。
ただ、優れた指導者というものは、歴史を見ても分かる通り、続きません。一代限りなのです。これが最大の問題なのです。本来は、理想的な指導者が次々と出て、その時世々々を継いでいくのがいいのですが、残念ながら、それが続かないということなのです。王制のようなもので続けていくと、次第に愚鈍な王が出て来て乱世となり、人々を虐げるようなことが出てくるのです。
これを無くするために、少なくとも最大多数の人が参加する政治であるならば、最大多数の人達が何らかの恩恵に浴することが出来るような政治体制にしようとし、そうした政治体制は永続していくことが可能であろうということが、考え方の基礎にあるのです。
永くもつものがいいのか、そこそこの内容で永くもつものがいいのか、素晴らしい内容で一回きりのものがいいのか、この辺が分かれ道になるわけです。
これは政治だけではなくて、宗教においてもそうです。それぞれ偉大な宗教の始祖たち、教祖たちは、みな素晴らしい教えを説かれましたが、二代、三代、四代になっていくと、だんだん落ちていくわけです。同じです。これを落ちないようにするために、色んな制度を作って、宗教組織を作って維持していこうとしているのですが、これは、空虚(むな)しくも、悪いものへと変わっていき、また何百年か、千年かすると、新しい宗教改革家が出て来ては、新たなものを打ち立てるようになるわけです。同じです。ですから方法論です。これは方法論なのですが、永い眼でみて、どういう方法が一番良いかということなのです。
確かに(デモクラシーが)衆愚政治になる危険は、西欧社会、日本を含めて西欧社会にも顕著に現われて来ています。優れた指導者達が必ずしも選ばれているわけではないという事実、これは皆様が知っている事実です。しかし、最悪の暴政を招くよりは、むしろ愚鈍でもいい、少なくとも人々が「是(よし)」とした票を投じた人が治める方が、まだしもましだとする意味では、私は、評価する向きがあっても良いと思うのです。ただ、本来の指導者たるべき人が出にくい状況になっていることは確かですし、低級なレペルにおいて国政が左右されている、ということも事実です。
アメリカはクリスチャンの国です。特に、宗教によって政治が左右されている国ではなくて、宗教は人々の生活に浸透している。それは政治的な争点とは別なものとなっているのです。そして、やはり宗教と国家とが分離した形になっておりますので、どうすることも出来ません。
「祭政一致」といい、政治を司る者は、神のご意志に最も近い人達が政治を行なうのが理想的な政治形態である、とあなたは言われますが、それは優れたことではあると思うのですよ。ただ、今の時代においては、政治家、或いは経済人達、或いは科学者、技術者達が非常に発展し、力を持って来ている世の中です。これらの人々を統合し、納得させるべきものが宗教の側になければ、むしろ宗教は出てくるべきではない。
やはり政治とか、経済の専門家達に、国の運営はまかせておく方が良い。宗教が国政を司ることのできる前提は、彼らが科学者も、政治家も、経済人も、学者も、文化人も全て説得できるような、新たな「価値基準」を打ち立てることが出来た時です。そうした時に、初めて彼らは「祭政一致」をなしとげることも出来るでしょう。けれども、現在の状況においては、多くの人達はそれを望んで居りません。本当に優れた宗教家とは、どういう方であるか、ということすら分からなくなっているからです。
宗教家の中には、上は素晴らしいが、下を見れば切りがないはずです。そうした人達が、いったん誤って国の政治を牛耳るようなことになれば、大変なことになってしまいます。
あなたが言われるように、現在のアメリカの状態で、本来、政治を動かすのは政治家でありますが、その背後にあるものは、やはり軍部であり、国際的な巨大な資本家であり、こういうアメリカの現在とその動向、およびその将来の方向について、(私が)肯定的な立場に立っているか、というと必ずしもそうでありません。ただね、アメリカという国を考えてごらんなさい。たかだか二百年か、そのくらいのうちに、これだけ世界一の国になったのです。こういうことはかつてなかったはずです。
なぜ、アメリカという国があるか、それは「神」は「繁栄」ということを、この地上にお示しになるためにアメリカという国を選ばれた、ということなのです。アメリカは、神の栄光を顕わす、繁栄ということを体現するために、選ばれた国なのです。ですから、ここ百年、二百年の間に、あれだけ、すさまじい繁栄をみたのです。その繁栄の中には、教育や、政治や、或いは技術や、科学、文化、様々なものの繁栄を含んでおります。
やがて、そのアメリカの時代も降っていくでしょう。そして、そうした文明上の繁栄の後には、おそらく一大宗教的革新が起きると思います。
かつて、ヨーロッパに宗教改革が起きました。同じことがアメリカにも起きるでしょう。アメリカには、まだ重要な宗教改革は起きておりません。やがて起きていくでありましょう。その走りと申しますか、宗教改革の走りといわれるものが、今、彼の国に一般的になって来ている精神医学です。
精神医学というものが発展して、人間が精神医に様々な心配事を訴え、悩みを解いてもらっております。そういう状況があるということ、これは、本来ならば宗教家の果たしていた役割なのです。それを精神医が果たしているのです。
精神医学は、科学的な方向から、さらに学問を進めていくでしょうが、やがて行き詰まりを迎え、宗教的なものとの融合を目指さなければ、真に人間の悩みを解決できないという方向に至るでしょう。その時に、初めて、アメリカの宗教改革が起きる地盤が出来てくるのです。
(アメリカの軍事の方面についての問題に関しては)いま(1980年代半ば)非常に危険な状態にあります。恐らく、また大変なことを始めるでしょう。戦争も起きるでしょう。悲しいことですが、まあ、そういう時代も、過去何回もあったし、また今後も出て来る。それは人間の愚かしさでしか、ないかも知れません。けれども一度そういうものも経なければ、新しい時代も生まれないということです。
アメリカの指導者が、どれだけ分かって(やって)いるか知れません。私は、先ほど、国造り、国というものがあって人民があるのではなく、人民があって国があるのだと申しました。ところが、いま、軍部、行政府の中には、国を守るという、そういった看板のために、人民を犠牲にしてもやむなしとする考えもあります。
これは、私の考えとは相容れません。国というものは、本来は、あってもなくてもよいのです。そこに一塊(ひとかたま)りの人が居て、繁栄しているということでよいのです。ただ呼び名がないために、国というものを造っているだけなのです。人々が先ずあるべきです。ですから、まず、人々の真意がどこにあるかということを悟る必要があります。特に上層部の人達はそうです。
ただ、私は、あなた(チャネラーへの質問者)に一つ申しあげておかねばなりません。あなたは、人々は平和を求めるものだと思っておられます。そして、それが世界の多数意見だと思っておられると思います。けれども、実際においては、そうではないのです。それは日本人から見た世界人の意識なのです。必ずしも世界の人々は、実はそうではないのです。(単に平和であるよりも)正しいことが行なわれなければならないとする考えもあるのです。
悪しき考えをはびこらせるような国、政治というものは、存在が許されない。正しきものは強く、自らの権利を行使しなければならないという考えもあるのです。そうした考えも根強いのです。そうであるならば、戦争というようなことも、そういった人々の考えも背景にあるということを考えねばならないのです。日本人は、余りにも本能的に戦争に対して厭だというような脅えがあるけれども、理性的には、そういうふうに考えている人も居るのです。
(あなたが言われるように)国に優先する人民の幸せ、ということが言え、(肉体同士ならばともかく)霊的次元からみるならば、何のための人間同士の殺し合い、戦いかと、愚かな話になる、と言えば、確かにそれはそうです。ただ、人間の発展にも、発育にも、段階があるのです。私たち、この世の、いや、あなた方からみれば、あの世、の世界から見たならば、人間の肉体同士の殺し合いというものは、つまらないものであり、意味のないものであります。けれども肉体を持っている人達にとっては、何が正しくて、何が正しくないかということを明らかにすることも、また一つの修業の段階でもあるのです。
例えぱ、今、アメリカとソ連(1985年当時)との二大強国があります。この二大強国が存在するということが、現代という世界を価値づけて、意義あらしめているでありましょう。けれども、神の世界から見たら、やはり優れた国と、そうでない国、神の心に適った国と、そうでない国はあるのです。神は、ソビエト連邦を余り愛しておりません。なぜならば、彼らのイデオロギーが間違っているからです。神は、むしろアメリカの方を愛しておられます。
(神は誰をも同じに愛しておられると言いますが、)それでは何故、ソビエトは、あのような飢饉が何回も起きたり、食糧不足が続くのでしょうか。
(あなたの言われるように)地理的条件、或いは政治体制ということもあるけれども、人間それ自体、個人個人すべて神の子であるはずですが、その神の子同士の戦いを「是」とする考えは、論理に飛躍がある、かといえば、まあ、それはそうですが、やはり、神も、この三次元世界にも、神の国を造ろうとしておられるのでありますから、どちらが、より神の国に近いかというようなことはあるわけです。
私達も、この地上に生まれてくる以上は、この地上を良くするための努力はしなければいけないということです。現に、この地上においては、優れた政治体制もあれば、間違った政治体制もあるのです。なぜ優れ、何が間違っているかといえば、そこに住んでいる人民の多数を幸福に出来るような制度かどうか、ということです。
次々と亡命者が出るような国は、何かが間違っているということです。それは確かです。いまアメリカから他国へ亡命したいとする人が居ますか。居ません。いまソビエトから、他国へ亡命したいとしている人が居ますか。たくさん居ます。それを亡命できないように国が抑え込んでいます。
人間が、本当の意味において、幸せな方向へと指導していないということです。そこに住んでいる人の多数が、やむなしとする政治かも知れません。衆愚の政治よりは、彼らは優れた指導者の指導の下に治められる方が良いと思う人も居るかも知れません。けれども、衆愚政治であったとしても、それぞれの人が、自由に生きて、その政治が衆愚になるのであるならば、それは皆さんの責任であります。それは、やむを得ないことであります。
けれども、すべての人が自由に振る舞えない状況において、指導者たるべきものが、真に優れた者であるならばかまいませんが、そうでない者が指導をしながら、人民の手足を縛るというようなことが、本当に正義として赦されるでしょうか。そこに亡命が出てくる理由があるのです。彼らは、ソ連は、人民を自由にすれば、国家体制が崩壊することを恐れているのです。
なぜ怖れる必要がありましょうか。それこそ衆愚政治よりも、もっとこわい愚民政治が敷かれているというべきではないでしょうか。人間を、人間と見ていないということです。人間は手段ではないのです。人間は特定のものの実現や、特定の国の国政の実現のための手段ではないのです。それぞれの人間が目的なのです。人間は一個の完成したものなのです。それぞれ一人一人が目的であるのです。
なぜ彼があるのかではなくて、彼があるということ、彼が生きているということ、彼が生き続けていくということ自体が、一つの目的であるのです。人間は目的を体現しているものなのです。その生き続けていきたい、よりよく生きたいということこそが、人間の存在の理由なのです。その、よりよく生きたいと思う人間の心を踏みにじるような政治体制は許されないのです。それは、人間を手段として、国益、或いは国体を造るための手段として見ていて、目的として(は)見ていないということです。
民主主義の理念の底にあるものは、人間を、個人を、目的として見ているということです。それぞれの人間が、よりよく生き、よりよく究極に近づいていくということ自体が目標だということです。目的だということです。それぞれの人間が自己実現を求めて生きることが目的だということです。人間とは、目的そのものだということです。生きていくということが目的そのものだということです。
彼らを生かしめねばならないのです。彼らの自己実現を妨げてはならないのです。これを過(あやま)ってはいけないのです。だからこそ、人民があって、政治があるのであります。人民があって国があるのであって、国があって人民があるのではないのです。
共産主義における論理というものは、共産主義という理念のもとに打ち立てられながら、実は、そういう思想は、何百年も、何千年も前の思想そのものなのです。隣国が攻め込んで来るから強くしなければいけないという思想は、昔の大昔の思想そのままであって、それが姿、形を変えているだけなのです。
外敵というものの存在を認めて国を纒めるということは、かつての政治家、権力者達が採った一番基本的な外交戦略なのです。まず、外部に敵を作るということ、これによって国を纏めるということ、これは色んな国で、色んな政治家がやって来たことなのです。そういった国造りもあるでしようが、しかしながら、それは本来の国造りではないのです。敵を作って国を纏めるということは、それは余りにも次元の低い国造りではないでしょうか。
結局はそうなのです。内政に自信がなくなると、外敵というものを作って騒ぎたてて、国の中に内乱があったら外に対して弱くなるぞと、あなた達、今そんな時機ではないぞと、そういうことを言って自分の責任逃がれをする政治家が、過去、後を絶たなかったのです。
外敵を説いて国を纏めるというような政治家に対しては、特に注意をしなさい。それは別に共産国だけではありません。それ以外の国についてもそうです。外敵、戦争を煽って国を纏める指導者達に気をつけなさい。あなた方も、その経験があるはずです。鬼畜米英のために国を纏めようとしたことがあったはずです。
(あなたの言われる)現在の社会主義体制を敷いている国々のイデオロギーは、富の公平な分配ということに端を発し、かつての資本主義が発展していく過程で、富の分配が非常に不公平であったところから今日の社会主義なり、共産主義が生まれて来た、ということについてですが、それに対しては、すでに、その理論が間違っていることは、経済学者達が明らかにしているはずです。
初期の共産主義の理念においては、生産手段は、今日のような拡張、拡大、充実ということを考慮に入れていないのです。生産能力が十倍、二十倍になるということを考慮に入れていないのです。人間が一日八時間、十時間と働くことによって、どれだけを生み出せるかということが決まり切っている、という、だからこそ搾取ということがある、という前提があったはずですが、実際には、そうではありません。
機械化が進むという視点が抜けていたわけです。機械化が進むということ、技術が進むことによって、生産力が十倍にも百倍にもなっているのです。そういうことにおいて、搾取もなければ、分配も公平に行なわれているという社会が、資本主義社会の中において増大しているわけです。
少なくとも共産主義の理論の基礎にあるのは、古い、残念ながら、古い農業国の思想が多かったということです。現に、共産主義国、新しく出来た共産主義国を見てみなさい、農業国ばかりです。本来、マルクスの思想からいくならば、工業国、高度資本主義にこそ共産主義国は出て来るはずであります。そうした所には出ないで、農業国に共産主義国が出て来ました。これは彼の理論が間違っていたのです。
生産力は伸びるものなのです。だから、彼の思っていた資本主義国に、共産主義政権は出来ず、逆に拡大再生産が、なかなか不可能である農業国にばかり、共産主義国が出来ていったということなのです。逆に、農業国であるから共産主義的であってよいにも関わらず、意外な意味での搾取というものが拡がっていったはずです。それは、全てが貧しくて、一部だけが富んでいるという状態です。貧しさの公平分配であるならば、何のための政治か分かりません。
(あなたの言葉でいうように)今から百年以上も前から立てられた経済理論が、今日の社会にそのまま通用すると信じているような教条主義が続いて来て、大きな誤りとなって、いるわけです。むしろ共産主義社会にこそ、いま、社会改良家達が次々と出てくる必要があるのです。真の意味の宗教家達が出て来る必要があるのです。けれども、あの政治体制があるために、宗教指導者が共産主義国に生まれたとすると、殆んどの場合、成功しないというような苦しい状況にあるのです。国としての教義に反するということで弾圧を受けてしまうのです。
(国があるということは、何らかの階級の独裁が行なわれている、というレーニンの言葉が、彼ら自身の体制、昔のプロレタリアートが、今は彼ら自身の指導的特権階級であるということに当てはまるということです。)
ですから、むしろ、独裁の暗黒政治よりは、批判もあるけれども、衆愚政治に近い方が、まだましである。衆愚な民主政治の中においても、たまには優れた指導者が出て来て優れた政治を成すことがあるのです。むしろ、そちらの可能性の方を、より採りたいと、私は思うのです。
最後につけ加えて置きますが、今のままで良い、と、しているわけではありません。更に、さらに高度なものを、考え出して欲しいと思います。そして、あなたが先程いわれましたが、宗教的なものの考え方というものも、今の民主主義に欠けているものの一つでしょう。それを、どのように織り込みながら素晴らしいものを作り出していくかということ、それが、いま現に、神が、あなた方に、そして全ての人類に期待されていることでもあろうかと思うのです。
けれども、現実には、歴代のアメリカの大統領は、他の国の多くの元首と同じく、殆んど自分の判断で物事を決断できる人はいませんでした。みな、後ろの見えないところで指図をするカバールと言われるグループの意向に從わされて来たわけです。そういう意味でも、あの映画は、プロパガンダであったわけです。
さて、アメリカの大統領の中でも、伝記などでもよく読まれ、今もよく知られている方に、リンカーン大統領があります。私も子供の頃に読みました。
今から35年ほど前に、あるチャネラーに降ろされた、そのリンカーン大統領のメッセージをご紹介します。リンカーン大統領は、カバールに暗殺された数人のアメリカ大統領のうちの一人ですが、やはり、独自の判断で政治を行おうとした勇気と誠意ある人物だったようです。このメッセージにも、それが表れているように思います。
もとはインタビューですが、編集してあります。(カッコ)内は補足です。タイトルはこちらで付けました。
(ここから)
私は、いま自分が何を感じて、何を思っているかということ、あるいは、(現代の)世界に対し、政治に対し、私のやり残したことに対し、アメリカという国に対し、アメリカの(これから)後のことに対し、何らかの意見を述べることは出来るかと思います。
私の人生については、様々な伝記が出ていますので、いま私のロから繰り返すことは、出来たら避けたいと思います。おそらく、いまのあなた方にとって大切なことは、人間が社会生活を営んでいく上で、一番大切なものは何か、というようなことではないでしょうか。
この社会の中に、どの様に人間として生きていくべきか、ということを語ることが、あなた方にとって大切かも知れません。
まず、私は思うのですが、人間は、なぜ国というものを造るのでしょうか。私は、アメリカの大統領として僅か数年の間だけ生きましたが、その間、あなたもご存知のような奴隷解放とか、様々な演説とかが残ってるわけですけれども、どんなことを人生の基礎に置き考えていたか、何が人間にとって、何が国にとって大事であるかということ、何を考えたかということです。
当時、1800年代のアメリカにおいてですけれども、思ったのです。国というものは、国があって、その中に人間が居るものではない。(まず)人間があって、(その意思の結果として)国というものがあるのです。(当時)南軍とか、北軍とかいって争いましたけども、決して国のために争ってはいけないのであって、本来、人間は、人間のための国造りをしなければいけない。そう思ったのです。
そして、人間のための国造りとは、一体なんでしょうか。人間のための国造りとは、結局のところ、人間による国造りだということです。人間のための国造りは、人間による国造りであり、人間による国造りは、多くの人々による国造りでなければなりません。
即ち、我々が、国というものを与えられて、その中に単に生存しているのではなく、国というものは、我々が積極的に造り出していくもの、国が、造り出していくものであるならば、我々は国造りのために努力しなければなりません。
では、どのようにして国造りがなされるでありましょうか。
建国ということは、ほんの一時期のことです。国造りというものは、一回限りで終わるものでなくて、永遠に続けられねばならないのです。なぜならば、国の中に生きている人々は、新陳代謝し、古いものは去り、新しいものは生まれて来、そして、人は変わっても、国というものは続いていくのですから、これは永遠に、人々が、新しい国を、その時代、時代に作っていかねばならないということです。どのような国を作っていくか、それは人民の参加しかないと思います。
人民は、国造りに日々参加すること(が大事)だと思います。それは、人民によって、人民の参加が決められ、その結果、国が出来るというのが、正しいあり方だと思うのです。
それでは、人民による、とは如何なることでしょうか。もちろん、すぐれた人民による国造りがなされることは素晴らしいことです。けれども優れた人々とはどういう人々かということは、必ずしも明らかではないのです。
少なくとも、優れた人々によって国造りをしたい、という意図の背景には、素晴らしい国を造ったならば、より多くの人達が幸せに生きていくことが出来る、という希(ねが)いがあるのです。それならば、優れた少数による政治が、たとえ実現しなかったとしても、出来るだけの多くの人達が幸せを享受できるような国であれぱよいではないか。
優れた人々による政治がなされるのが基本であるけれども、それが効率の良いあり方であるけれども、効率を捨ててでも全ての人が参加できるような国であれば、それは素晴らしいものではないか、そういうことを考えたのです。
選ばれた人だけの国、国を動かす政治ではなくて、全ての人々が動かす国であって、政治であってほしい、そう思ったのです。私の奴隷解放運動も、一つには、そういう思いがあります。国というものが先ずあって、国の政治があり、国の機構があって、その下に人民が居るのであれば、人民は様々な統制の下に生きても、やむを得ないかも知れない。けれども、政治というものは、本来、人民が寄り集まって始めたものであります。
そうであるならば、人民のための政冶であります。人民のための政冶であり、人民のための国であるならば、なぜ人民が不幸な統制のままに生きていることが許されるのであろうか、そのようなことが許されていいわけはないのです。ですから、当時の奴隷解放ということも、場合によっては、アメリカという国を二つに分けてしまう、国が分裂するような危機の中にあって、私は判断を迫られたわけです。
私の判断の基礎にあったものは、奴隷を解放するかしないか、という様なことで国が二つになるか一つになるか、という様なことではなく、国というものは、そもそも、ないのだ。人民が作り上げたものが国であって、国そのものは実体はないのである。そういう発想があったのです。
少なくとも、(国とされるものの中に)住人で居る人達が、みな幸せに、最大限の人達が幸せになれるような国でなければ(意味がありません)。そうであれば、北とか南とか、国が分かれるとか分かれないとか、そういったことは問題ではないはずなのです。奴隷ということは一つの象徴であります。必ずしも奴隷だけではありません。アメリカという国土には、自由な民主主義の国を造らねばなりません。そこには、何の階級もない国、すばらしい国、人々によって作られた国、こんな国を造りたいと思いました。
あなた方、日本でも、国創りのために降りた指導霊が居るように、私も、また、アメリカという国の国造りのために降りた指導霊の一人なのです。で、アメリカという国を、どのような国にするかということを、一生懸命考えた人間なのです。あなた方は、先ほど、日本の国創りのための神々(神霊)の言葉を聴いておられました。私は、いま、それを霊的に見ることが出来たのですが、アメリカという国は、比較的新しい国ですが、これも何百年も、千年も、二千年も経てば、そういう日本の国創りの神々のように、おそらく私のような人間も、そうしたように、アメリカの神々のような扱いを、おそらく受けるようになると思います。
話が外れましたが、要するに、人民のための国造りが大事であるということです。
それでは、人民そのものは、一体何のために生きて、どのような目的をもって生きていけばよいのでしょうか。人民がこの世に生きているということは、何らかの価値を求めて生きているということです。人間が人間であるということ、人間が動物でないということ、それは、どこに区別があるでしょうか。
人間と動物を区別するもの、それは一つです。人間は価値を求めて行動する動物だということです。普通の動物は価値を求めません。生存を求めるだけです。人間は価値です。何らかの価値、言葉を換えて言うならば、何でしょうか、意義と申しますか、人生の意義、人生の価値、値打ち、何らかのサムシング(Something)を生み出すことが大切なわけです。
何かを、サムシング(価値あるもの)を生み出す、人間として生きている何十年間の人生において『サムシング』を生み出していること、これが人間に課せられた使命ではないでしょうか。このサムシングは、人によって違います。けれども、少なくとも、人間は社会的動物である以上、社会的な行為の中において、政治的な事象の中において、その『サムシング』を実現しなければいけないのではないでしょうか。
哲学的に、宗教学的に、様々な価値を生み出すことも可能です。けれども、人間は、社会的生活を強いられている存在であります。そうであるならば、この社会生活の中において、サムシンダを実現する必要があるのです。何か、です。何かを実現する必要があるのです。
それは些細なことでも良いのです。で、そのサムシングとは何であるか、私は、それを国造りのためにやらねばならぬ、それは、一個の人間として、社会的存在としての一個の人間としては、十分に有意義なことだと思うのです。国を造るということは、非常に重要なこと(サムシング)だと私は思うのです。ですから、何らかの意味において、政治の過程に参加するということ、これが人間に与えられた価値実現の一つではないでしょうか。
では、そのような機会を、すべての人に保証する必要があるのではないでしょうか。そのために様々な政治制度を、選挙制度を、デモクラシーというものは、生み出して来たのではないでしょうか。
(あなたが言われた)デモクラシーが、マンネリ化して、かえって人間を堕落させ、社会風潮としては、義務を忘れた権利の主張、責任を忘れた自由への耽溺となり、一部で社会秩序を乱しているのではないか、その自由主義が過剰な意識となってきたのではないか、ということについてですが、その問題は、永遠に、あなた方、および人類の課題であるのですが、本来ならば、優れた指導者が「国民(くにたみ)」を治めるということが、大切なことなのです。
ただ、優れた指導者というものは、歴史を見ても分かる通り、続きません。一代限りなのです。これが最大の問題なのです。本来は、理想的な指導者が次々と出て、その時世々々を継いでいくのがいいのですが、残念ながら、それが続かないということなのです。王制のようなもので続けていくと、次第に愚鈍な王が出て来て乱世となり、人々を虐げるようなことが出てくるのです。
これを無くするために、少なくとも最大多数の人が参加する政治であるならば、最大多数の人達が何らかの恩恵に浴することが出来るような政治体制にしようとし、そうした政治体制は永続していくことが可能であろうということが、考え方の基礎にあるのです。
永くもつものがいいのか、そこそこの内容で永くもつものがいいのか、素晴らしい内容で一回きりのものがいいのか、この辺が分かれ道になるわけです。
これは政治だけではなくて、宗教においてもそうです。それぞれ偉大な宗教の始祖たち、教祖たちは、みな素晴らしい教えを説かれましたが、二代、三代、四代になっていくと、だんだん落ちていくわけです。同じです。これを落ちないようにするために、色んな制度を作って、宗教組織を作って維持していこうとしているのですが、これは、空虚(むな)しくも、悪いものへと変わっていき、また何百年か、千年かすると、新しい宗教改革家が出て来ては、新たなものを打ち立てるようになるわけです。同じです。ですから方法論です。これは方法論なのですが、永い眼でみて、どういう方法が一番良いかということなのです。
確かに(デモクラシーが)衆愚政治になる危険は、西欧社会、日本を含めて西欧社会にも顕著に現われて来ています。優れた指導者達が必ずしも選ばれているわけではないという事実、これは皆様が知っている事実です。しかし、最悪の暴政を招くよりは、むしろ愚鈍でもいい、少なくとも人々が「是(よし)」とした票を投じた人が治める方が、まだしもましだとする意味では、私は、評価する向きがあっても良いと思うのです。ただ、本来の指導者たるべき人が出にくい状況になっていることは確かですし、低級なレペルにおいて国政が左右されている、ということも事実です。
アメリカはクリスチャンの国です。特に、宗教によって政治が左右されている国ではなくて、宗教は人々の生活に浸透している。それは政治的な争点とは別なものとなっているのです。そして、やはり宗教と国家とが分離した形になっておりますので、どうすることも出来ません。
「祭政一致」といい、政治を司る者は、神のご意志に最も近い人達が政治を行なうのが理想的な政治形態である、とあなたは言われますが、それは優れたことではあると思うのですよ。ただ、今の時代においては、政治家、或いは経済人達、或いは科学者、技術者達が非常に発展し、力を持って来ている世の中です。これらの人々を統合し、納得させるべきものが宗教の側になければ、むしろ宗教は出てくるべきではない。
やはり政治とか、経済の専門家達に、国の運営はまかせておく方が良い。宗教が国政を司ることのできる前提は、彼らが科学者も、政治家も、経済人も、学者も、文化人も全て説得できるような、新たな「価値基準」を打ち立てることが出来た時です。そうした時に、初めて彼らは「祭政一致」をなしとげることも出来るでしょう。けれども、現在の状況においては、多くの人達はそれを望んで居りません。本当に優れた宗教家とは、どういう方であるか、ということすら分からなくなっているからです。
宗教家の中には、上は素晴らしいが、下を見れば切りがないはずです。そうした人達が、いったん誤って国の政治を牛耳るようなことになれば、大変なことになってしまいます。
あなたが言われるように、現在のアメリカの状態で、本来、政治を動かすのは政治家でありますが、その背後にあるものは、やはり軍部であり、国際的な巨大な資本家であり、こういうアメリカの現在とその動向、およびその将来の方向について、(私が)肯定的な立場に立っているか、というと必ずしもそうでありません。ただね、アメリカという国を考えてごらんなさい。たかだか二百年か、そのくらいのうちに、これだけ世界一の国になったのです。こういうことはかつてなかったはずです。
なぜ、アメリカという国があるか、それは「神」は「繁栄」ということを、この地上にお示しになるためにアメリカという国を選ばれた、ということなのです。アメリカは、神の栄光を顕わす、繁栄ということを体現するために、選ばれた国なのです。ですから、ここ百年、二百年の間に、あれだけ、すさまじい繁栄をみたのです。その繁栄の中には、教育や、政治や、或いは技術や、科学、文化、様々なものの繁栄を含んでおります。
やがて、そのアメリカの時代も降っていくでしょう。そして、そうした文明上の繁栄の後には、おそらく一大宗教的革新が起きると思います。
かつて、ヨーロッパに宗教改革が起きました。同じことがアメリカにも起きるでしょう。アメリカには、まだ重要な宗教改革は起きておりません。やがて起きていくでありましょう。その走りと申しますか、宗教改革の走りといわれるものが、今、彼の国に一般的になって来ている精神医学です。
精神医学というものが発展して、人間が精神医に様々な心配事を訴え、悩みを解いてもらっております。そういう状況があるということ、これは、本来ならば宗教家の果たしていた役割なのです。それを精神医が果たしているのです。
精神医学は、科学的な方向から、さらに学問を進めていくでしょうが、やがて行き詰まりを迎え、宗教的なものとの融合を目指さなければ、真に人間の悩みを解決できないという方向に至るでしょう。その時に、初めて、アメリカの宗教改革が起きる地盤が出来てくるのです。
(アメリカの軍事の方面についての問題に関しては)いま(1980年代半ば)非常に危険な状態にあります。恐らく、また大変なことを始めるでしょう。戦争も起きるでしょう。悲しいことですが、まあ、そういう時代も、過去何回もあったし、また今後も出て来る。それは人間の愚かしさでしか、ないかも知れません。けれども一度そういうものも経なければ、新しい時代も生まれないということです。
アメリカの指導者が、どれだけ分かって(やって)いるか知れません。私は、先ほど、国造り、国というものがあって人民があるのではなく、人民があって国があるのだと申しました。ところが、いま、軍部、行政府の中には、国を守るという、そういった看板のために、人民を犠牲にしてもやむなしとする考えもあります。
これは、私の考えとは相容れません。国というものは、本来は、あってもなくてもよいのです。そこに一塊(ひとかたま)りの人が居て、繁栄しているということでよいのです。ただ呼び名がないために、国というものを造っているだけなのです。人々が先ずあるべきです。ですから、まず、人々の真意がどこにあるかということを悟る必要があります。特に上層部の人達はそうです。
ただ、私は、あなた(チャネラーへの質問者)に一つ申しあげておかねばなりません。あなたは、人々は平和を求めるものだと思っておられます。そして、それが世界の多数意見だと思っておられると思います。けれども、実際においては、そうではないのです。それは日本人から見た世界人の意識なのです。必ずしも世界の人々は、実はそうではないのです。(単に平和であるよりも)正しいことが行なわれなければならないとする考えもあるのです。
悪しき考えをはびこらせるような国、政治というものは、存在が許されない。正しきものは強く、自らの権利を行使しなければならないという考えもあるのです。そうした考えも根強いのです。そうであるならば、戦争というようなことも、そういった人々の考えも背景にあるということを考えねばならないのです。日本人は、余りにも本能的に戦争に対して厭だというような脅えがあるけれども、理性的には、そういうふうに考えている人も居るのです。
(あなたが言われるように)国に優先する人民の幸せ、ということが言え、(肉体同士ならばともかく)霊的次元からみるならば、何のための人間同士の殺し合い、戦いかと、愚かな話になる、と言えば、確かにそれはそうです。ただ、人間の発展にも、発育にも、段階があるのです。私たち、この世の、いや、あなた方からみれば、あの世、の世界から見たならば、人間の肉体同士の殺し合いというものは、つまらないものであり、意味のないものであります。けれども肉体を持っている人達にとっては、何が正しくて、何が正しくないかということを明らかにすることも、また一つの修業の段階でもあるのです。
例えぱ、今、アメリカとソ連(1985年当時)との二大強国があります。この二大強国が存在するということが、現代という世界を価値づけて、意義あらしめているでありましょう。けれども、神の世界から見たら、やはり優れた国と、そうでない国、神の心に適った国と、そうでない国はあるのです。神は、ソビエト連邦を余り愛しておりません。なぜならば、彼らのイデオロギーが間違っているからです。神は、むしろアメリカの方を愛しておられます。
(神は誰をも同じに愛しておられると言いますが、)それでは何故、ソビエトは、あのような飢饉が何回も起きたり、食糧不足が続くのでしょうか。
(あなたの言われるように)地理的条件、或いは政治体制ということもあるけれども、人間それ自体、個人個人すべて神の子であるはずですが、その神の子同士の戦いを「是」とする考えは、論理に飛躍がある、かといえば、まあ、それはそうですが、やはり、神も、この三次元世界にも、神の国を造ろうとしておられるのでありますから、どちらが、より神の国に近いかというようなことはあるわけです。
私達も、この地上に生まれてくる以上は、この地上を良くするための努力はしなければいけないということです。現に、この地上においては、優れた政治体制もあれば、間違った政治体制もあるのです。なぜ優れ、何が間違っているかといえば、そこに住んでいる人民の多数を幸福に出来るような制度かどうか、ということです。
次々と亡命者が出るような国は、何かが間違っているということです。それは確かです。いまアメリカから他国へ亡命したいとする人が居ますか。居ません。いまソビエトから、他国へ亡命したいとしている人が居ますか。たくさん居ます。それを亡命できないように国が抑え込んでいます。
人間が、本当の意味において、幸せな方向へと指導していないということです。そこに住んでいる人の多数が、やむなしとする政治かも知れません。衆愚の政治よりは、彼らは優れた指導者の指導の下に治められる方が良いと思う人も居るかも知れません。けれども、衆愚政治であったとしても、それぞれの人が、自由に生きて、その政治が衆愚になるのであるならば、それは皆さんの責任であります。それは、やむを得ないことであります。
けれども、すべての人が自由に振る舞えない状況において、指導者たるべきものが、真に優れた者であるならばかまいませんが、そうでない者が指導をしながら、人民の手足を縛るというようなことが、本当に正義として赦されるでしょうか。そこに亡命が出てくる理由があるのです。彼らは、ソ連は、人民を自由にすれば、国家体制が崩壊することを恐れているのです。
なぜ怖れる必要がありましょうか。それこそ衆愚政治よりも、もっとこわい愚民政治が敷かれているというべきではないでしょうか。人間を、人間と見ていないということです。人間は手段ではないのです。人間は特定のものの実現や、特定の国の国政の実現のための手段ではないのです。それぞれの人間が目的なのです。人間は一個の完成したものなのです。それぞれ一人一人が目的であるのです。
なぜ彼があるのかではなくて、彼があるということ、彼が生きているということ、彼が生き続けていくということ自体が、一つの目的であるのです。人間は目的を体現しているものなのです。その生き続けていきたい、よりよく生きたいということこそが、人間の存在の理由なのです。その、よりよく生きたいと思う人間の心を踏みにじるような政治体制は許されないのです。それは、人間を手段として、国益、或いは国体を造るための手段として見ていて、目的として(は)見ていないということです。
民主主義の理念の底にあるものは、人間を、個人を、目的として見ているということです。それぞれの人間が、よりよく生き、よりよく究極に近づいていくということ自体が目標だということです。目的だということです。それぞれの人間が自己実現を求めて生きることが目的だということです。人間とは、目的そのものだということです。生きていくということが目的そのものだということです。
彼らを生かしめねばならないのです。彼らの自己実現を妨げてはならないのです。これを過(あやま)ってはいけないのです。だからこそ、人民があって、政治があるのであります。人民があって国があるのであって、国があって人民があるのではないのです。
共産主義における論理というものは、共産主義という理念のもとに打ち立てられながら、実は、そういう思想は、何百年も、何千年も前の思想そのものなのです。隣国が攻め込んで来るから強くしなければいけないという思想は、昔の大昔の思想そのままであって、それが姿、形を変えているだけなのです。
外敵というものの存在を認めて国を纒めるということは、かつての政治家、権力者達が採った一番基本的な外交戦略なのです。まず、外部に敵を作るということ、これによって国を纏めるということ、これは色んな国で、色んな政治家がやって来たことなのです。そういった国造りもあるでしようが、しかしながら、それは本来の国造りではないのです。敵を作って国を纏めるということは、それは余りにも次元の低い国造りではないでしょうか。
結局はそうなのです。内政に自信がなくなると、外敵というものを作って騒ぎたてて、国の中に内乱があったら外に対して弱くなるぞと、あなた達、今そんな時機ではないぞと、そういうことを言って自分の責任逃がれをする政治家が、過去、後を絶たなかったのです。
外敵を説いて国を纏めるというような政治家に対しては、特に注意をしなさい。それは別に共産国だけではありません。それ以外の国についてもそうです。外敵、戦争を煽って国を纏める指導者達に気をつけなさい。あなた方も、その経験があるはずです。鬼畜米英のために国を纏めようとしたことがあったはずです。
(あなたの言われる)現在の社会主義体制を敷いている国々のイデオロギーは、富の公平な分配ということに端を発し、かつての資本主義が発展していく過程で、富の分配が非常に不公平であったところから今日の社会主義なり、共産主義が生まれて来た、ということについてですが、それに対しては、すでに、その理論が間違っていることは、経済学者達が明らかにしているはずです。
初期の共産主義の理念においては、生産手段は、今日のような拡張、拡大、充実ということを考慮に入れていないのです。生産能力が十倍、二十倍になるということを考慮に入れていないのです。人間が一日八時間、十時間と働くことによって、どれだけを生み出せるかということが決まり切っている、という、だからこそ搾取ということがある、という前提があったはずですが、実際には、そうではありません。
機械化が進むという視点が抜けていたわけです。機械化が進むということ、技術が進むことによって、生産力が十倍にも百倍にもなっているのです。そういうことにおいて、搾取もなければ、分配も公平に行なわれているという社会が、資本主義社会の中において増大しているわけです。
少なくとも共産主義の理論の基礎にあるのは、古い、残念ながら、古い農業国の思想が多かったということです。現に、共産主義国、新しく出来た共産主義国を見てみなさい、農業国ばかりです。本来、マルクスの思想からいくならば、工業国、高度資本主義にこそ共産主義国は出て来るはずであります。そうした所には出ないで、農業国に共産主義国が出て来ました。これは彼の理論が間違っていたのです。
生産力は伸びるものなのです。だから、彼の思っていた資本主義国に、共産主義政権は出来ず、逆に拡大再生産が、なかなか不可能である農業国にばかり、共産主義国が出来ていったということなのです。逆に、農業国であるから共産主義的であってよいにも関わらず、意外な意味での搾取というものが拡がっていったはずです。それは、全てが貧しくて、一部だけが富んでいるという状態です。貧しさの公平分配であるならば、何のための政治か分かりません。
(あなたの言葉でいうように)今から百年以上も前から立てられた経済理論が、今日の社会にそのまま通用すると信じているような教条主義が続いて来て、大きな誤りとなって、いるわけです。むしろ共産主義社会にこそ、いま、社会改良家達が次々と出てくる必要があるのです。真の意味の宗教家達が出て来る必要があるのです。けれども、あの政治体制があるために、宗教指導者が共産主義国に生まれたとすると、殆んどの場合、成功しないというような苦しい状況にあるのです。国としての教義に反するということで弾圧を受けてしまうのです。
(国があるということは、何らかの階級の独裁が行なわれている、というレーニンの言葉が、彼ら自身の体制、昔のプロレタリアートが、今は彼ら自身の指導的特権階級であるということに当てはまるということです。)
ですから、むしろ、独裁の暗黒政治よりは、批判もあるけれども、衆愚政治に近い方が、まだましである。衆愚な民主政治の中においても、たまには優れた指導者が出て来て優れた政治を成すことがあるのです。むしろ、そちらの可能性の方を、より採りたいと、私は思うのです。
最後につけ加えて置きますが、今のままで良い、と、しているわけではありません。更に、さらに高度なものを、考え出して欲しいと思います。そして、あなたが先程いわれましたが、宗教的なものの考え方というものも、今の民主主義に欠けているものの一つでしょう。それを、どのように織り込みながら素晴らしいものを作り出していくかということ、それが、いま現に、神が、あなた方に、そして全ての人類に期待されていることでもあろうかと思うのです。
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